【人物編Vol.61】今井兼平――木曾義仲と最期まで戦った乳兄弟、その生涯と最期

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人物

第129回

寿永3年(1184)1月。

京都を追われた木曾義仲は、わずかな兵とともに近江国へ向かっていた。

前年には北陸で平氏軍を破り、京都へ入った義仲だったが、その勢力は急速に崩れていた。

後白河法皇との対立が深まり、源頼朝が送り込んだ源範頼・源義経の軍勢が京都へ迫る。

義仲は戦いに敗れ、都を脱出した。

その義仲を追うように、瀬田方面から一人の武将が退いてきた。

今井兼平である。

兼平は幼いころから義仲と深い関係にあり、信濃での挙兵から北陸での戦い、京都進出、そして最後の戦いまで従った。

『平家物語』の「木曾最期」では、義仲と兼平の最後の時間が鮮烈に描かれている。

幼いころから続いた二人の関係は、近江の戦場で最期を迎えることになった。

木曾義仲とともに育った今井兼平

今井兼平は、仁平2年(1152)に生まれたとされる。

父は信濃国の武士・中原兼遠。

通称は今井四郎。

木曾義仲を支えた有力武将の一人で、後世には「木曾四天王」の一人にも数えられた。

兼平の生涯を語るうえで欠かせないのが、木曾義仲との関係である。

義仲は源義賢の子として生まれた。

久寿2年(1155)、義賢は武蔵国で起きた大蔵合戦で源義平に討たれる。

幼かった義仲はその後、信濃国へ移り、中原兼遠のもとで養育されたと伝えられている。

兼平は、その兼遠の子だった。

義仲とは乳母子の関係にあり、乳兄弟として育ったとされる。

義仲が1154年生まれ、兼平が1152年生まれとすれば、年齢差はわずか2歳。

後に主君と家臣となる二人の関係は、義仲が信濃で成長した時代から続いていた。

木曾義仲の挙兵

治承4年(1180)、以仁王の令旨をきっかけとして、各地で平氏に対する挙兵が相次いだ。

伊豆では源頼朝が兵を挙げ、信濃では木曾義仲が立ち上がった。

兼平も義仲に従う。

義仲は信濃から勢力を広げ、やがて北陸道へ進出した。

関東を中心に勢力を固める頼朝に対し、義仲は信濃や北陸の武士たちをまとめながら西へ進んでいく。

兼平は、その軍勢を支える有力武将として各地を転戦した。

寿永2年(1183)、義仲軍と平氏軍は北陸で本格的に激突する。

『源平盛衰記』では、越中国の般若野で平盛俊らの軍と戦った際、兼平が軍勢を率いて平氏方を破ったと描かれている。

その後、義仲軍と平氏軍は倶利伽羅峠周辺で激突した。

倶利伽羅峠から京都へ

寿永2年5月。

義仲軍は倶利伽羅峠の戦いで平氏軍を破った。

続く篠原の戦いでも平氏軍を退け、北陸の戦局は大きく義仲方へ傾いていく。

兼平も一連の戦いに参加したと伝えられている。

北陸で敗北を重ねた平氏は、京都の維持が難しくなった。

同年7月、平宗盛ら平氏一門は安徳天皇を伴って都を離れる。

その後、義仲らの軍勢が京都へ入った。

信濃で挙兵してから約3年。

義仲は京都へ進出するまでに勢力を拡大した。

兼平もその歩みをともにした。

しかし、義仲の京都での立場は次第に不安定になっていく。

後白河法皇との対立

義仲らが入京した後、京都には各地から多くの軍勢が集まっていた。

兵粮の徴発や武士たちの乱暴が相次ぎ、都とその周辺では混乱が広がる。

さらに平氏追討のため西国へ向かった義仲方の軍勢は、備中国の水島の戦いで敗北した。

その一方、関東では源頼朝が勢力を固めていた。

義仲と後白河法皇の関係も悪化していく。

寿永2年11月、両者の対立は武力衝突へ発展した。

法住寺合戦である。

義仲軍は法皇方を破り、後白河法皇を掌握した。

兼平もこの戦いに参加したとされる。

義仲は京都で軍事的な主導権を握ったものの、後白河法皇との対立は決定的となった。

やがて頼朝は、源範頼と源義経を西へ向かわせる。

義仲と頼朝方の直接対決が始まった。

瀬田を守った今井兼平

寿永3年(1184)1月。

範頼・義経の軍勢が京都へ迫った。

