【人物編 Vol.20】吉備真備――18年の唐留学から藤原仲麻呂の乱、右大臣まで

人物

第35回

天平宝字8年(764)。

藤原仲麻呂と孝謙上皇側の対立が、武力衝突へ発展した。

その追討側に加わった一人が、吉備真備だった。

このとき真備は70歳前後。

約半世紀前には遣唐留学生として海を渡り、18年近く唐で学んだ人物である。

帰国後は皇太子・阿倍内親王の教育に携わり、橘諸兄政権のもとで重用された。

藤原広嗣の乱では玄昉とともに排除を要求され、藤原仲麻呂が勢力を伸ばすと中央を離れて九州へ移る。

その後、二度目の遣唐使として再び海を渡り、帰国後は大宰府で西国防衛に関わった。

そして764年。

長く中央政界を離れていた真備は都へ戻り、藤原仲麻呂を追討する側に立った。

二度の遣唐使。

九州での長い勤務。

藤原広嗣と藤原仲麻呂、二つの大きな政変。

地方豪族の家に生まれた吉備真備は、最終的に右大臣まで昇る。

その生涯を追うと、奈良時代の政治とともに、日本が唐から得た知識をどのように取り入れていったのかも見えてくる。

1.693年または695年――下道氏に生まれる

吉備真備の生年には693年説と695年説がある。

もとの名は下道真備。

吉備国下道郡を基盤とした有力豪族・下道氏の出身で、父は下道国勝とされる。

後に右大臣まで昇る真備だが、藤原氏のように中央政界で代々大臣を出してきた家の出身ではなかった。

その人生を大きく変えたのが、遣唐留学生への選抜だった。

霊亀2年(716)。

真備は遣唐留学生に選ばれる。

翌717年、多治比県守を押使とする遣唐使に加わり、唐へ渡った。

同じ遣唐使には阿倍仲麻呂や玄昉らも参加していた。

真備は20代前半だったと考えられる。

ここから、日本へ戻るまで約18年に及ぶ留学生活が始まった。

2.717年――唐で始まった長期留学

真備が滞在した唐は、玄宗皇帝の時代だった。

都・長安を中心に政治制度や学問、宗教、国際交流が発展していた時代である。

真備が唐で何をどこまで学んだのかについては、後世に多くの伝承が生まれた。

兵法や囲碁、さまざまな秘術を日本へ持ち帰ったという物語もあるが、そうした伝承をそのまま史実として扱うことはできない。

一方、帰国時に献上した書物や器物からは、儒学、礼制、暦学、音楽など幅広い分野の知識に触れていたことがうかがえる。

同じ遣唐留学生だった阿倍仲麻呂は、そのまま唐の官僚として残った。

真備は日本へ帰る道を選ぶ。

天平6年(734)、帰国の途につき、翌735年に日本へ戻った。

唐へ渡ってから約18年が過ぎていた。

3.735年――唐から持ち帰ったもの

帰国した真備は、唐で得た多くの書物や器物を朝廷へ献上した。

『唐礼』130巻をはじめ、暦書、音楽関係の書物、楽器、測量具など、その内容は幅広かったとされる。

その中には、大衍暦もあった。

大衍暦は、唐の僧・一行らによって作られた暦法である。

真備が735年に日本へ持ち帰ったものの、すぐに採用されたわけではなかった。

正式な採用が決まるのは763年。

実際に日本で使用され始めるのは764年である。

真備が唐から持ち帰った知識が、約30年後に国家の暦法として採用されたことになる。

帰国後の真備は大学助などを務め、その後、皇太子・阿倍内親王の教育にも携わった。

4.阿倍内親王の教育に携わる

真備は東宮学士となり、阿倍内親王に『礼記』『漢書』などを講じたとされる。

阿倍内親王は、後の孝謙天皇である。

唐で長く学んだ地方豪族出身の官人が、将来の天皇の教育を担当する立場まで進んだ。

真備は、藤原四兄弟の死後に政権の中心となった橘諸兄のもとでも重用される。

同じく唐から帰国した玄昉も、聖武天皇の近くで存在感を強めていった。

しかし、この真備と玄昉の排除を朝廷へ求めた人物がいた。

藤原広嗣である。

5.740年――藤原広嗣から名指しされる

天平12年(740)。

大宰少弐だった藤原広嗣は朝廷へ上表文を送り、玄昉と吉備真備を中央政界から排除するよう求めた。

その後、広嗣は九州で兵を集める。

朝廷は広嗣の行動を反乱と判断し、征討軍を派遣した。

