第93回
保元元年(1156)7月11日未明。
夜明け前の京都を、三つの武士団が東へ進んでいた。
二条大路を進む平清盛、300余騎。
大炊御門大路を進む源義朝、200余騎。
近衛大路を進む源義康、100余騎。
同時代の日記『兵範記』が記す兵力だけで600騎を超える。騎馬武者には徒歩の従者も付き従うため、実際に動いた人数はさらに多かったと考えられる。
彼らが向かったのは、鴨川の東にあった白河北殿だった。
館には崇徳上皇と左大臣・藤原頼長が入り、その周囲を源為義、源為朝、平忠正らが守っている。
義朝がこれから攻める陣には、父・為義と弟たちがいる。
清盛の前には、叔父・忠正がいる。
皇室では崇徳上皇と後白河天皇、摂関家では藤原忠通と頼長、河内源氏では為義と義朝、伊勢平氏では忠正と清盛が別々の陣営に立った。
寅の刻。現在の時刻で午前4時ごろ。
矢が飛び、馬が走り、京都の東側で戦闘が始まった。
決着はその日の朝についた。
白河北殿は炎に包まれ、崇徳上皇方は崩壊する。
戦闘時間は数時間ほどだったとみられている。
朝廷内部の政治対立が、京都で武士同士が殺し合う戦争へ変わった。さらに戦後には、敗れた武士たちへ300年以上途絶えていた死刑が復活する。
後世、『愚管抄』を書いた慈円は、鳥羽法皇の死後に乱が起こり、そこから「武者の世」になったと振り返った。
なぜ、わずか数日のうちに京都は戦場へ変わったのか。
その火種は、何十年も前から皇室と摂関家の中に積み重なっていた。
崇徳天皇、23歳で譲位する
崇徳天皇は元永2年(1119)に生まれ、保安4年(1123)、数え5歳で即位した。
当時、朝廷を大きく動かしていたのは白河法皇だった。1129年に白河法皇が死去すると、今度は鳥羽上皇が院政を始める。
崇徳は天皇だったが、政治の主導権は父・鳥羽上皇の手にあった。
永治元年(1141)、23歳になった崇徳天皇は譲位する。
次の天皇は、鳥羽上皇と美福門院・藤原得子の子、体仁親王だった。わずか3歳で即位した近衛天皇である。
ここで崇徳の立場は大きく変わる。
天皇から上皇となったものの、鳥羽上皇はそのまま院政を続けた。崇徳が「治天の君」となって朝廷政治を主導する機会は訪れない。
さらに、近衛への譲位宣命では体仁親王が崇徳の「皇太子」ではなく「皇太弟」として扱われた。
皇太子であれば崇徳の子のような位置づけになるが、皇太弟なら弟として皇位を継いだ形になる。
崇徳の血統から次の天皇を出し、自ら院政を行う道は細くなった。
それでも崇徳には息子がいた。
重仁親王である。
その重仁に皇位が巡る可能性が再び浮かんだのが、久寿2年(1155)だった。
近衛天皇が17歳で死去――重仁親王は選ばれなかった
久寿2年7月23日、近衛天皇が17歳で死去した。
皇子はいない。
次の天皇を誰にするかが一気に政治問題となった。
候補の一人が、崇徳上皇の子・重仁親王だった。
重仁が即位すれば、その父である崇徳が院政を行う可能性も生まれる。
だが、実際に即位したのは鳥羽法皇の第四皇子・雅仁親王だった。
これが後白河天皇である。
後白河は即位時29歳。それまで皇位継承の本命と見られてきた人物ではなく、むしろ後白河の子・守仁親王が将来の天皇候補として重視されていた。
守仁は美福門院の養子となっていた。ただ、父の雅仁が即位しないまま、その子の守仁を先に天皇とすることには皇位継承上の難しさがあった。
そこで雅仁が一度即位し、その後に守仁へ皇位を渡す流れが選ばれたと考えられている。
崇徳の子・重仁はここでも外れた。
1141年の譲位から14年。崇徳は上皇のまま、政治の頂点へ戻れない時間を重ねていた。
藤原摂関家も真っ二つになっていた
