【人物編Vol.46】平正盛――源義家の息子を討ち、平氏台頭の道を開いた男

人物

第88回



1108年――源義家の息子を討った男

天仁元年(1108)正月。

出雲国で、一つの戦いが終わった。

討たれたのは源義親。

「八幡太郎」源義家の次男であり、兄・義宗の早世後には河内源氏の嫡男となった人物である。

その義親を討ったのが、平正盛。

後に平清盛の祖父として知られる男である。

正盛は前年12月19日、朝廷から義親追討を命じられた。当時は因幡守。直属兵は240~250人ほどで、一族や伊賀国の所領から集まった武士たちが中心だった。さらに朝廷から周辺5か国の武士を動員する権限を与えられ、因幡・伯耆で兵を集めながら西へ進む。

翌1108年正月6日、出雲へ入った。

それから13日後。

1月19日には、すでに京都へ「義親を討った」という知らせが届いている。出雲から京都まで報告を運ぶ時間まで考えれば、決着そのものはさらに早かった。

そして正盛は、帰京する前から恩賞を受ける。

因幡守から但馬守へ。

1月29日、義親らの首を携えて京都へ戻った。

源義家が死んでから、まだ2年もたっていない。

つい最近まで「天下第一武勇之士」と評された義家。その息子を、今度は平氏の武将が討って帰ってきたのである。

平氏の時代は、清盛の代になって突然始まったわけではない。

その流れを最初に大きく動かした人物が、平正盛だった。義親追討は、後の平氏台頭へつながる大きな転機となった。

生年不詳――伊勢平氏の家に生まれる

平正盛の生年は分かっていない。

父は平正衡。

正衡は出羽守を務めた武将で、正盛は桓武平氏の一流、のちに伊勢平氏と呼ばれる家に生まれた。

祖先をたどると、平将門を討った平貞盛につながる。

高望王の子・国香。その子が貞盛。

貞盛から維衡、正度、正衡を経て正盛へ続いていく系統である。平貞盛は940年、藤原秀郷らとともに将門を破り、のちに鎮守府将軍や陸奥守を務めた。

さらに正盛の祖先にあたる平維衡は、11世紀初めに伊勢国へ進出した人物として知られる。

ここから一族は伊勢・伊賀方面へ勢力を広げていった。

ただし、正盛が生まれたころの伊勢平氏は、まだ後世の「平家」のような存在ではない。

当時、武門で圧倒的な知名度を持っていたのは河内源氏だった。

源頼信。源頼義。そして源義家。

頼信は平忠常の乱を収め、頼義と義家は前九年合戦を戦い、義家は後三年合戦でも東国武士を率いた。

正盛は、まさに河内源氏の武名が最も大きくなっていく時代を生きていた。

その平氏の武将が、やがて義家の息子を討つことになる。

正盛の出発点――有力者に仕えながら中央へ近づく

正盛の若いころについては、まとまった伝記が残っていない。

それでも、中央政界へ入っていく過程はある程度追うことができる。

正盛は白河院の近臣だった藤原為房や藤原顕季と関係を持ち、その周辺で活動していた。

松江市の研究紹介では、正盛は当初、為房や顕季に仕え、嘉保元年(1094)ごろには隠岐守になったと整理されている。

ここが正盛の特徴である。

戦場で一度大勝して突然名を上げたのではない。

まず有力な貴族とつながる。そこから国司になる。

国司として財力と人脈を蓄える。

さらに白河院へ近づく。

正盛の出世は、こうした積み重ねの上に成り立っていた。

1094年ごろ――隠岐守になる

嘉保元年(1094)ごろ、正盛は隠岐守となった。

隠岐は現在の島根県隠岐諸島。

規模の大きな国ではないものの、一国の行政を預かる国司になった意味は大きい。

平安後期の武士にとって、「受領」と呼ばれる国司の地位は、財力を築く重要な足場だった。

国から税を徴収する。

在庁官人や現地有力者と関係を作る。荘園や土地をめぐる情報が集まる。

その任国で得た富を中央で使い、さらに上の官職を狙う。

