第21回
645年6月12日。
飛鳥板蓋宮で、中大兄皇子が長槍を握り、中臣鎌足が弓矢を手にして蘇我入鹿を待っていた。
宮門は閉じられ、入鹿は剣を外して宮中へ入っている。
やがて佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が入鹿へ斬りかかり、皇極天皇の御前で入鹿は殺された。
乙巳の変である。
この政変を中大兄皇子とともに進めた中臣鎌足は、その後も皇子の近くで孝徳・斉明朝を歩んだ。
中大兄皇子が天智天皇として即位した翌年、669年。
病床の鎌足に、天智天皇から「藤原」の氏が与えられる。
中臣鎌足から藤原鎌足へ。
その翌日、鎌足は死去した。
後世、日本政治に巨大な影響を及ぼす藤原氏は、この男を祖とする。
614年――中臣氏に生まれる
中臣鎌足は614年に生まれたとされる。
父は中臣御食子。
中臣氏は、朝廷の祭祀に関わってきた氏族である。
鎌足が生まれる以前の6世紀には、仏教受容をめぐって蘇我氏と物部氏・中臣氏が対立したことが『日本書紀』に記されている。
鎌足の少年時代を具体的に伝える記録は少ない。
後世に成立した『藤氏家伝』には、若い鎌足の学問や能力を称える記事が残されている。
ただし『藤氏家伝』は鎌足の死後、藤原氏側で編纂された伝記である。鎌足本人の動きが『日本書紀』から具体的に見えてくるのは、皇極天皇の時代に入ってからだった。
644年――神祇伯を辞退する
皇極3年、644年。
『日本書紀』によれば、鎌足は神祇伯に任じられた。
しかし再三辞退して就任せず、病を理由に三島へ退いた。
この頃、朝廷では蘇我蝦夷と、その子・蘇我入鹿が大きな力を持っていた。
『日本書紀』は、入鹿が自ら国政を執り、その威勢は父・蝦夷を上回ったと記している。
前年の643年には、入鹿が斑鳩の山背大兄王を攻め、一族を滅ぼしていた。
鎌足は、こうした時代の中で皇族との関係を深めていく。
軽皇子との交わり
鎌足が中大兄皇子と結ぶ以前から親しく交わっていた皇族が、軽皇子だった。
後の孝徳天皇である。
『日本書紀』によれば、この頃の軽皇子は脚を患い、朝廷へ出ていなかった。
鎌足は軽皇子の宮を訪れ、宿直しようとする。
軽皇子は鎌足の人物を高く評価し、特別に部屋を整え、厚くもてなした。
鎌足はその待遇に感激し、軽皇子の舎人に対して、この皇子を天下の主に立てずにいられようかという趣旨の言葉を語ったと『日本書紀』は伝えている。
一方、鎌足は皇族の中から大きな仕事を成し遂げられる人物を求めていた。
やがて鎌足が心を寄せたのが、中大兄皇子だった。
中大兄皇子との出会い
鎌足と中大兄皇子の接近について、『日本書紀』は有名な逸話を伝えている。
飛鳥寺の槻の木の下で蹴鞠が行われた時、中大兄皇子の皮鞋が脱げた。
鎌足が拾い、跪いて差し出す。
中大兄皇子も跪いて受け取った。
これをきっかけに二人は親しくなったという。
その後、頻繁に会えば周囲から疑われることを恐れた二人は、ともに書物を手にして南淵請安のもとへ学びに通った。
『日本書紀』は、その往復の道中で肩を並べ、ひそかに計画を相談したと記している。
標的は蘇我入鹿だった。
鎌足は、計画を成功させるには協力者が必要だと考え、蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂との結びつきを提案する。
石川麻呂の娘を中大兄皇子の妃とし、婚姻関係を結んだうえで計画へ引き入れた。
さらに鎌足は、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田を中大兄皇子に推挙した。
645年。
計画は実行へ移される。
645年6月12日――乙巳の変
皇極4年6月12日。
飛鳥板蓋宮で、三韓からの上表文を読み上げる儀式が行われた。
蘇我入鹿も宮中へ入った。
入鹿は普段から剣を身につけていたため、計画側は宮中へ入る前に剣を外させるよう仕向けた。
中大兄皇子は宮門を閉じさせ、自ら長槍を手にした。
中臣鎌足は弓矢を持った。
蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げる。
