【人物編 Vol.3】蘇我馬子――なぜ崇峻天皇を暗殺できたのか? 聖徳太子と飛鳥時代を動かした男

人物

第11回

592年11月3日。

第32代・崇峻天皇が殺された。

実行したのは、東漢直駒。

そして『日本書紀』は、その背後にいた人物の名を明確に記している。

蘇我馬子である。

崇峻天皇は、馬子自身が即位に深く関わった天皇だった。その天皇と対立すると、馬子は東漢直駒を送り、殺害させた。

しかも、この事件によって馬子が失脚することはなかった。

翌月には推古天皇が即位し、馬子はその後も大臣として政権の中心に立ち続ける。崇峻天皇の死から、馬子自身が亡くなる626年まで34年。厩戸皇子と政治を進め、飛鳥寺を完成させ、『天皇記』『国記』の編纂にも携わった。

なぜ蘇我馬子は、天皇を殺害できるほどの力を持つまでになったのか。

そこに至るまでには、父・蘇我稲目の時代から積み重ねられた蘇我氏の勢力拡大と、皇位をめぐる激しい政治闘争があった。


父・蘇我稲目が築いた政治基盤

蘇我馬子の生年は分かっていない。

父は、欽明天皇の時代に大臣を務めた蘇我稲目だった。

馬子が政治の表舞台に現れる以前から、蘇我氏はヤマト王権の中で有力氏族として勢力を伸ばしていた。その大きな柱となったのが、王家との婚姻である。

稲目は娘の堅塩媛と小姉君を欽明天皇の妃とした。

堅塩媛からは、橘豊日皇子――のちの用明天皇――や、額田部皇女――のちの推古天皇――らが生まれた。

小姉君からは、穴穂部皇子や泊瀬部皇子――のちの崇峻天皇――らが生まれている。

用明・崇峻・推古の三天皇はいずれも、母方から蘇我稲目の血を引いていた。

蘇我氏は王家の外戚として、皇位継承に深く関われる立場を築きつつあった。

さらに蘇我氏は、渡来系氏族や技術者集団とも強い関係を持っていた。財政、外交、文筆、手工業などを担う人々との結びつきは、のちに馬子が大きな政治力を振るううえでも重要な基盤となっていく。


572年――敏達天皇のもとで大臣となる

572年、敏達天皇が即位した。

『日本書紀』では、この敏達朝から馬子が大臣として登場する。

馬子はこの後、用明・崇峻・推古朝まで、四代にわたって大臣を務めることになる。

当時、蘇我氏と並んで王権の中枢にいたのが物部氏だった。

その中心人物が、大連の物部守屋である。

蘇我氏と物部氏の対立を象徴する問題となったのが仏教だった。

馬子の父・稲目は、欽明朝に伝えられた仏教を積極的に受け入れていた。馬子もその姿勢を引き継いだ。

584年、『日本書紀』によれば、馬子は仏像を手に入れ、司馬達等の娘である善信尼らを出家させた。

日本における初期の本格的な仏教信仰の一場面である。

ところが翌585年、疫病が流行する。

物部守屋と中臣勝海は、外国の神である仏を祀ったため国の神々が怒ったとして、仏教を排斥するよう求めた。

敏達天皇がこれを認めると、仏塔や仏殿は破壊され、仏像は難波の堀江へ捨てられたと『日本書紀』は記す。

馬子自身も病に倒れた。それでも馬子は、天皇の許可を得て自ら仏法を祀り続けた。

蘇我馬子と物部守屋の対立は、仏教を受け入れるかどうかという問題だけで進んだものではない。両氏は王権を支える巨大な政治勢力であり、敏達天皇の死後には皇位継承をめぐる対立も重なっていく。