正盛は、この受領という仕組みを非常にうまく使った。

その力がはっきり表れるのが1097年である。

1097年――伊賀の所領20町余を白河院へ差し出す

承徳元年(1097)。

正盛は、自分が持っていた伊賀国の所領20町余を寄進した。

寄進先は、白河院の娘・郁芳門院媞子内親王の菩提所となった六条院御堂である。

媞子内親王は白河院が深く愛した皇女で、前年の1096年に若くして亡くなっていた。

正盛は、その菩提を弔う六条院へ土地を差し出した。

福井県史も、正盛が伊賀国の所領20町余を寄進し、これをきっかけに白河院へ接近したと説明している。

20町は面積だけで見れば約20ヘクタール前後に相当する。

正盛は土地を使って、当時の最高権力者との距離を縮めた。

ここから彼の人生が大きく変わっていく。

白河院に近づく――武士の出世ルートが変わる

白河天皇は1086年に譲位したあと、上皇として政治を主導した。

いわゆる院政である。

それまで政治の中心には摂関家がいた。

白河院は自分の側近や受領を直接使いながら、独自の政治基盤を作っていく。

そこで必要になったのが、院の命令を実際に動かす人間だった。

地方で反抗する者がいる。京都で強盗が出る。寺社の僧兵が押し寄せる。海賊が瀬戸内海を荒らす。

院が大きな権力を持つほど、その命令を実力で実行する武士も必要になる。

正盛はそこへ入った。

土地を寄進し、寺院造営にも関わり、受領として財力を提供する。

そして武力が必要な場面では兵を動かす。

白河院にとって正盛は、次第に使い勝手のいい武士になっていった。

日本大百科全書も、正盛が白河院の北面武士となり、院政を支える武士団の中心へ成長したと説明している。

正盛は「金」も使った――造寺・造塔への奉仕

正盛の出世を理解するうえで、戦争と同じくらい重要なのが寺院造営である。

白河院は仏教への信仰が厚く、多くの御願寺を造営した。

巨大な寺を建てるには、当然莫大な金が必要になる。

材木。瓦。仏像。職人。運搬費。

その費用を受領などが負担し、造営を請け負うことを成功(じょうごう)という。

正盛はこの成功にも積極的だった。

尊勝寺の曼荼羅堂など、白河院の造寺・造塔事業に関わったことが知られている。

武士の出世というと、敵を討って恩賞をもらう姿が浮かびやすい。

正盛はもっと幅広かった。

国司として金を持つ。その金を院の事業へ使う。院から信用される。

信用を得ると、さらに良い国司職を得る。

新しい任国で、また財力と人脈を広げる。

この循環によって正盛は伸びていった。

1106年――因幡守へ

嘉承元年(1106)、正盛は因幡守となった。

現在の鳥取県東部にあたる。

その翌年、隣国の出雲で大事件が起きた。

源義親が出雲へ現れ、国司・藤原家保の目代らを殺害し、官物を奪ったのである。

義親はもともと対馬守だった。

九州で大宰府と衝突し、1102年に隠岐へ配流されている。

しかも父は、前年1106年に亡くなったばかりの源義家だった。

朝廷は義親を放置できなかった。

嘉承2年(1107)12月19日、白河院政下の朝廷が追討を命じる。

大将に選ばれたのが正盛だった。

なぜ平正盛が選ばれたのか

正盛が選ばれた背景には、地理的な理由もある。

正盛は因幡守。

義親がいる出雲の東隣である。

因幡から伯耆を通って出雲へ入れば、山陰道をそのまま西へ進める。

さらに正盛は、それまで白河院との関係を築き、武力を任せられる人物として評価されていた。

朝廷は正盛に、周辺5か国の武士を動員する権限を与えた。

出雲。因幡。伯耆。隠岐。そして石見または備後。

正盛直属の兵は240~250人ほどだったとみられている。

そこへ国衙を通じて現地の武士を加えていった。

250人という数字だけを見ると、大軍には見えない。

