【人物編Vol.54】源頼政――平清盛の時代を生き抜いた77歳の老将は、なぜ最後に平氏を裏切ったのか?

人物

第104回

治承4年(1180年)5月、京都では園城寺を攻める軍勢の編成が進んでいた。

後白河法皇の皇子・以仁王が寺へ逃げ込み、平氏追討を掲げたのである。

追討軍には平宗盛、知盛、重衡、維盛ら平氏一門が並び、その中に源頼政の名もあった。

頼政は数え77歳。平治の乱から20年以上、京都で朝廷に仕え続け、治承2年(1178年)には従三位に昇って公卿に列している。

「源三位」と呼ばれた、清和源氏では異例の老臣であった。

ところが5月21日夜から22日未明、頼政は近衛河原の邸を出た。

嫡男・仲綱ら一族を率い、自分が攻めるはずの園城寺へ向かう。

翌朝には以仁王の陣営に入っていた。

平治の乱で源義朝と行動をともにせず、平氏が力を伸ばす京都で官位を重ね、75歳で公卿にまで達した男が、人生の最後にそれまで築いた立場を捨てたのである。

『平家物語』は、仲綱の名馬を平宗盛が奪い、人前で辱めたことを挙兵の発端として描く。しかし頼政の77年を追っていくと、一頭の馬だけで説明できる人物ではないことが分かる。

弓の名手として名を知られ、後世には鵺を射た英雄として語られた。

宮廷では長年にわたって和歌を詠み、保元・平治の二つの内乱を切り抜け、寺社の強訴では朝廷の武力として兵を率いた。

清盛の時代に「源三位」まで上り詰めた頼政が、なぜ77歳で平氏に背いたのか。

摂津源氏に生まれ、京都で働いた武士

源頼政は長治元年(1104年)、源仲政の子として生まれた。

生年を1105年とする史料もあるが、一般には1104年とされる。母は藤原友実の娘と伝わる。

頼政の家は清和源氏のうち、源頼光につながる摂津源氏に属する。源義朝や頼朝の河内源氏とは同祖ながら、源満仲の子の代で系統が分かれていた。

摂津源氏は京都に近い摂津を基盤とし、朝廷や院に仕える在京武士として長く活動してきた。父・仲政も兵庫頭を務め、鳥羽院政期の宮廷に出入りしている。

仲政は歌人としても知られ、頼政も若いころから宮廷歌壇に加わった。

頼政の若年期は詳しく残っていないが、蔵人を務め、従五位下に進み、久寿2年(1155年)には兵庫頭となった。兵庫寮は武器や武具を扱う官司で、その長官が兵庫頭である。

頼政の姿は、後世の「戦国武将」のような領主像とはかなり違う。

京都に住み、朝廷から命を受け、兵を動かす。そうした京武者として年を重ねていった。

53歳で迎えた保元の乱

保元元年(1156年)7月、鳥羽法皇の死後、京都で保元の乱が起こる。

後白河天皇方には平清盛、源義朝らが集まり、崇徳上皇方には源為義、源為朝、平忠正らが加わった。頼政は後白河天皇方に参加する。数え53歳である。

この内乱では源氏も平氏も一族が二つに割れた。頼政と義朝は同じ陣営に立ち、その義朝の父・為義は敵方にいる。血筋よりも、誰に仕え、どの政治勢力と結びついているかが選択を左右した時代だった。

戦いは後白河天皇方の勝利に終わり、為義や忠正らは処刑された。頼政は勝者の側に残る。

3年後、保元の乱では味方だった源義朝が京都で兵を挙げた。

平治の乱――義朝は滅び、頼政は京都に残った

平治元年(1159年)12月、藤原信頼と源義朝が後白河上皇を押さえ、信西を殺害した。熊野参詣から戻った平清盛は、二条天皇を六波羅へ迎えると反撃に転じる。

頼政は最終的に義朝と行動を分かち、清盛方に立った。途中の経緯は『平治物語』など軍記に詳しいものの、頼政が義朝と運命をともにせず、京都に残ったことはその後の官歴からも分かる。

