第125回
1183年11月、木曾義仲は後白河法皇の院御所・法住寺殿を攻撃した。
平家を京都から退かせた義仲は、なぜ朝廷へ武力を向けたのか。
源頼朝との対立、寿永二年十月宣旨、法住寺合戦の激戦、後白河法皇の拘束まで詳しく解説する。
寿永2年(1183)11月19日、京都。
木曾義仲の軍勢が、後白河法皇の院御所・法住寺殿へ向かった。
現在の三十三間堂周辺に広がっていた法住寺殿には、後白河法皇と後鳥羽天皇をはじめ、皇族、公卿、高僧、武士たちが集まっていた。
御所の周囲では堀を掘るなど防備が進められ、義仲との武力衝突に備えている。
義仲が京都へ入ったのは、わずか4か月前の7月28日だった。
倶利伽羅峠や篠原で平家軍を破り、平家を京都から退かせた義仲は、後白河法皇から平家追討を命じられた武将である。
その義仲が、今度は法皇の御所へ軍勢を差し向けた。
戦闘が始まると法住寺殿は炎に包まれ、院方では後白河法皇の皇子や天台座主を含む多数の死者が出た。
後白河法皇も義仲の手中に入り、京都の政治は義仲の軍事力によって大きく塗り替えられていく。
木曾義仲の権力が頂点に達し、その後の破滅へつながった法住寺合戦である。
平家を京都から退かせた木曾義仲
寿永2年5月、木曾義仲は北陸へ進出した平家軍を倶利伽羅峠で破った。
続く篠原の戦いでも平家軍を退けると、義仲は北陸道から近江へ進み、京都へ迫った。
7月25日、平宗盛を中心とする平家一門は安徳天皇と三種の神器を伴って京都を離れ、西国へ向かう。
3日後の7月28日、義仲と源行家が京都へ入った。
後白河法皇は義仲らに平家追討を命じ、京都の治安維持にも当たらせた。
信濃で挙兵した義仲は北陸道を制圧し、京都の軍事を左右する位置まで駆け上がった。
ところが、京都へ入った義仲は後白河法皇との政治的な駆け引きに直面することになる。
皇位継承をめぐって後白河法皇と対立する
平家が去った京都では、養和の飢饉から続く食糧不足が深刻だった。
多数の軍勢が京都へ入ったことで兵糧や馬の飼料を確保する必要も生じ、義仲配下の武士による食糧の徴発が問題となった。
京都の統治をめぐり、後白河法皇と義仲の間には早くも緊張が生まれていく。
さらに両者の意向がぶつかったのが皇位継承だった。
平家は安徳天皇と三種の神器を西国へ伴っている。
京都では新たな天皇を立てる動きが進み、義仲は以仁王の遺児である北陸宮を候補として推した。
後白河法皇が選んだのは、高倉天皇の皇子・尊成親王だった。
8月20日、尊成親王が後鳥羽天皇として践祚する。
西国には安徳天皇が在位しており、京都では三種の神器がそろわないまま後鳥羽天皇が践祚するという異例の状況となった。
北陸宮を推した義仲の意向も採用されなかった。
京都へ入って1か月も経たないうちに、義仲と後白河法皇の関係には亀裂が生じていた。
寿永二年十月宣旨――源頼朝が義仲へ迫る
義仲にとって、後白河法皇以上に大きな脅威となりつつあったのが鎌倉の源頼朝だった。
寿永2年10月、朝廷は東海・東山両道の荘園・国衙領について、本来の領主への年貢納入を回復させ、その実行を頼朝に委ねる宣旨を出した。
寿永二年十月宣旨である。
頼朝が東国で築いてきた支配に、朝廷から公的な権限が与えられた。
東山道には義仲の本拠である信濃国も含まれている。
一方、北陸道については義仲への配慮から宣旨の対象から外された。
『玉葉』によれば、義仲は10月20日、後白河法皇の使者に対し、宣旨に頼朝による追討を認める文言が含まれていたことを「生涯の遺恨」とまで述べている。
朝廷が頼朝との関係を深めるにつれ、京都における義仲の立場は揺らいでいった。
水島の戦いで義仲軍が敗北
義仲が頼朝への警戒を強めていた頃、平家も西国で勢力を立て直していた。
義仲は平家追討のため京都を離れ、西へ軍勢を進める。
寿永2年閏10月1日、備中国で水島の戦いが起こった。
海上から迎え撃った平家軍を前に義仲方は敗れ、足利義清ら有力武将も戦死した。
義仲は閏10月15日に京都へ戻る。
西国では平家が反撃を始め、東からは頼朝の勢力が近づいていた。
さらに京都では後白河法皇との関係が悪化している。
義仲を取り巻く状況は、7月の入京時から大きく変わっていた。
11月16日――法住寺殿に兵が集まる
寿永2年11月16日、後白河法皇は法住寺殿の南殿へ移った。
法住寺殿には兵が集められ、周囲に堀を掘るなどの防備が進められる。
義仲と院方が戦うという噂は京都中に広がった。
翌17日の『玉葉』には、院御所へ武士が集まり、京中が騒然としていた様子が記録されている。
後白河法皇は使者を義仲のもとへ送り、平家追討のため京都を離れて西国へ向かうよう求めた。
頼朝の軍勢と戦うのであれば朝廷を巻き込まず、義仲自身の戦いとして行うことも要求した。
京都に留まり続ければ謀反と判断するという厳しい姿勢も示している。
義仲は朝廷へ背く意思がないと弁明した。
政治交渉は続いていたものの、法住寺殿では着々と戦闘への備えが進んでいた。
