第126回
寿永3年(1184)1月20日。
京都へ続く二つの重要な道で、木曾義仲の運命を大きく変える戦いが始まった。
山城国・宇治。
近江国・瀬田。
東国から迫ってきたのは、源頼朝が送り込んだ軍勢である。
宇治方面を進む源義経。
瀬田方面を進む源範頼。
迎え撃つのは、前年に京都へ入り、法住寺合戦で後白河法皇を武力で制圧した木曾義仲の軍勢だった。
義仲方は宇治川と瀬田方面を押さえ、頼朝方の京都進入を防ごうとする。
これに対して頼朝方は、二方向から同時に京都へ迫った。
宇治では義経軍が義仲方の防衛線を突破する。
瀬田方面でも範頼軍が義仲方を破る。
宇治と瀬田。
京都へ続く二つの道がともに破られたことで、義仲の京都支配は崩壊した。1月20日に義仲方が宇治・勢多で敗れ、頼朝方が京都へ入ったことは複数の史料から確認できる。
『平家物語』では、この戦いの中でも佐々木高綱と梶原景季による「宇治川の先陣争い」が特に有名である。
しかし、宇治川の戦いの意味は二人の先陣争いだけではない。
宇治と瀬田をめぐって、頼朝方と義仲方が京都の支配を争った戦いだったのである。
今回は、法住寺合戦後の木曾義仲がなぜ追い詰められたのか。
宇治と瀬田では何が起きたのか。
そして頼朝方は、どのように京都への道を開いたのかを見ていく。
1.法住寺合戦で京都を押さえた木曾義仲
寿永2年(1183)7月。
木曾義仲は平家を追う形で京都へ入った。
その少し前、義仲軍は倶利伽羅峠などで平家軍を破り、北陸道を進んでいた。
義仲軍が京都へ迫ると、平家は安徳天皇と三種の神器を伴って都を離れ、西国へ向かう。
京都に入った義仲は、平家に代わって朝廷から平家追討を命じられた。
しかし、入京後の状況は次第に悪化する。
義仲軍による食料調達や乱暴が問題となり、後白河法皇や公家たちとの関係が悪化していった。
一方、東国では源頼朝が勢力を拡大していた。
寿永2年10月には、東海・東山両道の荘園・公領を本来の領主へ戻すことなどについて、頼朝が一定の役割を担うことを朝廷から認められる。
頼朝は東国での軍事的な力だけでなく、朝廷との政治的な関係も強めつつあった。
そして11月19日。
義仲は後白河法皇の院御所・法住寺殿を攻撃する。
法住寺合戦である。
義仲は法皇側を破り、京都の政治的な主導権を握った。
しかし、後白河法皇へ武力を向けたことで、朝廷との対立はさらに深まっていく。国立公文書館も、法住寺合戦で義仲が政権を掌握した後、頼朝方の範頼・義経が京都へ進攻する流れとして整理している。
2.水島の敗北――変わり始めていた戦況
義仲を取り巻く状況は、法住寺合戦以前から変わり始めていた。
寿永2年閏10月。
義仲方の軍勢は備中国・水島で平家軍と戦い、敗北する。
京都を追われた平家は、西国で勢力を立て直していた。
倶利伽羅峠で平家軍を破った頃の義仲は、北陸から京都へ勢いよく進んでいた。
しかし京都へ入った後は、西には平家、東には頼朝という二つの大きな勢力が存在する状況となる。
さらに京都では後白河法皇との対立も深まった。
水島での敗北は、それだけで義仲軍を決定的に弱体化させたとはいえない。
それでも、平家が再び戦える力を取り戻していたことを示す重要な出来事だった。
義仲は京都を押さえながら、複数方面への対応を迫られるようになったのである。兵庫県立歴史博物館も、水島での敗北と後白河法皇との対立を、義仲の立場が悪化していく過程として紹介している。
3.義仲が抱えていたもう一つの問題――源行家
義仲が向き合っていた相手は、平家と頼朝だけではなかった。
同じ源氏の源行家との関係も悪化していた。
行家は義仲とともに京都へ入った人物だったが、やがて別行動を取るようになる。
