第97回
平治2年(1160)正月3日。
尾張国知多郡野間で、一人の武将が殺された。
源義朝。
数え38歳だった。
ほんの数日前まで、義朝は京都で軍勢を率いていた。
藤原信頼とともに後白河上皇の御所・三条殿を襲い、
信西を死に追い込み、一時は朝廷の主導権まで握った。
それが二条天皇の脱出を境に崩れ、平清盛との戦いに敗れると、義朝は東海道をひたすら東へ逃げた。
一緒に京都を出た息子たちも、次々と離れていく。
13歳の頼朝は途中ではぐれた。
次男・朝長は負傷。
長男・義平も別行動となった。
それでも義朝は東へ向かった。
戻りたかった場所は坂東だった。
相模、上総、下総。
20代のころから土地をめぐる争いへ入り込み、武士たちと関係を結び、自分の力を築いてきた土地である。
京都で負けても、坂東まで帰ればまだ兵を集められる。
少なくとも義朝には、その可能性が残っていた。
ところが東国を目前にした尾張で、逃走は終わる。
身を寄せたのは、腹心・鎌田正清の舅にあたる長田忠致だった。
『平治物語』は、入浴中に襲われた義朝が、
「木太刀一本でもあれば」と無念を口にしたと語る。
湯殿での細かな様子や言葉は後世の軍記物語による。しかし義朝が野間で長田忠致らに殺されたことは伝承だけの話ではなく、現在の知多半島にもその最期を伝える史跡が残る。
義朝の人生を振り返ると、奇妙なところがある。
京都で最後まで勝ち残った男ではない。
38歳で殺され、息子の頼朝は流人となった。
にもかかわらず、その後の鎌倉幕府につながる場所をたどっていくと、何度も義朝の名前が出てくる。
若くして東国へ下った。土地争いへ介入した。坂東武士と関係を築いた。
30歳で下野守となった。
保元の乱では父・為義を敵に回して勝利した。
そして平治の乱で、同じ保元の乱を戦った平清盛に敗れた。
頼朝が東国で兵を挙げる20年以上前。
そこを歩き回り、源氏の力をもう一度広げようとしていた人物がいた。
父・源義朝である。
八幡太郎義家の曾孫――それでも家は苦しかった
源義朝は保安4年(1123)に生まれた。
父は源為義。
祖父は一般に源義親とされ、その父が「八幡太郎」源義家である。
つまり義朝は、義家の曾孫にあたる。
血筋だけなら申し分ない。
義家は前九年の役、後三年の役を通じて東国で大きな名声を得た人物だった。
しかし義朝が生まれた1123年、河内源氏は義家の最盛期からかなり状況を変えていた。
義家の子・義親は朝廷から追討され、1108年に平正盛が討ち取ったと報告している。
義家の後継者となった義忠も1109年に殺害された。
その事件をきっかけに義家の弟・義綱一族まで追討される。
父・為義は14歳で義綱追討に参加し、その後は京都で朝廷や院の武力として働き続けた。
一方、そのころ伊勢平氏は着実に上がっていた。
平正盛は白河法皇に接近し、その子・忠盛も鳥羽院との関係を強めた。
忠盛は国司を重ね、西国で財力を蓄え、1132年には内昇殿まで許される。
義朝が少年から青年へ成長するころには、
祖先の武名なら河内源氏。京都での政治力と財力なら伊勢平氏。
そんな差が見え始めていた。
義朝は父と同じ京都だけで生きる道を選ばなかった。
若いうちに東国へ向かう。
この選択が、その後の人生を決めることになる。
「上総御曹司」と呼ばれた若者
義朝が何歳で東国へ下ったのか。誰のもとで最初に生活したのか。
詳しいことは分かっていない。
ただ、若いころから上総・相模などを活動圏としていたことは確かで、後世には「上総御曹司」と呼ばれている。
