【人物編Vol.50】平忠盛――源為義と同い年、なぜ平氏だけが出世できたのか?

人物

第95回



仁平3年(1153)1月15日。

平忠盛が58歳で死んだ。

死の直前まで、官位は正四位上。官職は刑部卿。公卿の一歩手前まで来ていた。

左大臣・藤原頼長は『台記』に、忠盛が数か国の国司を務めて巨万の富を蓄え、郎党を各地に抱え、武威も人に勝っていたと記している。しかも人柄は恭しく慎ましく、奢った振る舞いをしなかったという。

あの頼長が、ここまで褒めた。

平忠盛という男が、同時代人からどう見られていたのかがよく分かる。

その跡を継いだのが、35歳の平清盛だった。

清盛はこのあと保元の乱、平治の乱を勝ち抜き、平氏を朝廷の頂点へ押し上げる。仁安2年(1167)には太政大臣にまで昇った。

けれども1153年の時点で、清盛の手元にはすでに大きな財産があった。

京都では院との人脈がある。西国には国司時代から続く足場がある。瀬戸内海には海賊追討を通して築いた武士とのつながりがあり、九州では宋との交易にも接点を持っていた。

これらを一代かけて積み上げたのが、父・忠盛だった。

しかも忠盛には、ちょうど比較したくなる人物がいる。

源為義。

忠盛と為義は、ともに永長元年(1096)生まれだった。

為義の祖父は「八幡太郎」源義家。前九年の役と後三年の役で名を轟かせた、当時屈指の武門である。

一方の忠盛は、白河院のもとでようやく中央へ食い込み始めた伊勢平氏の二代目だった。

10代のころなら、家の格では河内源氏の方が上に見える。

ところが50代になると立場は逆転していた。

為義は受領になれず、晩年には藤原頼長の家人として動く。忠盛は国司を重ね、鳥羽院の側近となり、内裏への昇殿まで許された。

同じ年に生まれ、同じ京都で武士として働きながら、なぜここまで差がついたのか。

忠盛の人生を追うと、清盛の成功が突然始まったものではなかったことが見えてくる。


父・正盛が作った「院に仕える平氏」

平忠盛は永長元年(1096)、平正盛の子として生まれた。

忠盛の家は桓武平氏の一流で、伊勢を重要な基盤としていた。後世「伊勢平氏」と呼ばれる一族である。

この家を京都で押し上げたのが父・正盛だった。

正盛は白河院に仕え、院の身辺を守る武士として地位を高めていく。

大きな転機は天仁元年(1108)の源義親追討だった。

源義親は八幡太郎義家の子で、一般には源為義の父とされる。西国で朝廷に背き、ついに追討の対象となった。

その義親を討つために出雲へ向かったのが平正盛である。

正盛は義親を討ち取ったとして翌1109年に凱旋し、朝廷から大きな評価を受けた。

ここから二つの家の運命が少しずつ離れていく。

源為義にとっては、父が朝敵として討たれた事件だった。

平忠盛にとっては、父が朝廷から認められ、伊勢平氏が一段上へ進んだ事件だった。

忠盛が13歳になるころ、父はすでに白河院から使われる有力武士になっていた。

忠盛はその足場を受け継いで京都へ入った。


13歳で左衛門少尉――若いころは為義とよく似ていた

天仁元年(1108)、忠盛は数え13歳で左衛門少尉となった。

その後は検非違使も務め、永久元年(1113)には従五位下に叙される。18歳だった。

このころの忠盛を見ても、まだ「未来の平家」を感じさせるほど飛び抜けた存在ではない。

京都で警備を行い、犯罪者を追い、必要があれば武装して出動する。朝廷や院に仕える武士として、地道に官歴を重ねていた。

