【人物編 Vol.22】和気清麻呂――道鏡と宇佐八幡宮神託事件、平安京遷都まで

人物

第43回

神護景雲3年(769)。

宇佐八幡宮から都へ戻った一人の官人が、皇位継承に関わる神託を朝廷へ奏上した。

和気清麻呂。

大宰府から先に伝えられていたのは、法王・道鏡を皇位につければ天下が太平になるという内容だった。

しかし清麻呂が宇佐から持ち帰った神託は、それとは異なっていた。

皇位には皇統に連なる者を立てるべきだという趣旨だった。

道鏡の即位は実現しなかった。

一方、清麻呂は官爵を奪われ、「別部穢麻呂」と改名され、大隅国へ流された。

和気清麻呂の名は、この宇佐八幡宮神託事件によって広く知られている。

しかし彼の人生は、そこで終わらない。

翌770年には都へ呼び戻され、その後、光仁天皇・桓武天皇のもとで再び官人として働いた。

摂津国では治水事業に取り組み、長岡京の造営に関わり、さらに平安京への遷都と造営にも参加する。

宇佐へ派遣された地方豪族出身の官人は、どのように奈良時代末の政変を生き、平安時代の新しい都の建設にまで関わったのか。

その生涯を追っていく。

1.733年――備前国藤野郡に生まれる

和気清麻呂は天平5年(733)、備前国藤野郡に生まれた。

現在の岡山県和気郡周辺である。

父は乎麻呂とされ、もとの姓は磐梨別公だった。

和気氏は、吉備地方を本拠とした地方豪族である。

後世の清麻呂は「皇統を守った忠臣」として語られることが多い。

しかし、生まれた時点で中央政界の有力貴族だったわけではない。

藤原氏のような中央貴族ではなく、地方豪族の家に生まれた人物だった。

清麻呂の生涯を考えるうえで重要な存在となるのが、3歳年上の姉・和気広虫である。

2.姉・和気広虫と孝謙上皇

和気広虫は孝謙上皇に仕え、上皇が出家すると自らも出家して「法均」と名乗った。

天平宝字8年(764)の藤原仲麻呂の乱後には、斬刑にあたる375人の助命を願い出て、流刑や徒刑へ減刑させたとされる。

さらに、飢饉や疫病によって生まれた捨て子83人を引き取り、養育したとも伝えられている。

広虫は孝謙上皇、のちの称徳天皇に近侍する女官だった。

清麻呂もこの時期、中央で官人として活動するようになる。

天平神護元年(765)には従六位上・右兵衛少尉で、藤原仲麻呂追討後に勲六等を受けた。

同年には吉備藤野和気真人の氏姓も与えられている。

これらは仲麻呂の乱の鎮定における功績によるものと考えられている。

3.766年――従五位下へ

天平神護2年(766)。

清麻呂は従五位下へ進んだ。

同じ年、道鏡は法王となる。

称徳天皇の強い信任を得た道鏡は、僧侶でありながら天皇に準じる特別な待遇を受けるまでになっていた。

その道鏡をめぐって、3年後に皇位継承に関わる大きな事件が起こる。

清麻呂の名が歴史上もっとも広く知られることになる宇佐八幡宮神託事件である。

4.769年――「道鏡を皇位につければ天下太平」

神護景雲3年(769)。

大宰府から朝廷へ、宇佐八幡神の神託が伝えられた。

内容は、道鏡を皇位につければ天下が太平になるというものだった。

この神託を奏上したのが、大宰主神・習宜阿曾麻呂である。

称徳天皇には皇子がなく、道鏡はすでに法王という異例の地位にあった。

その状況で伝えられた神託は、皇位継承そのものに関わる問題だった。

称徳天皇は、宇佐八幡神の意向を改めて確認させようとする。

当初その役目を命じられたのが、清麻呂の姉・法均こと和気広虫だった。

しかし広虫は女性の身で遠路に耐えにくいとされ、代わって弟の清麻呂が宇佐へ向かうことになった。

5.宇佐へ向かった和気清麻呂

清麻呂は豊前国の宇佐八幡宮へ向かった。

後にまとめられた清麻呂の伝記では、出発前に道鏡から大臣の地位を示される一方、従わなければ厳しい処分を受けるという圧力も受けたと伝えられている。

