【戦い・事件編】治承三年の政変――平清盛と後白河法皇、20年の協力関係が崩壊

戦い・事件

第101回

治承3年(1179年)11月14日、平清盛が福原から京都へ入った。

『山槐記』は、その軍勢を数千と記している。

翌15日には関白・松殿基房とその子・師家が政界から退けられ、代わって20歳の近衛基通が関白となった。17日には太政大臣・藤原師長をはじめ、公卿、殿上人、受領、検非違使ら多数が官職を失う。

そして20日、後白河法皇は京都南郊の鳥羽殿へ移され、院政は止められた。

わずか1週間ほどの間に、摂関家の主導権も朝廷の人事も大きく入れ替わった。

治承三年の政変である。

清盛と後白河院は、平治の乱後から20年近く協力と対立を繰り返してきた。

清盛の出世そのものが院政と深く結びついており、両者は長いあいだ互いを必要としていた。

その関係が1179年11月、ついに武力を伴う政変へ行き着いた。

きっかけを一つに絞ることはできない。

2年前の鹿ケ谷事件、清盛の娘・盛子の死後に起きた摂関家領をめぐる争い、長男・重盛の死、重盛家が持っていた越前の召し上げ、そして摂関家の後継をめぐる人事。

1179年の夏から秋にかけて、清盛が看過できない問題が立て続けに起こっていた。

鹿ケ谷事件のあとも、清盛と後白河院は協力していた

治承元年(1177年)6月、後白河院近臣の藤原成親、西光、俊寛らが相次いで摘発された。

後世の『平家物語』は、鹿ケ谷の山荘で平氏打倒の密議が行われ、多田行綱の密告によって発覚したと描く。

ただし、現在の研究では、成親と西光を最初から一つの「平氏打倒グループ」とみなす説明には慎重な見方が出ている。両者の政治的立場には違いがあり、それぞれが処罰された事情も一様ではない。

鹿ケ谷事件の詳しい経過は別記事で扱った通りである。

清盛がこの事件を機に院近臣を厳しく処分したことは確かで、西光は処刑、成親は備前へ流されたのち死亡した。俊寛、平康頼、藤原成経らも鬼界ヶ島方面へ流されている。

それでも1177年の段階で、清盛と後白河院が完全に袂を分かったわけではない。

翌治承2年(1178年)11月、高倉天皇の中宮・徳子が言仁親王を出産すると、12月には早くも皇太子に立てられた。徳子は清盛の娘であり、言仁親王は清盛の外孫にあたる。

後白河院にとっても言仁親王は孫である。高倉天皇を中心に据えた政治のもとでは、院と平氏の利害がなお重なる部分が残っていた。

6月17日、平盛子が死去――摂関家領を誰が継ぐのか

治承3年(1179年)6月17日、清盛の娘・平盛子が24歳で死去した。

盛子は関白・近衛基実の妻である。

基実は永万2年(1166年)に若くして亡くなり、その後、基実が握っていた摂関家領の多くは盛子が伝領・管理する形になった。清盛は娘を通じて摂関家の財産や家政に強い影響を及ぼすことができた。

ここは「盛子が藤原氏の所領を私物として所有していた」と考えると分かりにくい。

九条兼実も『玉葉』で、盛子をあくまで一時的な伝領者とみなし、本来の継承者として基実の子・近衛基通を意識している。

盛子の死によって問題になったのは、広大な摂関家領と家政機構を、この先だれが握るのかということだった。

当時の関白は、基実の弟にあたる松殿基房である。

一方、清盛が後押ししていたのは基実の子・近衛基通だった。基通は盛子の養子にあたるうえ、清盛の娘・完子を妻としており、平氏との関係が深い。

盛子が亡くなると、後白河院側はその家政や所領の処置に関与していく。

摂関家の主導権を基房・師家の家へ寄せようとする動きも強まり、清盛が支えてきた基通の立場は安定しなかった。

摂関家領の問題は、単なる財産争いではない。荘園から上がる収入だけでなく、藤原氏の嫡流を誰が継ぎ、次の摂政・関白になるのかという問題と直結していた。

7月29日、重盛が死去――平氏は後継者を失う

盛子の死から約1か月半後の7月29日、清盛の長男・平重盛も42歳で亡くなった。

重盛は保元・平治の乱を経験し、権大納言、左近衛大将、内大臣まで昇った清盛の後継者である。

重盛の記事で見たように、後白河院近臣の藤原成親とは婚姻を通じて深く結ばれており、病床には後白河法皇自身も見舞いに訪れている。

『平家物語』は、鹿ケ谷事件の際に法皇を幽閉しようとする清盛を重盛が止めたと語るが、その場面をそのまま史実とはできない。ただ、後白河院とのつながりを持つ重盛が清盛の長男として一門にいたことは事実であり、その死によって平氏内部の人間関係が変わったことは考えてよい。