そして宇治・瀬田での決戦を翌日に控えた寿永3年1月19日。
義仲は家臣の樋口兼光を、行家らへの対応のため河内方面へ向かわせた。
『吾妻鏡』系の記事をまとめた史料では、義仲が樋口兼光を派遣して行家を討たせようとしたことが確認できる。
翌日には頼朝方の軍勢との決戦が迫っていた。
その直前にも、義仲は軍勢の一部を別方面へ送り出していたのである。
義仲は、
西国の平家。
東国から迫る頼朝方。
京都の後白河法皇。
そして源行家。
複数の対立を同時に抱えていた。
1184年1月の義仲は、倶利伽羅峠で平家軍を破った頃とは大きく異なる状況に置かれていたのである。
4.頼朝が送り込んだ二人の弟――範頼と義経
義仲追討のために東国から進んできたのが、源範頼と源義経だった。
二人はいずれも頼朝の弟である。
頼朝自身は京都へ向かわなかった。
範頼と義経を派遣し、東国の武士たちを率いさせた。
後白河法皇から義仲追討を求められた頼朝が、範頼・義経の軍勢を京都へ向かわせた流れは、国立公文書館の解説でも確認できる。
京都を目指す頼朝方は二方面へ分かれた。
範頼は瀬田方面。
義経は宇治方面。
『吾妻鏡』などをもとにした史料整理でも、1月20日に義仲方が宇治・勢多の双方で敗れ、頼朝方が京都へ入ったことが記されている。
現在は「宇治川の戦い」という名称が広く知られている。
しかし戦局全体を見ると、宇治と瀬田を同時に攻める二方面作戦として捉えることが重要である。
5.なぜ宇治と瀬田を守る必要があったのか
宇治は京都南東の重要な交通路だった。
宇治川と宇治橋を越える道は、大和方面や東国方面から京都へ向かううえで重要な経路となる。
治承4年(1180)には、以仁王と源頼政が平家軍を迎え撃った宇治橋合戦も起きている。
その際も頼政方は橋を利用して平家軍の進撃を阻止した。
そして4年後。
再び宇治が京都を守る防衛線となった。
一方の瀬田は、琵琶湖から流れ出す瀬田川を越える場所である。
近江から京都へ進む重要な経路の一つであり、東国から来る大軍を止めるうえで重要だった。
義仲方は宇治だけを守ることはできない。
範頼軍が瀬田へ向かっている以上、こちらにも兵を置く必要がある。
宇治と瀬田。
二つを同時に守らなければ、頼朝方の京都進入を防ぐことはできなかったのである。
6.義仲方も二方面へ兵を配置する
義仲方は頼朝方の進軍に備え、宇治と瀬田へ兵を配置した。
『吾妻鏡』などをもとにした史料では、志田義広や今井兼平らが宇治・勢多の両道で防戦したことが確認できる。
史料を総合すると、宇治方面には志田義広ら、瀬田方面には今井兼平らが配置されたとする説明が一般的である。
ただし、『吾妻鏡』の記事自体は二人の配置を細かく分けて記しているわけではない。
そのため、ここでは「宇治に義広、瀬田に兼平と配置されたとされる」とするのが適切である。
今井兼平は義仲の乳母子で、挙兵以来行動をともにしてきた重要な家臣だった。
さらに樋口兼光は前日、源行家への対応で河内方面へ向かっている。
義仲方の有力武将は、決戦を前に複数方面へ分かれていたのである。
7.1月20日――宇治と瀬田で戦いが始まる
寿永3年(1184)1月20日。
頼朝方は京都へ向けて進軍した。
範頼は瀬田方面。
義経は宇治方面。
義仲方は両方の道で迎え撃った。
当時の記録には、頼朝方を「数万」とする情報も残されている。
しかし中世史料の兵数は誇張を含む場合があり、実際に何人が戦ったのかを正確に確定することは難しい。
ここで確実に押さえたいのは、頼朝方が多数の東国武士を率いて京都へ迫り、義仲方が宇治と瀬田の二方面でこれを防ごうとしたことである。
義仲にとっては、この二つの防衛線を維持できるかどうかが京都支配の行方を左右する戦いだった。
8.宇治――義経軍の前に立ちはだかった宇治川
