第9回
天智2年(663年)8月27日、朝鮮半島西南部の河口へ、倭国から渡ってきた水軍が近づいた。
そこには唐の水軍が待っていた。『日本書紀』が記す船数は170艘。唐軍は百済復興勢力の本拠・周留城へ向かう陸軍と歩調を合わせながら水路を進み、倭国から来る援軍を迎え撃つ位置についていた。
倭軍はその日の戦いで押し戻される。
翌28日、倭国・百済側はもう一度攻撃を試みた。『日本書紀』には、倭国側が隊列の整わないまま唐水軍へ向かい、左右から挟まれたとある。
密集した船は自由に動けなくなり、多くの兵が海へ落ちた。
中国側の記録では、唐軍は白江口で四度戦って四度とも勝利し、倭船400艘を焼いたとされる。
400艘という数字をそのまま実数とみるには慎重さが必要だが、日本側と中国側の記録が倭軍の大敗という結果で一致している。
663年の白村江の戦いで、倭国が海を越えて支え続けた百済復興戦争は終局へ向かった。
なぜ倭国は、ここまで大規模な兵力と物資を朝鮮半島へ送り込んだのか。
その理由をたどるには、白村江から3年前の660年まで戻る必要がある。
唐・新羅連合軍が百済へ攻め込む
7世紀半ばの朝鮮半島には、高句麗、百済、新羅の三国が並び立っていた。
北には高句麗、西南部には百済、東南部には新羅があり、三国の争いには海の向こうの倭国や、中国大陸を統一した唐も深く関わっていた。
唐は618年に建国され、太宗・高宗の時代には朝鮮半島への軍事的な関与を強めていく。
高句麗への遠征を繰り返す一方、新羅は唐との関係を深め、百済と高句麗から受けていた圧力を押し返そうとしていた。
百済と倭国の関係は古い。
百済から列島へ渡った人々を通じ、仏教、文字、建築、工芸など多くの文化や技術が伝わった。
王家同士にも長年の外交関係があり、7世紀に入ってからも使節の往来は続いている。
この百済へ、斉明6年(660年)、唐と新羅の連合軍が攻め込んだ。
唐の将軍・蘇定方は海を渡り、新羅軍も東から進撃する。
挟撃を受けた百済軍は支えきれず、王都の泗沘が陥落した。義慈王は降伏し、王族や重臣の多くが唐へ連行される。
百済王朝はここで滅亡した。
しかし、百済の兵や地方勢力まで一斉に武器を置いたわけではなかった。
滅びた百済で、鬼室福信らが兵を集める
百済各地では唐・新羅軍への抵抗が始まった。
その中心人物の一人が鬼室福信だった。ほかにも僧・道琛らが復興運動に加わり、残存兵を集めて唐・新羅側の拠点を攻撃する。
百済は王を失っている。
福信らが新たな王として迎えようとした人物が、倭国に滞在していた百済王族の豊璋だった。
百済復興勢力は倭国へ使者を送り、軍事援助を求めるとともに、豊璋を帰国させてほしいと要請した。百済王家の血を引く豊璋を立てることで、各地に残る百済人をまとめようとしたのである。
倭王権は要請を受け入れた。
百済との長い交流だけを理由に、大規模な海外派兵へ踏み切ったとは考えにくい。
百済が唐・新羅の支配下へ入れば、倭国は朝鮮半島西南部に持っていた重要な外交相手を失う。
唐の勢力が半島南部まで達したことで、倭国を取り巻く東アジアの軍事・外交環境も変わり始めていた。
百済の復興は、倭王権自身の立場とも結びついていた。
斉明天皇が筑紫へ向かう
斉明7年(661年)1月、斉明天皇は中大兄皇子らとともに西へ向かった。
一行は瀬戸内海を航行し、伊予を経て筑紫へ入る。
その後、現在の福岡県朝倉市周辺に置かれたと考えられる朝倉橘広庭宮へ移った。
朝倉橘広庭宮の正確な所在地は現在も確定していない。
朝倉市内には複数の伝承地が残り、市の文化財計画でも朝倉一帯を有力な比定地としている。
