第64回
一通の密告が、朝廷の勢力図を変えた
平将門の乱からおよそ30年。

東国で武士たちが勢力を伸ばしていた頃、京都の朝廷では別の戦いが起きていた。
武器を手にした戦ではない。
密告と人事によって、一人の左大臣を政界から追い落とす政治の戦いである。
安和2年(969)3月25日。
左馬助の源満仲と前武蔵介の藤原善時らが、朝廷に謀反の情報を届けた。
密告されたのは、中務少輔の源連や橘繁延らである。
朝廷はすぐに動いた。
内裏の警備を固め、関所を警戒し、関係者を捕らえる。
そして事件は、朝廷の最高幹部だった左大臣・源高明へとつながっていく。
翌3月26日、高明は大宰権帥に左遷された。
前日まで朝廷の中心にいた人物が、一夜にして九州へ送られることになった。
その一方で、密告した源満仲には昇進が与えられた。
この事件が、後に安和の変と呼ばれる。
源高明――醍醐天皇の皇子として生まれる
源高明は延喜14年(914)、醍醐天皇の皇子として生まれた。
母は更衣の源周子。
父が天皇である以上、高明は生まれながらに皇族である。
しかし、高明は皇位を継ぐ立場にはなかった。
そして延喜20年(920)。
高明は源朝臣の姓を与えられ、臣籍に降下した。
皇族から臣下へ。
ここから源高明として朝廷の中で生きていくことになる。
高明の人生は、ここから急速に動き始める。
朝廷の官職を歴任し、学問や儀礼にも通じた人物として頭角を現した。
天慶2年(939)には参議となる。
この時、25歳。
参議は太政官で国政に参与する公卿である。
20代半ばでここまで上がったことからも、高明が朝廷で高く評価されていたことが分かる。
参議から大臣へ――異例の出世
高明の出世はここで終わらない。
天暦元年(947)に権中納言。
天暦2年(948)に中納言。
天暦7年(953)には大納言へ進んだ。
さらに康保3年(966)、右大臣となる。
翌康保4年(967)には左大臣に昇進した。
源氏の姓を持つ人物が、朝廷の最高幹部である左大臣まで上り詰めたのである。
高明は政治だけの人物でもない。
朝廷の儀式や先例に非常に詳しく、後に『西宮記』をまとめた。
『西宮記』は、平安時代の朝廷儀礼や有職故実を知るための重要な史料である。
和歌や音楽にも通じた教養人でもあった。
そのため高明は、政治家としてだけでなく、文化人としても高い評価を受けている。
後世には、『源氏物語』の光源氏のモデルの一人とする説まで生まれた。
これは史実として光源氏のモデルだったと確定しているわけではないが、高明が「皇族出身・美貌・教養・高い官位・藤原氏との婚姻」という華やかな経歴を持っていたことを考えると、後世にそうした見方が生まれた理由は分かる。
高明は藤原氏の外にいたわけではない
安和の変を理解するとき、ここを押さえておきたい。
高明は「藤原氏と対立する源氏」という単純な人物ではない。
むしろ、藤原氏との結びつきが非常に強かった。
高明は、当時の有力者だった藤原師輔の娘を妻としている。
師輔は藤原忠平の子で、村上天皇の時代に政治の中心を担った人物である。
さらに、高明の妻の姉には藤原安子がいた。
安子は村上天皇の中宮である。
つまり高明は、藤原師輔の家と婚姻関係を結び、その縁を通じて村上天皇の皇室とも深くつながっていた。
高明自身も村上天皇の信任を受け、中宮大夫などの重要な役職を務めている。
この時点では、高明と藤原氏は必ずしも対立関係ではない。
むしろ、藤原氏の有力者と姻戚関係を築きながら、高明は政治的な地位を高めていった。
高明の娘が為平親王の妃になる
ここから状況が変わる。
高明には娘がいた。
その娘が、村上天皇の皇子である為平親王の妃となった。
為平親王の母は藤原安子。
つまり高明の娘は、藤原氏の有力者を母方の祖父に持つ皇子の妃になったのである。
これによって高明は、単なる左大臣ではなくなる。
もし為平親王が皇太子となり、将来天皇になれば、高明は天皇の外戚になる可能性があった。
当時の政治において、外戚という立場は非常に大きい。
娘を天皇の后に入れ、その子が天皇になれば、母方の祖父が政治の中心に立つ。
藤原氏が長年築いてきた摂関政治は、まさにこの仕組みを利用して発展してきた。
そこへ、醍醐天皇の皇子である源高明が入ってくる。
しかも高明は、すでに左大臣である。
皇族の血を引き、左大臣の地位にあり、皇子の岳父でもある。
高明の政治的な存在感は極めて大きくなっていた。
967年――冷泉天皇が即位する
康保4年(967)、村上天皇が崩御した。
皇太子だった憲平親王が即位する。
これが冷泉天皇である。
ところが冷泉天皇には、皇位継承をめぐる問題があった。
病弱だったのである。
そのため、次の皇太子を誰にするのかが重要な政治問題となった。
候補の一人が為平親王。もう一人が弟の守平親王である。
守平親王は後の円融天皇となる人物だ。
そして康保4年、守平親王が皇太弟となった。
ここで為平親王の立場は大きく後退する。
そして為平親王の妃の父親が、左大臣・源高明だった。
高明を取り巻く政治環境が、一気に厳しくなったのである。
高明が警戒された理由
ここで安和の変の核心に入る。
高明が失脚した理由を、「高明が天皇になろうとしたから」と説明するのは正確ではない。
高明は天皇になれる立場ではない。
問題になったのは、為平親王を皇位につけようとする勢力の背後に高明がいると疑われたことである。
為平親王は高明の娘の夫。高明が左大臣。
しかも高明には、藤原氏との婚姻関係もある。
高明が為平親王を支える立場に立てば、政治的な影響力は非常に大きくなる。
藤原氏の側から見れば、これは警戒すべき状況だった。
さらに、藤原師輔が康保4年(960)に亡くなり、藤原安子も同じ年に亡くなっている。
高明を支えていた大きな後ろ盾が消えた。
高明は、藤原氏との姻戚関係を持ちながら、藤原氏の嫡流そのものではない。
その立場が、かえって危うさを生んだ。
安和の変は、こうした皇位継承をめぐる緊張の中で起きた。
安和2年(969)3月25日――源満仲の密告
そして安和2年3月25日。
事件が動き出す。
左馬助の源満仲と、前武蔵介の藤原善時らが、朝廷へ謀反を密告した。