義経が向かった宇治方面では、宇治川が大きな障害となった。
宇治川を越えなければ、京都へ進むことはできない。
義仲方は宇治橋を利用し、頼朝方の進撃を阻止しようとしたと伝えられている。
『平家物語』などでは、橋板を外したほか、川の中に障害物を設けていたという詳しい描写もある。
こうした細かな防御方法については、軍記物語による描写として読む必要がある。
一方で、宇治川を防衛線として義仲方が戦い、義経方がこれを突破したという大きな流れは史料から確認できる。宇治市の資料でも、1184年1月20日に義経軍が宇治川で義仲軍を破ったことが整理されている。
真冬の川を越えて敵陣へ向かう。
この渡河戦の中から、後世まで語り継がれる有名な物語が生まれた。
9.佐々木高綱と梶原景季――宇治川の先陣争い
宇治川の戦いで最も有名なのが、佐々木高綱と梶原景季の先陣争いである。
『平家物語』などによれば、二人は頼朝から与えられた名馬に乗っていた。
高綱の馬は「生食」。
景季の馬は「磨墨」。
二人は誰よりも先に宇治川を渡り、敵陣へ到達する先陣の名誉を競った。
物語では、最初は景季が高綱より前にいた。
そこで高綱は、景季の馬の腹帯が緩んでいるという趣旨の言葉をかける。
景季が確認している間に高綱が先へ出て、そのまま宇治川へ飛び込み、先陣を果たしたと描かれている。
国立公文書館も、佐々木高綱と梶原景季が生食・磨墨に乗って先陣を争う場面を、『平家物語』や『源平盛衰記』に伝わる代表的な場面として紹介している。
高綱や景季が頼朝方の武士だったことと、物語に描かれた細かな駆け引きは分けて考える必要がある。
腹帯をめぐる機転などは、軍記物語が伝える印象的な逸話として楽しむのが適切である。
10.宇治川を渡った東国武士たち
宇治川の軍記物語で活躍するのは、高綱と景季だけではない。
畠山重忠。
熊谷直実。
平山季重。
そのほか多くの東国武士が、宇治川を越えて戦った姿が描かれている。
『平家物語』には複数の系統があり、宇治川の描写にも違いがある。
たとえば延慶本では、橋板が外された宇治橋を平山季重や熊谷直実らが渡る場面が伝えられている。兵庫県立歴史博物館も、この延慶本における宇治橋渡河の逸話を紹介している。
一方、よく知られる『平家物語』では、名馬に乗って川へ入る高綱と景季の先陣争いが強く印象に残る。
同じ宇治川の戦いでも、軍記物語の系統によって描かれ方は異なるのである。
こうした違いも、宇治川の戦いが後世どのように語り継がれたのかを知るうえで興味深い。
11.義経軍、宇治の防衛線を突破する
頼朝方は宇治川を突破した。
義仲方は義経軍の進軍を止めきれず、宇治方面の防衛線は崩れた。
義経軍はそのまま京都へ向かう。
宇治市はこの1184年1月20日の戦いを、義経の初陣として紹介している。
後に一ノ谷、屋島、壇ノ浦で活躍する義経にとって、宇治川はその軍歴の初期を代表する戦いとなった。
ただし、この勝利を義経一人のものとして見ると、戦いの全体像が見えにくくなる。
義経の軍勢には多くの東国武士が参加していた。
そして別方面では、範頼軍が瀬田で義仲方と戦っていたのである。
12.瀬田――範頼軍と義仲方の戦い
宇治で義経軍が戦っている頃、瀬田方面でも戦闘が行われていた。
こちらへ向かったのは源範頼の軍勢である。
義仲方では今井兼平らが瀬田方面を守ったとされている。
ただし、宇治川の先陣争いのように、瀬田側の戦闘経過を詳しく伝える有名な同時代記録は多くない。
そのため、瀬田の戦闘を軍記物語の描写だけで細かく再現するのは避ける必要がある。
史料から確実に確認できるのは、1月20日に義仲方が宇治だけでなく勢多でも敗れたということである。
