【人物編Vol.41】源頼義――7騎まで追い詰められても戦いをやめなかった河内源氏の武将

人物

第79回



1057年――源頼義、残ったのは7騎

天喜5年(1057)11月。雪の奥州で、源頼義は死の瀬戸際にいた。

安倍貞任を討つために北上した頼義軍は、黄海で崩壊した。『陸奥話記』によれば、頼義の馬は矢を受けて倒れ、息子・義家の馬まで失われた。最後に頼義のそばへ残ったのは義家ら6騎。頼義自身を合わせても、わずか7騎である。そこへ安倍軍200余騎が迫った。

このとき頼義は数え70歳。戦場で大軍を失い、自身も包囲されかけた。それでも生き延びた。そして5年後、今度は安倍氏最後の拠点・厨川柵を落としている。

頼義は無敗の名将ではない。むしろ前九年合戦では何度も苦境に立たされた。それでも敗北のあとに兵を集め直し、敵方を切り崩し、出羽の清原氏を味方につけるまで戦場に居続けた。

父・頼信が坂東で築いた武名を受け継ぎ、息子・義家へ渡す。その間で河内源氏と東国武士の結びつきを一段深くした人物が、源頼義である。

988年――名将・源頼信の長男として生まれる

源頼義は永延2年(988)に生まれた。

父は源頼信。

清和天皇から続く清和源氏の一族で、河内国を基盤としたことから、その系統は後に「河内源氏」と呼ばれる。

頼信は平忠常の乱を収束させ、坂東に大きな名声を築いた武将である。

頼義はその長男である。

この時代の源氏は、後世の鎌倉武士とは姿が違う。頼義も朝廷社会の中で官職を得て、皇族に仕え、国司として地方へ赴任する軍事貴族だった。

若いころには小一条院・敦明親王に判官代として仕えた。

朝廷の仕組みを知る官人であり、弓馬を得意とする武人でもある。この二つの顔を持っていた。

1031年――父・頼信と坂東へ

長元4年(1031)。

坂東では平忠常の乱が続いていた。

房総半島を中心に勢力を持つ平忠常が朝廷に反抗し、討伐軍を送ってもなかなか決着しない。

そこで朝廷が投入したのが、父・頼信だった。

頼義も父に従って東国へ向かった。

頼信が下向すると、忠常は降伏し、長期化していた乱は収束した。頼義も父に従って坂東へ入り、実戦を経験する。

ここで頼義が目にしたのは、敵を斬るだけの戦争ではない。父・頼信は東国の人脈と名声を使い、忠常を降伏へ追い込んだ。誰を味方につけ、誰を従わせるか。この発想は、のちに頼義が奥州で安倍氏と戦う際にも生きてくる。

敵将の家から妻を迎える――平直方との縁

頼義は、平忠常追討で先に討伐使を務めていた平直方の娘を妻とした。

平直方は、頼信が登場する前に平忠常討伐を担当していた武将だった。

桓武平氏の名門で、坂東に強い地盤を持つ。

その直方の娘を頼義は妻とした。

後に源義家、義綱らを産む女性である。

ここにも、河内源氏が東国へ根を伸ばしていく過程が見える。父・頼信が平忠常の乱を通じて名声を得て、頼義は東国に地盤を持つ平氏と婚姻で結ばれた。

さらに後世の『詞林采葉抄』は、平直方が鎌倉の屋敷を娘婿の頼義へ譲ったと伝えている。

この伝承から、後に鎌倉が「源家相伝の地」と語られるようになった。

史料自体は南北朝時代の成立であり、頼義と同時代の記録ではない。それでも、頼義と平直方の婚姻が「源氏と鎌倉の始まり」を説明する物語として長く記憶されたことは重要である。鎌倉市も、この伝承を源氏と鎌倉の結びつきを考える史料として紹介している。

相模守となり、東国武士を自分の周りへ集める

長元9年(1036)、頼義は相模守となった。

その後も東国の官職を歴任する。

頼義の周囲には、坂東の武士たちが集まるようになった。

『日本大百科全書』も、頼義が相模守として東国武士を従えたことを挙げている。山川の『日本史小辞典』も、頼義が東国の国司を歴任し、在地武士の組織化を進めたと評価する。