用明天皇即位――蘇我氏の血を引く天皇

585年、敏達天皇が崩御した。

次に即位したのが用明天皇である。

用明天皇の母は蘇我稲目の娘・堅塩媛。馬子にとって、姉妹から生まれた皇子にあたる。

用明天皇も仏教に心を寄せた。

587年、病床にあった天皇は仏・法・僧の「三宝」に帰依したいという意思を示し、群臣にその可否を問うた。

馬子は天皇の意思に従う姿勢を示し、物部守屋は反発した。

しかし、その最中の587年4月、用明天皇が崩御する。

皇位は再び空白となった。

ここから争いは一気に激しくなる。


穴穂部皇子の死――皇位継承争いが動き出す

用明天皇の死後、有力な皇位候補のひとりとなったのが穴穂部皇子だった。

穴穂部皇子の母は蘇我小姉君であり、皇子自身も蘇我氏の血を引いていた。しかし政治的には物部守屋と結びついていた。

587年6月。

『日本書紀』によれば、馬子は炊屋姫尊――のちの推古天皇――の命を受け、佐伯連丹経手らを派遣して穴穂部皇子を殺害した。

さらに穴穂部皇子と結んでいた宅部皇子も殺された。

守屋は有力な皇位候補を失う。

そして翌7月、蘇我馬子は諸皇子・群臣とともに、物部守屋を討つため兵を動かした。

後世に丁未の乱と呼ばれる戦いである。


587年、丁未の乱――物部守屋との決戦

物部守屋の本拠は河内国渋川郡、現在の大阪府八尾市周辺にあった。

馬子側には泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子をはじめ、多くの皇族や豪族が加わった。

『日本書紀』では、守屋は稲城を築いて迎撃し、朴の木に登って雨のように矢を放ったと描かれている。

戦いは簡単には決着しなかった。

馬子側の軍勢は何度も退いたという。

この戦いで厩戸皇子は、白膠木を削って四天王の像を作り、勝利すれば四天王のために寺を建てると誓った。

馬子もまた、勝利すれば寺院を建立すると誓ったと『日本書紀』は伝える。

やがて迹見赤檮が守屋を射落とした。

総大将を失った物部軍は崩れ、守屋の一族は敗北した。

王権の軍事を担ってきた物部氏の中枢は、この戦いによって大きく後退する。

馬子にとっても大きな転機となった。長く政治の中心で競い合ってきた物部守屋が消え、蘇我氏の政治的優位は一段と大きくなった。


崇峻天皇を擁立する

守屋が滅んだ後、皇位についたのが泊瀬部皇子だった。

第32代・崇峻天皇である。

母は蘇我稲目の娘・小姉君。崇峻天皇もまた、母方から蘇我氏の血を引いていた。

『日本書紀』によれば、守屋討伐に加わった泊瀬部皇子は、戦いの後に即位して倉梯宮に入った。

馬子は引き続き大臣として政権の中心に立った。

ところが、この崇峻天皇と馬子の関係は、わずか数年で決定的に崩れていく。


588年――飛鳥寺の造営が始まる

崇峻天皇元年にあたる588年。

百済から僧や寺工、鑪盤博士、瓦博士、画工らが渡来した。

馬子は彼らの技術を用い、飛鳥で寺院の造営を始める。

法興寺、現在の飛鳥寺である。

父・稲目の時代から蘇我氏が進めてきた仏教受容が、巨大な寺院という形となって現れ始めた。

飛鳥寺は596年に完成したとされる。

発掘調査によって、中央の塔を囲むように北・東・西へ三つの金堂を配置する「一塔三金堂」の伽藍だったことが分かっている。

百済から渡来した瓦博士の存在を裏付けるように、出土した初期の瓦にも朝鮮半島との強い関係がみられる。

飛鳥の地に、それまでの日本にはなかった瓦葺きの巨大寺院が姿を現した。

馬子は政治だけでなく、飛鳥に新たな宗教と文化の中心を築こうとしていた。


崇峻天皇と馬子の対立

崇峻天皇の治世は5年ほど続いた。

592年になると、天皇と馬子の間に深刻な対立が表面化する。

『日本書紀』崇峻天皇5年10月条には、その緊張を象徴する出来事が記されている。

あるとき、猪が天皇へ献上された。

崇峻天皇はその猪を指して、自分が憎いと思っている者を、いつになればこの猪の首を斬るように斬れるのだろう、という趣旨の言葉を口にした。

さらに天皇は、多くの武器を準備するようになったという。

馬子はこの話を聞いた。

『日本書紀』は、馬子が天皇から憎まれていることを知り、天皇を殺害する計画を立てたと記している。

標的が誰だったのか、天皇が実際に馬子を殺そうとしていたのかまでは分からない。ただし『日本書紀』では、この猪をめぐる発言が暗殺へ直接つながる場面として置かれている。