兵庫県立歴史博物館も、範頼・義経が宇治川と瀬田の戦いで義仲勢を破ったと整理している。
宇治では義経。
瀬田では範頼。
頼朝方は二つの進路で同時に前進した。
瀬田の敗北によって、義仲方は近江方面から京都へ至る重要な道も維持できなくなったのである。
13.宇治と瀬田がともに崩れた意味
宇治川の戦いを見るうえで重要なのは、宇治だけを見るのではなく瀬田まで含めることである。
義仲が宇治だけを守ればよいのであれば、兵を集中させることもできた。
しかし範頼軍は瀬田へ向かっている。
義仲方は有力な武将と兵力を複数方面へ配置しなければならなかった。
さらに前日の1月19日には、樋口兼光が源行家への対応で河内方面へ向かっていた。
そして1月20日。
宇治では義経軍が突破する。
瀬田でも範頼軍が前進する。
二つの防衛線がともに崩れた。
義仲は東側から京都へ入る主要な道を同時に失ったのである。
佐々木高綱と梶原景季の先陣争いは、この戦いを象徴する有名な物語である。
しかし戦局全体を見ると、宇治と瀬田の二方面で義仲軍を崩したことこそが、京都攻防の決着につながった。
14.頼朝方が京都へ入る
宇治と瀬田の防衛線を破った頼朝方は京都へ入った。
史料では、範頼が瀬田方面から、義経が宇治方面から京都へ進んだことが伝えられている。
頼朝自身は京都へ来ていない。
弟の範頼・義経と東国武士たちを派遣し、義仲の軍勢を排除したのである。
義経らは後白河法皇のもとへ向かう。
わずか2か月前。
義仲は法住寺合戦で後白河法皇を武力で押さえていた。
今度は頼朝方の軍勢が京都へ入り、法皇の周囲を確保した。
義仲にとっては、軍事的な敗北と政治的な敗北が同時に進んだことになる。
法住寺合戦によって手にした京都での優位は、宇治・瀬田の敗北によって崩れたのである。
15.なぜ木曾義仲は敗れたのか
義仲の敗北には、複数の条件が重なっていた。
まず政治的な孤立である。
入京後、義仲と後白河法皇の関係は悪化し、最終的には法住寺殿へ武力を向けた。
その一方で、頼朝は朝廷との関係を深めていた。
次に、複数方面への軍事対応である。
西国では平家が勢力を回復し、水島で義仲方を破った。
源行家とも対立し、宇治・瀬田での決戦前日には樋口兼光を河内方面へ向かわせている。
さらに1月20日、頼朝方は宇治と瀬田の二方面から同時に京都へ迫った。
義仲方は両方を守るため、兵と武将を分散して対応する必要があった。
そこへ東国から来た範頼・義経の軍勢が攻撃を加えた。
政治的な孤立。
複数の敵への対応。
兵力の分散。
そして二方面からの攻撃。
こうした状況が重なった中で、義仲は京都を守り切ることができなかったのである。水島敗戦から宇治・瀬田での敗北へ至る流れは、兵庫県立歴史博物館の解説でも確認できる。
16.義仲は京都を離れる
宇治と瀬田の防衛線を失った義仲は、京都を離れた。
向かったのは近江方面である。
そして同じ1月20日。
義仲は近江国粟津で最後の戦いを迎える。
史料整理でも、宇治・勢多での敗北、京都からの退却、粟津での義仲の死は同じ日の出来事として記録されている。
ただし、義仲が京都を離れた後の出来事は、宇治川の戦いとは別に詳しく見る価値がある。
今井兼平はどのように義仲と合流したのか。
『平家物語』に登場する巴御前との別れをどう考えるのか。
義仲は粟津でどのように最期を迎えたのか。
これらについては、次の「粟津の戦い」で詳しく扱う。
本記事では、宇治・瀬田の防衛線が崩れ、義仲が京都を失ったところまでを中心とする。
17.『玉葉』『吾妻鏡』『平家物語』――史料の違い
宇治川の戦いを考えるとき、史料の性格を分けて読むことが重要である。
『玉葉』は、公家・九条兼実の日記である。
