【人物編Vol.64】源行家――以仁王の令旨を運び、頼朝に追われた武将

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人物

第132回

治承4年(1180年)4月27日。伊豆国の北条館に、一人の男が現れた。

新宮十郎行家。源頼朝の叔父にあたる人物だった。

行家が携えてきたのは、後白河法皇の皇子・以仁王が諸国の源氏へ平家追討を呼びかけた令旨である。

『吾妻鏡』によれば、頼朝はその令旨を受け取ると、石清水八幡宮のある男山の方角を拝み、謹んで文書を開いたという。

行家はさらに甲斐や信濃へ向かい、各地の源氏に平家打倒を呼びかけた。

やがて頼朝や木曾義仲らが挙兵し、平家政権を揺るがす戦乱が始まった。

しかし、その令旨を届けた行家自身は、最後まで頼朝と協力することができなかった。

墨俣川で平家軍に敗れ、頼朝を頼ったものの所領を得られず、次に協力した木曾義仲とも対立した。

平家滅亡後には源義経と結び、頼朝追討の宣旨を朝廷から得るところまで進んだ。

だが、兵は集まらなかった。

西国へ逃れようとした船団も大物浦で暴風に遭い、行家は和泉国へ身を隠すことになる。

文治2年(1186年)5月12日。行家は潜伏先を発見され、頼朝方の武士によって首を斬られた。

かつて頼朝に平家追討の令旨を届けた叔父は、6年後、その頼朝の追討によって命を落としたのである。

源行家の出自――頼朝・義仲・義経の叔父

源行家は、平安時代末期に活動した河内源氏の武将である。

父は源為義。行家はその十男とされ、初めは義盛と名乗っていた。

生年は確定していない。

父の為義は河内源氏の有力武将だったが、保元元年(1156年)の保元の乱では崇徳上皇方に加わった。

しかし、戦いは後白河天皇方の勝利に終わり、為義は敗北した。

為義は後白河天皇方に味方していた息子・源義朝のもとへ出頭したが、最終的に処刑された。

この義朝が、源頼朝と源義経の父である。

また、木曾義仲の父・源義賢も為義の子だった。

つまり行家は、頼朝、義経、義仲の三人にとって父方の叔父にあたる。

行家が後に三人と関わり、それぞれとの協力や対立を繰り返すことになった背景には、こうした源氏一門の関係があった。

熊野新宮での生活

行家は保元の乱の後、紀伊国の熊野新宮へ身を寄せたと伝えられる。

熊野新宮は現在の和歌山県新宮市周辺で、熊野速玉大社を中心とする宗教的な拠点だった。

当地では熊野別当家が大きな影響力を持ち、寺社勢力だけでなく、地域の武士や海上交通とも深い関係を築いていた。

行家が「新宮十郎」と呼ばれたのは、熊野新宮に暮らしていたことに由来する。

行家の姉とされる丹鶴姫も、熊野別当家と関係の深い女性として知られている。

後に鳥居禅尼とも呼ばれ、熊野の歴史に名を残した人物である。

行家もこうした一族の関係を頼り、熊野で生活していたと考えられている。

ただし、この時期の行家について詳しい記録は少ない。

熊野でどのような暮らしをしていたのか、どれほどの武士や有力者と関係を持っていたのかは明らかではない。

現在の新宮市には行家の屋敷跡と伝わる場所もあるが、その所在地を同時代の記録から確定することは難しい。

行家が再び歴史の表舞台に現れるのは、治承4年(1180年)のことである。

以仁王の令旨――行家に託された平家追討の呼びかけ

治承3年(1179年)11月、平清盛は後白河法皇の院政を停止し、法皇を鳥羽殿に幽閉した。

治承三年の政変である。

平家は朝廷の政治を強く支配するようになったが、その一方で公家や寺社勢力の間には不満が広がっていた。

そうした情勢の中で平家打倒を計画したのが、後白河法皇の皇子・以仁王と源頼政だった。

頼政は朝廷に仕える源氏の有力武将である。

平家政権のもとで官位を得ていたが、以仁王と結んで平家追討を進めようとした。

治承4年4月、頼政らは諸国の源氏へ平家打倒を呼びかける計画を立てた。

その文書を運ぶ使者に選ばれたのが行家だった。

八条院蔵人となり、行家へ改名

『吾妻鏡』治承4年4月9日条によれば、このころ行家は八条院蔵人に補任され、それまでの義盛から行家へと名を改めた。

八条院は鳥羽天皇の皇女・暲子内親王で、広大な荘園を所有していた人物である。

その所領は各地に分布し、八条院に仕える人々は朝廷だけでなく、地方の荘園や武士とも関係を持っていた。

行家が八条院蔵人の立場を得たことは、諸国の源氏へ令旨を伝える活動とも関係していたと考えられる。

『吾妻鏡』では、源頼政が以仁王に平家追討を進言し、以仁王の令旨を受けた行家が東国へ向かったと記されている。

令旨は皇太子や親王などの命令を伝える文書である。

以仁王の令旨には、平家に抵抗しようとする源氏の武士たちに対し、皇族の権威を示す意味があった。

ただし、現在伝わる令旨の本文には史料による違いがある。

『吾妻鏡』と『平家物語』では文面が一致せず、通常の令旨とは異なる形式も見られることから、その成立や伝来については研究上の議論がある。