御曹司とは、名門の若君を指す言葉である。
八幡太郎義家の曾孫が、上総をはじめとする東国で暮らしている。
ここから義朝の独特な経歴が始まった。
河内源氏と東国との縁は義朝が最初ではない。
曾祖父・義家、その父・頼義の時代から、坂東の武士とは深い関係があった。
ただし、100年前の先祖の名声だけで武士が集まるほど現実は甘くない。
12世紀の坂東では、土地をめぐってさまざまな勢力が競争している。
荘園領主。国衙。郡司。現地の武士。
同じ一族の親戚同士でさえ、土地をめぐって争った。
義朝はその中へ入っていく。
源氏の血筋を看板として使いながら、自分に味方する者を増やし、土地を押さえ、少しずつ力を広げる。
20代の義朝は、後世の「鎌倉殿」の父というイメージから想像するより、ずっと荒々しい。
その姿をはっきり伝える事件が残っている。
大庭御厨への乱入である。
1144年、大庭御厨へ乱入する
相模国高座郡にあった大庭御厨。
現在の藤沢市・茅ヶ崎市周辺に広がっていた伊勢神宮領である。
御厨とは、神へ供える物を生産するための荘園だった。
天養元年(1144)9月。
この大庭御厨へ義朝側の勢力が入り込んだ。
義朝は22歳ほど。
事件については、伊勢神宮側の文書『天養記』にかなり具体的な記録が残っている。
義朝側は御厨の一部を「鎌倉郡に属する土地」と主張した。
そして相模国衙側の勢力とも結び、御厨へ進入する。
神人が負傷した。魚や大豆、小豆などが奪われた。
さらに翌月にも大規模な侵入が起きたと訴えられている。
神宮側から見た義朝は、明らかに迷惑な存在だった。
「源氏の名門だから土地の武士から慕われた」という美しい話からは、かなり遠い。
境界をめぐって権利を主張する。
国衙側と組む。必要なら武力を使う。
22歳の義朝は、こうして東国の土地争いへ食い込んでいた。
ここで重要なのは、義朝が何百、何千という武士を完全な家臣として支配していたという話ではない。
土地争いに参加するたび、現地の誰かと結ぶ。
その相手にも敵がいる。
義朝と組めば有利になる武士が出てくる。その積み重ねが、義朝の力になっていった。
血筋だけでは作れない人間関係だった。
下総の相馬御厨にも手を伸ばす
義朝が現れるのは相模だけではない。
下総国の相馬御厨をめぐる争いにも、その名が残っている。
現在の千葉県北西部から茨城県南部にかけて広がった伊勢神宮領だった。
ここでは千葉氏、上総氏、国司側、伊勢神宮などが複雑に土地の権利を争っている。
康治2年(1143)。
義朝は上総常澄と結び、千葉常重から相馬御厨に関する文書を強引に取ったと伝えられる。
さらに1145年には、その土地を伊勢神宮へ寄進する動きを見せた。千葉市が行った千葉常胤に関する講演資料でも、この時期の義朝による介入が紹介されている。
ここでも義朝の動きはかなり強引だった。
土地を奪って自分の直轄領にするだけが目的ではない。
伊勢神宮へ寄進すれば、神宮という大きな権門との関係を利用して土地の権利を守りやすくなる。
平安時代の武士は、刀だけで土地を守っていたわけではなかった。
朝廷。国司。寺社。貴族。
使える権威は何でも使う。
義朝もその世界で生きていた。
そして相馬御厨をめぐる争いに登場する千葉氏は、ずっと後の1180年、義朝の息子・頼朝と深く関わる。
千葉常胤が最初から「義朝の忠実な家臣」だったわけではない。
土地をめぐる争いの中では、義朝に権利を奪われる側にも立っている。
それでも、頼朝が数十年後に房総へ逃れたとき、その土地には父の時代から「源氏」と接点を持ってきた武士たちがいた。