同じころ、藤原摂関家ではさらに露骨な一族争いが続いていた。
元関白・藤原忠実には二人の有力な息子がいた。
長男・藤原忠通。
次男・藤原頼長。
忠通は長く摂政・関白を務めた。一方、父の忠実は次第に頼長を高く評価し、後継者として押し上げるようになる。
久安6年(1150)、忠実は忠通に頼長への摂政譲渡を求めた。忠通が応じなかったため、忠実は長男を義絶し、藤原氏の氏長者を頼長へ移した。
翌1151年、頼長は内覧となる。
朝廷の文書を事前に見ることができる重要な立場で、頼長は政治の中枢へ上った。
ところが1155年、近衛天皇の死を境に風向きが変わる。
近衛の病気をめぐって忠実・頼長父子による呪詛の噂が広まり、頼長は鳥羽法皇の信任を失っていく。この呪詛そのものが事実だったかは確認できない。
政治的には忠通が復権し、頼長は追い込まれた。
皇位継承から外れた崇徳上皇。摂関家の主導権を失いつつある頼長。
1156年夏、この二人が同じ側に立つ。
7月2日、鳥羽法皇が死ぬ
保元元年(1156)5月ごろから、鳥羽法皇の病状は悪化していた。
朝廷ではすでに警戒が始まっている。6月には源義朝や源義康らの武士が後白河天皇の御所警護に入った。
7月2日、鳥羽法皇が54歳で崩御した。
1129年以来、長く朝廷政治の中心にいた人物が消えた瞬間だった。
その後の動きは速い。
7月5日、後白河天皇方は京都の武士に対する統制を強める。
6日には頼長の家人・源親治が捕らえられた。
8日には、摂関家領から武士を集めることを禁じる命令が出される。さらに源義朝らが摂関家の重要拠点だった東三条殿を押さえた。
後白河天皇側は、頼長側が兵力を整える前に行動を重ねている。
7月9日、崇徳上皇は白河北殿へ移った。
翌10日、頼長も白河北殿に入り、源為義、平忠正らの武士たちが集結する。
一方、後白河天皇側では清盛や義朝らが高松殿周辺に集まった。
鴨川を挟んで、京都に二つの武装勢力が向かい合った。
大蔵合戦から11か月――為義と義朝が別陣営へ
白河北殿に入った源為義は、藤原頼長との結びつきが深かった。
1140年代から頼長の家人として活動しており、保元の乱でも頼長・崇徳上皇側へ加わった。
その長男・源義朝は後白河天皇側である。
前年1155年8月には、義朝の長男・義平が、為義の別の息子・義賢を武蔵国で討っていた。
大蔵合戦である。
義賢の死後には、その仇討ちに動いた源頼賢を義朝が追討するよう命じられるなど、河内源氏の内部ではすでに対立が表面化していた。
そして1156年7月、父と長男が別々の旗の下に入った。
為義側には頼賢、頼仲、為宗、為成、為朝らの息子たちが加わる。
義朝は父と弟たちが守る白河北殿を攻める側に回った。
大蔵合戦から11か月しか経っていない。
河内源氏の亀裂は、東国の一族争いから京都の政変へそのままつながっていった。
清盛の叔父・平忠正も上皇方へ
平氏も一族すべてが清盛に従ったわけではなかった。
後白河天皇方の主力となった平清盛は、このとき39歳。
父・忠盛は1153年に死去しており、清盛は伊勢平氏の中心人物となっていた。
その叔父・平忠正は崇徳上皇方に入った。
忠正は以前から崇徳上皇や頼長との関係を持っていた。
武士たちは血縁だけで動いていたわけではない。院、天皇、摂関家など複数の権力者に仕え、それぞれが長年築いてきた主従関係を持っていた。
その関係が、1156年7月には一族を切り分けた。
7月10日夜――先に動くのはどちらか
白河北殿では軍議が行われたと後世の史料は伝える。
ここで有名なのが、源為義の八男・源為朝による夜襲提案である。
『保元物語』では、為朝が「敵の兵が整う前に高松殿を夜襲し、火を放って後白河天皇を押さえるべきだ」と主張する。頼長は大和からの援軍を待つ意向を示し、提案を退けた。