行家が平家追討の呼びかけを各地へ伝えたという活動と、現在残る令旨の文面が当時の原本を忠実に伝えているかどうかは、分けて考える必要がある。

源頼朝へ令旨を届ける

『吾妻鏡』によれば、治承4年4月27日、行家は伊豆国の北条館を訪れた。

頼朝は平治の乱の後、伊豆国へ流されていた。

父の義朝が敗死してから、頼朝は長年にわたって流人として暮らしていたのである。

そこへ行家が以仁王の令旨を持参した。

『吾妻鏡』は、頼朝が水干を身につけ、まず石清水八幡宮のある男山の方角を拝んだと記している。

そして謹んで令旨を開き、その内容を確かめたという。

石清水八幡宮は源氏と関係の深い神社であり、源氏一門にとって重要な信仰の対象だった。

頼朝はその後、北条時政を呼び、令旨を見せたとされる。

時政は頼朝の妻・北条政子の父であり、頼朝の挙兵を支えることになる人物である。

ただし、これらの細かな動作や会話は、後世に編纂された『吾妻鏡』の記述による。

令旨を受け取った頼朝が、どのような言葉を口にしたかまでは確認できない。

また、頼朝が令旨の到着直後に兵を挙げたわけでもなかった。

頼朝が伊豆で平家方に攻撃を開始するのは、同年8月のことである。

その間には関東の武士たちとの調整や、京都の情勢を見極める時間があった。

頼朝の挙兵には、流人としての立場、平家方との緊張、関東武士の動向など、複数の事情が関わっていた。

それでも、以仁王の令旨は挙兵を正当化する根拠の一つとなった。

甲斐・信濃へ向かった行家

頼朝に令旨を届けた行家は、伊豆にとどまらなかった。

『吾妻鏡』によれば、行家は続いて甲斐国と信濃国の源氏へ令旨を伝えるため、さらに東へ向かった。

甲斐国には武田信義ら甲斐源氏の一族がいた。

信濃国には木曾義仲をはじめとする源氏の勢力が存在していた。

行家は、各地に拠点を持つ源氏一門に平家追討への参加を呼びかけたのである。

『平家物語』では、行家が山伏姿に身を変えて諸国を巡ったと語られる。

ただし、その装束や具体的な巡回経路については、軍記物語と『吾妻鏡』の記述に違いがある。

行家が各地の源氏へ平家追討を呼びかけたことは知られているが、すべての訪問先や日付を確定できるわけではない。

以仁王と源頼政の敗死

以仁王と源頼政の計画は、準備が整う前に平家方へ知られることになった。

『平家物語』では、熊野別当の湛増が行家の動きを不審に思い、平家方へ知らせたと語られる。

ただし、計画が発覚した具体的な経緯には史料による違いがある。

以仁王は京都を離れ、園城寺へ逃れた。

源頼政も以仁王に加わり、平家軍に抵抗した。

しかし治承4年5月、宇治川付近での戦いに敗れ、頼政は平等院で自害したと伝えられる。

以仁王も南山城へ逃れる途中で討たれた。

平家追討を呼びかけた中心人物は、大きな軍勢を集める前に命を落としたのである。

一方、行家はすでに東国へ向かっていた。

以仁王と頼政が敗れた後も、各地では反平家の動きが続いた。

頼朝は伊豆で挙兵し、甲斐源氏も兵を挙げた。

木曾義仲も信濃国で勢力を広げていく。

こうした動きには、それぞれの土地の事情が関わっていたが、以仁王の令旨も反平家勢力を結びつける役割を果たした。

そして行家自身も、令旨を伝える使者から軍勢を率いる武将へと活動を広げていく。

墨俣川の戦い――源義円を失った敗北

治承5年(1181年)3月、行家は美濃国の墨俣川付近で平家軍と戦った。

墨俣川の戦いである。

なお、同年7月に養和へ改元されたため、1181年全体を養和元年と表記する資料もあるが、合戦当時の元号は治承だった。

行家は尾張国や三河国の武士たちを集め、平家軍に対抗しようとしていた。

平家側では、平重衡を中心とする軍勢が東国へ向かっていた。

重衡は平清盛の子であり、前年の南都焼討でも軍勢を率いた人物である。

さらに平維盛、平通盛、平忠度らも参加したと伝えられている。

行家方には源義円が加わっていた。

義円は源義朝と常盤御前の子で、源頼朝の異母弟、源義経の同母兄にあたる。

それまでは僧として暮らしていたが、平家との戦いに参加した。

墨俣川での夜襲

『吾妻鏡』治承5年3月10日条によれば、行家と平家軍は墨俣川を挟んで陣を構えていた。

行家は夜のうちに川を渡り、平家軍を奇襲しようと考えたという。

しかし、平重衡の従者が馬を洗うため川辺へ出た際、源氏方の動きを発見した。

その知らせを受けた平家軍は、行家方が本格的に動く前に攻撃を仕掛けた。

源氏方の軍勢は不意を突かれ、混乱したと記されている。

この戦いで源義円は討死した。

『吾妻鏡』では、義円は平家方の武士・高橋盛綱に討ち取られたとされる。

行家の子である蔵人次郎も捕らえられたという。

また、泉太郎重光ら尾張源氏の武士も戦死した。

『吾妻鏡』には源氏方の損害を六百九十余人とする記述があるが、実際の人数をそのまま示すものかどうかは慎重に考える必要がある。