『日本紀略』には、満仲らが中務少輔・源連、橘繁延らの謀反を告げたことが記録されている。
密告によって、朝廷はただちに対応した。
内裏を警固し、関所を固める。
関所を固める措置を固関という。
反乱の可能性があると判断した朝廷は、京都だけでなく交通の要所まで警戒した。
そして関係者の逮捕が始まった。
一気に広がる「謀反」の疑い
捕らえられた人物の中には、橘繁延や藤原千晴らがいた。
藤原千晴は、平将門を討った藤原秀郷の子孫である。

ここは、これまでのシリーズともつながる。
平将門の乱で活躍した藤原秀郷。
その一族は東国に根を張り、その後も朝廷との関係を保っていた。
ところが安和の変では、その秀郷流の藤原氏からも事件の関係者が出た。
朝廷は関係者を追及し、諸国にも追討を命じた。
この時、下野国には、藤原秀郷の子孫を教戒するよう命じる官符まで出されている。
将門の乱から約30年。
東国の武士団と京都の政治が、再び一本の線でつながった瞬間である。
そして、源高明へ
事件の捜査が進むと、疑いは左大臣・源高明へ及んだ。
高明は為平親王の岳父である。
そのため、為平親王を皇位につける計画の背後に高明がいるとされた。
朝廷は高明を処分する。
安和2年3月26日、源高明は大宰権帥となった。
左大臣から大宰権帥へ。
実質的には中央政界からの追放である。
さらに高明は出家した。
昨日まで朝廷の最高幹部として政治を動かしていた人物が、わずか一日で京都を離れることになった。
この急展開こそ、安和の変の恐ろしさである。
藤原師尹が左大臣になる
高明が去ると、すぐに人事が動いた。
右大臣だった藤原師尹が左大臣となる。大納言の藤原在衡が右大臣となった。
つまり、高明の失脚によって空いた朝廷の最高幹部の席を、藤原氏側の人物が埋めたのである。
事件の結果として、
源高明は失脚。藤原師尹は左大臣へ昇進。藤原在衡は右大臣へ昇進。
朝廷の中枢は、さらに藤原氏中心へ傾いた。
源満仲には褒賞が与えられた
事件を動かした密告者、源満仲。
満仲は、この功績によって昇進した。
事件の直後、朝廷は密告を功として満仲を評価している。
高明が左大臣の座から消えた一方で、満仲は朝廷内で地位を高めた。
この出来事は、満仲のその後を考えるうえでも重要である。
満仲は清和源氏の流れをくむ武門の人物。
その後、摂関家との関係を深め、京都と地方の双方で活動する源氏の有力者へ成長していく。
そして、その子孫から源頼光、源頼信、源頼義、源義家らが登場する。
安和の変は、後の武士社会につながる源氏の歴史を考えても重要な事件なのである。
源高明、大宰府へ
中央政界から追放された高明は、大宰府へ向かった。
大宰府は九州の政治・軍事を管轄する重要な役所である。
かつて左大臣だった高明にとって、そこへの赴任は大きな政治的失脚を意味した。
高明は政治の表舞台から姿を消す。
しかし、人生そのものが終わったわけではない。
ここから高明には、もう一度転機が訪れる。
天禄3年(972)、高明は赦され、京都へ戻った。
さらに封戸も与えられた。
ただし、以前のように左大臣として朝廷政治の中心へ復帰することはなかった。
政治家として失脚しても、学者としての名前は残った
高明の晩年を考えると、『西宮記』が重要になる。
高明は朝廷の儀式や先例に詳しかった。
平安時代の政治は、現代のように法律だけで動いていたわけではない。
誰がどこに座るのか。どの儀式をどの順番で行うのか。
天皇の行幸にはどのような準備が必要なのか。官人はどのように振る舞うのか。
そうした朝廷の作法そのものが政治を動かしていた。
高明は、こうした朝廷の故実をまとめた。
それが『西宮記』である。
高明が政治の中心から追われた後も、この知識は後世の朝廷に受け継がれた。
政治家としては安和の変で敗れた。
しかし、朝廷文化を記録した人物としての名は残ったのである。
娘・明子と藤原道長