その積み重ねは無視できない。
坂東武士は「源氏の家来」だったのか
義朝の周辺には、三浦氏、山内首藤氏、大庭氏、波多野氏など、
のちの鎌倉時代にも名が出てくる一族がいた。
ここでも注意がいる。
彼らが義朝の家臣団として、一つの命令で動く組織になっていたわけではない。
各氏にはそれぞれの所領があり、敵がいる。
自分の家を守ることが最優先だった。
源氏と結ぶことで得をするなら義朝へ近づく。
情勢が変われば離れる。
実際、大庭氏の一族は後に平氏政権のもとでも活動し、
1180年の石橋山では大庭景親が頼朝を破る側に立つ。
義朝から頼朝まで、東国武士が20年間ずっと源氏への忠誠を守ったという構図ではなかった。
それでも義朝には父・為義にはない強みが生まれている。
京の外に、自分自身の人脈を持っていた。
もし京都で政治的に失敗しても、戻る場所がある。
この感覚は、義朝の最期まで続くことになる。
京都では弟・義賢が先を走っていた
義朝が東国で土地争いに入り込んでいたころ、弟の源義賢は京都にいた。
保延5年(1139)、のちの近衛天皇となる体仁親王の帯刀長に任じられている。
「帯刀先生」と呼ばれた人物である。
若いころの官歴だけを見れば、東国で無官に近い状態だった義朝より義賢の方が華やかだった時期もある。
ところが義賢は事件によって帯刀長を解任され、その後は藤原頼長の周辺へ近づいた。
1150年代になると、今度は義賢も東国へ向かう。
上野から武蔵へ進み、武蔵の有力武士・秩父重隆と結んだ。
南関東で長く活動してきた義朝系。
北側から武蔵へ入ってきた義賢系。
同じ河内源氏の兄弟が、東国で勢力をぶつける形になった。
久寿2年(1155)8月16日。
武蔵国大蔵で戦いが起こる。
義朝の長男・源義平が、叔父・義賢を討った。
義平は数え15歳。
大蔵合戦である。
藤原頼長の日記『台記』にも、義賢が「兄・下野守義朝の子」に武蔵国で殺されたとの知らせが記され、『百錬抄』にも義平と義賢の合戦が載る。
ただ、義朝本人が「弟を殺せ」と命じた証拠までは残っていない。
見えるのは、義朝が築いてきた東国勢力と、義賢・秩父重隆側が武蔵でぶつかり、その最前線に義平がいたという構図である。
源氏の力が東国で広がるほど、一族同士の競争も激しくなっていた。
30歳で下野守――父・為義を追い越す
大蔵合戦の2年前。
仁平3年(1153)、義朝は下野守に任じられた。
数え31歳。
受領である。ここには大きな意味があった。
父・為義は14歳から京都で武士として働きながら、受領にはなれなかった。
その息子の義朝が、30歳そこそこで先に国司となった。
若いころ東国で泥臭い土地争いを繰り返していた男が、今度は朝廷から正式な官職を与えられるところまで上がった。
父子の力関係も変わっていったはずである。
為義には為義の人脈があった。
藤原頼長との関係が深い。
一方の義朝は、東国に自分の基盤を持ち、京都でも独自に官位を上げ始めている。
「為義の長男」というだけの存在から、別の有力武将へ変わりつつあった。
その状態で1156年を迎える。
鳥羽法皇が死去。
京都で保元の乱が始まった。
父と子が敵になる
保元元年(1156)。
崇徳上皇・藤原頼長側と、後白河天皇・藤原忠通側が武力衝突へ向かう。
為義が入ったのは崇徳上皇・頼長側だった。
長年、頼長の家人として働いてきた為義にとって自然な選択だった。
義朝は反対側へ回る。後白河天皇方である。
大蔵合戦から、まだ1年も経っていない。
白河北殿には為義だけでなく、義朝の弟たちも集まった。