正盛の強さは、自分の家の兵だけで戦うところにはなかった。

朝廷から与えられた権限を使い、複数国の兵をまとめて動かせる立場にいた。

ここが重要である。

1108年――義親追討、あまりにも早い決着

正盛は因幡から伯耆へ進み、兵を集めた。

そして1108年正月6日、出雲へ入った。

義親は現在の松江市美保関町雲津付近に比定される「蜘戸の岩屋」周辺に拠点を構えていたとされる。

義親側にも在地の協力者がいた。

それでも戦いは長引かなかった。

1月19日には京都へ勝利の知らせが届いている。

正盛は義親と、その従類5人の首を取ったと報告した史料も残る。

出雲へ入ってから13日。

その間に戦い、義親側を崩し、さらに使者を京都へ送った。

かなり速い。

この追討で、正盛の名は一気に中央へ広まった。

正盛が帰る前に「但馬守」が決まる

義親追討の戦功は、すぐに評価された。

正盛はまだ京都へ戻っていない。

それでも1月24日の除目で、

因幡守から但馬守へ移った。

但馬は当時、因幡よりも格の高い上国である。

受領にとって任国の格は、そのまま収入や出世に関わる。

さらに1月29日。

正盛は義親らの首を携えて京都へ戻った。

その姿を見た京都の貴族たちには、かなり強い印象が残ったはずである。

源義家の息子を討った平氏の武将。

白河院に近い受領。

そして帰京する前から但馬守へ昇った男。

正盛はこの時、武門の中で一段高い場所へ上がった。

義親追討で得たものは「名声」だけではなかった

但馬守になれば、新しい任国でさらに財力を築ける。

その財力を使って院へ奉仕する。

さらに院から仕事を任される。

正盛は義親追討を一回の武功で終わらせず、次の出世につなげた。

この点が非常に大きい。

戦場で勝って終わる武将は多い。

正盛は戦功を官職へ変え、官職を財力へ変え、その財力を再び政治力へ変えた。

これが後の平氏にも受け継がれる。

1110年――六波羅へ

天永元年(1110)。

正盛は京都東山の六波羅に私堂を建てたと伝わる。

六波羅は鴨川東岸、現在の京都市東山区。

後の平清盛の時代には、平氏一門の邸宅が集まる巨大な政治拠点になる。

その六波羅と平氏との関係は、正盛の代から始まっていた。

さらに1113年には、白河院が正盛の六波羅の邸宅を訪れたことや、祇園女御がそこで一切経供養を行ったことも伝わる。

最高権力者である白河院が自分の邸宅へ来る。

1097年に20町余の土地を寄進したころと比べれば、正盛の立場がどれほど変わったかが分かる。

一受領から、院が直接訪れるほど近い武士へ。

約十数年でそこまで上がっていた。

1113年――2,000人を超える僧兵が院御所へ迫る

永久元年(1113)、京都で大騒動が起きた。

延暦寺の僧兵2,000人以上が白河院の御所へ押し寄せたのである。

延暦寺と興福寺の対立を背景とした強訴だった。

『長秋記』によれば、僧兵たちは大声を上げながら院御所の門前まで迫った。

そこで甲冑を着けて立った武士の中に、丹後守・平正盛がいる。

正盛は源光国らとともに院を守った。

義親を討ったのは出雲。

今度は京都で白河院を守る。正盛の役割が広がっている。

院にとって彼は、遠国へ送る追討使であると同時に、京都のすぐそばで武力を使える人物でもあった。

国司を渡り歩く――正盛のもう一つの力

正盛は生涯に多くの国司を務めた。

確認できる主な任国は、

隠岐
若狭
因幡
但馬
丹後
備前
讃岐

などである。

地図を見ると面白い。

隠岐。山陰。若狭。瀬戸内。

西国方面に広がっている。

国司として各地を渡り歩けば、そのたびに現地の在庁官人、武士、荘園関係者とつながる。

一国だけで終わらない。複数国へ人脈が伸びていく。

これが、のちに平忠盛や平清盛が西国へ勢力を広げる土台になった。