もっと直接的な問題は、重盛家が持っていた知行国だった。

10月9日――越前を失い、8歳の師家が権中納言になる

越前国は仁安元年(1166年)以来、重盛家の重要な知行国だった。

重盛の死後は嫡男・維盛がその立場を継いだとみられる。

ところが10月9日、後白河院は越前を院分国とし、院近臣の藤原俊盛・季能父子を知行国主・国守に据えた。福井県史が引く『玉葉』や『山槐記』からも、長く重盛家が握ってきた越前が院側へ移ったことが確認できる。

清盛にとっては、嫡男を失って間もない時期に、その家の経済基盤まで院側へ移されたことになる。『山槐記』は、11月に清盛が上洛した理由として、故重盛に与えられていた越前を後白河法皇が召し取ったことへの怒りを記している。

同じ10月の人事では、さらに清盛を刺激する動きがあった。

関白・松殿基房の子、師家がわずか8歳で権中納言に昇進したのである。

師家は前年に五位中将となったばかりだった。それが20歳の近衛基通を飛び越えて権中納言へ進んだ。摂関家の子弟にとって官位の上がり方は、将来だれが家を継ぐかと無関係ではない。

基房が幼い師家を急速に昇進させたことは、松殿家を摂関家の嫡流として固めようとする動きに見えた。

清盛は基通を支えてきた。盛子の死後の摂関家領、越前の召し上げ、そして師家の異例の昇進は、それぞれ別の問題でありながら、清盛から見れば自分と平氏の影響力が後白河院・基房側から次々に削られていく流れとして映ったはずである。

11月14日――清盛、数千の兵を率いて福原から上洛

11月14日、清盛は福原を出て京都へ向かった。

『山槐記』には数千の兵を率いて上京したと記されている。

当時の福原は現在の神戸市兵庫区周辺で、清盛が日宋貿易の拠点として整備した大輪田泊にも近い。

清盛は京都の政務から距離を置くと福原で過ごすことが多くなっていたが、この日は軍勢を伴って戻ってきた。

京都では大きな動揺が広がった。

清盛が何をするのか分からず、戦闘を恐れて家財を運び出す人々もいたという。

院側にも検非違使や京武者などの武力は存在したが、清盛が動員した平氏の軍勢と正面から戦う態勢にはならなかった。実際、京都市中で大規模な合戦は起きていない。

清盛は軍を率いて上洛した翌日から、人事を動かした。

11月15日――関白・基房を退け、20歳の近衛基通を据える

最初に失脚したのは、関白・松殿基房と8歳の師家だった。

基房に代わって関白・藤氏長者となったのが近衛基通である。基通は基実の嫡男で、清盛の娘婿でもあった。清盛が長く後押ししてきた人物が、ここでようやく摂関家の表に立った。

官職を一つ入れ替えただけでは当然済まない。基房・師家の系統に傾きかけていた摂関家の継承を、基実・基通の近衛家へ引き戻す意味を持った。盛子の死後に揺れていた摂関家領の処理とも深く結びつく。

16日には、鹿ケ谷事件の直前に後白河院によって天台座主を解任されていた明雲が復帰した。

政変は朝廷の官職だけでなく、院と対立してきた延暦寺をめぐる人事にも及んでいる。

11月17日――太政大臣以下、多数の官人を一斉に解官

17日にはさらに大規模な人事が行われた。太政大臣・藤原師長をはじめ、公卿8人と、殿上人・受領・検非違使など31人、合わせて39人が解官されたとされる。

対象には権大納言・源資賢、藤原光能、高階泰経、藤原季能ら、後白河院の政治を支えてきた人物が含まれていた。

平氏一門だから安全だったわけでもなく、清盛の異母弟・平頼盛も右衛門督を解かれている。頼盛は後白河院や八条院との関係が深く、清盛にとっては弟であっても院とのつながりが強い人物だった。

解官だけで終わらない者もいた。藤原師長はのちに尾張へ流され、松殿基房にも京都を離れる処置が取られた。院近臣の平業房は配流の途中で逃亡し、その後捕らえられて殺されている。

清盛が狙ったのは「平氏以外の公家」ではない。

後白河院が人事や行政を動かすために使ってきた人脈をまとめて切り崩し、平氏と協調しやすい人物へ置き換えることにあった。

後白河院は譲歩を申し出たが、清盛は止まらなかった

基房・師家が退けられると、後白河院は信西の子・静賢を使者として清盛のもとへ送り、今後は政務へ介入しない趣旨を伝えたとされる。

それでも人事の入れ替えは続いた。清盛にとって、関白父子を失脚させただけでは再び院側から人事を動かされる余地が残る。鹿ケ谷事件後も後白河院は政治の中心におり、盛子の死後の摂関家領や越前、10月の除目にも強い影響を及ぼしていた。