頼賢。頼仲。為宗。為成。そして為朝。
長男の義朝だけが、父・弟たちと別の陣営に立つ。
親子の感情だけで説明すると、この分裂は見えにくい。
為義と義朝は、すでに別々の人脈の中で生きていた。
為義には頼長。
義朝には東国の軍事基盤と京都で築き始めた独自の立場がある。
家族だから同じ主君に従うという時代ではなかった。
7月11日未明。
義朝は白河北殿へ向かった。
『兵範記』によれば、その軍勢は200余騎。平清盛は300余騎。源義康は100余騎。
義朝は後白河天皇方の主力だった。
館の向こう側には父と弟たちがいる。
それでも兵を進めた。
保元の乱――勝った義朝が失ったもの
保元の乱の戦闘は数時間で決着した。
上皇方は白河北殿を守ったものの、やがて火を放たれて崩れる。
『保元物語』では、この火攻めを義朝が提案したと描く。
白河北殿を正面から攻め続けても損害が増える。周囲に火を放ち、敵を館から追い出す。
軍記物語らしい義朝の見せ場である。
義朝は勝った。
戦後、官位を上げ、左馬頭となり、昇殿も許される。
祖父・義家から数えても、河内源氏にとって大きな前進だった。
だが義朝が得たものだけを見ると、この戦争の重さを見失う。
父・為義は敗者となった。
多くの弟たちも捕らえられた。
為義は逃亡後、最終的に義朝を頼った。
『保元物語』では、義朝が父の命を助けようと奔走する場面が描かれる。
どこまでが実際の親子の会話だったのかは分からない。
それでも為義が義朝のもとへ出頭し、処刑されたことは事実である。
7月30日、為義と息子たちが斬られた。
義朝もその処刑に関わった。
前年には弟・義賢が死んでいる。
保元の乱では父とさらに多くの弟を失った。
義朝は河内源氏の中で最も大きな力を持つ人物になった。
その代わり、一族そのものは急速に小さくなっていた。
清盛と義朝――同じ勝者だった二人
保元の乱では、平清盛も後白河天皇方にいた。
清盛300余騎。義朝200余騎。
二人は同じ戦場で勝った。
この3年後に平治の乱が起きるため、
「義朝は清盛より恩賞が少ないことを妬んだ」「清盛への不満から反乱した」と説明されることが多い。
確かに保元の乱後、清盛と義朝の差は少しずつ広がっていく。
清盛には父・忠盛が何十年もかけて作ったものがあった。
西国の人脈。受領としての経験。財力。鳥羽院以来の朝廷とのつながり。一門の厚み。
義朝にも東国という強みがあったが、京都での政治的蓄積は清盛ほど厚くない。
それでも、平治の乱を「清盛を妬んだ義朝の反乱」で終わらせると、当時の政局が見えなくなる。
義朝が深く結びついた相手は、後白河上皇の有力な院近臣藤原信頼だった。
信頼は武蔵守を務めた経歴も持つ。
東国に基盤を持つ義朝と、後白河院の近くにいる信頼。
二人が結びつく理由は、単なる感情よりずっと現実的だった。
信頼と組み、京都の政争へ踏み込む
保元の乱後、朝廷で急速に力を持った人物が信西だった。
後白河天皇の側近として政治改革を進め、荘園整理や大内裏再建などを動かした。
その一方で信西一門の力も強まり、反発が広がっていく。
藤原信頼も信西と対立した。
さらに1158年、後白河天皇が二条天皇へ譲位すると、政治はもっと複雑になる。
後白河上皇の院政。二条天皇を支える勢力。信西。藤原信頼。
それぞれの利害が絡み合った。
義朝は信頼側の軍事力となる。
ここまで来ると、義朝は「東国武士の頭領」だけではない。
朝廷内部の政争を、自分の軍事力で動かす位置まで上がっていた。
ところが、そこには危険もあった。
東国で土地争いに介入するのとは規模が違う。
