第141回
第141回
寿永3年(1184年)2月7日、摂津国の一ノ谷。
生田の森を守っていた平家軍は、源氏方の攻撃を受けて敗走していた。
大将の平知盛も軍勢を失い、わずか三騎で海岸へ向かっていた。
知盛は平清盛の子で、平家一門の軍事を支えてきた有力な武将である。
そのそばには、長男の平知章と、家人の監物太郎頼方がいた。
そこへ十騎ほどの源氏方の武士が追いかけてきた。
『平家物語』巻第九「知章最期」によれば、追手は団扇の旗を掲げていた。武蔵国の児玉党と思われる武士たちだったという。
頼方が馬を返して弓を放ち、先頭の旗持ちを射落とした。
しかし、追手の中から大将らしい武士が進み出て、知盛へ馬を寄せた。
父が討たれる。
知章は二人の間へ割って入った。
敵の武士に馬を並べ、組みついて地面へ落とす。相手を押さえ込み、その首を取ったという。
ところが、立ち上がろうとした知章へ、敵の若い従者が襲いかかった。
知章はその場で首を取られたと伝わる。
数え16歳。
父の知盛は、息子を助けられないまま海岸へ逃れた。
やがて兄の宗盛が乗る船にたどり着くと、知盛は鎧の袖を顔に押し当て、涙を流したという。
「よう命は惜しいものにて候ひけり」
他人のことであれば、子を見捨てて逃げた父を責めただろう。しかし、自分が同じ立場になると、命を捨てることができなかった。
『平家物語』は、知盛がそのように語って泣いたと記している。
知章は平清盛の孫として生まれ、武蔵守の官職を得た平家の公達だった。
その生涯を詳しく追える史料は少ない。
だが、知章が生きた16年間は、平家が朝廷で栄華を極め、やがて都を失って西国へ退いていく時代と重なっている。
平清盛の孫として生まれる
平知章は嘉応元年(1169年)、平知盛の長男として生まれたとされる。
父の知盛は仁平2年(1152年)生まれ。平清盛と、その妻である平時子の子だった。
知盛には同母兄の宗盛、弟の重衡、姉妹には後の建礼門院徳子らがいる。
知章にとって清盛は祖父、時子は祖母にあたる。
知章が生まれたころ、清盛はすでに朝廷で大きな権力を握っていた。
保元元年(1156年)の保元の乱では後白河天皇方に加わり、崇徳上皇方を破った。
平治元年(1159年)の平治の乱でも勝利し、対立した源義朝らを退けた。
これらの戦いを経て、平家一門の政治的な地位は急速に高まっていく。
清盛は仁安2年(1167年)、太政大臣に昇進した。
武士として勢力を築いた清盛が朝廷の最高官職に就いたことは、平家の繁栄を象徴する出来事だった。
その2年後に生まれたとされる知章は、清盛が築いた政治的な地位を受け継ぐ一門の子として育つことになる。
平家では清盛の子や弟、その子どもたちが次々に官位を与えられ、朝廷の重要な役職を占めるようになっていた。
父の知盛も、幼少のころから官職を得ていた人物である。
ただし、知章の出生について、月日や場所まで明らかにする同時代史料は確認しがたい。
『日本人名大辞典』では嘉応元年生まれとされ、『平家物語』にも一ノ谷で討死したとき16歳だったことが記されている。
寿永3年(1184年)に数え16歳であれば、嘉応元年生まれという年代と一致する。
知章の幼少期については、具体的な逸話がほとんど残されていない。
どこで暮らし、誰から学問や武芸を教わったのかも明らかではない。
知章の生涯を知るためには、父の知盛が平家一門の中でどのような立場にあったのかを見ていく必要がある。
父・平知盛が歩んだ官人と武将の道
知章の父・知盛は、清盛の子の中でも早くから朝廷で官職を得た人物だった。
平治元年(1159年)には従五位下に叙され、翌永暦元年(1160年)には武蔵守に任じられている。
このとき知盛は数え9歳だった。
幼い清盛の子が国司の官職を得たことは、平家が朝廷で持つ地位の高さを示している。