一方、『愚管抄』は夜襲を提案した人物を父の為義としている。
誰がどの言葉で提案したのかは一致しない。軍議の細かな会話は『保元物語』の物語的な描写として読む必要がある。
確かなのは、上皇方が10日夜の段階で大規模な攻撃へ出なかったことだ。
後白河天皇側では、清盛と義朝が召されて合戦の方策を奏上したことを『兵範記』が記している。
その夜のうちに攻撃方針が固まり、軍勢は出撃準備に入った。
戦いの主導権は天皇方へ移っていく。
清盛300余騎、義朝200余騎、義康100余騎
『兵範記』が伝える天皇方の主力は具体的である。
平清盛 300余騎。
源義朝 200余騎。
源義康 100余騎。
さらに戦闘が始まったあと、源頼政、源重成、平信兼らも増援として送り込まれた。
少なくとも600騎を超える兵が最初から三方向へ分かれて動き、必要に応じて新手も投入できる態勢だった。
上皇方の正確な兵数は同時代史料から確定できない。
後世の『保元物語』は双方の兵数をさらに大きく記すが、軍記物語の数字をそのまま実数として使うことはできない。
ただ、後白河天皇方が清盛・義朝・義康という有力武士を、複数の進路から白河北殿へ向かったことは重要である。
7月11日未明。
清盛軍は二条大路、義朝軍は大炊御門大路、義康軍は近衛大路を東へ進んだ。
白河北殿のある白河へ向かうには鴨川を越えなければならない。
暗闇の中で馬蹄の音が近づき、上皇方も迎撃態勢に入った。
寅の刻――白河で矢戦が始まる
戦闘開始は寅の刻、午前4時ごろと伝わる。
この時点で、まだ夜は完全には明けていない。
京都の中心部から東へ進んできた天皇方は、鴨川を越えて白河北殿周辺へ迫った。
『保元物語』では、白河北殿の門をめぐって激しい攻防が続いたように描かれている。一方、実際の戦場は館の門前だけに限定されず、鴨川周辺から法勝寺・白河一帯にかけて広がっていた可能性も指摘されている。
ここから先、誰が誰を射たか、どの門で何騎が戦ったかという細部は、
ほぼ『保元物語』に頼ることになる。
その点を踏まえれば、軍記が描いた戦場はかなり面白い。
上皇方で最も目立つのは、やはり源為朝だった。
『保元物語』の為朝は、身長七尺、左腕が右腕より四寸長く、常人には引けない強弓を使う怪物的な武者として登場する。
清盛方の伊藤景綱らが為朝の陣へ迫ると、為朝の矢が鎧を貫き、後ろにいる武者まで傷つけたという。
清盛軍は為朝が守る場所を強引に突破せず、別方向へ回ったと物語は続ける。
もちろん、七尺の巨体、一矢で複数人を貫く場面、個々の武者の死傷数まで同時代史料で確認することはできない。
為朝が強弓の使い手として名高かったこと自体は、後年の『吾妻鏡』にもその評判が残っている。
『保元物語』は、その実在の武勇を大きく膨らませて「鎮西八郎為朝」という英雄像を作ったと考えるのが自然だろう。
義朝と為朝――兄弟が戦場で向き合う
『保元物語』の戦場では、やがて義朝軍が為朝の前へ進む。
ここで向き合うのは異母兄弟だった。
兄・義朝は後白河天皇の命を受けて攻める側。
弟・為朝は父・為義に従い、崇徳上皇方の陣を守る側である。
物語では、義朝の郎党・鎌田正清が為朝の激しい射撃に押されて退き、義朝のもとへ戻ってその強さを報告する。
義朝は坂東武者たちを前へ出す。
山内首藤俊通・俊綱父子、海老名季定、波多野延景らが名を連ね、二百余騎で攻めたと『保元物語』は描く。
為朝も退かず、法勝寺の西側付近で何度も引き返して戦ったという。
ここには、当時の河内源氏が抱えていた分裂がそのまま戦場へ現れている。
義朝の軍勢には東国で結びついた坂東武者がいる。