京都の政争で負ければ、一国の所領を失う程度では済まない。
朝敵になる。
1159年12月、義朝はその賭けに出た。
12月9日夜――三条殿を襲う
平治元年(1159)12月9日。
藤原信頼と義朝の軍勢が、後白河上皇の御所三条殿を襲った。
館には火がかかる。
人々が逃げ惑い、多くの犠牲者が出た。
その凄惨な様子は、約100年後に描かれた『平治物語絵巻 三条殿夜討巻』にも残っている。
義朝たちは後白河上皇を確保し、内裏へ移した。
標的の信西はすでに京都を脱出していた。
追手が出る。
信西は大和方面へ逃れたものの、最終的に自害し、首は京都へ運ばれた。
政変の第一段階では、信頼と義朝が完全に勝っていた。
信西は死んだ。後白河上皇を押さえた。二条天皇も内裏にいる。
信頼は官職を配り始める。
義朝も昇進した。
13歳の頼朝まで右兵衛権佐となった。
ほんの数日間、源義朝の家は京都でかつてないほど高い場所へ上がった。
しかし、この成功は長く続かない。
熊野詣へ出ていた清盛が京都へ戻ってくる。
清盛帰京
清盛が京都へ帰ってきても、すぐ義朝を攻撃したわけではない。
信頼・義朝側は後白河上皇と二条天皇を押さえている。
形の上では朝廷そのものを握っていた。
清盛が勝手に攻撃すれば、自分の方が反逆者とされる危険がある。
そこで清盛は動きを抑えながら、二条天皇側の貴族たちと連絡を取った。
勝敗が大きく動いたのは12月25日夜。
二条天皇が内裏から脱出した。
天皇は清盛の本拠・六波羅へ入る。
さらに後白河上皇も信頼側の管理を離れて仁和寺へ移った。
一夜で状況が変わった。
昨日まで義朝側にいた天皇が、今日は清盛の六波羅にいる。
後白河上皇までいない。
朝廷の中心人物を二人とも失った信頼・義朝側は、政治的な根拠を一気に失う。
清盛側には二条天皇がいる。
義朝たちを追討する命令が出る。
戦場で一騎討ちに負ける前に、義朝は政治で大きく後退した。
翌26日、京都で源氏と平氏が激突した。
待賢門――義平と重盛がぶつかる
12月26日の戦いは、後世の『平治物語』に詳しい。
同時代の記録が少ないため、細かな戦闘経過をそのまま実況のように扱うことはできない。
それでも、待賢門など大内裏周辺で源氏・平氏が激突したことは広く伝えられている。
源氏側には義朝。そして長男の義平。
平氏側には清盛の長男重盛。
大蔵合戦で15歳にして叔父・義賢を討った義平は、このとき19歳ほどになっていた。
『平治物語』では、待賢門から大内裏内部へ戦場が広がり、義平が重盛を追い回す姿が描かれる。
重盛が退く。義平が追う。
郎党が主人を守るため割って入る。
紫宸殿付近まで追撃したという華やかな一騎討ちが続く。
どこまで実際にその通り戦ったのかは分からない。
ただし、この場面だけを見ると義朝側が一方的に弱かったわけではない。
源氏方も激しく戦い、一時は平氏軍を押した。
六波羅へ追い込んだ先で、流れが変わる
平氏軍が退く。義朝側は追撃した。
戦場は大内裏から六波羅方面へ移っていく。
六波羅は平清盛の本拠地だった。
義朝から見れば、清盛を倒すならここしかない。
ところが六波羅へ近づくほど、状況は平氏に有利になる。
平氏の兵が集まっている。二条天皇も六波羅にいる。
つまり義朝は、清盛の館を攻めているだけではない。
天皇のいる場所へ兵を向ける形になっていた。
さらに信頼側から離れる武士も出始める。
軍記物語では源頼政らの離脱も描かれる。
味方が減る。
平氏側には新たな兵が加わる。
戦場の勢いも変わった。
義朝は六波羅を落とせなかった。