当時の倭国にとって筑紫は、朝鮮半島へ軍勢や物資を送り出す最前線だった。
天皇と政権中枢がそこまで移ったことからも、百済救援が大規模な国家事業として進められていた様子が分かる。
ところが7月24日、斉明天皇が朝倉で崩御する。
68歳だった。
戦争準備は中止されず、中大兄皇子が政治を取り仕切った。
中大兄皇子はすぐには即位せず、皇太子の立場で政務を執る「称制」の期間に入る。
斉明天皇の死後も、船、兵士、武器、食糧は朝鮮半島へ送り続けられた。
豊璋を送り返し、百済を復活させる
倭国は豊璋を百済へ送り返した。
『日本書紀』には豊璋の渡海をめぐる記録が複数あり、時期や各派遣軍との関係を一つの年月日に整理するのは難しい。
それでも、倭国が豊璋だけを帰したのではなく、兵士、船、武器、食糧を継続的に投入していたことは読み取れる。
豊璋の護衛には5000余の兵をつけたとする記事もある。
さらに阿曇比羅夫らが船団を率いて渡海し、百済復興軍を支援した。
豊璋が百済へ入ると、福信は王として迎えた。660年に滅亡した百済に、再び王が立ったのである。
復興軍は唐軍が占領する拠点を圧迫し、百済旧領の一部を回復していった。
この段階では、百済復興がまったく望みのない戦いだったわけではない。
唐側は百済を滅ぼしたあとも占領地を維持する必要があり、新羅軍も各地で復興勢力への対応を迫られていた。倭国から人員と物資が入り続ければ、戦争を長期化させることができた。
復興軍の大きな拠点となったのが周留城である。
周留城を離れるべきか――復興軍の内部で意見が割れる
周留城は山地を利用した守りの堅い拠点だった。
一方で長期間大軍が籠もるには問題もあった。
周囲に十分な耕作地を確保しにくく、食糧を集めるには不便だった。
豊璋らは、農地に恵まれた避城へ本拠を移そうと考える。
この案に反対した倭国側の将が朴市秦造田来津だった。
『日本書紀』では、田来津は周留城の険しい地形を評価し、平地に近い避城へ移れば敵から攻められやすくなると訴えている。
豊璋らは避城へ移った。
その後、新羅軍の攻勢を受け、復興軍は再び周留城へ戻ることになる。
食糧を得やすい場所を取るか、守りやすい山城に籠もるか。百済復興軍は、長期戦を続けるなかで難しい選択を迫られていた。
663年に入ると、唐・新羅側の圧力はいっそう強くなった。
倭国から2万7000人が渡る
天智2年(663年)3月、倭国は大規模な軍勢を朝鮮半島へ送った。
『日本書紀』が記す兵数は2万7000人。
上毛野君稚子、巨勢神前臣訳語、三輪君根麻呂、阿倍引田臣比羅夫らが将となり、軍勢は前軍・中軍・後軍に分けられていた。
もちろん、「2万7000」という数字を現代の軍隊と同じ精度で把握された実人数とみることはできない。
それでも、倭王権が数年にわたって相当な兵力を海外へ送り続けていたことは明らかである。
数万人規模の人間を海の向こうで戦わせるには、兵を乗せる船だけでは足りない。
武器、食糧、水、船を操る人員を揃え、九州から朝鮮半島まで補給を続ける必要がある。
白村江は、663年8月になって突然始まった戦争ではない。
660年の百済滅亡から約3年間、倭国が人と物資を送り続けた百済復興戦争の最後の局面だった。
決戦直前、豊璋が鬼室福信を殺す
倭国から大軍が送られたころ、百済復興勢力の内部では深刻な対立が起きていた。
王として迎えられた豊璋と、復興運動を立ち上げた鬼室福信の関係が悪化していたのである。
『日本書紀』によれば、663年6月、豊璋は福信が謀反を企てていると疑い、捕らえた。
福信は処刑される。
百済滅亡後、兵を集めて復興運動を支えてきた中心人物を、決戦のわずか2か月ほど前に失った。