知盛はその後も昇進を重ね、やがて公卿の列に加わった。
九条兼実の日記『玉葉』安元2年(1176年)12月5日条には、知盛が清盛の特に愛する子であったことを示す記述が見える。
知盛は一門の中でも重んじられていた。
治承4年(1180年)、以仁王と源頼政が挙兵すると、知盛は平家方の追討軍に加わった。
以仁王らは園城寺から奈良方面へ逃れようとしたが、宇治川付近で平家軍と戦い、敗れた。
頼政は平等院で自害したと伝わっている。
しかし、反平家の動きはその後も続いた。
同年8月、源頼朝が伊豆国で挙兵する。
信濃国では木曾義仲が勢力を伸ばし、北陸でも平家に従わない武士たちが活動するようになった。
知盛は朝廷で官位を重ねながら、源氏との戦いでも重要な役割を担っていく。
このころ、知章はまだ数え12歳だった。
父が各地の戦いに関わるようになった一方、知章自身の軍事活動を伝える記録はほとんど見られない。
1180年の源頼政追討に同行したことも、確かな史料からは確認できない。
知章がいつから父の軍勢に加わるようになったのかは不明である。
ただ、4年後の一ノ谷では、父の知盛とともに生田の森の軍勢に属していた。
母・治部卿局と知盛の家族
知章の母は、平知盛の妻である治部卿局と伝えられている。
治部卿局は、後に後高倉院と呼ばれる守貞親王の乳母として知られる女性である。
その出自については、武藤頼兼の娘とする伝承がある一方、別の系譜も伝わっている。
実名を明子とする記述もあるが、出自や実名については史料上の検討が必要となる。
治部卿局は、清盛の妻・時子の周囲に仕えた後、知盛の妻となったと伝えられている。
治承3年(1179年)、高倉天皇と藤原殖子の間に第二皇子の守貞親王が生まれた。
治部卿局は、その守貞親王の乳母となった。
平家一門は皇室との結びつきを強め、清盛の娘・徳子も高倉天皇の中宮となっていた。
治承2年(1178年)には徳子が言仁親王を産んでいる。
後の安徳天皇である。
知章の家も、父の知盛が朝廷の官職を歴任し、母の治部卿局が皇子の養育に携わるなど、宮廷と深い関わりを持っていた。
ただし、知章自身が守貞親王とどの程度接していたのかを示す記録は残されていない。
知盛の子としては、知章のほかに知忠や娘の中納言局らが知られている。
また、増盛や知宗の名を伝える系図もある。
子どもたちの出生順や母親については記録ごとに違いがあり、詳しい家族関係をすべて確定することは難しい。
後に知忠は、平家の都落ちの際に西国へ同行せず、伊賀国で養育されたという伝承を残すことになる。
一方、知章は父とともに西国へ向かったと考えられている。
武蔵守となった知章
知章の官歴で重要なのが、武蔵守である。
『平家物語』巻第九「知章最期」では、知章を「武蔵守」と呼んでいる。
武蔵守は武蔵国の国司の長官にあたる官職だった。
武蔵国は、現在の東京都や埼玉県、神奈川県の一部を含む地域である。
東国の武士たちが多く活動しており、政治的にも軍事的にも重要な土地だった。
知章の父・知盛も、かつて武蔵守を務めている。
平治の乱後、平家は武蔵国の国司や知行国主として、その支配に深く関わるようになった。
知盛が武蔵守に任じられたのは永暦元年(1160年)だった。
その後も平家一門の人物が武蔵守を務め、やがて知章も同じ官職を得ることになる。
知章を従五位上とする伝記資料があり、左馬頭を兼ねたとする系譜も伝わっている。
ただし、任官や叙位の具体的な年月については十分な記録が残されていない。
また、若い知章が武蔵国へ赴任し、現地で行政を担当したことを示す史料も確認できない。
平安時代後期には、国司に任じられた人物が京都にとどまり、目代などを通じて現地の国務を行う例があった。
知章も国司の官職を得ていたが、実際の活動について詳しいことはわからない。
