第94回
保元元年(1156)7月30日。
京都北郊の船岡山で、源氏の武者たちが処刑された。
中心にいたのは源為義。
祖父は「八幡太郎」の名で知られた源義家。父は朝廷から追討された源義親。長男は源義朝で、その子には源頼朝、範頼、義経がいる。別の息子・義賢からは木曾義仲が生まれた。
鎌倉時代へ続く源氏の系図を眺めると、為義は驚くほど重要な位置にいる。
ところが本人の生涯は、苦い出来事の方が目立つ。
14歳で一族の源義綱を追討し、若くして京都の武力を担った。半世紀近く朝廷や摂関家のもとで働きながら、官位は平忠盛ほど伸びない。
長男・義朝は父とは別に東国で力をつけ、義賢も独自に動き、為朝は九州で騒動を起こした。
晩年には、孫の義平が息子の義賢を討つ。
その翌年、為義自身が保元の乱で義朝と敵味方に分かれた。
そして敗戦後、為義が最後に身を寄せたのも義朝だった。
1109年、14歳の為義は朝廷の命を受けて同族を追う側にいた。
47年後の1156年には、自分が追討される側に回った。
為義の人生をたどると、義家の名声を受け継いだ河内源氏がなぜ一枚岩になれず、平氏に先を越されていったのかがよく見えてくる。
八幡太郎義家の孫として生まれる
源為義は永長元年(1096)生まれとされる。
父は一般に、源義家の子・源義親とされている。後世の系図には義家の子とする異説もあり、出自には史料上の揺れが残るが、現在は義親の子として扱われることが多い。
祖父の義家は、前九年の役と後三年の役を通じて東国に巨大な名声を残した。
後三年の役は朝廷の正式な追討戦として認められず、義家は十分な恩賞を得られなかった。それでも坂東武士との結びつきは強まり、「八幡太郎義家」の名は武門の象徴になっていく。
為義は、その義家の孫として生まれた。
恵まれた血筋だった一方、幼少期の河内源氏はすでに不安定だった。
義家には義親、義忠、義国ら多くの子がおり、弟には義綱、義光がいる。源氏の一族はそれぞれが朝廷や貴族と個別の関係を持ち、独自の所領や家人を抱えていた。
「義家の後継者が決まれば全員が従う」という単純な家ではなかった。
為義が十代になる前後、その複雑さが一気に噴き出す。
父・義親を討ったのは平正盛だった
為義の父・源義親は、義家の有力な後継候補だった。
ところが西国で問題を起こし、対馬へ流される。その後も出雲で官物を奪うなど朝廷への反抗を続け、ついに追討対象となった。
天仁元年(1108)、追討使として出雲へ向かったのが平正盛である。
正盛は義親を討ったと報告し、首級を携えて京都へ凱旋した。
この事件は、為義の人生を考えるうえで象徴的だった。
朝廷に背いた源義親を討って名声を上げたのが、伊勢平氏の平正盛。その子が平忠盛であり、孫が平清盛になる。
一方、義親の子である為義は京都に残った。
のちに源氏と平氏が争う姿だけを見ると、両家は最初から対等な武門だったように思える。実際には12世紀初頭、伊勢平氏は院との結びつきを足場に上昇し、河内源氏は一族内部の混乱を抱えていた。
父を失った為義にも、すぐ次の事件が降りかかる。
14歳で一族を追う――源義綱追討
天仁2年(1109)、源義家の後継者となっていた源義忠が京都で襲撃され、数日後に死亡した。
疑いをかけられたのは、義家の弟・源義綱とその子たちだった。
朝廷は追討を命じる。
その一員として近江へ向かったのが、数え14歳の為義だった。
美濃源氏の源光国らとともに義綱一族を追い、山中へ追い詰める。義綱の子たちは次々に命を落とし、義綱自身も降伏した。
為義はこの功績で左衛門尉に任じられた。
14歳である。
父は前年に朝敵として討たれた。その翌年には自分が朝廷側の武士として同族を追討し、官職を得た。
為義の前半生を象徴する出来事だった。
彼は義家の孫という血筋だけで地位を保ったわけではない。朝廷の命令に従って武力を使い、その働きによって京都で自分の立場を作っていった。
ただ、この追討で為義が「河内源氏全体の絶対的な棟梁」になったと見るのは難しい。
義光の系統からは甲斐源氏や佐竹氏につながる流れが育ち、義家の子・義国の系統も足利・新田へ続いていく。河内源氏はすでに複数の有力家へ枝分かれしつつあった。