後の前九年合戦では、頼義のために戦場へ引き返して死ぬ武者まで現れる。その関係は奥州で突然できたものではない。相模守時代を含む東国での活動の中で、頼義は坂東武士との主従関係を積み上げていた。

1051年――64歳の頼義、陸奥へ

永承6年(1051)。

頼義の人生を決定づける任命が下る。

陸奥守。

このとき頼義は数え64歳。11世紀の武将としては、すでに高齢である。

陸奥では安倍頼良が奥六郡を掌握し、陸奥守・藤原登任の軍勢を鬼切部で撃破していた。

朝廷側の軍勢が敗れた直後である。

そこへ頼義が送り込まれた。

軍事経験があり、東国武士との結びつきも持つ。

朝廷から見れば、頼義はまさに適任だった。

ところが頼義が陸奥へ入ると、戦争はいったん止まった。

安倍頼良が恭順したのである。

永承7年(1052)、上東門院彰子の病気平癒に伴って大赦が行われ、安倍氏も赦された。

頼良は頼義に従い、同じ「よりよし」という読みをはばかって頼時と改名したと『陸奥話記』は伝える。

頼義は恭順した安倍氏を受け入れた。鬼切部の敗北から始まった戦争は、ここでいったん収まる。

天喜元年(1053)には、頼義は陸奥守に加えて鎮守府将軍を兼ねた。

奥州の行政と軍事を担う中心人物となったのである。

1056年――阿久利川事件、頼義は貞任を疑う

およそ4年間、大規模な戦闘は起きなかった。

頼義の陸奥守としての任期も終わりに近づく。

そのとき起きたのが、天喜4年(1056)の阿久利川事件である。

頼義が胆沢城から国府方面へ戻る途中、配下の藤原光貞・元貞らの陣営が夜襲された。

『陸奥話記』によれば、光貞は安倍頼時の子・貞任を疑った。

以前、貞任が光貞の妹との結婚を求め、それを断られた。その恨みから襲ったという主張である。

襲撃者は史料上確定できない。『陸奥話記』が伝えるのは、光貞の訴えを受けた頼義が頼時に貞任の引き渡しを求めたという流れである。

頼時は拒否する。

戦争が再開した。

ここで頼義の人物像を考えるうえで重要なのは、その後である。

頼義は敵だけを疑ったわけではない。

味方まで疑った。

平永衡を殺す――頼義の厳しさが敵を一人増やした

頼義軍には、安倍頼時の娘婿が二人いた。

平永衡と藤原経清である。

どちらも安倍氏と婚姻関係を持ちながら、頼義側についていた。

進軍中、頼義は平永衡の行動を怪しんだ。

『陸奥話記』では、永衡が目立つ銀色の兜を着けていたことなどから、敵へ合図を送っているのではないかという疑いが生まれたとする。

頼義は永衡を内通者と見て殺した。

この判断は、頼義にとって大きな代償を生んだ。

もう一人の娘婿・藤原経清が恐れた。

「次は自分ではないか」

経清は頼義軍を離れ、安倍氏へ走った。

後に国府の徴税権へまで食い込む強敵を、頼義自身の判断が安倍側へ送り込んだことになる。

頼義の猜疑と処断は、味方を一人減らしただけでは済まなかった。経清という有力な在地武士を、安倍氏の側へ送り込む結果になったのである。

正面から倒せないなら、周りを崩す

安倍氏との再戦が始まっても、頼義は簡単には勝てなかった。

そこで頼義は、安倍氏の周囲にいる有力者へ手を伸ばす。

気仙郡司・金為時らを通じて北方勢力へ働きかけ、安倍富忠を自分の側へ引き入れた。

効果は大きかった。

安倍頼時は富忠らの離反を止めるため、自ら北へ向かう。

そして天喜5年(1057)7月、富忠側との戦闘で流れ矢を受け、鳥海柵へ戻った末に死んだ。

頼義が頼時を直接討ったのではない。安倍氏を取り巻く勢力に手を入れ、盟主である頼時自身を動かした。正面戦闘より先に、敵の結束を割ったのである。