中国側・朝鮮側の史料でも豊璋と福信の対立は確認できるが、対立に至る詳しい事情やどちらが先に相手を排除しようとしたのかについては記録に違いがある。
唐・新羅側は、この混乱を逃さなかった。
目標は周留城に定められた。
唐軍は水路、新羅軍は陸路から周留城へ迫った
唐・新羅側の作戦は、海だけで完結していなかった。
唐将の孫仁師、劉仁願らと新羅軍は陸路から周留城へ進み、劉仁軌は水軍を率いて白江へ向かった。
周留城を陸と水の両方から圧迫する形である。
倭国側にも新たな増援が近づいていた。
『日本書紀』には8月、廬原君臣が率いる1万余人の援軍が到着するとの知らせを受けた豊璋が、これを迎えるため白村へ向かったとある。
この1万余人と3月の2万7000人をそのまま足して「倭軍3万7000人」とすることはできない。
各部隊が同じ時点で同じ戦場にいたのか、記録された兵数がどこまで実数を反映しているのか分からないためである。
8月27日、倭国から来た船団と唐水軍が白村江付近で接触した。
白村江の正確な位置にも異説が残るが、朝鮮半島西南部を流れる現在の錦江河口付近に求める説が有力である。
8月27日――倭水軍は最初の戦闘で退く
最初の戦闘について、『日本書紀』の記録は長くない。
倭軍が唐水軍と戦い、不利となって退いたこと、唐側が陣形を崩さずに留まったことが記されている。
倭国・百済側は翌日にもう一度攻撃することを決めた。
前日の戦闘で唐軍を崩せなかった以上、本来なら敵の陣形や水路の状態を見ながら戦い方を組み直す必要がある。
28日の攻撃は、そうした準備が十分だったとは読み取りにくい。
8月28日――倭軍、唐の船団へ突入する
翌28日、倭国・百済側の諸将は再び唐軍へ向かった。
『日本書紀』は、この日の判断をかなり厳しく記している。
倭国側は十分に状況を見極めないまま、自軍が先を争って攻めれば唐軍は退くだろうと考え、隊列の乱れた中軍を送り込んだという。
唐水軍は陣形を保っている。
そこへ倭船が接近した。
唐軍は左右から船を動かし、倭国側の船団を挟み込んだ。
倭船は狭い範囲に密集する。
前へ進もうとする船、退こうとする船、向きを変えようとする船が重なり、動きが取れなくなった。
『日本書紀』には、船の舳先と船尾を回すことさえできなくなった様子が記されている。
水上戦では、船を自由に動かせなくなれば戦列を維持できない。
乗っている兵も、陸上のように好きな方向へ逃げられない。
唐軍の包囲を受けた倭軍の船団は崩れた。
多くの兵が水へ落ち、溺死者が出た。
「潮を読めなかったから負けた」とは言い切れない
白村江については、「倭軍は潮の流れを知らずに攻撃して敗れた」という説明を見かけることがある。
『日本書紀』には、倭国側が「気象を観ず」に戦ったという趣旨の記述がある。
ここから風向きや潮流を無視したと解釈することはできるものの、史料に「満潮と干潮を読み違えたため敗れた」と具体的に書かれているわけではない。
船の大きさについても同じで、唐軍が大型船、倭軍が小型船だったことだけで勝敗を説明できるほど詳しい比較資料は残っていない。
史料から追いやすいのは、前日の戦闘で倭軍がすでに退けられていたこと、唐水軍が陣形を維持していたこと、翌日に倭国側が隊列の整わない状態で攻撃したこと、その船団を唐軍が左右から包囲したことである。
白村江の敗北は、一つの失策だけで決まった戦いとして描かない方が実態に近い。
唐・新羅側は周留城への陸上攻撃と水軍の行動を連動させていた。百済復興側では決戦直前に豊璋と福信の対立が起き、長年戦ってきた福信を失っている。
そこへ海上での判断と陣形の乱れが重なった。