為義が握ったのは、義家につながる有力な一系統の中心という位置だった。
京都で働き続けた「六条判官」
若い為義は、京都で朝廷や院の武力として使われた。
当時の京都では、延暦寺や興福寺など大寺院の強訴が政治を揺さぶっていた。
僧兵を率い、神輿や神木を押し立てて都へ入り、要求を突きつける。朝廷にとって非常に扱いづらい相手だった。
為義も、こうした強訴への警備に動員されている。
保安4年(1123)の延暦寺強訴では、平忠盛らとともに防御側へ配置された。京都の治安や院御所の警護を担う「京武者」として、為義は長い期間働いていた。
六条堀河付近に住んだことから、後世には六条判官と呼ばれる。
判官は「はんがん」と読み、衛門尉や検非違使尉などの官職に由来する呼び名である。
為義には、祖父・義家のような東国での大戦争はない。
代わりに残るのは、都で強訴を防ぎ、貴族の命令で人を追い、治安維持に動く姿だった。
その働きは地味に見えるが、平安末期の武士が中央政治へ入り込んでいくうえで重要な仕事だった。
そして同じ場所で、為義より巧みに出世していく武士がいた。
平忠盛である。
同世代の平忠盛は、為義より先へ進んだ
為義と平忠盛は、ほぼ同じ時代を生きた。
二人とも院や朝廷の武力として働き、強訴への対応にも動員されている。
それでも、40代、50代になるころには大きな差がついた。
忠盛は伯耆、越前、備前などの受領を歴任し、西国の国衙支配や瀬戸内海の交通と結びつきながら財力を蓄えた。鳥羽院との関係も深く、内昇殿を許されるほど中央で地位を高めていく。
為義は長く左衛門尉などの低い官職にとどまり、受領として一国を支配する機会にも恵まれなかった。
祖父・義家の名声は圧倒的だった。
しかし12世紀の京都で武士が出世するには、祖先の武名だけでは足りない。院や有力貴族との関係、国司として得られる財力、地方武士との結びつきが必要になっていた。
忠盛はその流れにうまく乗った。
為義は京都の実働武力として働き続けながら、政治的な後ろ盾を別に求めるようになる。
そこで近づいたのが藤原摂関家だった。
藤原頼長のもとへ――50歳を前にした転機
康治2年(1143)ごろから、為義は藤原摂関家の実力者藤原頼長との関係を深めていく。
頼長は藤原忠実の次男で、のちに左大臣へ上った人物である。学問への執念が強く、政治にも厳格だった。後世には「悪左府」と呼ばれた。
為義は頼長の家人として働き、摂関家の所領や家政に関わる武力を担った。
久安2年(1146)には検非違使に任じられている。
検非違使は京都の犯罪捜査、逮捕、裁判、治安維持を担う重要な役職だった。
為義はこのころ50歳前後。
14歳で左衛門尉になってから30年以上が過ぎていた。
長い停滞の末に、摂関家の有力者と結んで新しい足場を作った形になる。
この頼長との関係は、為義の晩年を決定づけた。
1156年、頼長が崇徳上皇側へ追い込まれたとき、為義も同じ陣営に入ることになる。
そのころ為義の家では、もっと厄介な問題が進んでいた。
息子たちが、それぞれ別の場所で力を持ち始めていたのである。
長男・義朝は東国で父を追い越していく
長男の源義朝は、若いころ東国へ下った。
相模国鎌倉を足場に、三浦氏などの坂東武士と結びつき、土地の権益争いにも積極的に介入していく。
康治2年(1143)には下総国の相馬御厨、翌1144年には相模国の大庭御厨をめぐる争いに義朝の名が現れる。
相手は伊勢神宮など巨大な権門につながる荘園だった。
義朝はこうした争いの中で、東国の在地武士を自分の側へ組み込み、独自の軍事基盤を築いた。
仁平3年(1153)、義朝は下野守に任じられる。
国司の長官である受領に、為義より先に到達した。
為義は50代後半。義朝は30代前半だった。
親子の立場は、このころ大きく変わっていた。
京都で長年働いてきた父よりも、東国に武士団を持つ長男の方が朝廷から高い官職を与えられる。
ただし、これをそのまま「父子の決裂」と見る必要はない。
当時の研究では、河内源氏の継承関係は単純な長男相続ではなく、義朝の弟・義賢や頼賢も重要な位置にいたと考えられている。保元の乱以前から、為義の家には複数の有力な息子が並び立っていた。
そしてその構図が、1155年に流血へ変わる。