1114年――今度は海賊を追う

永久2年(1114)。

正盛は西国で海賊追捕にあたった。

日本大百科全書では、伊予方面の海賊追討を正盛の主要な軍事活動として挙げている。

当時の「海賊」は、後世の海賊映画に出てくるような存在と少し違う。

沿岸部の武装勢力。船を持つ在地有力者。租税を運ぶ船を襲う集団。

国衙や荘園領主と対立した人々。

そうした勢力が一括して海賊と呼ばれることがあった。

瀬戸内海は京都と九州を結ぶ重要な物流ルートである。

そこを守る仕事を正盛が任された。

この西国・海上交通との結びつきは、息子・忠盛の代にさらに大きくなる。

1119年――「京都では毎晩強盗が出る」

元永2年(1119)、京都の治安が悪化した。

『中右記』には、「近日、京中強盗毎夜断たず」という趣旨の記事がある。

毎晩のように強盗が出る。

そこで5月6日、備前守だった正盛に追捕が命じられた。

正盛は強盗を捕らえる。

その功績で、5月26日には正五位下へ昇叙された。

命令からわずか20日である。

義親追討から11年。

60歳近い年齢に達していたとみられる正盛は、まだ京都の治安維持を任されていた。

戦場で大軍を率いるだけが武士の仕事ではない。

朝廷から見れば、武士は警察でもあった。

正盛は、その役割を長年担っていた。

1119年――肥前の平直澄を追討

同じ1119年。

正盛にはさらに大きな仕事が来る。

肥前国藤津荘で問題を起こした平直澄の追討である。

藤津荘は現在の佐賀県南西部。

直澄側は荘園支配をめぐる争いから殺害事件を起こし、朝廷側から追捕対象となった。

正盛は白河院の命令を受け、郎党を現地へ送る。

12月、直澄は討たれた。

東京大学史料編纂所も、元永2年12月27日の記事として、備前守・平正盛が肥前国で殺害行為を起こした平直澄一党を追捕した事件を紹介している。

ここで正盛自身が九州まで行ったわけではない。

郎党を送り、遠国の敵を討たせた。

若いころの正盛は、自分自身が出雲まで出陣して義親を討った。

その11年後には、自分が京都側にいながら、配下を九州まで動かせるようになっていた。

正盛の武士団が成長していたことがよく分かる。

「西海・南海の名士」が正盛の周囲に集まる

平直澄追討後、京都へ戻った正盛側には、西国の武士たちが従っていた。

当時の記録には、

「西海・南海の名士」

と評された者たちが正盛のもとに集まったことが見える。

つまり正盛は、伊勢・伊賀の一族だけを率いる武将から、西国の武士まで組織できる人物へ成長していた。

これは後の平家を考えるうえで非常に重要である。

清盛の時代、平氏は瀬戸内海から九州まで強い影響力を持つ。

その西国ネットワークも、祖父の正盛の代から少しずつ作られていた。

1120年――従四位下へ

保安元年(1120)正月6日。

正盛は従四位下へ昇った。

武士としてはかなり高い位である。

世界大百科事典も、正盛が最終的に従四位下へ達したことを記している。

同年12月には讃岐守となった。

生年が分からないため正確な年齢は出せない。

ただし世界大百科事典は、1121年ごろに60歳を超えて亡くなったと推測している。

正盛の活動は、ここでほぼ終わる。

そのころにはすでに、次の世代が育っていた。

息子・忠盛――父が作った道をさらに進む

正盛の長男が平忠盛である。

1096年生まれ、源義親追討の1108年には数え13歳だった。

忠盛は父から、

白河院との関係。受領として出世する道。西国の武士とのつながり。

京都での軍事・警察活動。六波羅という拠点。

こうしたものを受け継いだ。

忠盛自身もやがて白河院・鳥羽院に仕え、西国の国司を歴任する。

さらに海賊追討でも活躍し、瀬戸内海や西国の武士を自分のもとへ組織していった。

その忠盛の息子が、平清盛。