一方、『平家物語』では、義円が先陣を争って川を渡り、敵陣へ攻め込んだという場面が語られる。

戦いの経過や武将の行動には、軍記物語と『吾妻鏡』で違いが見られる。

それでも、行家方が敗北し、義円が命を落としたことは共通している。

矢作川方面への敗走

墨俣川で敗れた行家は、東へ退いた。

『平家物語』では、三河国の矢作川付近でも平家軍との戦いが続き、行家方はさらに敗れたと語られる。

行家は兵を集めて平家に対抗したものの、軍勢を維持することができなかった。

以仁王の令旨を運んだ行家には、源氏一門としての立場と知名度があった。

しかし、自ら率いた軍勢で平家軍を破ることはできなかった。

この敗北の後、行家は鎌倉の頼朝を頼ることになる。

ところが、そこで新たな対立が生まれた。

頼朝との不和――認められなかった所領の要求

墨俣川で敗れた行家は、鎌倉の源頼朝のもとへ向かった。

頼朝は関東の武士たちを従え、独自の軍事的な基盤を築きつつあった。

行家は頼朝に所領を求めたが、認められなかったと伝えられる。

富田林市史にも、行家が頼朝のもとへ参向し、所領の宛行いを要請したものの拒まれ、両者が不和となったことが記されている。

行家は頼朝の叔父であり、かつて以仁王の令旨を届けた人物でもある。

しかし、頼朝は行家の要求を認めなかった。

行家が具体的にどの土地を求めたのか、頼朝がどのような理由で拒否したのかについては、分からない部分も多い。

頼朝は関東の武士たちとの主従関係を基盤に、所領の支配を認めることで勢力を拡大していた。

一方の行家は、頼朝よりも上の世代に属する源氏の武将であり、自ら軍勢を率いて活動していた。

所領をめぐる対立には、そうした両者の立場の違いも関わっていた可能性がある。

頼朝との関係を修復できなかった行家は、鎌倉を離れた。

次に頼ったのが木曾義仲だった。

木曾義仲と結び、京都を目指す

木曾義仲は、行家の兄・源義賢の子である。

父を失った後、信濃国へ逃れ、中原兼遠の庇護を受けて成長したと伝えられる。

治承4年に挙兵した義仲は、信濃の武士たちをまとめながら勢力を拡大していた。

行家はこの義仲の陣営に加わった。

当時、義仲と頼朝の関係にも緊張が生じていた。

義仲が頼朝と敵対する志田義広らを受け入れたことなどが問題となり、両者は軍事衝突の危機を迎えていた。

寿永2年(1183年)、義仲は息子の義高を頼朝の娘・大姫の許嫁として鎌倉へ送った。

頼朝との関係を調整するためだった。

一方、義仲は北陸方面への進軍を進めていた。

同年5月、倶利伽羅峠の戦いで平維盛らの率いる平家軍を破る。

続く篠原の戦いでも勝利し、京都への進軍を続けた。

平家一門は安徳天皇と三種の神器を伴って都を離れ、義仲らは京都へ入った。

行家も義仲とともに入京を果たした。

後白河法皇への拝謁

『信濃史料』によれば、寿永2年7月28日、義仲と行家は京都へ入り、後白河法皇に拝謁した。

そして平家追討の命令を受けた。

墨俣川で敗れてから約2年。

行家は今度こそ京都への入京を果たしたのである。

ただし、北陸で平家軍を破り、京都進出の中心となったのは義仲だった。

行家が入京までの戦いでどのような軍功を挙げたのかについては、具体的な記録が限られている。

この軍功の違いは、後に朝廷から与えられる官職にも反映された。

備後守から備前守へ――恩賞に不満を示した行家

寿永2年8月、義仲と行家には朝廷から官位が与えられた。

『信濃史料』では、8月10日に義仲が従五位下・左馬頭兼越後守、行家が従五位下・備後守に任じられたと整理している。

その後、義仲は伊予守、行家は備前守へ変更された。

ただし、任官の日付や順序については史料によって記述に違いがある。

行家は平家追討に関わった功績によって、朝廷から正式な官職を与えられたのである。

しかし、行家は恩賞に満足しなかった。

九条兼実の日記『玉葉』には、行家が義仲との待遇の差に不満を示したことが記されている。

行家は義仲よりも上の世代に属し、以仁王の令旨を諸国へ運んだ人物だった。

一方、義仲は実際に北陸の平家軍を破り、京都進出を果たしていた。

朝廷はその軍功を評価していた。

『玉葉』には、行家が恩賞への不満から閉門し、出仕を拒んだという記述もある。

行家が自分の立場をどのように考えていたのか、その内心までは分からない。

ただ、官位の差に強い不満を抱いていたことは、当時の記録からうかがえる。

義仲との関係も、次第に悪化していった。

『玉葉』が伝える行家と義仲の対立

京都へ入った義仲の立場は、しだいに苦しくなっていた。

飢饉の影響が残る都では食糧の確保が難しく、義仲軍の兵士による乱暴狼藉も問題となった。

後白河法皇との関係も悪化し、西国では平家が勢力を回復し始めていた。

このころ、行家と義仲の間にも対立が生じた。

その具体的な様子が、九条兼実の『玉葉』寿永2年閏10月27日条に記されている。

その日、兼実のもとを訪れたのは河内国の武士・石川義兼だった。