京都にとどまって再戦する余地もない。
ついに東国へ逃れる。
平治の乱の詳しい戦闘は戦い編で扱ったが、義朝の人生という視点から見ると、ここには一貫した動きがある。
負けた義朝が選んだのは、再び東国だった。
38歳の義朝が最後まで東を目指した理由
京都を脱出した義朝の頭には、坂東があったはずである。
20代で活動した場所。土地争いへ介入した場所。武士たちと関係を作った場所。
三浦氏をはじめ、まだ自分とつながる勢力が残っている。
坂東まで戻れば、平氏に対してもう一度兵を挙げられる可能性がある。
これは義朝の強みだった。
同時に、京都で政治的に孤立した義朝に残された最後の道でもあった。
一行には息子たちがいた。
長男・義平。次男・朝長。三男・頼朝。腹心・鎌田正清。
ところが真冬の敗走は厳しかった。
兵は散り、追手も迫る。
親子は少しずつ離れていく。
13歳の頼朝が雪の中ではぐれる
三男の頼朝は数え13歳。
平治の乱が初陣だったとされる。
父とともに東国へ逃げる途中、頼朝は一行からはぐれた。
『平治物語』では、雪の中で道を失ったと描かれる。
やがて近江国で捕らえられ、京都へ送られた。
反乱の中心人物・義朝の息子。
兄の義平も源氏軍の主力。
処刑されても不思議ではない立場だった。
ところが頼朝は殺されなかった。
後世の『平治物語』などでは、清盛の継母池禅尼が助命を願ったためと語られる。
確かなのは、頼朝が命を許され、伊豆へ流されたことである。
この13歳の少年が、20年後に再び東国で兵を挙げる。
義朝はその未来を知らない。
朝長を失い、義平とも離れる
次男の朝長は、敗走中に負傷した。
『平治物語』では美濃国青墓で動けなくなり、父の足手まといになることを嫌って自ら死を望み、義朝が手を下したと語る。
長男・義平も父と別れた。
軍記では京都へ戻り、清盛を狙ったとされる。
義平はやがて捕らえられ、処刑された。
大蔵合戦で叔父を討ち、平治の乱では平重盛と戦った「悪源太」は、20歳にもならずに死んだ。
京都を出たときには息子たちがいた。
東へ進むほど、一人ずつ消えていく。
最後まで義朝のそばに残ったのが鎌田正清だった。
野間――信じた家で殺される
尾張国知多郡野間。
ここまで来れば、東国は近い。
義朝と正清が頼ったのは長田忠致だった。
忠致は鎌田正清の舅と伝わる。
敗走中の義朝にとって、見知らぬ武士ではない。
最も信頼する郎党の親族である。
ここなら休める。
そう考えたとしても不思議はない。
ところが長田忠致は義朝を殺した。
『平治物語』では湯殿が舞台になる。
武器を外して入浴していた義朝を襲う。
義朝は抵抗しながら、「我に木太刀一本でもあれば」と叫んだという。
現在も愛知県美浜町の野間大坊に伝わる義朝の墓には、木太刀を奉納する風習がある。
軍記の物語が土地の伝承として800年以上生き続けている。
義朝は平清盛との戦場で討死したわけではなかった。
東国まであと少しという場所で、頼った武士に殺された。
ここが義朝の最期をいっそう印象深いものにしている。
義朝は清盛より弱かったのか
平治の乱の結末だけを見れば、答えは簡単に見える。
清盛が勝った。義朝が負けた。
その後、清盛は太政大臣へ上り、義朝は38歳で死んだ。
しかし二人を「強い清盛、弱い義朝」と分けるだけでは、保元・平治の二つの乱は理解しにくい。
保元の乱で動員した兵は、清盛300余騎に対し義朝200余騎。
大きな軍事勢力を持つ武士として、義朝も朝廷から認識されていた。
東国に戻れば、さらに兵を集められる可能性もあった。