『吾妻鏡』によれば、範頼は勢多方面、義経は宇治方面から京都へ進軍した。

義仲方も両方面で迎え撃った。

『平家物語』では、兼平は瀬田を守る武将として登場する。

義経軍は宇治川を突破し、京都へ進んだ。

瀬田方面でも義仲方は敗れ、京都を守る戦線は崩壊した。

義仲は都から脱出する。

兼平も瀬田から退いた。

しかし二人は、互いの安否を気に掛けていた。

打出の浜で再会した義仲と兼平

ここからの二人の姿は、『平家物語』の「木曾最期」に詳しく描かれている。

瀬田を守っていた兼平は、敗戦によって兵を大きく減らし、義仲の行方を案じながら京都方面へ戻っていた。

一方の義仲も、兼平の身を案じて瀬田方面へ向かう。

そして二人は、大津の打出の浜で再会した。

互いの姿を見つけると馬を走らせ、近づいたという。

『平家物語』では、義仲が兼平の手を取り、ともに最期を迎えるためここまで逃れてきたという思いを語る。

兼平もまた、義仲の行方が気掛かりだったため瀬田からここまで来たと答える。

軍記物語に描かれた場面ではあるが、義仲と兼平の関係を象徴する場面として後世まで語り継がれてきた。

兼平の旗を見た味方が集まり、義仲らは再び敵軍へ向かった。

しかし戦うたびに兵は減っていく。

やがて義仲の周囲には、兼平や巴ら数人だけが残った。

巴との別れ

『平家物語』には、この最後の戦いに巴も登場する。

巴は義仲に従って各地を戦った人物として描かれ、「一人当千」と称されるほどの武勇を持つ女性として語られている。

義仲は最後まで残った巴に、戦場を離れるよう命じた。

巴はすぐには従わず、最後に敵の武者を討ち取ってから戦場を去ったという。

そして義仲と兼平は、二人で粟津方面へ向かった。

信濃でともに育った二人は、ついに最後の時を迎える。

「最後も一所で」と望んだ義仲

『平家物語』では、義仲と兼平の最後の会話が詳しく描かれている。

義仲は兼平とともに最期を迎えようとした。

しかし兼平は、自分が敵を防いでいる間に、義仲へ自害するよう勧める。

義仲ほどの武将が雑兵の手にかかって討たれれば、後世までその最期を語られてしまう。

兼平は最後まで主君の武名を守ろうとする人物として描かれている。

義仲はその言葉を受け、粟津の松原へ向かった。

しかし深い田に馬が踏み込み、身動きが取れなくなる。

そこへ敵兵が迫った。

『吾妻鏡』によれば、寿永3年1月20日、義仲は近江国粟津で討たれた。

義仲を討った人物として、相模国の石田次郎の名が記されている。

一方、『平家物語』では義仲の最期を正月21日の出来事として描いており、日付には史料による違いがある。

義仲は31歳だったとされる。

今井兼平の壮絶な最期

義仲の死を知った兼平も、最期の時を迎えた。

『平家物語』では、兼平は敵と戦い続けていたが、義仲がすでに討たれたことを知る。

そして太刀の切っ先を口にくわえ、馬から逆さまに飛び降りて自害したと描かれている。

壮絶な最期だった。

『吾妻鏡』の1月20日条には、兼平ら義仲方の武将が範頼・義経軍と戦ったことが記されている。

さらに1月26日条には、義仲や兼平らの首が京都の獄門前にさらされたことが記録されている。

仁平2年(1152)生まれとすれば、兼平は数え33歳だった。

後世に残った今井兼平

今井兼平の名は、木曾義仲の最期とともに後世へ伝えられた。

『平家物語』の「木曾最期」はその代表であり、義仲と兼平が打出の浜で再会し、最後には二人だけとなって戦う姿が描かれている。

さらに兼平を主人公とする能「兼平」も成立した。

近江国粟津を訪れた僧の前に兼平の霊が現れ、義仲の最期や自らの戦いを語る物語である。

兼平は義仲が信濃で挙兵したころから従い、北陸を転戦し、京都へ入り、最後には瀬田で頼朝方を迎え撃った。

そして敗走の中で義仲と再会し、粟津まで行動をともにした。

木曾義仲の栄光と敗北。

そのどちらの時にも、今井兼平の姿があった。

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