義朝は東国へ逃れる途中、尾張で殺された。長男・義平も捕らえられて処刑され、頼朝は伊豆へ流される。河内源氏の中心は京都から消えた。

頼政は宮廷に残り、その後も朝廷の仕事を続けている。

義朝と頼政は同じ清和源氏でも、率いる家は別であった。

朝廷に仕える摂津源氏の立場から見れば、義朝の挙兵に最後まで付き従う理由は薄い。

平氏全盛の京都で官位を上げる

平治の乱後、清盛は急速に昇進し、仁安2年(1167年)には太政大臣となった。

平氏一門からも公卿が相次いで出るようになり、京都の政治に占める存在感は大きくなる。

頼政の官位も、この時期に上がっていった。

仁安元年(1166年)には昇殿を許されて正五位下に進み、翌年には従四位下、その後従四位上となる。嘉応2年(1170年)には右京権大夫を務めた。

平氏の家人として取り立てられたわけではなく、朝廷に仕える京武者として地位を積み重ねた。清盛とも正面から衝突せず、平氏の影響力が強まる京都で仕事を続けている。

当時の京都では、延暦寺や興福寺など大寺院の強訴がたびたび朝廷を揺さぶった。

嘉応元年(1169年)12月、延暦寺の大衆が藤原成親を訴えて動いた際にも、頼政は京武者として動員されている。安元3年(1177年)の延暦寺強訴にも名が見える。

70歳を過ぎても、頼政は宮廷警護の現場から離れていなかった。平治の乱を生き残った古参の武士が、なお朝廷の武力として必要とされていたのである。

鵺を射た頼政――後世に広がった武勇譚

頼政の名を広く知らしめた話の一つに、鵺退治がある。

『平家物語』では近衛天皇の御代、夜になると御所の上に黒雲がかかり、不気味な声が響いた。天皇がこれに悩まされ、弓の名手として頼政が呼ばれる。

頼政が黒雲へ矢を放つと、異形のものが落ちてきた。流布本では頭が猿、胴が狸、尾が蛇、手足が虎という姿で語られる。伝本によって体の組み合わせは異なり、長く語り継がれるうちに姿も変わっていった。