息子・義賢が孫・義平に討たれる
義朝の弟源義賢は、若いころ京都で近衛天皇の前身・体仁親王に仕え、帯刀長を務めていた。
その後、官職を失うと藤原頼長の周辺で活動し、やがて東国へ向かう。
上野から武蔵へ勢力を伸ばし、秩父重隆と結んだ。
南関東には兄・義朝が築いた勢力がある。
北側から義賢が武蔵へ入る。
両者の競合が表面化したのが、久寿2年(1155)8月16日の大蔵合戦だった。
義朝の長男、数え15歳の源義平が叔父・義賢を武蔵国で討った。
為義にとって義賢は息子、義平は孫である。
家族の中で起きた出来事とは思えないほど激しい。
しかも義賢の死で終わらなかった。
義賢と「父子の約」を結んでいた弟・頼賢が仇討ちのため信濃へ向かい、その頼賢の追討を義朝が命じられる。
1155年秋、河内源氏の内部では義朝系とその兄弟たちの対立が武蔵・信濃まで広がっていた。
為義が一族全員へ号令をかければ動く時代は、すでに無かった。
九州で暴れた八男・為朝――父まで解官される
もう一人、為義の晩年を揺さぶった息子が源為朝だった。
後世「鎮西八郎」と呼ばれる豪傑である。
『保元物語』では身長七尺、常人には扱えない強弓を引く怪物のような武者として描かれる。もちろん、ここには軍記物語の誇張が大きく入っている。
ただ、為朝が若くして九州へ渡り、現地で大きな武力を持ったことは、その後の処分からもうかがえる。
久寿元年(1154)、為朝の九州での行動が朝廷で問題となり、父の為義まで責任を問われて官職を解かれた。
為義は60歳を目前にしていた。
長男・義朝は下野守として東国に基盤を持つ。
義賢も別に動く。
為朝は九州で朝廷を悩ませる。
息子が多いことは、為義の軍事力をそのまま増やすことにはつながらなかった。
むしろ、成長した息子たちが別々の場所で大きな力を持ったことで、河内源氏の中にいくつもの中心が生まれていった。
1156年――為義はなぜ崇徳上皇・頼長側へ入ったのか
保元元年(1156)7月2日、鳥羽法皇が死去した。
皇室では崇徳上皇と後白河天皇をめぐる対立が深まり、摂関家では藤原忠通と頼長の兄弟争いが続いていた。
鳥羽法皇という大きな調整役が消えると、京都の緊張は一気に高まる。
為義は崇徳上皇・藤原頼長側へ入った。
長年頼長の家人として活動してきた経歴を考えれば、自然な選択だった。
為義とともに頼賢、頼仲、為宗、為成、為朝らの息子も白河北殿へ集まる。
ところが長男・義朝は後白河天皇側についた。
前年の大蔵合戦ですでに義朝の子・義平が義賢を討ち、頼賢まで義朝側と対立している。
保元の乱で突然父子が割れたわけではない。
それまでの人脈と主従関係、一族内部の対立が、京都で二つの軍勢として形になった。
7月10日夜、白河北殿には為義と息子たちがいた。
鴨川の向こうでは、義朝が200余騎を率いて攻撃準備を進めていた。
60歳の武者が提案した「夜討ち」
保元の乱には、有名な軍議の場面がある。
『保元物語』では為朝が夜襲を提案し、藤原頼長が退けたと描く。
一方、『愚管抄』では、その提案者は父の為義になっている。
味方は少なく、敵は多い。夜のうちに後白河天皇方の御所を襲うべきだ――という趣旨だった。
どちらが実際に提案したのか、会話の細部までは確定できない。
それでも為義の名が夜襲策と結びついて伝わったことは興味深い。
14歳から追討戦に加わり、京都では強訴への警備を何度も経験した。為義はこのとき60歳前後になっていたが、武力衝突の現場を知らない老人ではなかった。
上皇方はその夜に攻撃へ出なかった。
反対に後白河天皇方が動く。
7月11日未明――息子が200余騎を率いて攻めてくる
7月11日未明。
『兵範記』が記す後白河天皇方の主力は、平清盛300余騎、源義朝200余騎、源義康100余騎だった。戦闘の途中には源頼政らの増援も加わる。
為義が守る白河北殿へ、実の長男が200余騎を率いて迫った。
『保元物語』では為朝が強弓で清盛・義朝方を苦しめる場面が大きく描かれる。為義本人は、若い息子たちを束ねる父として登場することが多い。
戦闘は夜明け前から数時間続いた。
後白河天皇方は複数方向から攻撃し、途中で新手を投入する。最後は白河北殿周辺へ火が放たれ、上皇方の陣は崩れた。
崇徳上皇は脱出。