同い年の為義も似た道を歩いている。

為義は14歳で源義綱追討に加わり、左衛門尉となった。保安4年(1123)の延暦寺強訴では、忠盛と為義がそろって防御側に配置されている。

20代までは、二人とも京都で働く武士だった。

違いがはっきりしてくるのは、忠盛が地方の国司を次々と任されるようになってからである。


伯耆から越前へ――国司になるたびに忠盛は強くなった

忠盛は伯耆守、越前守、備前守などを歴任し、その後も美作・尾張・播磨など西国を中心とする国々と深く関わった。

当時の受領は、単なる地方公務員ではない。

一国の行政と徴税を担い、現地の在庁官人や武士を動かし、任期中にはかなりの収入を得ることができた。

受領を経験すれば、京都にいるだけでは得られないものが手に入る。

土地の事情を知る。現地の有力者と顔がつながる。年貢を運ぶ道や港が見えてくる。

そして、何より金が入る。

忠盛は一国で終わらなかった。任期を終えると別の国へ移り、また受領となった。

この積み重ねが大きかった。

京都で院に仕える忠盛と、西国で国司として動く忠盛が、同じ人物の中でつながっていく。

地方で得た財力を京都へ持ち帰れば、院の御願寺造営や献上に使える。院から信頼されれば、さらに良い官職が回ってくる。

忠盛は、この循環を30代までに作り上げていた。


1129年――海賊追討で「海」に出る

大治4年(1129)、忠盛は備前守だった。

この年3月、朝廷から山陽道・南海道の海賊追捕を命じられる。

瀬戸内海では、年貢を運ぶ船や商船を襲う海賊が問題になっていた。備前をはじめ西国に足場を持つ忠盛は、その追討を任された。

ここで忠盛の活動範囲に「海」が加わる。

海賊を追うには、自分の郎党だけでは足りない。沿岸の武士や船を扱う人々、港を押さえる在地勢力との協力が必要になる。

朝廷から追討の権限を与えられて西国を動くことは、そのまま忠盛が現地の武士たちと関係を作る機会にもなった。

同じ1129年7月、白河法皇が死去する。

忠盛にとっては大きな節目だった。父・正盛の代から平氏を引き立ててきた人物がいなくなったからだ。

それでも忠盛の出世は止まらない。

次に院政を担った鳥羽上皇のもとでも重用された。

白河院の武士から、鳥羽院の近臣へ。

忠盛は政権の中心人物が代わっても、自分の居場所を失わなかった。


1132年――三十三間の御堂を造った男

鳥羽院のもとで忠盛が大きな仕事を任された。

白河に造られた得長寿院である。

長承元年(1132)3月13日、得長寿院の供養が行われた。『中右記』にもこの日の記録が残る。

忠盛が造進した観音堂は三十三間の長大な建物で、中央に大きな観音像、その左右に多数の観音像が並んだ。

これほどの造営には莫大な費用がかかる。

忠盛が受領として蓄えた財力は、ここで目に見える形になった。

鳥羽院もその働きに大きく報いた。

忠盛には重任・遷任に関する恩賞が与えられ、さらに内裏への昇殿が許された。

37歳になる年だった。


武士が「殿上人」になった

内昇殿を許されると、忠盛は清涼殿の殿上の間へ出入りできるようになった。

殿上人は、天皇の近くに伺候することを認められた人々である。

忠盛は四位の武士として、その空間へ入った。

しばしば「武士で初めて昇殿した人物」と紹介されるが、平安中期の源頼光らに先例がある。それでも12世紀前半の伊勢平氏にとって、忠盛の昇殿が画期的だったことは変わらない。

