【人物編 Vol.19】藤原仲麻呂(恵美押勝)――光明皇太后の信任から淳仁天皇、764年の最期まで

人物

第37回

天平宝字8年(764)9月18日。

近江国高島郡の勝野鬼江。

藤原仲麻呂は、琵琶湖へ逃れようとしたところを石村村主石楯に捕らえられ、斬首された。

その数年前まで、仲麻呂は太師に昇り、正一位という人臣最高の位階に達していた。

淳仁天皇と深く結びつき、「藤原恵美朝臣押勝」の名を与えられ、恵美家の印を公的に用いる特別な権限まで認められた。

奈良時代を代表する権力者の一人である。

しかし藤原仲麻呂の生涯を、最後に反乱を起こして敗れた人物というだけで見ることはできない。

養老律令の施行。

民衆の労役負担の軽減。

唐風の官号。

歴史書の編纂。

新羅征討に向けた大規模な準備。

仲麻呂が政権の中心にいた時代には、国内制度から対外政策まで幅広い施策が進められた。

その政治的地位を支えた重要な存在が光明皇太后であり、のちには淳仁天皇との強い結びつきだった。

そして760年代に朝廷の力関係が変化すると、仲麻呂を取り巻く政治環境も大きく変わっていく。

1.706年――藤原南家に生まれる

藤原仲麻呂は慶雲3年(706)、藤原武智麻呂の次男として生まれた。

祖父は藤原不比等。

父・武智麻呂は藤原南家の祖となった人物で、兄には藤原豊成がいた。

『続日本紀』は、仲麻呂を聡敏で書物に通じた人物として描き、算術にも精通していたと伝えている。

725年には内舎人となり、その後、大学少允を務めた。

天平6年(734)には従五位下となる。

このころの仲麻呂は、まだ藤原氏の若手官人の一人だった。

その立場が大きく変わるのは、737年である。

2.737年――父と叔父たちを失う

天平9年(737)。

天然痘の流行によって、藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の藤原四兄弟が相次いで亡くなった。