義兼は南河内に勢力を持つ武士で、行家に協力していた人物である。

石川義兼は、行家の西国出兵について報告するとともに、行家と義仲の不和を伝えた。

両者が対立していた理由の一つは、頼朝への対応だった。

義仲は頼朝との協調を模索していた。

しかし、行家は頼朝のもとへ行くことを強く拒んでいたという。

行家はかつて所領をめぐって頼朝と不和になり、鎌倉を離れた人物だった。

そのため、義仲が頼朝との関係を改善しようとすることは、行家自身の立場にも関わる問題だった。

『平家物語』では、行家が後白河法皇に義仲の悪口を伝えたことが、対立の原因として語られる。

しかし、そうした逸話の細部を史実として確認することは難しい。

『玉葉』からは、少なくとも頼朝への対応をめぐって、行家と義仲の考えが異なっていたことが確認できる。

やがて行家は義仲の軍勢を離れ、独自に西国へ出兵した。

室山の戦い――再び平家軍に敗れる

寿永2年11月、行家は平家追討のため京都を出発した。

『玉葉』には、このとき行家の軍勢が二百七十余騎だったと伝えられている。

一方、『平家物語』では五百騎ほどとされる。

兵数には違いがあるものの、平家軍と比べて小規模な軍勢だったという。

行家は石川義兼らとともに西国へ向かった。

このころ平家は、平知盛や平重衡らの軍勢を播磨国の室山付近に配置していた。

行家はその軍勢へ攻撃を仕掛けた。

しかし、平家軍の反撃を受けて敗北した。

室山の戦いである。

『平家物語』では、行家方が小勢で平家の大軍に戦いを挑み、敗走したと描かれている。

軍勢の規模や陣形などには軍記物語による誇張が含まれる可能性があるが、行家が室山で敗れたことは知られている。

行家は播磨国高砂方面へ退き、そこから船で和泉国へ渡ったという。

さらに河内国へ移り、長野城に入ったとされる。

墨俣川に続く大敗だった。

しかし、行家はこの敗北によって活動を終えたわけではなかった。

河内国長野城を拠点に、独自の勢力を築こうとしたのである。

河内国長野城――行家が築こうとした独自の勢力

長野城は、現在の大阪府河内長野市周辺にあったと伝えられる中世の城である。

正確な所在地や城の構造については、不明な点も残る。

行家がこの地を拠点にできた背景には、河内国の武士・石川義兼の存在があった。

石川義兼は南河内に勢力を持っていた石川一族の武士で、行家の西国出兵にも参加していた。

富田林市史では、長野城は石川義兼の本拠、またはその勢力圏内にあった可能性が指摘されている。

行家は石川一族との協力を通じて、河内から和泉方面に一定の影響力を持つようになった。

和泉国の農民の訴えを裁いた行家

行家の河内での活動を考えるうえで、重要な記録がある。

久米田寺文書に残された、後年の文書である。

富田林市史によれば、行家は和泉国八木郷など三つの郷の農民から寄せられた訴えに対し、国司に代わって裁決を与えていた。

行家は長野城で兵を集めるだけでなく、地域の訴訟にも関わっていたのである。

富田林市史では、この時期の行家について、頼朝派でも義仲派でもない、源氏第三の勢力を目指していたと評価している。

行家自身が「第三の勢力」を名乗った記録があるわけではない。

しかし、頼朝や義仲の直接的な支配に加わらず、石川一族と協力して地域の軍事・行政に関わっていたことは重要である。

墨俣川や室山で敗れた行家にも、各地の武士との関係を利用して勢力を立て直そうとする動きがあった。

ただ、その活動は義仲との対立をさらに深めた。

樋口兼光の出兵――行家を討とうとした義仲

寿永3年(1184年)1月、義仲は京都で追い込まれていた。

頼朝が送り込んだ源範頼・源義経の軍勢が、京都へ迫っていたのである。

義仲は宇治川や勢多方面に兵を配置し、敵軍の進入を防ごうとした。

しかし、その一方で河内国の行家方にも対応しようとした。

そこで派遣されたのが、重臣の樋口兼光だった。

兼光は今井兼平の兄であり、義仲軍の有力武将の一人だった。

『平家物語』によれば、兼光は五百余騎を率いて行家を討つため、河内国長野城へ向かった。

一方、『吾妻鏡』では、討伐対象を石川判官代としている。

この石川判官代は、石川義兼の叔父にあたる石川義資と考えられている。

討伐対象の記述には違いがあるが、行家と石川一族が河内で協力していたことは共通する事情である。

行家は紀伊国へ脱出

富田林市史では、兼光の河内出兵を寿永3年1月19日の出来事として整理している。

しかし、兼光が河内へ到着したとき、行家や石川義兼はすでに紀伊国へ逃れていたという。

紀見峠を越え、追撃を避けたとされる。

兼光は行家を捕らえられず、京都方面へ引き返すことになった。

その翌日、源範頼・源義経の軍勢が京都へ攻め込んだ。

義仲軍は宇治川と勢多の戦いで敗れ、義仲は近江国粟津で討死した。

兼光も帰還途中で主君と弟の今井兼平の死を知り、最終的には頼朝方に捕らえられて処刑された。

義仲は京都への攻撃が迫る状況で、行家方を討つため有力武将を別方面へ派遣していた。