11月18日――後鳥羽天皇も法住寺殿へ
11月18日、後鳥羽天皇が法住寺殿へ移った。
仁和寺の守覚法親王や天台座主明雲らも法住寺殿に入り、後白河法皇の皇子・円恵法親王も院方に加わった。
皇族、公卿、高僧、武士が集まった法住寺殿は、義仲との武力衝突に備える拠点となった。
九条兼実は『玉葉』に、世の中の騒ぎが日ごとに激しくなっている様子を書き残している。
後白河法皇が京都退去を要求してから2日。
11月19日の朝、義仲は軍勢を動かした。
1183年11月19日――木曾義仲が法住寺殿を包囲
『平家物語』は、このとき義仲のもとに残っていた北国の軍勢を六、七千騎と記している。
義仲は軍勢を七手に分け、樋口兼光に二千余騎を預けて新熊野方面へ回らせた。残る軍勢にも各方面から河原へ進むよう命じ、自らは法住寺殿の西門へ向かったという。
院方について、『平家物語』は二万余人が法住寺殿に籠もっていたとする。
義仲軍六、七千騎、院方二万余人という兵力は『平家物語』が伝える数字である。
同書では、院方の軍事指揮を任された平知康が西側の築地の上に立ち、片手に鉾、もう片方に金剛鈴を持って義仲軍へ呼びかけた姿も描かれている。
知康は、法皇へ向かって弓を引けば、その矢は自らに返ると義仲軍を威嚇した。
義仲は鬨の声を上げさせ、攻撃を開始した。
今井兼平が放った火矢――『平家物語』が描く炎上
戦闘が始まると、新熊野方面へ回った樋口兼光の軍勢も鬨の声を上げた。
『平家物語』では、この直後に今井兼平が火を入れた鏑矢を法住寺殿の御所の棟へ射込んだとする。
折からの強風によって火は一気に燃え広がり、院方の軍勢は混乱した。
軍事指揮を担っていた平知康が戦場を離れると、法住寺殿に集まっていた兵も崩れ、義仲軍が御所へ攻め込んでいく。
今井兼平の火矢をはじめとする細かな戦闘描写は、『平家物語』が伝えるものである。
一方、寿永2年11月19日に義仲が法住寺殿を襲撃し、御所が焼失したことは『玉葉』をはじめとする同時代の記録にも残されている。
平家を追討するために朝廷から軍事力を求められた義仲が、京都の中心で法皇の院御所を攻撃する事態となった。
円恵法親王、明雲、源光長――院方に多数の戦死者
法住寺殿の防衛線が崩れる中、院方では多数の死者が出た。
伯耆守源光長は子の源光経とともに戦い、父子そろって戦死した。
越前守藤原信行、主水正清原頼業も命を落としている。
さらに後白河法皇の皇子で園城寺長吏を務めた円恵法親王、天台座主明雲もこの戦闘で死亡した。
皇族や当時の仏教界を代表する高僧まで戦死しており、法住寺合戦が院御所を舞台とした激しい戦闘だったことが分かる。
当時の日記類から名前を確認できる者を含め、院方では100人を超える首が河原にさらされたと伝わる。
『平家物語』では、翌11月20日に七百三十余人の首が六条河原に並べられたと描いている。
史料によって人数は異なるものの、院方が大きな損害を受けたことは共通している。
後白河法皇が義仲の手中へ
院方の軍勢が敗れると、後白河法皇も法住寺殿を離れた。
『玉葉』には、院方が敗れ、義仲の兵が後白河法皇を確保したという知らせが九条兼実のもとへ届いたことが記されている。
『平家物語』では、法皇が輿に乗って移動しているところを義仲方の武士が発見し、五条東洞院にあった摂政近衛基通の邸へ移したとする。
後白河法皇は義仲の監視下に置かれ、後鳥羽天皇も法住寺殿を離れた。
7月には後白河法皇から平家追討を命じられていた義仲が、4か月後には法皇その人を武力によって拘束したことになる。
義仲が朝廷人事を動かす
法住寺合戦に勝利した義仲は、朝廷人事にも大きく介入した。
摂政近衛基通はその地位を失い、松殿基房の子・松殿師家が新たな摂政となった。師家は当時12歳だった。
義仲は松殿基房・師家父子と結び、京都の政治を動かしていく。
11月28日には、後白河法皇に近い公卿や院近臣ら40人余りが解官された。
法住寺合戦によって後白河法皇の周囲を支えていた政治勢力は大きな打撃を受け、義仲は軍事だけでなく朝廷の人事にも強い影響を及ぼすようになった。
木曾義仲の権力は、この時に頂点へ達した。
しかし、法住寺殿を制圧しても東から迫る頼朝方の軍勢は止まらなかった。
源範頼・源義経らが率いる軍勢が京都へ近づき、翌寿永3年(1184)1月、義仲は宇治川と勢多で鎌倉方を迎え撃つ。
法住寺合戦から約2か月後。
京都を制圧した木曾義仲は、今度は京都を守る側として宇治川の戦いへ向かうことになる。
木曾義仲と源頼朝の対立をもっと詳しく知りたい方へ
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義仲の上洛だけでなく、寿永二年十月宣旨と法住寺合戦も取り上げられており、なぜ義仲が後白河法皇と衝突し、頼朝との対決へ進んだのかをより深く追うことができます。
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