仲麻呂も父・武智麻呂を失う。

藤原氏の政治的中心人物が同じ年に姿を消したことで、朝廷では橘諸兄が台頭していった。

一方、仲麻呂自身の昇進はその後急速に進む。

741年には民部卿。

743年には参議となり、左京大夫を兼ねた。

745年には近江守、746年には式部卿となり、東山道鎮撫使も務めている。

734年の従五位下から750年の従二位まで、11年間で9階という急速な昇進だった。

仲麻呂の上昇を支えた重要な人物が、父・武智麻呂の異母妹にあたる光明皇后だった。

3.光明皇太后の信任と紫微中台

天平勝宝元年(749)。

聖武天皇が阿倍内親王へ譲位し、孝謙天皇が即位した。

光明皇后は皇太后となる。

同年、仲麻呂は大納言へ進み、皇后宮職を改組して設けられた紫微中台の長官・紫微令を兼ねた。

紫微中台は光明皇太后に直属する令外官で、仲麻呂は太政官での地位とあわせ、皇太后と直接結びつく政治的な立場を得た。

橘諸兄が政権の中心にいた時代から、仲麻呂が急速に存在感を増していく時期だった。

755年、諸兄は酒席での発言を密告される。

聖武太上天皇は罪に問わなかったものの、諸兄は翌756年に左大臣を辞任し、757年1月に亡くなった。

朝廷の力関係は大きく変化していく。

4.757年――紫微内相と橘奈良麻呂の変

天平勝宝9歳(757)。

仲麻呂は紫微内相となった。

紫微内相は大臣に準じる待遇を受け、天皇の命令を諸官司へ伝えるとともに、内外の兵事を統轄する権限を持った。

同年、橘諸兄の子・橘奈良麻呂らによる藤原仲麻呂排除計画が発覚する。

事件後の供述によれば、奈良麻呂らは仲麻呂を排除し、皇太子・大炊王を退け、皇位継承の流れを変えようとしていたとされる。

しかし計画は密告によって実行前に発覚した。

黄文王、道祖王、大伴古麻呂、小野東人ら多くの皇族・貴族・官人が処分され、杖下に死亡した者もいた。

この事件によって仲麻呂に対抗し得る皇族・貴族層は大きな打撃を受け、仲麻呂を中心とする政治体制は強まっていった。

ただし、事件の詳細には発覚後の尋問記録によって知られる部分も多い。

橘奈良麻呂の変そのものについては、史料の性格を踏まえて別に見る必要がある。

5.大炊王――仲麻呂と次代の天皇

仲麻呂の政治を考えるうえで、大炊王との関係は欠かせない。

大炊王は天武天皇の皇子・舎人親王の子である。

立太子以前から仲麻呂の田村第で暮らし、仲麻呂の亡くなった長男・真従の妻だった粟田諸姉を妻としていた。

仲麻呂とは深い姻戚関係にあった。

757年3月。

聖武太上天皇の遺詔によって皇太子となっていた道祖王が廃された。

新たな皇太子をめぐっては、塩焼王や池田王など複数の皇族が候補となる。

その中で4月、大炊王が皇太子となった。

翌758年8月。

孝謙天皇が譲位し、大炊王が淳仁天皇として即位する。

以後、仲麻呂は淳仁天皇のもとでさらに高い地位へ進んでいった。

6.「藤原恵美朝臣押勝」――権力の頂点へ

淳仁天皇の即位後、仲麻呂は右大臣に相当する太保となった。

さらに「藤原恵美朝臣」の姓と「押勝」の名を与えられる。

以後、藤原仲麻呂は「藤原恵美押勝」とも呼ばれるようになった。

功封3,000戸、功田100町を与えられ、鋳銭・挙稲に関する特別な権限も認められた。

さらに「恵美家印」を公的な文書に使用することまで許された。

760年には太師・従一位となる。

太師は唐風に改められた官名で、太政大臣に相当した。

さらに762年には正一位に達する。

仲麻呂は官位の上でも、人臣最高の地位へ昇りつめた。

7.養老律令と唐風化――仲麻呂の政治

757年。

長く施行されないままだった養老律令が実施された。

養老律令は、仲麻呂の祖父・藤原不比等が編纂に深く関わった律令である。

仲麻呂政権の政策には、唐の制度や儒教的な政治理念を意識したものが目立つ。

758年には官職名を唐風に改めた。

太政官は乾政官。

紫微中台は坤宮官。

右大臣は太保。

こうした官号が採用された。

仲麻呂は歴代天皇の漢風諡号の撰進にも関わったとされる。

藤原氏の歴史をまとめた『家伝』の編纂にも携わり、自ら藤原鎌足を扱った「大織冠伝」を記したとされている。

さらに『日本書紀』に続く正史の編纂を発議し、後の『続日本紀』につながる事業も始められた。

仲麻呂の政治は、官位や権力の拡大だけに限られていたわけではない。

8.雑徭半減と常平倉――民衆負担への対応

仲麻呂政権期には、民衆の負担に関わる政策も進められた。

757年には、律令上年間60日までとされていた雑徭の日数が30日に半減された。

758年には各地へ問民苦使が派遣され、課役を負担する年齢の見直しなども行われた。

759年には諸国に常平倉が設けられる。