近衛天皇の宮廷で怪物が現れ、頼政が射落としたことを同時代史料で確認することはできない。鵺退治は『平家物語』などを通じて広まった武勇譚として見るのがよい。

この伝説には、現在まで残る品も結びついている。東京国立博物館所蔵の重要文化財「太刀 銘為次(号 獅子王)」には、頼政が鵺退治の功によって賜ったという伝承がある。

頼政の弓の名声は、後世には怪物退治の物語にまで膨らんだ。その一方、同時代の頼政には、弓と並んで長く続けた世界があった。

何十年も歌壇にいた武人歌人

頼政は和歌を余技として楽しんだだけの武士ではない。

若いころから歌会や百首歌に参加し、『為忠家両度百首』『中宮亮重家朝臣家歌合』『建春門院北面歌合』『広田社歌合』『別雷社歌合』などに名を残した。

俊恵の歌林苑にも出入りし、藤原俊成、藤原清輔、藤原実定らが活躍した時代の歌壇に長く身を置いている。

勅撰集には多数の歌が採られ、家集『源三位頼政集』も伝わる。娘の二条院讃岐も歌人として名を残した。

頼政は弓を持つ武士でありながら、宮廷文化の中にも深く入り込んでいた。『平家物語』が頼政の出世や最期に和歌を置いたのも、こうした実際の経歴が下地にある。

昇殿をめぐっては、

「人知れぬ 大内山の山守は
木がくれてのみ 月を見るかな」

と詠み、その歌がきっかけで殿上を許されたという逸話が伝わる。

晩年には、四位から三位へ上がれない境遇を、

「のぼるべき たよりなき身は 木の下に
椎を拾ひて 世を渡るかな」

と詠んだと『平家物語』は語る。「椎」と「四位」を掛けた歌で、物語の中では清盛がこれを聞いて頼政の昇進を取り計らう。

実際の従三位昇進については、同時代の日記にさらに興味深い記録が残っている。

75歳で従三位――清盛が頼政を推した理由

治承2年(1178年)12月24日、頼政は従三位に叙された。数え75歳。

従三位以上は公卿であり、清和源氏の武士として異例の昇進である。

九条兼実は『玉葉』に「第一之珍事也」と記し、その昇進が清盛の奏請によるものだったと書き留めた。

しかも『玉葉』には、清盛が頼政を推した理由まで残る。

清盛は、源氏と平氏はいずれも国を守る武力を担ってきたと述べたうえで、源氏の勇士の多くは過去の争乱で処罰され、頼政だけが残っているとした。頼政については「性正直」「勇名世を被ふ」と評価し、70歳を越えて重病とも聞くので、黄泉へ赴く前に三位の恩を与えてほしいと奏請している。

この記録を読むと、1180年の挙兵がいっそう意外に見えてくる。

清盛は頼政を反平氏の危険人物として扱っていない。平治の乱以来、京都で働き続けた源氏の古参武士として評価し、公卿へ押し上げた。頼政もその昇進を受けている。

挙兵まで、わずか1年5か月ほどだった。

治承三年の政変から8日後、出家する

治承3年(1179年)11月28日、頼政は出家した。

従三位に昇ってから約11か月後である。

その8日前、後白河法皇は鳥羽殿へ移され、院政を止められていた。

11月14日に福原から上洛した清盛は、関白・松殿基房を退け、後白河院近臣の公卿や官人を大量に解官し、20日には法皇を政治の場から切り離している。

治承三年の政変である。

頼政の出家と政変を直接結びつける史料は残っていない。75歳を越えた年齢、病、そして従三位という長年望んだ地位に到達したことも考える必要がある。

ただ、頼政が半世紀近く仕えてきた朝廷の政治は、この時期に大きく形を変えた。

翌治承4年(1180年)2月には高倉天皇が譲位し、清盛の外孫・言仁親王が安徳天皇として即位する。数え3歳の幼帝である。

その春、後白河法皇の皇子・以仁王が動き始めた。

名馬「木下」――宗盛との確執を『平家物語』はどう描いたか

『平家物語』は、頼政が平氏へ背いた理由を一頭の馬から語り始める。

嫡男・仲綱が「木下」という名馬を持っていた。平宗盛が評判を聞き、譲るよう求める。

仲綱は惜しんだものの、父・頼政に諭されて差し出した。

宗盛は手に入れた馬を「仲綱」と呼び、人々の前で「仲綱に鞍を置け」「仲綱を引き出せ」と命じて辱めたという。

息子が笑いものにされたことを知った頼政は怒り、以仁王へ平氏追討を勧める。

『平家物語』巻第四「競」は、挙兵の発端をそう描いた。

この逸話を裏づける同時代記録は残っていない。しかも頼政は、その少し前に清盛の奏請で従三位へ昇っている。平氏との関係を長年の私怨だけで説明するのは無理がある。

治承三年の政変後、後白河院政は止まり、清盛の外孫が即位した。以仁王は後白河の皇子でありながら親王宣下を受けず、皇位継承から遠ざかっている。頼政自身も前年に出家し、長い宮廷生活の終わりに差しかかっていた。