入鹿を斬る役目を担ったのは、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田だった。
ところが二人は入鹿を恐れ、飯を水で流し込もうとして吐き戻すほど緊張していた。
鎌足は二人を叱咤して奮い立たせた。
儀式が始まっても、二人はなかなか動かない。
上表文を読む石川麻呂は焦り、全身に汗を流し、声と手を震わせる。
入鹿が不審に思い、なぜ震えているのかと尋ねるほどだった。
ついに中大兄皇子自身が飛び出した。
佐伯子麻呂らも続き、入鹿は頭と肩を斬られ、さらに脚を傷つけられた。
入鹿は皇極天皇の御座へ進み、自分に何の罪があるのか、審理してほしいと訴えた。
皇極天皇が中大兄皇子に理由を尋ねる。
中大兄皇子は、入鹿が皇族を滅ぼし、皇位を傾けようとしていると答えた。
皇極天皇が殿中へ退くと、佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が入鹿を殺した。
翌13日、父の蘇我蝦夷も自害した。
馬子から蝦夷、入鹿へ続いた蘇我本宗家の政治的な権勢は崩れた。
孝徳天皇即位――鎌足は内臣となる
乙巳の変の後、皇極天皇は譲位を決めた。
皇位を譲ろうとした相手は中大兄皇子だった。
中大兄皇子は鎌足に相談する。
鎌足は、古人大兄皇子が中大兄皇子より年長であり、軽皇子も叔父にあたることから、まず軽皇子を即位させるよう進言した。
中大兄皇子は鎌足の意見を受け入れた。
古人大兄皇子は皇位を辞退して出家する。
軽皇子が第36代・孝徳天皇として即位した。
中大兄皇子は皇太子となる。
阿倍内麻呂が左大臣。
蘇我倉山田石川麻呂が右大臣。
鎌足には大錦冠が授けられ、内臣となった。
『日本書紀』は、この時の鎌足について、強い忠誠心を持ち、政権の中で大きな力を持っていたことを記している。
ただし「内臣」の具体的な職掌や制度上の位置づけには不明な部分もある。
確かなのは、鎌足が乙巳の変後も新しい政治体制の中枢に残ったことである。
大化年間の政治
645年、「大化」の元号が定められた。
同年12月、都は飛鳥から難波長柄豊碕宮へ移る。
翌646年正月、『日本書紀』にはいわゆる「改新の詔」が記されている。
皇族・豪族による土地と人民の支配を改める方針、地方行政、戸籍・計帳、税制など、後の律令国家につながる制度が示された。
ただし、『日本書紀』に残された改新詔の文面には、後世の制度を反映した部分が含まれると考えられている。
大化年間には、人民や土地の把握、官人統制、地方行政など、新しい国家体制につながる整備が進められていった。
後世の『藤氏家伝』では、鎌足はこうした改革を進めた中心人物として大きく描かれている。
一方、『日本書紀』から鎌足個人がどの政策を立案し、どこまで実行に関与したのかを一つずつ追うことは難しい。
鎌足の役割を、後世の藤原氏の繁栄から逆算して描くことはできない。
649年――石川麻呂の死
大化5年、649年。
乙巳の変で鎌足とともに入鹿を倒した右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が謀反を疑われた。
告発したのは石川麻呂の異母弟・蘇我日向である。
日向は中大兄皇子に、石川麻呂が皇太子を殺して反乱を起こそうとしていると訴えた。
石川麻呂は天皇の前で直接申し開きをしたいと求めたが、その機会を得られないまま軍勢が動く。
3月25日。
石川麻呂は自ら造営していた山田寺で、天皇を恨まないと誓って自害した。
その後、石川麻呂の財産を調べると、良書には「皇太子の書」、貴重な宝物には「皇太子の物」と記されていた。
『日本書紀』は、中大兄皇子が石川麻呂の心がなお貞淨であり、皇太子への忠節を失っていなかったことを知り、後悔し、恥じ、深く悲しんだと記している。
この事件で鎌足がどのような行動を取ったのか、『日本書紀』は記していない。
乙巳の変をともに進めた石川麻呂は、ここで姿を消した。
孝徳朝から斉明朝へ
653年、中大兄皇子は孝徳天皇に都を倭京へ戻したいと申し出た。
孝徳天皇が認めなかったため、中大兄皇子は皇極上皇、間人皇后、大海人皇子らを伴って飛鳥へ移った。
多くの官人も従った。
孝徳天皇は難波に残り、翌654年に崩御する。