米価が低い時期に米を買い入れ、高騰した際に放出して価格を調整するとともに、調や庸を都へ運んだ運脚が帰郷する際の救済にも利用する制度だった。

唐風の制度改革や藤原氏の顕彰だけでなく、農民の労役、物価、輸送負担などへの対応も仲麻呂政権期には行われていた。

後世の「反乱者」という印象だけでは見えにくい側面である。

9.759年――新羅征討計画

仲麻呂政権は対外政策でも大規模な軍事準備を進めた。

天平宝字3年(759)9月19日。

新羅への出兵に備え、北陸道89隻、山陰道145隻、山陽道161隻、南海道105隻、合計500隻の船を3年以内に建造するよう命令が出された。

さらに天平宝字5年(761)の節度使関係の記録では、検定された船として東海道152隻、南海道121隻、西海道121隻が挙げられている。

合計394隻である。

東海道だけでも兵士1万5,700人、水手7,520人という大規模な編成だった。

しかし、日本軍が新羅へ渡海することはなかった。

この計画の背景には日本と新羅の外交関係だけでなく、唐を含む東アジア情勢など複数の要因があった。

仲麻呂個人の考えだけで新羅征討計画を説明することはできない。

確認できるのは、仲麻呂政権のもとで大規模な遠征準備が進められながら、実戦には至らなかったということである。

10.760年――光明皇太后の死

天平宝字4年(760)。

仲麻呂は太師・従一位となり、官位の上でも政治的地位の頂点へ近づいた。

しかし同じ年、光明皇太后が亡くなる。

光明皇太后は仲麻呂の叔母であり、749年以来、紫微中台を通じた仲麻呂の権力形成と深く結びついていた。

その死後、仲麻呂の政治を取り巻く力関係にも変化が現れ始める。

もう一つの大きな政治的基盤だった淳仁天皇と、孝謙上皇との関係も悪化していった。

その中で存在感を高めたのが、僧・道鏡だった。

11.孝謙上皇と道鏡

761年から762年にかけ、孝謙上皇と淳仁天皇は近江国の保良宮に滞在した。

このころ孝謙上皇は病を患い、道鏡が看病にあたった。

上皇は道鏡への信任を深める。

淳仁天皇が上皇と道鏡の関係を批判したことで、両者の対立は表面化していった。

762年6月3日。

孝謙上皇は、国家の「大事」と賞罰は自ら扱うという趣旨を宣言した。

淳仁天皇の権限は大きく制約され、上皇と天皇の間で皇権が分かれる状況となった。

淳仁天皇と深く結びついていた仲麻呂にとって、この変化は大きかった。

同じ762年、仲麻呂自身は正一位に達している。

官位の上では頂点に立ちながら、その政治を取り巻く環境は不安定になり始めていた。

763年には道鏡が少僧都となる。

朝廷では孝謙上皇・道鏡側と、淳仁天皇・仲麻呂側の対立が深まっていった。

12.764年――8日間で崩れた政治体制

天平宝字8年(764)9月2日。

仲麻呂は「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」となり、管内の兵士を召集・検閲する権限を得た。

仲麻呂が兵を集める動きは、やがて孝謙上皇側へ伝わる。

9月11日。

上皇側は淳仁天皇のもとにあった駅鈴と内印を回収しようとした。

仲麻呂の子・訓儒麻呂らが一度は奪い返したものの、追撃を受けて失敗する。

仲麻呂は官位・氏姓を剥奪され、追討される側となった。

淳仁天皇を伴うこともできないまま平城京を脱出する。

近江へ進もうとすると勢多橋を押さえられた。

越前へ向かおうとしても、追討軍が先回りして愛発関方面を封鎖していた。

仲麻呂は進路を変えながら琵琶湖西岸へ追い込まれていく。

9月18日。

三尾埼付近で追討軍に敗れた仲麻呂は、勝野鬼江へ退いた。

最後は湖上へ逃れようとしたが、石村村主石楯に捕らえられ、斬首された。

高島市の年表でも、勝野鬼江を現在の乙女ヶ池にあたる場所として伝えている。

9月11日の鈴印争奪から9月18日まで、わずか8日間だった。

706年に藤原南家に生まれた藤原仲麻呂の生涯は、ここで終わった。

仲麻呂は光明皇太后の信任を背景に政治の中枢へ進み、橘奈良麻呂の変を経て、淳仁天皇のもとで太師・正一位にまで達した。

その政権期には養老律令の施行、民衆負担への対応、唐風の制度改革、歴史編纂、新羅征討準備など幅広い政策が行われた。

しかし760年に光明皇太后が亡くなり、762年には孝謙上皇と淳仁天皇の対立が皇権の分裂にまで発展する。

764年9月、仲麻呂は兵力を集める動きに踏み込み、孝謙上皇側との武力衝突に至った。

官位の頂点にまで昇った藤原仲麻呂は、その8日後、琵琶湖西岸の勝野鬼江で命を落とした。

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