広嗣は豊前国の板櫃川で朝廷軍と対峙した後に敗走し、肥前国松浦郡で捕らえられて処刑された。

この乱を、真備と広嗣の個人的な対立だけで説明することはできない。

広嗣の上表では玄昉と真備が名指しされたが、その背景には藤原四兄弟の死後に変化した政治状況や皇位継承問題などもあった。

真備自身が戦場で広嗣と戦ったわけでもない。

それでも排除を要求される対象となったことは、このころ真備が朝廷内で重要な位置にいたことを示している。

6.746年――「吉備真備」となる

真備はもともと下道氏の出身で、「下道真備」と呼ばれていた。

天平18年(746)。

吉備朝臣の氏姓を与えられ、以後「吉備真備」となる。

最初の唐留学から帰国して約10年。

地方豪族出身の留学生だった真備は、中央政界の有力官人へ成長していた。

しかし749年に孝謙天皇が即位すると、藤原仲麻呂が勢力を強めていく。

真備の官歴も変化した。

7.750年――中央を離れて九州へ

天平勝宝2年(750)。

真備は筑前守となり、その後、肥前守も務めた。

中央政界を離れ、九州へ移ったのである。

この人事については、藤原仲麻呂が勢力を強める中で、真備が中央から遠ざけられた左遷とする理解が一般的である。

ただし、仲麻呂が真備を排除するためだけにこの人事を行ったと、その具体的な意図まで断定することはできない。

確認できるのは、仲麻呂が台頭する時期に真備が中央を離れ、九州で勤務することになったということである。

その九州との関わりは、真備の後半生で大きな意味を持つ。

しかしその前に、真備はもう一度海を渡ることになった。

8.二度目の遣唐使

天平勝宝3年(751)。

真備は遣唐副使に任じられた。

翌752年、再び唐へ渡る。

最初の渡唐から35年ほどが過ぎていた。

今回は留学生ではなく、日本を代表する遣唐使の副使である。

唐には、最初の留学でともに海を渡った阿倍仲麻呂が官人として残っていた。

753年11月。

真備は第3船で唐を出発する。

同年12月7日には屋久島へ到着し、その後、紀伊国牟漏埼へ漂着したことが『続日本紀』に記されている。

754年、真備は帰朝した。

この帰国船団には、日本への渡航を何度も試みていた唐僧・鑑真も加わっていた。

ただし、鑑真が乗ったのは真備の船ではない。

鑑真は副使・大伴古麻呂の第2船に乗り、真備の第3船には鑑真招聘に尽力した僧・普照が乗っていた。

「吉備真備が自分の船で鑑真を連れ帰った」とするのは正確ではない。

9.754年――大宰大弐として西国防衛へ

天平勝宝6年(754)4月。

真備は大宰大弐に任じられた。

『続日本紀』天平勝宝6年4月5日条を収録する総社市史でも、この任官が確認できる。

再び九州へ赴いた真備は、大宰府の上級官人として西国の行政と防衛に関わることになる。

その代表的な事業が怡土城だった。

天平勝宝8歳(756)6月。

現在の福岡県糸島市、高祖山周辺で怡土城の築城が始まった。

築城開始時の専当官が吉備真備だった。

ただし、真備一人が完成させた城ではない。

工事は後に佐伯今毛人へ引き継がれ、神護景雲2年(768)に完成した。

着工から約12年を要した事業である。

怡土城には中国式山城の築城法が採用されている。

二度の入唐経験を持つ真備が最初の築城担当者だったことは注目されるが、「真備が唐で学んだ築城技術をそのまま導入した」とまで断定することはできない。

確認できるのは、唐で長く学んだ経験を持つ真備が、西国防衛の重要な城の築造を担当したことである。

天平宝字3年(759)3月には、大宰大弐だった真備が大宰府防衛の不安を4項目にまとめて朝廷へ奏上した。

その中では、東国防人廃止後の防衛上の不安や、怡土城築城に防人を使用することなどが論じられている。

九州勤務は、真備が実際に西国防衛へ深く関わった時期でもあった。

10.763年――30年前に持ち帰った大衍暦

真備が最初の唐留学から持ち帰った大衍暦は、長く日本で正式採用されなかった。

状況が変わったのが天平宝字7年(763)である。

この年、従来の儀鳳暦に代わって大衍暦を採用することが決まった。