そこで清盛は、院近臣を外すだけでなく、その頂点にいる後白河法皇自身を政務から切り離すところまで進んだ。

11月20日――後白河法皇、鳥羽殿へ幽閉

11月20日、後白河法皇は鳥羽殿へ移された。鳥羽殿は現在の京都市伏見区付近に広がっていた離宮群で、白河・鳥羽院政の時代には政治の拠点にもなった場所である。

この移動は通常の御幸ではない。法皇の周囲には武士が配置され、出入りできる者も限られた。1158年に二条天皇へ譲位して以来、20年以上にわたって政治へ関わり続けてきた後白河院の院政は、ここで停止する。

清盛は保元・平治の乱を通じて後白河院と結び、その院政のもとで勢力を伸ばした。両者は初めから敵対していたわけではなく、協力した時期の方が長い。

その関係を清盛自身が武力によって終わらせたのが、治承3年11月20日だった。

政変で何が変わったのか――後白河院政から高倉天皇の政治へ

後白河院を幽閉したからといって、清盛が朝廷を廃止して自分で国政を行ったわけではない。

天皇も摂関も太政官も、それまでの仕組みのまま残った。

変わったのは、その中で実際に政治を動かす人々である。後白河院と近い公卿・院近臣が大量に外され、関白には近衛基通が就いた。

国司人事でも平氏やその関係者が大きく増え、清盛の意向を通しやすい体制が作られた。

研究では、この政変後を「高倉親政」の成立と捉える見方がある。

高倉天皇は当時19歳。清盛の娘・徳子を中宮とし、その間に生まれた言仁親王が皇太子となっていた。

後白河院を政務から外したあと、朝廷の正式な手続きを担うのは高倉天皇であり、その周囲を平氏と親平氏の公卿が固める形となった。

その意味で、治承三年の政変を単純に「清盛の独裁が始まった」と呼ぶと実態を見失う。

清盛は既存の朝廷を壊したのではなく、軍事力を背景に人事を大きく組み替え、後白河院が使ってきた政治の回路を塞いだのである。

清盛はなぜ、後白河法皇を幽閉したのか

『平家物語』の流れで読むと、鹿ケ谷事件以来の怒りを抱えた清盛が、重盛の死後についに法皇へ手を出したように見える。

物語としては分かりやすいが、実際の政変はもう少し具体的な政治問題から起きている。

盛子の死後には摂関家領の継承が揺れ、清盛が支える近衛基通より松殿基房・師家側が有利になった。

重盛の死後には、長く重盛家が握ってきた越前を後白河院が院分国とした。

同じ10月には8歳の師家が基通を越えて権中納言へ進んでいる。

清盛が11月に行った処置を見ると、その不満の向きも分かる。

基房・師家を退けて基通を関白にし、越前守・藤原季能を解任して平通盛を戻し、院近臣をまとめて官職から外した。そのうえで後白河院を鳥羽殿へ移している。

政変前に清盛が問題視していた人事や知行国を、一つずつひっくり返しているのである。

清盛と後白河院の対立には、鹿ケ谷事件以来の不信も、寺社をめぐる対立もあった。

そこへ1179年の盛子・重盛の死が重なり、摂関家領、越前、摂関家の後継をめぐって院側が動いた。

清盛は、これ以上後白河院に人事と所領の処分を任せていては平氏の立場が危うくなると判断したのだろう。

院を止めた4か月後、3歳の安徳天皇が即位する

政変から約3か月後の治承4年(1180年)2月、高倉天皇は言仁親王へ譲位した。

安徳天皇である。満年齢ではまだ2歳、数え3歳の幼帝だった。

清盛は天皇の外祖父となり、平氏と皇室の結びつきはこれまで以上に強くなった。

後白河院は鳥羽殿に押し込められ、関白には近衛基通がいる。

1179年11月の政変によって清盛が目指した政治体制は、ここで一つの形を取る。

ところが、その春には後白河法皇の皇子・以仁王と源頼政が動き始める。

4月には諸国の源氏らへ平氏追討を呼びかける令旨が出され、5月には宇治で戦闘が起きた。

治承三年の政変では、京都で清盛に正面から武力で抵抗する者はいなかった。

しかし、京都の政治を力で組み替えた翌年、争いは朝廷の人事だけでは収まらなくなる。

以仁王の挙兵を境に、平氏が相手にする戦いは全国へ広がっていく。

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清盛と平家物語 [ 櫻井陽子 ]

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