第65回
父は源経基。満仲が生まれた時代
源満仲は、延喜12年(912)4月10日に生まれたとされる。
父は源経基。

清和天皇の皇子・貞純親王の子にあたる人物で、臣籍に下って源氏となった清和源氏の一人である。
満仲はその経基の子として生まれた。
この時代、京都の朝廷では藤原氏が政治の中心に立ち、地方では国司と在地勢力の対立が激しくなっていた。
平将門の乱が起こるのは、満仲が28歳前後の承平5~天慶3年(935~940)である。

藤原純友の乱も939~941年に起こる。

満仲が生まれ育ったのは、まさに朝廷が地方の武力を必要とし始めた時代だった。
源氏にとって、この時代の流れは大きな意味を持つ。
皇族の血を引く源氏が、朝廷の官職を得ながら地方の軍事力を握る。
その形を大きく前進させた人物の一人が、満仲である。
若い満仲――武士になる前に、朝廷の官人になる
満仲を最初から「武士」と考えると、人物像を見誤る。
満仲の出発点は、朝廷に仕える官人である。
国司を歴任し、地方へ赴任する。
史料には、越前・武蔵・伊予・美濃・下野・陸奥などの国守、上総・常陸などの介を務めたことが記されている。
さらに左馬権頭、鎮守府将軍などの軍事関係の官職にも就いた。
国司は単なる地方行政官ではない。
税を徴収し、国内の秩序を維持し、朝廷の命令を実行する。
そして地方で活動する以上、現地の有力者や武力を持つ人々との関係も重要になる。
満仲は京都の官人として出世しながら、地方とのつながりを広げていった。
ここが、後の源氏につながる大きなポイントである。
朝廷の官職と地方の武力。
満仲は、この二つを一つの家に結びつけていった。
摂津・多田へ――満仲が自分の「地盤」を持つ
満仲の名前とセットで語られる土地がある。
摂津国多田。
現在の兵庫県川西市周辺である。
満仲は摂津に進出し、多田盆地一帯の開発を進めた。
満仲は一族や郎党を率いて多田を拠点とし、土地を基盤とした勢力を形成していった。
武士にとって、土地はそのまま軍事力につながる。
土地から収入を得る。その収入で郎党を養う。郎党が主人に従って戦う。
こうした関係が積み重なって、武士団が形成されていく。
多田は、満仲にとってそのための重要な場所となった。
ただし、後世の「多田源氏」という名称を満仲の時代からそのまま当てはめるのは注意が必要である。
多田を本拠として「多田」を名乗る系統が明確になるのは、満仲の曾孫にあたる源頼綱の時代である。
969年――満仲の人生を変えた「安和の変」
満仲が歴史の表舞台に躍り出るのが、安和2年(969)である。
満仲はこの頃、左馬助を務めていた。
3月、朝廷に謀反の計画があるという情報がもたらされる。
満仲はこの事件に関わり、藤原師尹らに謀反を告発した人物として記録される。
告発されたのは、源連や橘繁延、藤原千晴らである。
朝廷はただちに動いた。
関所を固め、宮中を警備し、関係者を拘束する。
そして事件の捜査は、左大臣・源高明へと及んだ。
高明は醍醐天皇の皇子であり、左大臣にまで昇った大物である。
その高明が大宰権帥へ左遷される。
安和の変である。

満仲は、この事件で功績を認められ、正五位下に叙せられた。
一つの告発が、朝廷の人事を大きく動かした。そして満仲自身の地位も上がった。
ここから満仲は、藤原摂関家との結びつきをさらに強めていく。
なぜ満仲は高明を追い落としたのか
安和の変を語るとき、「満仲が高明を嫌っていたから」と単純に考えてはいけない。
この事件には、朝廷内部の権力争いがあった。
源高明は皇族出身の左大臣であり、娘の明子は為平親王の妃となっていた。
為平親王は冷泉天皇の皇子である。
当時の皇位継承をめぐる情勢の中で、高明の存在は大きな政治的意味を持っていた。
一方、満仲は藤原氏北家、とりわけ摂関家との関係を深めていた。
満仲にとって、朝廷の中で誰と結びつくかは、そのまま自分の将来に関わる。
安和の変で満仲が果たした役割は、後の源氏が朝廷政治の中で勢力を伸ばすうえでも重要だった。
満仲は武力だけで出世したのではない。
情報を握り、政治的な局面で動き、朝廷の有力者との関係を築いた。
この政治感覚こそ、満仲という人物の大きな特徴である。
満仲の家を襲った賊――弓を手にした武人
満仲には、武士らしい強烈なエピソードも伝わっている。
『古事談』などに記された話では、天徳年間(957~961)、賊が夜に満仲の邸へ侵入し、財物を奪った。
満仲は自ら弓を取り、賊の一人である倉橋弘重を射て捕らえたという。
朝廷は残りの賊を捕らえるため、仲間の名前を調べさせた。
ところが、その後も賊が満仲の邸を襲う。
今度は家を取り囲み、火まで放った。
伝承では火は激しく燃え、300余家にまで延焼したという。
救援に来た宮道弘氏は敵の矢に当たって倒れた。
満仲は、それでも賊を撃退したと伝わる。
満仲が後世の人々から「自ら弓を取り、郎党を率いて敵と戦う武人」としてイメージされていたことが分かる。
平安貴族としての満仲と、弓を手に邸を守った武人の満仲。
この二つが、源満仲という人物の両面である。
986年――満仲、もう一度朝廷の政変に登場する
満仲の人生で、安和の変と並んで重要なのが寛和2年(986)である。
この年、花山天皇が出家する事件が起きた。
花山天皇は寛和2年6月、元慶寺へ向かって出家する。
このとき、藤原兼家・道兼父子の動きと結びついていたのが満仲である。
満仲は郎等を率いて、花山天皇が向かう道を警固した。
目的は、途中で事件を妨害する者が現れないようにすることである。
満仲は、天皇の出家という朝廷最大級の政変においても、軍事力を担う役割を果たした。
969年の安和の変。
986年の花山天皇出家。
この二つの事件を並べると、満仲の立場がよく分かる。
満仲は朝廷の政争に関わり、その場面で必要とされる武力を提供する人物だった。
満仲、出家する
政治と武力の世界を生きた満仲にも、晩年が訪れる。
寛和2年(986)、満仲は出家した。
法名を満慶といい、多田新発意と呼ばれた。
この出家には、満仲らしい逸話が残っている。
『今昔物語集』には、満仲が殺生を避けるため、所有していた鷹を放ち、網などの狩猟道具を焼き捨てたという話が伝わる。
さらに、多くの郎党も満仲に従って出家したという。
伝承では、その数を60人とする話もある。
弓矢を使い、武力で家を守ってきた人物が、晩年には殺生を戒める仏門へ入る。
この転身は、平安時代の武人の人生を考えるうえでも非常に興味深い。
満仲の出家が人々の強い印象を残したことは確かである。
多田院――満仲が残した一族の拠点
満仲と多田を語るうえで、多田院も欠かせない。