それでも、父の知盛に続いて武蔵守の官職を得たことは、知章が平家一門の公達として朝廷から地位を与えられていたことを示している。
そして武蔵国という土地は、知章の最期にも関わってくる。
一ノ谷で知章を追ったのは、武蔵国の児玉党と思われる武士たちだったからである。
源頼朝の挙兵と武蔵国の変化
治承4年(1180年)8月、源頼朝が伊豆国で挙兵した。
頼朝は石橋山の戦いで敗れたものの、安房国へ逃れ、房総半島の武士たちを味方につけて再起した。
その後、相模国へ進み、鎌倉を本拠として東国で勢力を拡大していく。
武蔵国でも多くの武士団が頼朝方に加わった。
武蔵には秩父党や児玉党など、地域ごとに勢力を持つ武士団が存在していた。
そのうち児玉党は、現在の埼玉県本庄市周辺を中心に活動した武士団である。
頼朝の挙兵後、児玉党の一族も源氏方に従い、各地の戦いへ参加していった。
かつて平家一門が国司を務めた武蔵国の武士たちが、今度は源氏方の軍勢として平家と戦うようになったのである。
知章が児玉党の武士たちと以前から面識を持っていたことを示す記録はない。
また、武蔵守の官職を得ていた知章が現地の武士団を直接指揮していたという記録も見られない。
一方、東国で頼朝の勢力が広がると、平家の支配は次第に及ばなくなっていった。
知章が武蔵守を称していた時期、武蔵国ではすでに源氏方の勢力が拡大していたのである。
清盛の死と平家の軍事的危機
治承5年(1181年)閏2月4日、平清盛が死去した。
知章は数え13歳だった。
清盛の死後、平家一門の中心となったのは宗盛である。
宗盛は知盛の兄で、知章にとって伯父にあたる。
知盛は弟の重衡らとともに宗盛を支え、京都の防衛や各地への軍勢の編成に関わった。
『玉葉』には、このころの平家一門が軍勢を動員し、各地の反平家勢力への対応を進めていた様子が記されている。
しかし、東国では頼朝が勢力を固め、北陸方面では義仲に従う武士たちが増えていた。
西国でも平家の支配に反発する勢力が活動していた。
平家は軍勢を各地へ派遣しながら、京都周辺の警備も続ける必要があった。
知盛はその対応に関わる有力武将だった。
一方、知章がこの時期にどのような生活を送っていたのかは不明である。
平家が各地で軍事行動を続ける中、知章はやがて父と行動をともにするようになったと考えられる。
その後、平家は京都そのものを失うことになる。
寿永2年、十五歳で迎えた都落ち
寿永2年(1183年)5月11日、平家軍は加賀国と越中国の境に近い倶利伽羅峠で木曾義仲に大敗した。
平家の主力軍は大きな損害を受け、北陸方面での戦線を維持することが難しくなった。
義仲方はその後も勝利を重ね、京都へ進軍する。
平家は都の周辺で迎え撃とうとしたが、比叡山の動向なども重なり、京都の防衛を続けることができなくなった。
7月25日、宗盛ら平家一門は安徳天皇と三種の神器を伴って都を離れた。
知盛も一門とともに西国へ向かった。
知章も父に従って都落ちしたと考えられている。
このとき、数え15歳だった。
清盛が太政大臣となり、平家一門が朝廷で勢力を伸ばしていた時代から、まだ十数年しか経過していない。
しかし、平家は長く拠点としてきた京都を失い、安徳天皇を奉じて西国を転戦することになった。
知章の母・治部卿局は、守貞親王の乳母として皇子の養育に携わっていた。
守貞親王も安徳天皇とともに都落ちした。
一方、知章の弟・知忠については、幼かったため西国へ同行せず、伊賀国で養育されたという伝承が残っている。
知盛の家族も、都落ちを境にそれぞれ異なる場所で生活することになったと伝えられている。
水島・室山で反撃を続けた平家
京都を離れた平家は、まず九州で勢力を立て直そうとした。
しかし、豊後国の緒方惟栄らの抵抗に遭い、九州で安定した拠点を築くことができなかった。