父・正盛が白河院の近くまで進み、忠盛はさらに内裏の殿上まで上がった。

三代目の清盛が公卿になる道は、この時点ですでにかなり近くまで延びていた。

ところが『平家物語』は、忠盛の昇殿をめでたい話だけでは終わらせない。

宮中の貴族たちは、新参の武士を簡単には受け入れなかったという。


銀箔を貼った木刀――『平家物語』の「殿上闇討」

『平家物語』巻第一には、忠盛を語るうえで外せない「殿上闇討」がある。

昇殿を許された忠盛を妬んだ殿上人たちが、五節豊明の夜に暗がりで襲おうと企てた。

忠盛はその噂を聞きつける。

節会の日、いつものように宮中へ出た忠盛の腰には、目立つ太刀があった。暗がりで少し抜くと、刃が冷たく光って見えたという。

庭には郎党の平家貞も控えていた。

襲撃を考えていた者たちは手を出さなかった。

ところが宴のあと、忠盛の太刀を調べると本物ではなかった。

木刀に銀箔を貼ったものだった。

本物の刀を殿上で抜けば忠盛の落ち度になる。何も持たなければ襲われるかもしれない。

そこで「抜けば危ない」と思わせるだけの木刀を持っていった。

さらに家貞についても、忠盛が殿上へ連れ込んだわけではなく、庭に控えさせていただけだったという。

『平家物語』では、鳥羽院が事情を聞いて忠盛の用意をむしろ感心したと語る。

もちろん、これは保元・平治の乱より後に成立した軍記物語のエピソードである。木刀の細部まで同時代史料で確認できる話ではない。

ただ、この物語に登場する忠盛は面白い。

腕力で殿上人を黙らせるのではなく、相手に手を出させず、自分も宮中の規則を破らない。

後世の人々は、清盛の父をそんな人物として記憶した。


からかわれても、宮中から消えなかった

『平家物語』にはもう一つ、忠盛が殿上人から嘲笑される場面がある。

忠盛が斜視だったとして、「伊勢平氏」と「瓶子」などを掛けた言葉遊びで囃し立てられたという話である。

こちらも軍記物語の描写として読む必要があるが、忠盛が置かれていた空気は伝わってくる。

官位が上がっても、昇殿を許されても、古くから宮中にいた家柄と同じ扱いをすぐに受けられたわけではなかった。

忠盛はそこで引き返さなかった。

和歌を詠み、歌会にも参加した。家集『平忠盛朝臣集』が残り、勅撰集にも17首が入っている。

海賊を追う武将でありながら、宮中では歌を詠む。

地方では受領として行政を担い、京都へ戻れば院の行事に加わる。

この二つを無理なく往復できたことが、忠盛の大きな強みだった。


1135年――70人の海賊を連れて京都へ戻る

保延元年(1135)4月、忠盛は再び海賊追討使に任じられた。

8月には海賊を捕らえて京都へ戻り、70人を検非違使へ引き渡している。

かなりの人数である。

ただし、この海賊追討には同時代から批判もあった。忠盛が自らに従わない在地勢力まで海賊として処理したのではないか、と疑う声が出ていたのである。

忠盛の側から見れば、朝廷の命を受けて海上の治安を回復する仕事だった。

現地の側から見れば、中央から来た武士が「海賊追討」の名目で西国の勢力関係へ踏み込んでくる。

この二つは両立する。

忠盛が海賊を追うたび、瀬戸内海に平氏の名前が広がった。協力した武士との結びつきも残る。

清盛の時代、平氏が瀬戸内海から九州まで強い影響力を持つようになる。その下地は正盛・忠盛の時代から少しずつ作られていた。


忠盛の目は、さらに海の向こうへ向いた

忠盛の西国との関係を考えるとき、もう一つ欠かせないのが日宋貿易である。

12世紀、日本と宋の間に正式な国交はなかったが、商船の往来は続いていた。

宋から入ってくる陶磁器、香料、薬品、書籍、絹織物などは京都でも珍重された。宋銭も大量に流入していく。

忠盛は鳥羽院領だった肥前国神崎荘の経営に関わり、宋商人との交易にも接点を持ったと考えられている。

ここで大切なのは、忠盛を現代的な「貿易商」と見ることではない。

忠盛には受領としての権限があり、院領を管理する立場があり、西国の武士や港湾・海運につながる人脈があった。

その立場が重なった先に、宋との交易があった。

舶来品を手に入れれば、それ自体が財産になる。院へ献上すれば、京都での評価にもつながる。

西国で得たものを京都へ運び、京都で得た地位を使って再び西国へ進む。

為義と忠盛、同じ武士なのに何が違ったのか

ここで源為義に戻る。

為義も武勇のない人物ではなかった。

14歳で源義綱追討に加わり、京都では強訴への対応や治安維持を何十年も続けた。久安2年(1146)には検非違使にもなっている。

息子には義朝、義賢、為朝らがいる。河内源氏から軍事力が消えたわけでもない。

忠盛との差は、武士として強いか弱いかという一点では測れない。

忠盛の経歴を見ると、仕事が次の仕事を呼んでいる。

父・正盛が白河院に食い込む。

忠盛はその関係を受け継ぎ、国司になる。

国司として財力と西国の人脈を得る。

海賊追討を任され、さらに現地の武士とつながる。

得た財力で鳥羽院の御願寺を造る。

その功績で昇殿と次の官職を得る。

さらに院領の経営や交易へ手を広げる。