唐側は「四戦四勝、倭船400艘を焼く」と記した
中国側の史料では、白江口での戦闘はさらに激しく描かれている。
唐軍は倭軍と四度戦い、そのすべてに勝利した。
焼いた倭船は400艘。
炎と煙が天を覆い、海面まで赤く染まったという趣旨の記述が残る。
戦勝を記録する側の数字なので、そのまま400艘すべてを確認された撃沈・焼失船とみなす必要はない。
『日本書紀』側には、この400艘という数字は出てこない。
それでも、中国側が大規模な水上戦として記録し、日本側も多数の溺死者を伴う敗北を記している。
倭国から来た船団が大きな打撃を受けたことに疑いはない。
戦場では、朴市秦造田来津も命を落とした。
『日本書紀』は田来津が退かずに戦い、数十人を斬った末に戦死したと描いている。
勇壮な最期の細部は『日本書紀』側の叙述として見る必要があるが、百済救援軍の将の一人が白村江で死亡したことは、倭国側の損害の大きさを伝えている。
豊璋は高句麗へ逃れた
海上で倭軍が敗れると、百済復興軍の形勢も持ちこたえられなくなった。
王として倭国から送り返された豊璋は、船で高句麗へ逃れた。
周留城にも唐・新羅軍が迫る。
王を失い、鬼室福信もすでに死んでいる。倭国から来た水軍も白村江で敗れた。
城内では降伏する者が相次ぎ、百済復興運動は急速に崩れていった。
百済が唐・新羅によって滅ぼされたのが660年。
福信らが抵抗を続け、倭国から豊璋と援軍を迎え、再び百済を立てようとした期間は約3年に及んだ。
その最後に起きた決戦が白村江だった。
倭国はなぜ、百済のためにここまで戦ったのか
白村江への道をたどると、倭国が「友好国の百済を助けるため」だけに参戦したとは説明しきれない。
百済と倭国には長い外交関係があり、王族や渡来人を通じた人的な結びつきもあった。
同時に、660年の百済滅亡によって東アジアの勢力関係そのものが変わっている。
新羅と結んだ唐が朝鮮半島南部まで勢力を伸ばし、百済という倭国の重要な相手が消えた。
倭王権は豊璋を百済王として送り返し、兵、船、武器、食糧を投入することで、朝鮮半島に百済を復活させようとした。
百済を再建できれば、倭国にとって従来の外交関係を残すことができる。
失敗すれば、海の向こうには唐・新羅という新しい勢力配置が残る。
斉明天皇が筑紫へ移り、その死後も中大兄皇子が派兵を続けた背景には、そうした状況があった。
663年8月、倭国はその賭けに敗れた。
百済は復活せず、倭国から海を越えて送られた軍勢は帰国することになる。
敗戦後、倭王権はすぐに北部九州から瀬戸内海にかけて防備を固め始めた。翌664年には筑紫に水城を築き、665年には大野城や基肄城が整備される。現在も太宰府に残る水城は、全長約1.2キロに及ぶ巨大な土塁である。
なぜ、敗れた直後の倭国がこれほど急いで防御施設を築いたのか。
白村江の敗戦によって、中大兄皇子たちが次に向き合った問題がそこにあった。
次の記事では、白村江の敗戦後、中大兄皇子が水城・山城を築き、近江へ政治の中心を移していくまでを追う。
白村江の戦いを、東アジア全体からもう少し深く知りたい方へ
白村江だけを見ても、なぜ倭国が海を越えて大軍を送ったのかは分かりにくい。
『白村江―古代日本の朝鮮半島支配とその終焉』では、百済・新羅・高句麗と倭国の関係から、百済復興戦争、663年の白村江、その後の倭国までを扱っています。
「なぜ倭国は百済を助けたのか」「敗戦によって何が変わったのか」を、さらに掘り下げたい方におすすめです。
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