富田林市史も、行家と石川一族の存在が義仲軍の戦力分散につながったと指摘している。

義仲の敗北には政治的な孤立や軍事的な劣勢など複数の要因があったが、行家との対立もその苦境を深める事情の一つだった。

行家と義仲は、ともに平家を都から退けた源氏の武将だった。

しかし、最後には互いに兵を向ける関係となったのである。

義仲の死後も生き延びた行家

義仲が討死した後、頼朝方は京都での影響力を強めた。

一方、行家は義仲による討伐を逃れて生き延びた。

その後の行家の足取りについては、詳しく確認できる記録が限られている。

しかし、頼朝の支配に加わらず、独自の活動を続けていたことは分かっている。

その間、平家との戦いは大きく進展した。

元暦元年(1184年)、義経らは一ノ谷の戦いで平家軍を破った。

翌元暦2年(1185年)には屋島、壇ノ浦で平家軍に勝利を収めた。

3月24日の壇ノ浦の戦いで平家一門は敗北し、安徳天皇も入水した。

平家が滅亡すると、今度は頼朝と義経の関係が悪化していく。

そして行家も、再び源氏内部の争いに関わることになった。

源義経と結ぶ――頼朝への抵抗

源義経は平家追討で大きな軍功を挙げた。

しかし、兄の頼朝との関係は次第に悪化した。

義経が朝廷から官職を受けたことや、京都で後白河法皇と独自の関係を築いていたことなどが問題となった。

さらに、軍事指揮や所領の支配をめぐる対立も重なった。

義経は壇ノ浦で捕らえた平宗盛らを連れて鎌倉へ向かったが、頼朝は鎌倉入りを認めなかった。

義経は相模国腰越から京都へ戻ることになる。

一方、行家も頼朝との関係を改善できていなかった。

文治元年(1185年)8月には、頼朝が行家の反抗を問題とし、追討を命じる動きがあったとされる。

このころから行家と義経の行動が重なり始める。

義経は当初、行家を制止しようとしていた

『玉葉』文治元年10月17日条には、行家と義経が協力するまでの経緯が記されている。

それによれば、義経は当初、頼朝に反抗しようとする行家を制止しようとしていた。

しかし、行家が応じなかったため、義経自身も行家に協力することを決めたという。

義経は頼朝への不満を抱えていた。

平家追討で功績を挙げたにもかかわらず、所領を取り上げられ、さらに命を狙われていると訴えていたのである。

義経にとって、頼朝との関係を修復することは難しくなっていた。

一方の行家も、長年にわたって頼朝の支配に従わず、独自の活動を続けてきた。

二人は叔父と甥の関係にあり、頼朝に対抗するという目的で結びつくことになった。

土佐坊昌俊による義経襲撃

文治元年10月17日、頼朝の命を受けたとされる土佐坊昌俊が、京都の義経の屋敷を襲撃した。

『吾妻鏡』によれば、昌俊は夜に義経の六条室町の屋敷を攻撃した。

しかし、義経方は抵抗し、襲撃は失敗した。

この戦いでは、行家も義経に加勢している。

『吾妻鏡』には、行家が後方から駆けつけ、義経方とともに昌俊の軍勢を攻撃したと記されている。

『玉葉』にも、行家が義経のもとへ駆けつけ、襲撃に加わった武士たちを退けたという情報が見られる。

行家と義経の協力関係は、この段階ですでに軍事行動へ発展していた。

二人はさらに、頼朝追討の命令を朝廷から得ようとする。

頼朝追討の宣旨――行家と義経が得た朝廷の命令

文治元年(1185年)10月18日、行家と義経に対して頼朝追討の宣旨が下された。

『玉葉』には、その文書の内容が記されている。

宣旨では、頼朝が武力を誇って朝廷の命令を軽んじていると非難し、前備前守の源行家と左衛門少尉の源義経らに頼朝の追討を命じている。

ここで重要なのは、行家と義経の二人が追討の実行者として名指しされていることである。

一般向けの歴史解説では、この出来事を「頼朝追討の院宣」と表現することもある。

しかし、『玉葉』に収められた10月18日付の文書は「宣旨」である。

院宣が上皇・法皇の意思を伝える文書であるのに対し、宣旨は天皇の命令を伝える文書である。

今回の追討命令は、後白河法皇の意向を背景に、宣旨の形式で出されたものだった。

朝廷はなぜ頼朝追討を認めたのか

『玉葉』によれば、朝廷内部では義経の要求を認めるべきか議論が行われた。

頼朝に追討を命じるほどの罪があるのかという疑問も示された。

しかし、当時の京都には義経の軍勢が存在していた。

もし義経の要求を拒み、武力による混乱が起これば、朝廷はそれを抑えることが難しかった。

そうした状況から、まず宣旨を出し、その後に頼朝へ事情を伝えるという方針が取られたと『玉葉』は記している。

朝廷が頼朝と義経のどちらを支持するかという問題には、軍事的な力関係も大きく影響していたのである。

兵を集められなかった行家と義経

宣旨を得た行家と義経は、諸国の武士たちへ協力を求めた。

しかし、思うように兵が集まらなかった。

『玉葉』には、近江国の武士たちが義経方に加わろうとしなかったことなどが記されている。