ひとつの成功が、そのまま次の足場になっていた。

為義は京都の武力として長く働いたものの、受領として大きな財力を蓄える機会に恵まれず、50歳近くになって藤原頼長との結びつきを強めた。

忠盛の家は、正盛の代から二代かけて院政の中へ深く根を張っていた。

この時間の差は大きい。


家盛の死――清盛が最初から絶対の後継者だったわけではない

忠盛の家を語るとき、長男・清盛だけを見ていると少し単純になる。

忠盛の妻・藤原宗子、のちの池禅尼との間には平家盛がいた。

家盛も若くして官位を上げ、鳥羽院の近くで活動している。宗子の家系や院との関係を考えると、家盛が一門の中でかなり重い位置にいたことは確かである。

しかし久安5年(1149)、家盛は20代半ばで急死した。

その4年後に忠盛も死ぬ。

この間に、清盛が平氏の中心として前面へ出ていった。

忠盛にはほかにも経盛、教盛、頼盛、忠度ら多くの息子がいた。

彼らも朝廷で官職を得て、のちの平氏政権を支える。

忠盛が残したものは清盛一人の財産ではなかった。

一門全体が京都で動けるところまで、家の規模そのものが大きくなっていた。


「清盛は白河法皇の子」――有名な落胤説

平清盛には、白河法皇の落胤だったという有名な伝承がある。

『平家物語』の諸本や『源平盛衰記』などには、白河院と祇園女御周辺の女性との間に生まれた子を忠盛が引き取ったという系統の話が残る。

清盛の実父を白河法皇と確定できる同時代史料はなく、伝承の形も一つではない。

そのため、史実として断定することはできない。

それでもこの話が長く語られたこと自体は興味深い。

清盛があまりにも大きく出世したため、その理由を血筋に求める物語が生まれたのだろう。

ただ、父を白河法皇に置き換えなくても、忠盛が清盛へ残したものは十分大きい。

清盛が35歳で家を継いだとき、平氏はすでに「これから伸びる武士団」ではなく、京都と西国の両方に足を持つ一門になっていた。


正四位上・刑部卿――公卿まであと一歩

忠盛はその後も官位を上げた。

天養元年(1144)には正四位上。

久安年間には播磨守を務め、内蔵頭、院別当なども歴任する。

仁平元年(1151)には刑部卿となった。

武士の家に生まれた忠盛が、60歳になる前に正四位上・刑部卿まで進んだ。

参議などに任じられれば公卿である。

忠盛はそこへ届く前に病に倒れた。

仁平3年(1153)1月、官職を辞し、15日に出家。同日、58歳で死去した。

藤原頼長はその死を惜しんだ。

巨万の富を持つ。郎党が各国にいる。武威も高い。

それなのに、驕らない。

頼長が残した評価を読むと、忠盛が単に「金を持った武士」と見られていたわけではないことが伝わる。

京都の貴族社会で何十年も生き残り、最後にはその貴族から惜しまれて死んだ。


忠盛が死んだ3年後、清盛と為義は敵味方に分かれた

忠盛の死から3年後の保元元年(1156)。

京都で保元の乱が起きる。

清盛は後白河天皇方に入り、『兵範記』によれば300余騎を率いて白河北殿へ向かった。

同じ陣営には源義朝がいた。

その敵側にいたのが、忠盛と同じ1096年生まれの源為義だった。

為義は敗れ、その月のうちに処刑される。

二人の最期はまったく違った。

忠盛は正四位上・刑部卿として病死し、35歳の清盛へ家を渡した。

為義は息子・義朝と敵味方に分かれ、敗者として処刑された。

平氏も完全に一枚岩だったわけではない。保元の乱では忠盛の弟・平忠正が清盛と反対側に立ち、戦後に処刑されている。

それでも伊勢平氏の中核は清盛に残った。

官位も、財力も、西国の人脈も、郎党も、院との関係も、父の代から続いている。

清盛はそれを抱えたまま、次の時代へ進むことができた。


清盛の前に、忠盛がいた

平氏の歴史では、どうしても清盛が大きすぎる。

保元の乱で勝ち、平治の乱で義朝を倒し、太政大臣となり、娘を天皇の后にして、ついには外孫を天皇にする。

そのため、平氏の躍進まで清盛一人の仕事に見えやすい。

実際には三代かかっている。

白河院に近づき、源義親追討で評価を上げた平正盛。

その足場を受け継ぎ、受領として西国へ進み、海賊を追い、財力を蓄え、鳥羽院の殿上まで上がった平忠盛。

そして父祖が集めた力を朝廷の最高権力へ変えていった平清盛。

忠盛が為義と同じ1096年に生まれたことを考えると、この流れはさらに鮮明になる。

八幡太郎義家の孫として生まれた為義より、家格ではまだ下に見えた忠盛が、50年後にははるか先まで進んでいた。

その差を生んだのは、一度の大勝利ではない。

国司として地方へ出る。そこで人と金をつかむ。海へ出る。

院の仕事を引き受ける。得た力を次の官職へつなげる。

忠盛は、その積み重ねを半世紀続けた。

1153年、本人は公卿になる前に死んだ。

だが、その14年後。

息子・清盛が、武士として初めて太政大臣になる。

そこへ続く道の大半は、すでに忠盛が歩いていた。

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