そうした状況の中で、頼政と以仁王が結びついた。いつから具体的な計画が進み、頼政が何を決め手として動いたのか、史料は答えを残していない。

追討軍に名を連ねた夜、園城寺へ走る

以仁王の計画が露見すると、王は京都を脱出して園城寺へ入った。平氏側は寺への攻撃を準備し、追討軍を整える。

その中に頼政もいた。

宗盛、頼盛、教盛、知盛、重衡、維盛ら平氏一門と並び、源三位頼政が追討する側に数えられている。少なくとも平氏側は、この時点まで頼政の離反を把握していなかった。

5月21日夜から22日未明、頼政は近衛河原の邸を出た。仲綱、兼綱ら一族も従う。

向かった先は園城寺だった。

75歳で得た従三位も、平治の乱以来守ってきた京都での立場も、ここで失うことになる。

頼政は以仁王の陣営へ入った。

名馬「木下」の物語を外すと、頼政の胸中はほとんど見えない。

清盛から高く評価された老臣が、その翌々年に平氏追討へ回ったという事実だけが残る。

77歳、宇治へ――最後の4日間

園城寺に入った頼政と以仁王は、延暦寺と興福寺へ協力を求めた。延暦寺は全面的に加わらず、園城寺だけで平氏軍を迎えるのは難しい。そこで一行は奈良の興福寺を頼ることにした。

5月25日夜、以仁王と頼政らは園城寺を出発する。翌26日、宇治で平氏軍に追いつかれた。

宇治川の戦いは別記事で詳しく扱っているため、ここでは頼政の最期を追う。

『平家物語』では、橋板を外した宇治橋で園城寺の僧兵たちが戦い、平氏軍はやがて川を渡って南岸へ押し寄せる。頼政一族にも死者が続き、嫡男・仲綱もこの戦いで命を落とした。

頼政は平等院へ退き、そこで自害する。治承4年(1180年)5月26日、数え77歳。

最期には、

「埋木の 花咲く事も なかりしに
身のなる果は あはれなりける」

という辞世が伝わっている。

平等院でこの歌を詠んだ場面まで同時代史料でたどることはできず、『平家物語』によって広く知られた最期の姿として見る必要がある。

「埋木」という言葉は、その後の頼政像と強く結びついた。

源頼政が最期を迎えた宇治は、現在では宇治茶の町としても知られています。平等院や宇治橋を訪れた気分で、京都・宇治の老舗茶舗が作る宇治抹茶だいふくを味わってみるのもいいですね。

 
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「埋木」と呼ぶには、長すぎる77年

頼政の生涯を振り返ると、花を咲かせることなく終わった人物という印象とは少し違う姿が見える。

53歳で保元の乱に参加し、平治の乱も切り抜けた。

義朝の死後も京都に残り、60代、70代まで朝廷の武力を担う。

延暦寺の強訴では内裏の警護に立ち、歌壇では長く和歌を詠み続けた。家集『源三位頼政集』が伝わり、娘の二条院讃岐も歌人として名を残している。

75歳で従三位に昇ったとき、清盛は頼政を「性正直」「勇名世を被ふ」と奏請した。

平治の乱以来、20年近く京都で働いてきた頼政への評価が、同時代の日記に残っている。

それから約1年5か月後、頼政は平氏追討の側へ回った。

宇治の敗戦後、以仁王も南山城で命を落とす。

挙兵は短期間で鎮圧されたが、以仁王の名で出された平氏追討の呼びかけは各地へ伝わり、同年8月には伊豆の源頼朝が挙兵した。

甲斐源氏や木曾義仲も動き、戦乱は全国へ広がっていく。

頼政は、その先を見ることなく宇治で死んだ。

鵺を射た弓の名手という伝説。何十年も宮廷で歌を詠んだ歌人。平氏全盛の京都で従三位まで昇った摂津源氏の長老。そして最後の年に、それまで守ってきた立場を捨てた77歳の武士。

頼政の生涯を際立たせるのは、最後の離反だけではない。

そこへ至るまで、平氏と正面衝突することなく京都で20年以上を生き抜いてきた長い時間がある。

治承4年5月、清盛の奏請で公卿となった老将は、その平氏に弓を向けた。

理由を語る本人の言葉は残っていない。だからこそ、頼政の最期は一頭の名馬の逸話だけでは片づかないまま、今も強く印象に残る。

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源頼政と『平家物語』 埋もれ木の花咲かず [ 栃木 孝惟 ]

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