ところが頼時の死で勢いに乗った頼義は、その4か月後に前九年合戦最大の敗北を喫する。

1057年11月――黄海で壊滅する

頼時の死から約4か月後。

頼義は貞任を追って北へ進んだ。

『陸奥話記』の代表的な本文では頼義軍1,800余人、安倍軍4,000余人。

しかも11月の奥州である。

風雪が強まり、道は険しい。

兵糧も不足する。人も馬も疲れ切っていた。

安倍軍はそこへ襲いかかった。

頼義軍は崩れた。

死者は数百人。

頼義の馬まで矢を受けて倒れる。

息子・義家の馬も倒された。

最後に頼義のそばへ残ったのは、義家ら6騎。

頼義を入れて7騎である。

そこへ安倍軍200余騎が迫った。

頼義は数え70歳、義家は数え19歳。

親子は同じ戦場で死線を越え、どうにか脱出した。

「将軍と一緒に死ぬ」――頼義のもとへ戻った佐伯経範

黄海では、頼義が長い年月をかけて武士たちと築いてきた関係も見える。

佐伯経範という老武者がいた。

『陸奥話記』によれば、頼義に30年仕えた人物である。

敗走中、経範は頼義の姿を見失った。

「将軍は敵に囲まれ、供は数騎しかいない」

そう聞いた経範は、逃げるのをやめた。

長年仕えた主君が死ぬなら、自分も同じ場所で死ぬ。

戦場へ戻り、安倍軍へ突入する。

十数人を倒し、最後は戦死した。

頼義はすでに逃げ延びていた。経範はそれを知らなかった。

それでも主君を置いて逃げることを選ばなかったのである。

経範が忠誠を向けたのは、抽象的な「朝廷」だけではない。長く仕えてきた頼義その人だった。父・頼信の代から河内源氏が築いてきた東国武士との結びつきが、黄海の惨敗という極限状態でむき出しになる。

黄海から5年――頼義は安倍氏を崩せない

約5年間、頼義は決定的な勝利を得られなかった。

貞任、宗任、藤原経清らは健在。

経清は国府が使う赤符に対抗して白符を使い、官物の徴収まで進めた。

陸奥守でありながら、頼義は止められない。

諸国へ兵や兵糧を求めても、思うように集まらない。

『陸奥話記』系統の記録には、頼義が窮地を脱するため、出羽山北の清原氏へ繰り返し働きかけ、珍しい品々を贈ったことが記されている。

頼義は清原氏へ繰り返し働きかけ、贈り物も送った。黄海で失った兵力を自力だけで埋めることに固執せず、出羽の大勢力を戦争へ引き込もうとしたのである。

陸奥守の任期が終わっても帰らない

康平5年(1062)。

頼義はさらに追い込まれる。

陸奥守としての任期が終わった。

後任には高階経重が任命される。

普通なら、ここで頼義の仕事は終わる。

しかし頼義は奥州を離れなかった。

『陸奥話記』では、経重が陸奥へ来たものの、現地の人々がなお頼義に従っている状況を見て京へ戻ったと描かれる。

頼義は前任国司となっても、安倍氏との戦争を終わらせるまで奥州に残った。

そして1062年夏。

ようやく待ち続けた援軍が来る。

清原武則、1万余人を率いて現れる

出羽の清原氏が参戦した。

清原光頼のもとから、弟・清原武則が大軍を率いてやってくる。

『陸奥話記』が記す兵力は1万余人。

頼義自身の軍勢は3,000余人。

黄海で1,800余人しか率いられなかった頼義の側に、一気に巨大な兵力が加わった。

戦況はここから逆転する。

ここからの勝利を「源氏だけの力」と見ると実態を外す。安倍氏を倒す決定打になったのは、1万余の兵を伴った清原氏の参戦である。一方、その清原氏を長い交渉の末に味方へ引き入れたことこそ、頼義の政治力だった。