1184年当時に書かれた同時代史料で、京都の政治情勢や当時伝わっていた戦況を知るうえで重要な記録となる。
『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の歴史を後世に編纂した史書である。
頼朝方の武士や行動を詳しく知るための重要な史料だが、宇治川の戦いと同時期に書かれた記録ではない。
そして『平家物語』は、治承・寿永の内乱を描いた軍記物語である。
佐々木高綱と梶原景季。
生食と磨墨。
宇治川の先陣争い。
こうした印象的な場面を後世まで伝えた。
国立公文書館でも、高綱と景季の先陣争いは『平家物語』や『源平盛衰記』に描かれた物語として紹介されている。
同時代の日記。
後世に編纂された歴史書。
そして軍記物語。
それぞれを区別しながら読むことで、宇治川の戦いの史実と後世に形成された物語の両方が見えてくる。
18.宇治・瀬田の戦いが持った意味
寿永3年1月20日の戦いによって、木曾義仲による京都支配は終わった。
前年7月。
義仲は平家を追う形で京都へ入った。
11月。
法住寺合戦で後白河法皇を武力で制圧する。
そして翌年1月。
頼朝から派遣された範頼と義経が、瀬田と宇治から京都へ迫った。
義仲方は二つの防衛線で戦った。
しかし、その両方を破られた。
頼朝本人は京都へ来ていない。
それでも範頼・義経と東国武士を派遣することで、京都にいた義仲を排除することに成功した。
頼朝の勢力が、東国だけでなく京都の政治にも大きな影響を与える段階へ進んだことを示す戦いでもある。
そして頼朝方の戦いは、ここで終わらない。
西国では平家が勢力を立て直していた。
義仲を京都から排除した頼朝方は、間もなく再び平家追討へ向かう。
2月には一ノ谷の戦いが待っていた。治承・寿永の内乱全体でも、法住寺合戦→宇治川→一ノ谷という短期間の展開が確認できる。
まとめ――宇治川の戦いとは何だったのか
寿永3年(1184)1月20日。
源頼朝から派遣された軍勢と、木曾義仲方の軍勢が京都をめぐって激突した。
頼朝方は二方面へ分かれた。
源範頼は瀬田。
源義経は宇治。
義仲方も宇治と瀬田で頼朝方を迎え撃った。
宇治では、義経軍の前に宇治川という天然の防衛線が立ちはだかった。
後世の『平家物語』は、この戦いの中で佐々木高綱と梶原景季が名馬「生食」「磨墨」に乗り、先陣を争った姿を描いている。
高綱が景季へ馬の腹帯について声をかけ、その間に先へ出たという有名な逸話もここから生まれた。
そして瀬田では範頼軍が義仲方と戦った。
宇治ほど戦闘の細部は伝わっていない。
しかし、1月20日に義仲方が宇治と勢多の双方で敗れたことは複数の史料から確認できる。
義仲側の状況も厳しかった。
前年には水島で平家軍に敗れた。
後白河法皇との対立も決定的となった。
源行家とも対立し、決戦前日の1月19日には樋口兼光を別方面へ向かわせていた。
その状態で、宇治と瀬田から同時に進んでくる頼朝方を迎え撃ったのである。
結果として二つの防衛線はともに崩れた。
範頼は瀬田方面から。
義経は宇治方面から。
頼朝方は京都へ入る。
ここで木曾義仲による京都支配は終わった。
この戦いを象徴するのは、確かに宇治川の先陣争いである。
しかし、戦局全体を見るとさらに大きな意味が見えてくる。
宇治と瀬田という二つの道を同時に攻めた頼朝方。
複数方面への対応を迫られていた義仲方。
そして、二つの防衛線がともに崩れたことで失われた京都。
宇治川の戦いは、源義経の名が大きく歴史に現れる最初期の戦いであると同時に、頼朝と義仲による京都をめぐる争いが決着した戦いだったのである。
そして京都を失った木曾義仲は、この日のうちに近江へ向かう。
その先で待っていたのが、最後の戦いとなる「粟津の戦い」である。


コメント