頼朝はすでに関東を中心に強固な軍事基盤を築いていた。

一方、行家は墨俣川や室山で敗れており、義経も平家追討の軍功こそあったものの、頼朝に対抗できるだけの独立した軍事力を持っていたわけではなかった。

二人は朝廷の命令を得たが、それを実行する軍勢を十分に集められなかったのである。

九州と四国を拠点にする計画

行家と義経は、京都での挙兵が難しくなるなか、西国へ移って再起を図ろうとした。

『吾妻鏡』には、義経を九州、行家を四国の地頭とする権限が与えられたという記述がある。

この時期の地頭という語は、後に制度化された地頭職と同じ内容を指しているとは限らない。

それでも、二人が西国で軍事的な権限を得て、頼朝に対抗する勢力を築こうとしていたことがうかがえる。

義経は平家追討で西国を転戦しており、行家もかつて播磨から河内・和泉方面で活動していた。

二人には西国との関わりがあった。

しかし、京都で兵を集められなかった二人が、西国でどれほどの軍勢を組織できたのかは明らかではない。

その計画を実行する前に、行家と義経は大きな失敗に見舞われることになる。

大物浦の難破――西国へ渡れなかった二人

文治元年11月、行家と義経は京都を離れた。

『吾妻鏡』には11月3日に二人が都を出たという報告が記されている。

その後、一行は摂津国の大物浦へ向かった。

大物浦は現在の兵庫県尼崎市周辺にあたり、瀬戸内海の航路へ通じる港だった。

行家と義経はここから船に乗り、西国へ渡ろうとした。

『玉葉』11月8日条によれば、二人は11月5日夜に乗船し、大物付近に滞在していたという。

しかし、その夜半から激しい風が吹き始めた。

船団は暴風に遭い、多くの船が破損・沈没したと伝えられている。

『玉葉』には、船が一艘も無事ではなかったという情報も記されている。

一方、義経と行家は小舟で和泉方面へ逃れたとも伝えられていた。

その後の正確な逃走経路には不明な点が残る。

ただし、二人が西国へ渡って軍勢を集める計画に失敗したことは明らかである。

『船弁慶』に描かれた怨霊との戦い

大物浦の難破は、後世の物語でも有名な場面となった。

『義経記』や能『船弁慶』では、義経一行の前に平家の怨霊が現れ、海上で襲いかかる。

武蔵坊弁慶が祈祷を行い、怨霊を退けるという展開も知られている。

しかし、これらは後世の文学作品に描かれた物語である。

『玉葉』には、暴風による難破の情報が記されている。

怨霊が船を襲ったという話と、実際に強風で船団が損害を受けたという出来事は区別する必要がある。

行家と義経は生き延びたものの、軍勢は散り散りになった。

二人はその後、別々に身を隠すことになる。

行家と義経の追討が頼朝にもたらしたもの

行家と義経が京都を離れた後、頼朝は朝廷に対して二人の追討を要求した。

後白河法皇も、頼朝追討から行家・義経追討へと方針を転換した。

頼朝は北条時政を京都へ派遣し、朝廷との交渉を進めた。

その結果、頼朝は行家や義経を追捕することなどを理由に、諸国への軍事的な権限を拡大していく。

文治の守護・地頭設置

文治元年11月、朝廷は頼朝による諸国への武士の配置や、一定の兵粮米の徴収を認めた。

一般に文治の守護・地頭設置と呼ばれる出来事である。

ただし、この時点で全国一律の守護・地頭制度が完成したわけではない。

頼朝はそれ以前から各地の所領に地頭を置いており、文治元年の措置によって認められた権限の具体的な範囲についても、研究上の議論がある。

それでも、行家と義経の追討が、頼朝の政治的・軍事的な権限を拡大する契機の一つとなったことは重要である。

行家は1180年、平家追討の令旨を諸国へ伝える役割を担った。

その5年後には、自らが追討の対象となり、頼朝方の武士たちに捜索される身となったのである。

和泉国に潜伏した源行家

大物浦での難破後、行家は和泉国へ逃れた。

その潜伏先として知られるのが、和泉国日根郡の小木郷である。

近木郷・近義郷とも表記され、現在の大阪府貝塚市周辺にあたる。

行家は、この地域の在庁官人である日向権守清実のもとに身を寄せていたという。

在庁官人とは、地方の役所で行政実務を担っていた人々である。

『吾妻鏡』には、行家が清実の屋敷に潜伏していたことが記されている。

行家はかつて河内国長野城を拠点とし、南河内から和泉方面で活動していた。

そのため、この地域にも関係を持つ人々がいたと考えられる。

ただし、清実と行家がいつから知り合い、どのような関係にあったのかは明らかではない。

行家は和泉国で身を隠しながら、頼朝方の追討を逃れようとしていた。

しかし、その居場所はついに発覚することになる。

文治2年5月12日――小木郷で発見された行家

文治2年(1186年)5月12日、行家は和泉国の潜伏先を発見された。

『吾妻鏡』5月25日条には、追捕の経緯が詳しく記されている。

行家が和泉や河内の周辺を移動しているという噂が流れ、頼朝方は捜索を続けていた。

やがて、行家が日向権守清実のもとにいるという情報を得た。