清盛が生まれたのは1118年。

祖父・正盛が源義親を討ってから、わずか10年後である。

清盛が生まれたとき、すでに平氏の土台はできていた

1118年、平清盛が生まれた。

このとき祖父・正盛はまだ生きていたと考えられている。

清盛が生まれた家には、すでにかなりのものが揃っていた。

白河院との関係。複数国の受領を務めた実績。伊勢・伊賀の所領。

京都の六波羅。西国の武士とのつながり。遠国まで動かせる郎党。

源義家の息子を討ったという武名。

つまり清盛は、何も持たない家から一代で天下へ上がった男ではない。

祖父・正盛と父・忠盛が数十年かけて積み上げたものを受け取った。

その上で、清盛が一気に頂点まで押し上げたのである。

河内源氏と伊勢平氏――正盛の時代に流れが変わった

正盛の人生を河内源氏と並べて見ると、時代の変化がよく分かる。

源義家が死んだのは1106年。

義親が正盛に討たれたのが1108年。

その翌1109年には、義家の後を継いだ源義忠も殺害される。

河内源氏は一族内部の混乱へ入っていった。

その同じころ。

正盛は義親追討で但馬守となり、その後も丹後、備前、讃岐などの国司を務める。

白河院の御所を守る。海賊を追う。京都の強盗を捕らえる。

九州の平直澄まで郎党に討たせる。

源氏側が揺れている間に、正盛は院の軍事を担う武士として実績を積み続けた。

ここに12世紀前半の大きな転換がある。

平正盛は、どんな武将だったのか

正盛には、源義家のような派手な武勇伝はあまり残っていない。

何百騎を相手に弓を放った。一騎で敵陣へ突っ込んだ。

そんな話で名を残した人物ではない。

正盛が得意だったのは、もっと現実的な部分だった。

有力な院近臣とつながる。白河院へ所領を寄進する。寺を造る。国司を務める。

そこで金と人を集める。必要なときには軍を動かす。

武功を挙げれば、次の官職へつなげる。

さらに新しい土地で人脈を増やす。

正盛は、この循環を何度も回した。

武士が朝廷の外側で独自に強くなるよりも、院政の中へ深く入り込み、その権力を利用しながら家そのものを大きくしていったのである。

晩年――60歳を超えて没したとみられる

平正盛の正確な没年には確定的な記録が乏しい。

世界大百科事典では、讃岐守在任中の保安2年(1121)ごろ、60歳を超えて没したと推測している。

生年も分からない。墓所も確定していない。

そのため、源義家や源頼義のように最期の日まで詳しく追える人物ではない。

しかし正盛が晩年に残したものは、かなりはっきりしている。

息子の忠盛。孫の清盛。六波羅。院との関係。西国の武士団。受領として築いた財力。

そして「平氏でも武門の第一線へ出られる」という実績。

正盛自身が太政大臣になったわけではない。

公卿の頂点へ入ったわけでもない。

それでも、孫の清盛がそこまで登るための道筋は、正盛の代にすでに見えていた。

正盛が平氏に残したもの

1097年。

伊賀の所領20町余を六条院へ寄進した。

そこから約11年後。

源義家の息子・義親を討ち、但馬守になる。

六波羅に拠点を持ち、白河院を僧兵から守り、西国の海賊を追い、京都の強盗を捕らえ、肥前の反抗勢力まで郎党に討たせる。

最後には従四位下まで昇った。

正盛が強くしたのは、自分一人の名前だけではない。

平氏という家そのものだった。

息子・忠盛がそれを受け継ぐ。さらに孫・清盛が受け継ぐ。

清盛が太政大臣となるのは1167年。

正盛が1097年に白河院へ接近してから、ちょうど70年ほど後である。

70年かけて、伊勢平氏は一地方武士の家から朝廷の頂点へ登っていった。

その最初の大きな一歩を踏み出した男が、平正盛だった。

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