高明の家系を追うと、さらに面白いところへつながる。
高明の娘の一人に明子がいる。
この明子は、後に藤原道長の妻となった。
道長といえば、11世紀初頭の藤原氏を代表する人物である。
高明は安和の変で藤原氏によって政界から追われた。
ところが、その娘は後に藤原道長と結婚する。
歴史の流れは一筋ではない。
高明自身は政治の頂点から落ちた。
しかし、その子孫はその後も中央政界に残り続けた。
源高明の最期
源高明は、安和の変から13年後の天元5年(982)に亡くなった。
生年は914年、69歳である。
醍醐天皇の皇子として生まれ、6歳で臣籍に降下。
20代で参議となり、30代、40代と官位を上げ続け、52歳で右大臣。
その翌年、左大臣となった。
朝廷の頂点まで上り詰めた人物である。
しかし、左大臣になってからわずか2年。
安和の変によって大宰府へ送られた。
3年後に京都へ戻り、その10年後に生涯を終えた。
高明の人生は、平安貴族の栄光と失脚を一人で体現している。
安和の変は、藤原氏の陰謀だったのか
ここは歴史好きほど気になるところである。
安和の変は、一般に藤原氏による他氏排斥事件として説明される。
実際、高明が失脚した直後に藤原師尹が左大臣となった。
高明は為平親王の岳父であり、将来の皇位継承をめぐって大きな影響力を持つ可能性があった。
そのため、藤原氏にとって高明が政治的な脅威になったと考えるのは自然である。
ただし、ここで、
「藤原氏が最初からすべてを計画し、満仲に命じて謀反をでっち上げた」と断定するのは避けるべきである。
そこまでの具体的な計画を裏付ける同時代史料は残っていない。
確実に確認できるのは、
源満仲らが謀反を密告したこと。
朝廷がそれを受けて直ちに軍事・警備体制を取ったこと。
源連や橘繁延らが逮捕されたこと。
源高明が大宰権帥へ左遷されたこと。
藤原師尹が左大臣になったこと。
満仲が密告の功で昇進したこと。
この一連の事実である。
そこから先にある「藤原氏が高明を排除するために利用した」という評価は、政治状況を考えるうえで非常に有力な見方となっている。
安和の変の本当の怖さ
安和の変で印象に残るのは、戦闘がほとんど起きていないことである。
それでも、一人の密告によって朝廷が動き、関所が固められ、容疑者が捕らえられ、左大臣が失脚した。
平安時代の政治では、密告そのものが武器になった。
源高明は醍醐天皇の皇子。
左大臣。
朝廷の儀礼に精通した政治家。
藤原氏との婚姻関係を持ち、皇族とも深くつながる人物だった。
その高明が、わずかな時間で政治の中心から消えた。
そして、その直後に藤原師尹が左大臣となった。
一方、密告した源満仲は昇進した。
京都の政治では藤原氏の優位がさらに強まり、源氏の側では満仲が摂関家と結びつきながら勢力を伸ばしていく。
一人が失脚し、一人が出世した。
その背後で、朝廷の権力配置そのものが変わった。
これが安和2年、969年に起きた安和の変である。
安和の変によって、朝廷内部では源氏が政治的な存在感を強めていった。
しかし、平安時代の社会で緊張が高まっていたのは、京都の朝廷だけではない。
地方では、国司の権限が強まる一方、在地の郡司や百姓との対立も深まっていた。
そして20年後の永延2年(988)。
尾張国では、ついに郡司・百姓らが一人の国司を朝廷へ訴える。
31か条に及ぶ告発の標的となったのが、尾張守・藤原元命である。
次回は、「国司が地方で何をしていたのか」――その実態を暴いた尾張国郡司百姓等解文を追う。

📖 源高明をもっと深く知りたい人へ
安和の変で失脚した左大臣・源高明。
なぜ彼は政争に巻き込まれたのか?
平安王朝の知られざる人間関係を、源高明と章明親王から読み解く一冊です。
安和の変の記事とあわせて、ぜひ読んでみてください。


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