多田院は、天禄元年(970)に創建されたと伝えられる。
後の多田神社につながる場所である。
ここには満仲を祀る廟所が設けられ、後世には源氏の祖廟として重要な場所になった。
満仲が多田を拠点としたことは、単なる「地方に住んだ」という話ではない。
京都の朝廷に仕えながら、摂津に自分の勢力基盤を持つ。
そして、その土地を子孫へ受け継がせる。
満仲の時代から後世にかけて、多田は源氏と深く結びつく土地になった。
現在の兵庫県川西市にある多田神社が、その歴史を伝えている。
満仲の子――頼光、頼親、頼信
満仲の最大の功績は、本人の出世だけではない。
子どもたちの世代に源氏の勢力が広がったことである。
満仲の子として特に重要なのが、
源頼光 源頼親 源頼信
である。
頼光は、後に酒呑童子退治の伝説で有名になる人物である。
頼親は大和を基盤とする源氏につながる。
そして頼信。
この人物が、後の河内源氏につながっていく。
頼信の子が源頼義。その子が源義家。
義家の時代になると、源氏は東国武士との結びつきを強め、武家社会の中で巨大な存在になっていく。
さらにその先に、源為義、源義朝、源頼朝と続く。
つまり、満仲の時代に形成された家の基盤は、数世代をかけて日本史の中心へ進んでいく。
源頼光と源頼信――兄弟から二つの方向へ
満仲の子どもたちを追うと、清和源氏がどのように枝分かれしたのかが見えてくる。
頼光は京都の摂関家と深く結びつき、宮廷社会に近い場所で活動した。
一方の頼信は、後に東国との関係を強めていく。
この違いが重要である。
平安時代の源氏は、最初から「武家政権を作る一族」だったわけではない。
朝廷に仕え、貴族に仕え、地方の所領を持ち、そこで武士団を育てる。
その積み重ねによって、源氏は徐々に独自の軍事力を持つようになった。
満仲は、その初期段階を代表する人物である。
997年――86歳で死去
満仲は、長徳3年(997)に死去した。
912年生まれなら86歳。
平安時代の人物として非常に長寿である。
満仲の人生は、平将門の乱の前から始まり、藤原純友の乱、安和の変、花山天皇の出家までを経験した。
その間、朝廷の官人として働き、地方の国司を務め、軍事貴族として勢力を伸ばし、摂津多田を一族の重要な基盤にした。
最後は出家し、満慶と名乗った。
死後、満仲は多田に葬られ、廟所が営まれた。
その後、多田院は源氏の祖廟として長く信仰されることになる。
「武士の祖」と呼ばれた理由
源満仲を知るうえで面白いのは、彼が戦場だけで名を上げた武将ではないという点である。
満仲は朝廷の官人だった。
国司として地方へ赴任した。土地を開発した。多田に勢力を築いた。摂関家と結びついた。
安和の変では政治的な情報を握り、謀反を告発した。
花山天皇の出家では郎等を率いて警固した。
そして、子どもたちへ家の基盤を引き継いだ。
つまり満仲の強さは、「刀を振るう力」だけではない。
朝廷の官職。土地。財力。郎党。有力貴族との人脈。そして源氏という血統。
これらを一つにまとめたことにある。
この仕組みが、次の世代の源氏を強くした。
そして満仲の死から約30年後。
長元元年(1028)、東国で大きな反乱が起こる。
平忠常の乱である。
この戦いに投入されるのが、満仲の子・源頼信。
満仲が京都と摂津で築いた源氏の基盤は、頼信の時代に東国へ大きく伸びていく。
ここから先、源氏の歴史はさらに面白くなる。
源頼信、源頼義、そして源義家。
後の武家社会を動かす河内源氏の物語が始まる。
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