592年11月3日――馬子、崇峻天皇を殺す

592年11月3日。

馬子は東漢直駒を送り、崇峻天皇を殺害させた。

『日本書紀』には、馬子が東漢直駒を使って天皇を殺したことが明記されている。

東漢氏は渡来系の有力氏族で、文筆や財務などに携わる一方、軍事面でも活動していた。

馬子と東漢氏の結びつきは、天皇殺害という重大な場面でも現れた。

崇峻天皇は殺害されたその日のうちに倉梯岡陵へ葬られたとされる。

天皇の死後に通常行われていた殯の記事もなく、即日葬られたという『日本書紀』の記事は異例である。

天皇が臣下によって計画的に殺害された。

しかも、その首謀者として記された馬子は処罰されなかった。

ここに、当時の馬子が持っていた政治力の大きさが表れている。

一方、崇峻天皇が殺害された後、大規模な内乱が起こることもなく、翌月には次の天皇が即位している。

崇峻天皇の排除を受け入れ得る政治状況が、王権内部に存在していた可能性も考えられている。

確かなのは、『日本書紀』が崇峻天皇殺害の実行を馬子の命令として記していることである。


推古天皇の即位

崇峻天皇が殺害された翌月、592年12月。

額田部皇女が即位した。

第33代・推古天皇である。

推古天皇は、日本の史書に現れる最初の女性天皇である。

父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘・堅塩媛。馬子から見れば姪にあたった。

翌593年、厩戸皇子が皇太子となり、政治に加わった。

厩戸皇子もまた、蘇我氏と深い血縁関係にあった。

母の穴穂部間人皇女は蘇我稲目の孫にあたり、さらに厩戸皇子は馬子の娘・刀自古郎女を妃としている。

推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子。

推古朝の政治は、この三者を中心とした王族と蘇我氏の密接な関係の中で進められていく。


「聖徳太子の時代」に大臣だった馬子

推古朝では、日本史上よく知られた政治改革や外交が相次ぐ。

594年には三宝興隆の詔が出され、仏教の興隆が王権の政策として進められた。

603年には冠位十二階。

604年には、『日本書紀』に十七条憲法制定の記事が記される。

607年には小野妹子が隋へ派遣された。

翌608年には、隋の使者・裴世清が倭国を訪れている。

中国側の『隋書』には、それ以前の600年にも倭国から使者が来たことが記されており、推古朝には中国王朝との外交が大きく動き始めていた。

この時代は後世、「聖徳太子の政治」として語られることが多い。

その一方で、馬子も終始、大臣の地位にあった。

厩戸皇子が605年に斑鳩宮へ移った後も、馬子は飛鳥を政治基盤として活動を続けている。

飛鳥寺を中心とする仏教興隆、豪族間の政治調整、朝鮮半島や中国大陸を見据えた外交。

推古朝の政治を考えるうえで、馬子の存在は欠かせない。


620年――厩戸皇子と歴史書を編纂する

620年。

『日本書紀』は、厩戸皇子と蘇我馬子が共同して、『天皇記』『国記』、さらに臣・連・伴造・国造・百八十部・公民などの本記を記したと伝えている。

これらの書物の大部分は現在まで残っていない。

しかし王統だけでなく、有力氏族や各地を支配する国造などについても記録をまとめようとしていたことが分かる。

馬子は物部守屋との戦いを勝ち抜き、崇峻天皇の殺害を命じた人物である。

同時に、国や氏族の来歴を書物として整理する事業にも携わっていた。

620年代に入っても、馬子は依然として王権の中心にいた。

622年には、長年政治をともにしてきた厩戸皇子が亡くなる。

馬子は厩戸皇子の死後も、大臣として政治に関わり続けた。


624年――推古天皇が馬子の要求を拒絶する

晩年の馬子と推古天皇の関係をよく表す事件が、624年に起こった。

馬子は推古天皇に対し、葛城県を自分に与えてほしいと求めた。

葛城県は大和六県の一つに数えられる、王権にとって重要な土地だった。

馬子は葛城を自らの「本居」であるとして要求した。

『日本書紀』推古天皇32年条では、馬子が使者を通して、蘇我氏の名には葛城との結びつきがあり、自分が死ねば後世の者からその名の由来を問われても答えられなくなるという趣旨を伝えたとされる。

しかし推古天皇は拒否した。

自分は蘇我氏から出た天皇であり、馬子は自分にとって叔父にあたる。そのため馬子の言うままに葛城県を与えれば、後世から自分は愚かな女性であり、馬子は不忠であったと批判されるだろう――。