翌764年から日本で使用される。

真備が最初の唐留学から帰ったのは735年だった。

約30年前に持ち帰った知識が、ここで国家の暦法となった。

そして同じころ、真備本人にも中央政界へ戻る機会が訪れる。

11.764年――藤原仲麻呂の乱

天平宝字8年(764)。

大宰大弐だった真備は致仕を願い出ていたが、その願いが奏上される前に造東大寺司長官へ任じられ、中央へ戻った。

その年の9月。

藤原仲麻呂と孝謙上皇側の対立が武力衝突へ発展する。

真備は孝謙上皇側の軍事対応に加わり、仲麻呂の退路を遮断する方向へ兵を動かしたとされる。

後世、吉備真備には「天才軍師」のようなイメージも与えられた。

しかし、真備一人の作戦によって仲麻呂を倒したとする細部まで、同時代史料から確認できるわけではない。

一方、朝廷側の軍事対応に参加し、仲麻呂の進路を封じる動きに関与したことは確認できる。

仲麻呂は追討軍に進路を次々に塞がれ、9月18日に近江国高島郡で死亡した。

乱後、真備は従三位・勲二等となり、中衛大将にも任じられた。

70歳前後になって中央へ戻った真備は、ここからさらに高い地位へ進んでいく。

12.766年――右大臣へ

称徳天皇のもとで、真備は参議、中納言、大納言と昇進した。

天平神護2年(766)。

ついに右大臣となる。

地方豪族出身者としては異例の昇進だった。

717年に遣唐留学生として海を渡った真備が、約半世紀後には朝廷最高幹部の一人となったのである。

769年の宇佐八幡宮神託事件の時点でも、真備は右大臣だった。

ただし、神託事件そのものに真備が具体的にどのような役割を果たしたのかは明確ではない。

同じ769年には、大和長岡らとともに『刪定律令』24条を編纂した。

これは養老律令の条文の矛盾や不適切な部分を修訂したもので、実際に施行されたのは791年である。

唐から知識を持ち帰った留学生として始まった真備の官歴は、律令国家の制度そのものを整える立場にまで至った。

13.770年――称徳天皇の死と皇位継承

宝亀元年(770)。

称徳天皇が亡くなった。

後継者を誰にするかが大きな政治問題となる。

『日本紀略』が引用する後世の「百川伝」では、右大臣だった真備が天武天皇の血を引く文室浄三を皇太子に推したと伝えられる。

一方、藤原永手・藤原良継・藤原百川らがこれに反対し、白壁王の立太子を進めたという。

また文室浄三が辞退した後、真備がその弟・文室大市を推そうとしたとする伝承もある。

ただし、こうした詳細な政治交渉は『続日本紀』本文にそのまま記されているものではない。

後世史料によって伝えられた部分が大きいため、「吉備真備と藤原氏が皇位をめぐって直接対決した」と単純化することは避けたい。

最終的には白壁王が即位し、光仁天皇となった。

翌771年、真備は官職を退いた。

14.775年――吉備真備の死

宝亀6年(775)10月2日。

吉備真備は亡くなった。

717年に遣唐留学生として海を渡ってから、半世紀以上が経っていた。

18年近い最初の唐留学を終えて帰国し、阿倍内親王の教育に携わった。

藤原広嗣から玄昉とともに排除を要求され、藤原仲麻呂が台頭すると中央を離れて九州へ移った。

二度目の遣唐使として再び海を渡り、帰国後は大宰大弐として西国防衛に携わり、怡土城の築城を始めた。

若いころに持ち帰った大衍暦は、約30年後に国家の暦法として採用された。

764年には藤原仲麻呂追討に関わり、その後、右大臣まで昇った。

吉備真備の生涯は、順調な出世だけで進んだわけではない。

中央を離れて九州で過ごした期間も長く、770年の皇位継承をめぐっても、後世史料では真備が推した候補が即位しなかったと伝えられる。

それでも、唐で得た知識を持ち帰った留学生として始まった真備の官歴は、教育、外交、大宰府行政、西国防衛、暦法、軍事、律令、中央政治へと広がっていった。

地方豪族の家に生まれた下道真備は、二度海を渡り、奈良朝の大きな政変を生き、吉備真備として右大臣にまで到達したのである。

 
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