ただし、こうした逸話は宇佐神託事件そのものの経過と同じ確実さで確認できるわけではない。

後世にまとめられた清麻呂伝に記された話として区別しておきたい。

清麻呂が宇佐で神意を問い、都へ戻って奏上した内容は、最初の神託とは異なっていた。

皇位には皇統に連なる者を立てるべきであり、臣下を天皇としてはならないという趣旨だった。

道鏡が皇位につくことはなかった。

しかし、この事件を「清麻呂一人が道鏡の陰謀を暴いた」と単純化することもできない。

最初の神託がどのような経緯で生まれたのか、道鏡自身がどこまで関与していたのかには不明な点が残る。

史料から確認できる清麻呂の役割は、皇位継承に関わる神託を確認する使者として宇佐へ赴き、最初とは異なる神託を朝廷へ奏上したことである。

6.「清麻呂」から「穢麻呂」へ

清麻呂の奏上後、厳しい処分が下された。

官爵を奪われ、名前を「別部穢麻呂」に改められる。

さらに大隅国へ配流された。

姉の広虫も還俗させられ、「別部狭虫」と改名されたうえで備後国へ流された。

清麻呂から穢麻呂。

広虫から狭虫。

姉弟は官位や立場だけでなく、名前まで変更されたうえで中央から排除された。

この処分に誰の意向がどの程度反映されていたのかまで推測する必要はない。

清麻呂の奏上後、姉弟が朝廷から厳しい処分を受けたことは確認できる。

7.刺客と猪――後世に生まれた清麻呂伝説

清麻呂が大隅国へ向かう途中については、後世に多くの逸話が生まれた。

清麻呂を殺そうとする者が現れたものの、天候の急変によって助かったという話。

足を痛めた清麻呂の前に多数の猪が現れ、宇佐まで守ったという話。

宇佐参詣の後に足が回復したという話も伝えられている。

これらは後世の清麻呂伝や信仰の中で広まった物語であり、769年当時の出来事としてそのまま確定できるものではない。

一方、猪の伝説は後世の清麻呂像に大きな影響を与えた。

現在、京都の護王神社には清麻呂と猪を結びつける信仰が残っている。

史実と伝説は分ける必要があるが、そうした物語が後世の清麻呂像を形づくっていったこと自体も、その人物の歴史の一部である。

8.770年――称徳天皇の死と清麻呂の帰還

宝亀元年(770)。

称徳天皇が亡くなり、道鏡も中央政治の地位を失った。

皇位には白壁王がつき、光仁天皇となる。

清麻呂を取り巻く状況も大きく変化した。

770年、清麻呂は大隅国から都へ召還される。

翌771年には本姓・本位を回復した。

その後も氏姓は変化し、宝亀5年(774)には和気朝臣を与えられた。

宇佐神託事件から約5年。

「別部穢麻呂」とされた人物は、和気清麻呂として再び朝廷で働くことになった。

9.桓武天皇のもとで行政官へ

天応元年(781)。

桓武天皇が即位する。

清麻呂は従四位下となり、その後、民部大輔、摂津大夫、中宮大夫などを歴任した。

宇佐神託事件の印象が強いため、清麻呂は「道鏡を止めた人物」として語られることが多い。

しかし復帰後の官歴を見ると、行政実務に通じた官人として長く活動していたことが分かる。

民部行政に関する『民部省例』20巻をまとめ、『和氏譜』の作成にも携わったとされる。

その実務官僚としての姿がよく見えるのが、摂津国での治水事業だった。

10.785年・788年――摂津の治水事業

延暦4年(785)。

摂津大夫だった清麻呂のもとで、淀川から神崎川へ通じる三国川の開削が行われた。

淀川流域の治水・利水に関わる事業で、その後の大阪の地形や都市形成にも影響したと評価されている。

さらに延暦7年(788)。

清麻呂は河内・摂津の水害を軽減し、新たな土地を開発するため、河内川を西へ導く大規模な工事を朝廷へ上奏した。

『続日本紀』によれば、延べ23万人余に食糧を支給して工事に従事させたとされる。

しかし、この工事は完成しなかった。

大和川が現在のように大阪湾へ直接流れる流路へ大きく付け替えられるのは、はるか後の江戸時代である。