『日本書紀』は、そのような趣旨の推古天皇の言葉を記している。

馬子は崇峻天皇の殺害を命じるほど強大な政治力を持っていた。

それでも推古天皇は、王権に関わる重要な土地を求めた馬子の要求を拒絶した。

推古朝の政治は、馬子が天皇を意のままに動かしていたという構図だけでは説明できない。

推古天皇自身も王権の意思を示し、馬子と長く協調しながら政治を行っていた。


「嶋大臣」と呼ばれた馬子

馬子には「嶋大臣」という呼び名があった。

『日本書紀』は、馬子の邸宅について興味深い記録を残している。

馬子は飛鳥川のほとりに家を構え、庭には小さな池があり、その池の中に島があった。

そのため人々は馬子を「嶋大臣」と呼んだという。

現在の奈良県明日香村島庄は、馬子の邸宅が存在した地域と考えられている。

巨大な寺院である飛鳥寺を造り、飛鳥川の近くに邸宅を構える。

6世紀末から7世紀前半にかけて、飛鳥は王権と蘇我氏の政治・文化の中心地へと姿を変えていった。

その景観を作り上げた中心人物のひとりが馬子だった。


626年――蘇我馬子、死去

626年5月20日。

蘇我馬子が亡くなった。

生年は分からないため、正確な享年も不明である。

敏達朝の572年から大臣として活動したとすれば、その政治生活は半世紀を超える。

敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇。

四代の天皇の時代を大臣として生き抜いた。

物部守屋を滅ぼし、崇峻天皇の殺害を命じ、推古天皇・厩戸皇子とともに長い政権を支えた。

さらに飛鳥寺を造営し、『天皇記』『国記』の編纂にも関わった。

『日本書紀』は、馬子が桃原墓に葬られたと記している。

そして現在、その墓の有力な候補とされているのが、奈良県明日香村島庄に残る石舞台古墳である。


石舞台古墳――馬子の墓なのか

石舞台古墳は、飛鳥を代表する巨大古墳のひとつである。

現在は墳丘の盛土がほとんど失われ、巨大な横穴式石室が露出している。

30数個の巨石が使用され、その総重量は約2300トン。最大の天井石だけでも約77トンに達する。

1930年代の発掘調査では方形の墳丘や周濠などが確認され、築造時期は7世紀初頭頃と考えられている。

被葬者を記した墓誌などは見つかっていないため、蘇我馬子の墓と断定することはできない。

しかし築造された時期、巨大な規模、馬子の邸宅があったと考えられる島庄に位置すること、そして『日本書紀』が馬子を桃原墓に葬ったと記していることから、馬子の墓とする説が有力である。

馬子ほどの権力者を葬った墓として考えれば、その巨大さにも不思議はない。

飛鳥の地に残る巨石の石室は、馬子が生きた時代の権力の大きさを現在まで伝えている。


天皇を殺した後、34年間も大臣であり続けた

蘇我馬子の生涯で最も強烈な出来事は、592年の崇峻天皇暗殺である。

だが、馬子の政治力の大きさをさらに物語るのは、その後の34年間だった。

崇峻天皇を殺害した後も、馬子は失脚しなかった。

推古天皇のもとで大臣を務め、厩戸皇子と政治を進め、飛鳥寺を完成させ、外交が大きく動く時代を支え、『天皇記』『国記』の編纂にまで携わった。

その力は592年の暗殺によって突然生まれたものではない。

父・稲目の時代から続く王家との婚姻、用明・崇峻・推古という蘇我氏の血を引く皇族たち、渡来系氏族との結びつき、仏教という新しい文化の受容、そして587年に物部守屋を倒したことで確立した政治的優位。

それらが数十年かけて積み重なった先に、崇峻天皇暗殺があった。

馬子の死後、その勢力は子の蘇我蝦夷へ受け継がれる。

さらに孫の蘇我入鹿へ。

蘇我氏本宗家の権力は、馬子の死によって終わらなかった。

しかし626年の馬子の死から19年後。

645年6月。

飛鳥板蓋宮で、中大兄皇子と中臣鎌足らによって蘇我入鹿が殺害される。

乙巳の変である。

翌日、父の蘇我蝦夷も自邸に火を放って死んだ。

父・稲目から馬子へ、馬子から蝦夷へ、そして入鹿へ。

およそ一世紀にわたって王権の中心に食い込んできた蘇我氏本宗家は、ここで終焉を迎える。

その巨大な権力の土台を築き上げた人物こそ、蘇我馬子だった。

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