その正面には父・為義の陣と弟・為朝がいる。
前年の大蔵合戦では義朝の子・義平が叔父・義賢を討った。そして今度は義朝自身が父と弟たちへ兵を向けていた。
東門でも戦う――上皇方は簡単には崩れなかった
『保元物語』では、戦闘は為朝の陣だけで続いたわけではない。
源頼政らが東側から攻め寄せると、上皇方では平忠正や多田頼憲らが迎え撃つ。
為義も息子たちとともに陣を支えた。
敵味方が押しては退き、また押し返す。
天皇方は兵力で優勢だったが、館と周辺を守る上皇方もすぐには崩れなかった。
このため天皇方は新手を投入して圧力を強めていった。
同時代の『兵範記』にも、戦闘の途中で頼政・重成・信兼らが追加派遣されたことが記されている。
最初の一撃だけで決着した戦いではなく、数時間にわたって攻撃と迎撃が続いたことがうかがえる。
それでも時間がたつほど、兵力を追加できる天皇方が有利になっていった。
義朝が選んだ「火」――白河北殿を焼く
正面攻撃だけでは守りを崩しきれない。
そこで戦いを終わらせたのが放火だった。
『兵範記』からも、白河北殿が焼かれ、上皇方が敗走したことは確認できる。
『保元物語』では、義朝が「このまま攻めても破れない。火をかけるしかない」と朝廷へ申し入れたとする。
近くには法勝寺など大寺院があり、火が広がれば大きな被害が出る危険があった。
物語では、信西が後白河天皇の意向を受けて攻撃続行を認めたため、白河北殿の西にあった藤原家成邸へ火を放ったという。
折からの西風にあおられ、炎は白河北殿へ迫った。
この「家成邸から火を移した」という細部は『保元物語』の記述であり、そのまま同時代史料で裏付けられるわけではない。
ただ、火が戦況を決定的に変えたことは確かである。
木造の館が密集する白河で火勢が強まれば、守備側は戦列を維持できない。
武士だけなら退路を選べても、上皇の御所には女房や従者もいる。
煙と炎が広がり、館の内外は混乱した。
辰の刻、午前8時ごろまでには白河北殿が破れたと『保元物語』は伝える。
午前4時ごろに始まった戦いは、約4時間で大勢が決したことになる。
崇徳上皇と頼長が脱出する
白河北殿が炎に包まれると、崇徳上皇は館を脱出した。
頼長も逃走する。
上皇方の武士たちも四散した。
天皇方は周辺で残敵を捜し、上皇や頼長、為義らの関係する邸宅も追捕・焼却の対象となった。
昼ごろには清盛・義朝らが帰参し、京都での主要な戦闘は終わった。
半日に満たない。
それでも崇徳上皇と頼長が政治的に再起できる可能性は、この朝だけでほぼ消えた。
頼長は逃走中に矢傷を負ったとされ、奈良方面へ向かった。
父・忠実を頼ったが受け入れられず、傷が悪化して死亡した。
37歳だった。
『台記』という詳細な日記を残した頼長自身が、その日記を二度と書けない状態で戦場を去ったのである。
崇徳上皇、讃岐へ流される
崇徳上皇は逃亡後、仁和寺へ身を寄せ、やがて朝廷側に出頭した。
7月23日、讃岐国への配流が決まる。
現在の香川県である。
崇徳はその後、一度も京都へ戻れなかった。
長寛2年(1164)、配流から8年後に讃岐で死去する。46歳だった。
後世には崇徳院の怨霊伝説が大きく発達するが、1156年の時点で崇徳を追い詰めたのは、皇位継承と院政をめぐる現実の政治だった。
近衛天皇の死後、重仁親王は皇位につけず、後白河天皇が即位した。
鳥羽法皇の死によって最後の調整役が消えると、政治対立はわずか9日で武力衝突へ変わった。
清盛は叔父を、義朝は父を処刑する
戦場から逃れた武士たちは、やがて次々に捕らえられた。
ここから保元の乱は、戦闘とは別の重さを見せる。
平忠正とその子らは捕縛され、7月28日に処刑された。
処刑を担ったのは甥の平清盛だった。