清麻呂の計画は完成には至らなかったが、宇佐神託事件だけでは見えない、大規模な治水・土地開発を担う行政官としての一面がここにある。

11.784年――長岡京の造営

延暦3年(784)。

桓武天皇は平城京から長岡京へ都を移した。

清麻呂も長岡京の造営に関わり、その功績によって官位を上げている。

しかし長岡京の造営は、その後も長く続いた。

造営の中心人物だった藤原種継が785年に暗殺され、それに関連して早良親王が廃太子となるなど、政局も大きく揺れた。

『日本後紀』に収められた清麻呂の薨伝によれば、長岡京は長年にわたって工事を続けても完成せず、費用も膨らんでいた。

清麻呂はその状況を踏まえ、新たな場所への遷都を桓武天皇へひそかに進言したと伝えられている。

12.長岡京から平安京へ――葛野への遷都

清麻呂が長岡京放棄と新都建設を進言した具体的な年月は明確ではない。

『日本後紀』の薨伝では、清麻呂が長岡京の造営費を問題とし、桓武天皇に葛野の地を視察するよう求めたと伝えられている。

桓武天皇は延暦11年(792)に葛野方面へ遊猟しており、新京候補地の視察だったと考えられている。

翌延暦12年(793)正月。

大納言・藤原小黒麻呂らが葛野郡宇太の地を実地調査し、新京の建設が始まった。

ここで、「和気清麻呂一人が平安京の場所を決めた」と考えるのも正確ではない。

新都の決定と建設には桓武天皇をはじめ、藤原小黒麻呂ら多くの公卿・官人、造宮職が関わっていた。

清麻呂は、その過程で長岡京の放棄と新都建設を進言した人物の一人だった。

延暦13年(794)10月22日。

桓武天皇は新京へ移る。

10月28日に遷都の詔が出され、11月8日には新しい都が「平安京」と名付けられた。

清麻呂も造宮大夫として、新都の造営に携わっていく。

13.796年――従三位へ

延暦15年(796)。

清麻呂は平安京造営の功績によって従三位へ昇り、公卿に列した。

733年に備前国の地方豪族の家に生まれた人物が、60年以上を経て朝廷最高層の一人となった。

その官歴には、宇佐神託だけでは見えない姿がある。

武官としての活動から始まり、地方行政、民部行政、摂津での治水、長岡京と平安京の造営へと、その役割は広がっていった。

清麻呂の生涯は、奈良時代から平安時代へ国家の中心が移っていく時期そのものと重なっている。

14.799年――和気清麻呂の死

延暦18年(799)2月21日。

和気清麻呂は亡くなった。

67歳とされる。

没時は民部卿・造宮大夫・従三位で、死後に正三位を贈られた。

姉の和気広虫も、その少し前の同年1月20日に亡くなっている。

清麻呂の人生で最も知られているのは、769年の宇佐八幡宮神託事件である。

神託を奏上した後、名前を穢麻呂へ変えられ、大隅国へ流された。

しかし、それは66年余りに及ぶ生涯の一場面だった。

復帰後の清麻呂は、光仁天皇・桓武天皇のもとで行政官として働き、摂津では治水事業に取り組んだ。

長岡京の造営に関わり、その後は新たな都への移転を進言する。

そして平安京では造宮大夫として造営に携わった。

後世には、宇佐神託で皇統を守り、猪に助けられた「忠臣」として多くの物語が重ねられていく。

しかし史料から見える和気清麻呂の生涯は、宇佐神託だけでは完結しない。

備前国に生まれた地方豪族出身の官人は、流罪から朝廷へ戻り、治水と行政、新都造営に携わりながら、奈良時代から平安時代へ移る大きな転換期を生きたのである。


和気清麻呂を守ったと伝わる「猪」にちなんで。
宇佐神託事件の後、清麻呂には約300頭の猪が現れ、宇佐八幡宮まで導いたという伝説が残っています。
そんな清麻呂と猪の伝説を知った後に、ぜひ味わってみたい一品です。

 合わせ猪最中

 『和気清麻呂 人物叢書 新装版』/平野邦雄

コメント

タイトルとURLをコピーしました