平治の乱の京都戦でも、義平ら源氏方が激しく戦った様子が後世まで伝わる。
差が大きく出たのは政治だった。
清盛には父・忠盛の代から積み上げた京都での人脈がある。
後白河院だけでなく、二条天皇側とも関係を持つ。
平治の乱では、二条天皇を六波羅へ迎えたことで一気に官軍となった。
義朝は藤原信頼との関係に深く入った。
信頼側が朝廷を押さえている間は強かった。
二条天皇と後白河上皇を失うと、その基盤が急速に崩れた。
義朝は東国で自分の力を作ることには成功した。
京都でその力を政治権力へ変えるところでは、清盛の方が一枚上だった。
義朝が頼朝へ残したもの
義朝が死んだ1160年。
河内源氏の未来は暗かった。
義平は処刑。朝長は死亡。頼朝は伊豆へ。
範頼は遠江で育つことになり、義経はまだ幼い。
京都から義朝系の源氏はほぼ消えた。
平氏は逆である。
清盛を中心に一門が朝廷で力を伸ばし、官位も財力も増えていった。
20年後、治承4年(1180)。
伊豆にいた頼朝が兵を挙げる。
最初の石橋山では大庭景親に敗れた。
それでも頼朝は海を渡って房総へ向かった。
千葉常胤が加わる。三浦氏もやがて合流する。上総広常も巨大な軍事力を持って頼朝のもとへ来る。
彼らが頼朝へ従った理由は一つではない。
平氏政権への不満。所領問題。地域の対立。
それぞれの計算があった。
「義朝の息子だから」という理由だけで集まったわけではない。
それでも、頼朝が東国へ現れたとき、源氏という名前がまったく知られていなかったわけでもなかった。
頼義、義家、そして義朝。
何世代にもわたって東国と関わってきた記憶が残っている。
その中でも義朝は、若いころから坂東の土地争いへ実際に入り込み、現地の武士と直接関係を持った。
頼朝は父から完成した組織を受け継いだわけではない。
だが、父が歩いた土地へ戻ってきた。
そこには「源氏と関わったことのある武士」がいた。
それは、何もないところから始めるよりはるかに大きかった。
東国へ帰れなかった父、その東国へ帰った息子
義朝の人生には、勝ったあとに何かを失う場面が何度も出てくる。
東国で勢力を広げると、弟・義賢の勢力と衝突した。
保元の乱に勝つと、父と多くの弟を失った。
平治の乱では最初の政変に成功し、信西を倒した。
それでも二条天皇の脱出を境に形勢が崩れ、数日後には京都から逃げている。
最後は、最も頼りにしていた東国へ帰ることもできなかった。
それでも義朝が若いころに東国で築いたものまで、野間で一緒に消えたわけではない。
1180年、20年前に父が目指して届かなかった坂東へ、頼朝が戻ってくる。
頼朝はそこで武士を集め、鎌倉へ入った。
義朝が若いころ活動した相模国鎌倉である。
その後の頼朝は、父と同じやり方を繰り返したわけではない。
東国武士をより強い主従関係でまとめ、朝廷との交渉も重ね、武家政権へつながる仕組みを作っていく。
父を超えた。
ただし、その出発地点には義朝の時代があった。
八幡太郎義家の名声を背負いながら、京都だけに頼らず、20代から東国へ入り、自分の力で人間関係を広げた。
保元の乱で父と戦い、平治の乱で清盛に敗れ、38歳で命を失った。
勝者として終わった人生ではなかった。
それでも、野間で倒れた義朝が最後まで戻ろうとした場所から、20年後に頼朝の時代が始まる。
源義朝は平治の乱で滅びた武将であり、同時に、頼朝より一世代早く東国へ根を張った河内源氏でもあった。


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