7月30日には源為義と、その息子たちが処刑される。
為義の処刑を担ったのは長男・源義朝である。
『保元物語』は、義朝が父の助命を求め、それでも許されず苦悩する姿を詳しく描く。
その会話や心理描写は軍記物語の領域だが、為義が敗戦後に降伏し、死刑に処されたこと、義朝がその執行に関わったことは史実として押さえられる。
為義は60歳。
1109年、数え14歳で源義綱追討に加わってから47年が経っていた。
最後は長男が勝者の側に立ち、自分は敗者として斬られた。
河内源氏の一族内部で続いてきた亀裂は、ここで最も残酷な形になった。
810年以来、300年以上途絶えていた死刑が復活した
為義や忠正の処刑は、単に敗将が斬られたという話にとどまらない。
平安朝では、中央の政治事件で死刑を実際に執行することが長く避けられていた。
一般に、弘仁元年(810)の薬子の変以来、政治事件に関わる死刑は300年以上途絶えていたとされる。
流罪や官職剥奪で処分する慣例が続いていたところへ、1156年に死刑が戻った。
平忠正。
源為義。
その子ら。
敗者となった武士は首を斬られた。
為朝は生き残り、伝説になった
為義の息子の中で、源為朝は戦場から逃れた。
その後しばらく潜伏したが捕らえられ、伊豆大島へ流される。
『保元物語』では、朝廷が為朝の弓を恐れ、腕の腱を切ってから流刑にしたと語る。
さらに伊豆諸島で勢力を持ち、最後は討伐軍に追い詰められて自害したという物語へ続く。
後世には「為朝が琉球へ渡り、王家の祖となった」という伝説まで生まれた。
保元の乱の戦場でわずか数時間戦った一武者が、のちに日本史屈指の豪傑へ変わっていったのである。
その出発点が、白河北殿での強弓伝説だった。
同じ勝者だった清盛と義朝
保元の乱で後白河天皇方の主力となったのは、平清盛と源義朝だった。
清盛は300余騎。義朝は200余騎。
両者とも京都の戦闘を勝ち抜き、朝廷に対して軍事力を示した。
ただ、戦後に背負ったものは違う。
清盛は叔父・忠正を失ったものの、父・忠盛から継いだ伊勢平氏の中核は維持していた。
義朝は父・為義を失い、弟たちの多くも処刑された。前年には義賢も大蔵合戦で倒れている。
河内源氏は保元の乱の勝敗とは別に、一門そのものを大きく減らした。
それでも義朝は勝者だった。
清盛も勝者だった。
1156年7月11日、二人は同じ側で白河北殿を攻めている。
その関係が崩れるまで、あと3年しかなかった。
保元の乱が「武者の世」の始まりと呼ばれた理由
保元の乱の戦闘は、全国を巻き込む大戦争ではなかった。
戦場は京都の白河周辺が中心で、主要な戦闘は7月11日の朝だけで決着している。
それでも歴史上の意味は非常に大きい。
皇位継承をめぐる対立。摂関家の兄弟争い。院と天皇をめぐる政治抗争。
本来は朝廷内部で処理されてきた問題に、武士が軍勢を率いて入り込んだ。
清盛、義朝、義康、為義、為朝、忠正らが京都で実際に弓を引き、館を焼き、勝敗を決めた。
戦いが終わると、勝った側の武士が敗れた親族を処刑した。
慈円は『愚管抄』で、鳥羽法皇の死後に乱が起こり、そこから「武者の世」になったと記している。
1156年を境に武士が朝廷を支配したわけではない。後白河天皇も藤原氏も、その後長く政治の中心に残る。
ただ、京都の政治を決める方法が変わった。
言葉と人事だけで終わらず、最後には何百騎もの武士が動く。
その事実を公家も武士も目の前で見た。
保元元年7月11日。
父と子、兄と弟、叔父と甥が敵味方に分かれた朝は、数時間で終わった。
そして3年後。
この日、同じ陣営で戦った平清盛と源義朝が、今度は京都を二つに割って戦う。
平治の乱である。


コメント