同じ654年、『日本書紀』には鎌足へ紫冠が授けられ、封戸が加増されたことが記されている。
655年、皇極上皇が斉明天皇として再び即位した。
中大兄皇子は皇太子のままだった。
鎌足も中大兄皇子の近くにいたが、斉明朝の『日本書紀』では鎌足自身の活動を詳しく伝える記事は多くない。
その間に東アジア情勢は大きく動く。
660年、百済が唐・新羅連合軍によって滅亡した。
661年には斉明天皇が筑紫で崩御し、中大兄皇子は正式即位を行わないまま政務を執った。
663年、日本・百済復興軍は白村江で唐・新羅連合軍に敗れる。
その後、日本では西方からの侵攻に備えた防衛体制が整えられ、667年には政治の中心が近江へ移された。
この時期の個々の政策に鎌足がどこまで関与したのか、『日本書紀』から具体的に追うことはできない。
668年――中大兄皇子が天智天皇となる
天智7年、668年正月。
中大兄皇子が正式に即位した。
第38代・天智天皇である。
645年の乙巳の変から23年が過ぎていた。
鎌足は近江朝廷でも「中臣内臣」として史料に姿を見せる。
同年5月、天智天皇が蒲生野で狩猟を行った際には、大海人皇子や諸王、内臣、群臣らが従った。
9月には、鎌足自身の具体的な行動が記録されている。
新羅から金東厳らが来朝すると、中臣内臣は沙門法弁と秦筆を使者として遣わし、新羅の有力者・金庾信へ船一隻を贈った。
鎌足晩年の動きを伝える、数少ない記事である。
翌669年。
鎌足は病に倒れる。
669年――天智天皇が病床の鎌足を見舞う
天智8年10月。
鎌足の病状は重くなっていた。
天智天皇は自ら鎌足の家を訪ね、病状を見舞った。
天皇は鎌足に、何か望むものはないかと尋ねた。
鎌足は、生前に軍国の務めで功を立てたわけではないのだから、死後の葬儀を重々しくする必要はなく、簡素にしてほしいという趣旨の言葉を残した。
乙巳の変から24年。
飛鳥板蓋宮でともに蘇我入鹿を待った中大兄皇子は、すでに天智天皇となっていた。
その天皇が、死を目前にした鎌足のもとへ自ら足を運んだ。
10月15日――中臣鎌足から藤原鎌足へ
10月15日。
天智天皇は弟の大海人皇子を鎌足のもとへ遣わした。
大織冠を授け、大臣の位を与える。
さらに「藤原」の氏を与えた。
『日本書紀』は、この時から藤原内大臣と呼ばれるようになったと記している。
中臣鎌足が藤原鎌足となった。
翌10月16日。
藤原鎌足は死去した。
『日本書紀』はその年齢について二つの記録を載せている。
『日本世記』では50歳。
碑文では56歳。
一般に614年生まれ、享年56として知られるのは、後者による。
藤原の氏を与えられた翌日、鎌足はその生涯を終えた。
天智天皇が再び鎌足の家を訪れる
鎌足の死から数日後。
天智天皇は再び鎌足の家を訪れた。
蘇我赤兄に恩詔を伝えさせ、金の香炉を与えている。
『日本書紀』に残された鎌足最晩年の記事には、病床を自ら見舞い、死の直前に大織冠・大臣位・藤原氏を授け、死後にも再びその家を訪れた天智天皇の姿がある。
飛鳥寺の槻の木の下で結びついたと伝えられる二人は、645年の乙巳の変、孝徳朝、斉明朝を経て、近江まで歩んだ。
その関係は669年10月16日、鎌足の死によって終わった。
鎌足の死後――不比等と藤原氏
鎌足には定恵、不比等らの子がいた。
そのうち不比等は、父の死後に藤原氏を担う人物となる。
鎌足が生きた時代には、後世の藤原北家や摂関政治はまだ存在していない。
藤原氏が朝廷で巨大な勢力へ成長するのは、鎌足の死後である。
不比等は文武・元明朝などで政治の中心へ進み、律令国家の形成に深く関わった。
さらにその子の武智麻呂、房前、宇合、麻呂から、藤原南家・北家・式家・京家が分かれていく。
平安時代には北家から藤原道長らが現れ、摂関政治の最盛期を迎えた。
その長い藤原氏の歴史につながる名を、中臣鎌足が与えられたのは669年10月15日。
翌16日、藤原鎌足は死んだ。
そして671年には、鎌足と長く歩んだ天智天皇も崩御する。
近江には大友皇子。
吉野には大海人皇子。
翌672年。
壬申の乱が始まる。
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