追捕に向かったのは北条時定と常陸房昌明らだった。

北条時定は北条時政の一族に属する武士で、当時の京都周辺における頼朝方の活動に関わっていた。

常陸房昌明も、行家の追捕に参加した人物として記録されている。

裏山へ逃げた行家

『吾妻鏡』によれば、時定らは清実の小木郷の屋敷を包囲した。

しかし、行家は包囲を知ると、屋敷の裏山へ逃れたという。

そして近くの民家へ入り、二階に身を隠した。

追手はその居場所を突き止めた。

北条時定が背後から迫り、常陸房昌明が正面から進んだ。

行家に従っていた一、二人の武士が抵抗したものの、昌明らは行家を捕らえたと記されている。

行家が具体的にどのような抵抗をしたのかについては、軍記物語に詳しい描写がある。

しかし、そうした戦闘の細部を史実として確定することは難しい。

『吾妻鏡』から確認できるのは、行家が清実の屋敷から逃れ、民家で追手に捕らえられたという経緯である。

源行家の最期――頼朝方による斬首

行家は捕らえられた後、命を落とした。

『吾妻鏡』5月25日条によれば、行家を捕らえた昌明らに北条時定が加わり、その場で首を斬ったという。

この記述に従えば、行家は文治2年5月12日、和泉国小木郷付近で斬首されたことになる。

一方、山城国赤井河原で処刑されたとする説明も伝わっている。

赤井河原は現在の京都市伏見区淀付近にあたる。

ただし、『吾妻鏡』の記事では、行家は和泉国で捕らえられ、その場所で首を斬られたと読める。

行家の最期を赤井河原とする伝承については、史料による記述の違いを考慮する必要がある。

息子・源光家の処刑

『吾妻鏡』には、行家の子である源光家も処刑されたことが記されている。

ただし、父子が同じ日に処刑されたわけではない。

行家が斬られた翌日の5月13日、光家も殺害されたという。

光家は行家の長男であり、かつて朝廷の官職にも就いていた。

『吾妻鏡』の記録によれば、光家は寿永2年(1183年)に蔵人となり、左衛門権少尉にも任じられていた。

父の行家が頼朝方から追われたことで、光家も処刑されることになったのである。

行家の子には行頼という人物も知られるが、その具体的な処遇については史料を慎重に確認する必要がある。

少なくとも『吾妻鏡』5月25日条から確認できるのは、5月12日に行家、翌13日に光家が処刑されたということである。

行家の首は京都から鎌倉へ

行家が捕らえられたという知らせは、京都にも伝わった。

『玉葉』5月15日条には、九条兼実が和泉国で行家が捕らえられたという報告を受けたことが記されている。

兼実はその知らせを聞き、天下の運がまだ尽きていないと記した。

頼朝に反抗していた行家が捕らえられたことは、朝廷側にも大きな意味を持っていたのである。

翌16日には、行家の首が京都へ運ばれたという記録がある。

その後、首は関東へ送られた。

『吾妻鏡』5月25日条には、行家の首が鎌倉へ届けられたことが記されている。

頼朝方は首を確認し、追討が成功したことを知った。

以仁王の令旨を頼朝へ届けた行家の生涯は、ここで終わったのである。

なぜ行家は頼朝や義仲と対立したのか

行家の生涯をたどると、協力相手が何度も変わっている。

初めは以仁王の令旨を運び、頼朝らの挙兵を促した。

その後、墨俣川で敗れると頼朝を頼ったが、所領を得られずに離れた。

次に義仲と協力して京都へ入ったものの、恩賞や頼朝への対応をめぐって対立した。

さらに河内では石川一族と結び、独自の勢力を築こうとした。

最後には義経とともに頼朝へ反抗し、追討されることになった。

こうした行動から、行家は後世、野心が強く、対立を繰り返す人物として描かれることが多い。

しかし、当時の政治情勢や行家の立場を考えると、協力相手が変わった事情も見えてくる。

源氏一門の年長者としての立場

行家は源為義の子であり、頼朝、義仲、義経の叔父だった。

源氏一門の中では、頼朝や義仲より上の世代に属していた。

しかし、平家との戦いで大きな軍功を挙げ、武士たちを従えていたのは頼朝や義仲だった。

頼朝は関東で軍事基盤を築き、義仲は北陸の平家軍を破って京都へ進出した。

一方の行家は、墨俣川や室山で敗れ、強固な軍事的基盤を築くことができなかった。

一族の中での血縁上の立場と、実際の軍事的な実力には差が生じていたのである。

行家が頼朝に所領を求め、義仲との官位の差に不満を示したことも、そうした状況と関係していたと考えられる。

地域の武士たちとの関係

行家は大規模な合戦で勝利を重ねることはできなかったが、各地の有力者との関係を持っていた。

熊野新宮での一族とのつながり、河内国の石川一族との協力、和泉国での潜伏を支えた在庁官人との関係などが、その例である。

特に長野城を拠点とした活動は、行家が独自の勢力を築こうとしていたことを示している。

室山で敗れた後も、行家は河内・和泉方面で訴訟への裁決を行い、地域の支配に関わっていた。