藤原頼長は逃走中に重傷を負う。
為義も戦場を離れた。
14歳で始まった為義の武人生活にとって、これが最後の戦いになった。
敗走した為義が頼ったのは、敵だった長男・義朝
白河北殿を脱出した為義は、比叡山方面へ逃れた。
『兵範記』によれば、為義は出家したのち、最終的に義朝のもとへ出頭した。
数日前まで敵として戦った長男である。
頼長は致命傷を負い、崇徳上皇も朝廷側へ身柄を押さえられた。上皇方の武士には追捕命令が出されている。
京都で為義の命を救える可能性がある人物を探すならば、勝者となった義朝が最も頼れる存在だった。
後世の『保元物語』は、義朝が父の助命を願ったと詳しく語る。
親子の会話や心情は軍記物語として脚色を含むため、そのまま史実にはできない。
同時代の『兵範記』から確認できるのは、為義が義朝のもとへ現れ、その身柄が朝廷の判断に委ねられたことだった。
朝廷が下した結論は厳しかった。
船岡山で処刑――『保元物語』とは違う最期
保元の乱後、平安朝では久しく避けられていた死刑が実際に執行された。
7月28日には平忠正らが処刑される。
そして7月30日、為義と息子たちにも刑が執行された。
ここは『保元物語』の有名な場面と、同時代史料を分けて見る必要がある。
『保元物語』では、為義は七条朱雀で処刑され、義朝は父を斬る苦しみに直面する。版本によって細部も異なる。
一方、同時代の日記『兵範記』は、為義が息子たちと船岡山で斬られたことを記している。さらに首実検が行われた記録も残る。『愚管抄』も義朝が処刑に関わったと伝えており、為義の死を考えるうえではこちらを重視したい。
生年を1096年とすれば数え61歳。
14歳で義綱追討に加わってから47年後だった。
少年時代には朝廷側に立って一族を追った為義が、最後は朝廷に敗れ、自分の長男が属する勝者側によって処刑された。
偶然とはいえ、為義の人生は最初と最後が奇妙なほどよく似ている。
なぜ為義は、平忠盛のようにはなれなかったのか
為義を「弱い棟梁」「息子をまとめられなかった父」とだけ評価すると、60年近い活動の多くが抜け落ちる。
14歳で左衛門尉となり、京都で院や朝廷の警備を担った。
寺社の強訴に対処し、検非違使となり、藤原頼長の武力として働いた。
半世紀近く中央社会の実務に関わり続けた武士だった。
その一方で、同世代の平忠盛は受領を重ね、院との結びつきを強め、財力と官位の両方を伸ばしていった。
この差には、為義個人の能力だけでは説明しにくい部分がある。
河内源氏は義家の死後、義親・義忠・義綱らをめぐる混乱で一族のまとまりを失った。さらに義家の子や弟たちから複数の有力系統が生まれ、東国ではそれぞれが独自に勢力を築いていく。
為義自身の家でも、義朝は東国、義賢は武蔵、為朝は九州へ進み、それぞれ別の人脈と武力を持った。
一人の家長が一族全体を動かす仕組みより、個々の武士が院・摂関家・国司・在地武士と結びつく仕組みの方が強くなっていた。
為義の敗北から、頼朝・義仲・義経へ
1156年、為義は敗者として死んだ。
しかし、その子孫は消えなかった。
義朝の子には義平、頼朝、範頼、義経。
義賢の子には木曾義仲。
為義の孫たちは、24年後の1180年から始まる治承・寿永の内乱で日本各地を駆け回る。
頼朝は東国武士をまとめて鎌倉を本拠とする。
義仲は信濃・北陸から京都へ進む。
範頼と義経は平氏追討軍を率いる。
祖父の為義がまとめきれなかった河内源氏の枝々から、鎌倉時代を作る武将が次々に現れた。
そして、為義を処刑する側に立った義朝自身も、わずか3年後の平治の乱で平清盛に敗れ、命を落とす。
義家の名声を背負って始まった為義の生涯は、源氏の最盛期ではなく、その分裂を映し出すものになった。
14歳で同族を追討した少年。
京都で半世紀近く働き続けた六条判官。
成長した息子たちが各地へ散り、最後には長男と敵味方に分かれた父。
源為義という人物を追うと、平安末期の武士が「一族」だけでは動かなくなり、主君・所領・地域ごとに別々の道を選び始めた時代が見えてくる。
その複雑な分裂の先に、頼朝たちの時代が待っていた。


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