1062年9月――75歳の頼義、厨川柵へ

頼義・清原連合軍は北へ進んだ。

小松柵。衣川関。鳥海柵。

安倍氏の防衛拠点を一つずつ突破していく。

そして康平5年(1062)9月。

安倍氏最後の大拠点、厨川柵へ迫った。

頼義は数え75歳。

黄海から5年が経っている。

9月16日の総攻撃では、頼義側に数百人の死者が出た。

厨川柵は落ちない。

翌17日、頼義は戦法を変える。

周辺の建物を壊して木材を集めさせ、萱を刈らせる。

それを堀や川辺へ積み、火を放った。

炎が柵へ燃え移った。

厨川柵は崩壊する。

安倍貞任は深手を負って捕らえられ、頼義の前へ引き出されたのちに死んだ。

享年34。

黄海で頼義を7騎まで追い詰めた男が、5年後、頼義の前で最期を迎えた。

藤原経清だけは、簡単に殺さなかった

厨川柵で捕らえられた者の中に、藤原経清もいた。

平永衡が殺されたことで頼義から離反し、その後は安倍氏の中心人物となった男である。

頼義は経清を許さなかった。

『陸奥話記』は、頼義が経清に白符による徴税を皮肉る言葉を投げた場面を記している。

そして処刑を命じた。

使わせたのは、鈍刀。切れ味の悪い刀で首を斬らせた。

『陸奥話記』は、切れ味の悪い刀で苦痛を長引かせる処刑として描く。頼義の経清に対する怒りを最も強烈に伝える場面である。

もともとは自分の軍にいた。

それが安倍氏へ走り、国府の徴税にまで対抗した。

頼義にとって経清は、敵以上に裏切った部下だった。

頼義の苛烈さが最も強く出る場面である。

一方、経清には幼い息子が残った。

藤原清衡。

後に平泉を築く奥州藤原氏初代である。

頼義が処刑した男の息子が、次の時代の奥州を支配することになる。

1063年――戦争が終わり、頼義が得たもの

康平6年(1063)。

前九年の役での功績を受け、頼義は正四位下・伊予守となった。

息子・義家も出羽守となる。

清原武則には鎮守府将軍が与えられた。

1051年の陸奥守就任から1062年の厨川柵陥落まで12年。和平を挟みながらも、頼義は老境の大半を奥州問題に費やした。黄海では大敗し、最後の逆転には清原氏の力を必要とした。それでも1063年、戦功によって正四位下・伊予守となる。

そして同じ1063年、頼義は後世の鎌倉に大きな意味を持つものを残した。

1063年、鎌倉――頼義が八幡神を祀る

康平6年(1063)。

頼義は鎌倉の由比郷に、京都の石清水八幡宮を勧請した。

現在の由比若宮、元八幡である。

鎌倉市も、これを鶴岡八幡宮の起源としている。

117年後の治承4年(1180)、源頼朝が鎌倉へ入り、この八幡宮を小林郷北山、現在の鶴岡八幡宮の地へ移した。

頼義が1063年に置いた小さな八幡宮が、鎌倉幕府の精神的な中心へ成長したことになる。

頼義が由比郷に祀った八幡神は、のちに鎌倉幕府の精神的な中心へ成長する。河内源氏と鎌倉を結ぶ長い歴史の中で、頼義の存在は欠かせない。

晩年――88歳まで生きた老将

前九年の役を終えた頼義は伊予守となり、その後は出家した。

承保2年(1075)7月13日、源頼義は死去する。

『大日本史料』もこの日の条に頼義の死を掲げる。

数え年で88歳。

平安時代の武将としては非常に長い生涯だった。

頼義の戦いを最も近くで見ていたのが、長男の源義家である。義家は19歳で黄海の敗走を経験し、75歳の父が清原氏の大軍を味方につけて逆転する過程まで見届けた。敵を切り崩す調略、坂東武士との主従関係、裏切りへの苛烈な処断。そのすべてが、次代の義家へ引き継がれていく。

やがて義家は「八幡太郎」と呼ばれ、父以上に東国武士の信望を集めていく。

さらに117年後、頼義の子孫・源頼朝が鎌倉へ入る。そこは頼義と平直方の婚姻をめぐる伝承が残り、頼義自身が八幡神を祀った土地だった。

父・頼信が坂東で築いた武名を、頼義は前九年合戦という12年の苦闘を通じてさらに強い主従関係へ変えた。そして、その遺産を義家へ渡した。

河内源氏が「東国の武門」へ成長していく、その真ん中にいた老将が源頼義である。

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