軍事的な敗北を重ねながらも、各地の武士とのつながりを利用して活動を続けていたのである。

頼朝の支配に加わらなかった行家

頼朝は関東の武士たちとの主従関係を基盤に、所領の安堵や軍功への恩賞を通じて勢力を拡大していた。

その支配が広がるにつれ、頼朝の指揮に従わず独自に活動する源氏一門の存在は、次第に問題となっていった。

義仲も頼朝と対立し、最後には頼朝方の軍勢によって討たれた。

義経も平家追討で軍功を挙げながら、頼朝との関係が悪化し、追われることになった。

行家も頼朝の指揮下に入ることを拒み、独自に活動を続けた人物だった。

最後には義経と結び、頼朝追討の宣旨を得た。

頼朝にとって行家は、血縁上の叔父でありながら、自らの支配に従わず武力で対抗しようとする存在となったのである。

以仁王の令旨を運んだ男が残したもの

行家は自らの軍勢で平家を滅ぼすことはできなかった。

墨俣川と室山で敗れ、頼朝や義仲との関係も悪化した。

河内では独自の勢力を築こうとしたが、義仲の軍勢に追われることになった。

最後には義経と協力して頼朝に対抗したものの、西国への渡航に失敗し、和泉国で命を落とした。

しかし、治承4年に以仁王の令旨を伝えたことは、源平合戦の歴史において重要な意味を持っている。

行家は令旨を頼朝に届け、さらに甲斐や信濃の源氏へ平家追討を呼びかけた。

以仁王と源頼政は挙兵に失敗したが、各地では反平家の動きが広がっていった。

頼朝や義仲が挙兵した背景には、それぞれの地域の事情があったものの、以仁王の令旨も反平家の軍事行動を正当化する根拠の一つとなった。

行家はその文書を伝える役割を担ったのである。

一方、その後の行家の活動は、源氏一門が必ずしも同じ目的で結びついていたわけではなかったことを示している。

平家という共通の敵が存在した時期にも、源氏の内部では所領や官位、軍事的な指揮権をめぐって対立が起きていた。

行家は頼朝と不和になり、義仲とも対立した。

平家滅亡後には義経と結んで頼朝追討を求めた。

源氏が平家を倒した後も、争いが続いたことを行家の生涯は伝えている。

源行家の最期

治承4年4月、行家は以仁王の令旨を携えて伊豆国の頼朝を訪ねた。

その後、頼朝や義仲らが挙兵し、平家政権との戦いが始まった。

行家自身も兵を率いたが、墨俣川では平家軍に敗れた。

頼朝に所領を求めて拒まれると、木曾義仲の陣営に加わった。

義仲とともに京都へ入ったものの、恩賞や頼朝への対応をめぐって対立し、独自に西国へ出兵した。

室山での敗北後は河内国長野城に入り、石川一族の協力を得て活動を続けた。

義仲が討死した後も行家は生き延び、平家滅亡後には頼朝と対立した義経に協力した。

文治元年10月、二人は頼朝追討の宣旨を得た。

しかし、兵は集まらなかった。

西国へ渡ろうとした船団も暴風で難破し、行家と義経は逃亡することになった。

行家は和泉国の小木郷へ身を隠したが、文治2年5月12日、北条時定や常陸房昌明らに発見され、首を斬られた。

翌日には息子の光家も処刑されたと『吾妻鏡』は記している。

行家が令旨を届けた1180年、頼朝はまだ伊豆の流人だった。

しかし、行家が命を落とした1186年には、頼朝は関東から西国へと軍事的な影響力を広げていた。

行家が諸国へ伝えた平家追討の呼びかけは、源氏の挙兵と、その後の武家政権形成につながる出来事の一つとなった。

その行家自身は、頼朝のもとにとどまることなく、最後まで独自の勢力を築こうとした。

1180年に頼朝へ令旨を届けた叔父は、1186年、頼朝方の追討によって生涯を終えた。

行家の首が鎌倉へ届けられたのは、かつて自らが令旨を運んだ北条館での出来事から、6年と1か月ほど後のことだった。


主な参考史料・参考資料

基本史料

  • 『吾妻鏡』治承4年4月9日・27日条、治承5年3月10日条、寿永2年・3年、文治元年10月・11月、文治2年5月25日条
  • 九条兼実『玉葉』寿永2年閏10月27日条、文治元年10月17日・18日・19日条、同年11月、文治2年5月15日・16日条
  • 『平家物語』巻四「源氏揃」、巻六「墨俣川」、巻八「室山」、巻九「樋口被討罰」など
  • 『源平盛衰記』関連諸段
  • 『愚管抄』
  • 久米田寺文書

研究・解説資料

  • 長野県立歴史館『信濃史料』第三巻
  • 富田林市史 第二巻「石川義兼と長野城」「没官所と地頭」
  • 貝塚市史 第一巻「源行家の死」
  • 国立公文書館「平家物語――妖しくも美しき――」
  • 『日本大百科全書』「源行家」
  • 『改訂新版 世界大百科事典』「源行家」
  • 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』「源行家」
  • 福井県史 通史編2 中世
  • 新村衣里子「源平とその周辺 第17回 墨俣川の合戦―行家敗走、義円死す」

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