そこで平家は瀬戸内海へ戻り、讃岐国の屋島を中心に軍勢を整えていく。
瀬戸内海の海上交通を利用できることは、平家にとって重要な強みだった。
船によって兵や物資を移動させながら、西国で源氏方との戦いを続けた。
寿永2年閏10月、平家は備中国の水島で木曾義仲方の軍勢を破った。
義仲方では足利義清らが出陣していたが、平家の水軍を中心とする軍勢に敗れた。
さらに11月には、播磨国の室山で源行家の軍勢を撃破する。
平家は相次ぐ勝利によって瀬戸内海沿岸で勢力を回復し、再び福原方面へ進出した。
父の知盛も、平家軍の有力な武将として活動を続けていた。
ただし、知章が水島や室山の戦いに参加したことを示す詳しい記録は確認できない。
父の軍勢に属していたとしても、各地の戦闘でどのような役割を担ったのかはわからない。
一方、京都では木曾義仲と後白河法皇の対立が深まっていた。
頼朝は弟の源範頼と源義経を派遣し、京都へ進軍させる。
寿永3年(1184年)1月、範頼・義経の軍勢は義仲方を破った。
1月20日、義仲は近江国の粟津で討死する。
京都を確保した源氏軍は、そのまま平家追討へ向かった。
平家も福原から一ノ谷にかけて軍勢を配置し、迎え撃つ準備を進めた。
生田の森に陣取った知盛父子
寿永3年2月、平家は福原周辺に防衛線を築いていた。
東側には生田の森、西側には一ノ谷。
北には六甲山地が連なり、南には海が広がっていた。
平家はこの地形を利用し、源氏軍を迎え撃とうとしていた。
『平家物語』によれば、知盛は生田の森の大将軍となった。
弟の平重衡らも東側の軍勢に加わっていた。
源氏方では範頼の軍勢が東側から進み、義経の軍勢は別の経路で平家の陣地へ迫っていた。
2月4日から5日にかけて、義経軍は播磨国の三草山で平資盛・平有盛らの軍勢を破っている。
これによって、源氏軍は一ノ谷方面へ進む道を確保した。
ただし、一ノ谷の戦いで山側から行われた攻撃については、史料によって記述が異なる。
『平家物語』では、義経が険しい坂を馬で駆け下り、平家の陣地を急襲したと描かれる。
後世に「鵯越の坂落とし」として知られる場面である。
一方、九条兼実の日記『玉葉』寿永3年2月8日条には、多田行綱が山手から攻め寄せたことが記されている。
山側の攻撃に参加した武将や具体的な場所については、現在も議論が残る。
一ノ谷の戦いは現在の須磨区の一ノ谷周辺だけで行われた合戦ではなく、生田の森や福原を含む広い範囲で展開した。
知章が父とともに戦ったのは、その東側にあたる生田の森だった。
二月七日、生田の森の防衛線が崩れる
寿永3年2月7日、源氏軍による攻撃が始まった。
東側では範頼軍が生田の森へ迫り、知盛や重衡らの軍勢と戦った。
西側でも源氏方の攻撃が始まり、山手の防衛線も破られていく。
『玉葉』によれば、源氏軍は短時間のうちに平家の陣地を攻略したという。
生田の森を守っていた知盛の軍勢も敗走した。
『平家物語』「知章最期」には、知盛の率いていた兵たちが逃げ散り、討死する者も相次いだと描かれている。
やがて知盛のそばに残ったのは、息子の知章と家人の監物太郎頼方だけになったという。
三騎は海岸へ向かって馬を走らせた。
平家は沖に船を浮かべ、陸から逃れてきた者たちを乗せようとしていた。
知盛もその船を目指した。
しかし、海岸へ続く細道で、背後から追手が迫ってきた。
十騎ほどの源氏方の武士たちだった。
団扇の旗を掲げていたことから、『平家物語』は武蔵国の児玉党と思われる者たちだったと記している。
知盛は平家一門の有力な大将である。
その首を取れば、追手にとって大きな軍功となる。
三騎に対し、追手はおよそ十騎。
頼方は追手を防ぐため、馬を返したという。
監物太郎頼方、追手の旗持ちを射落とす
監物太郎頼方は、知盛に仕えた武士である。
『平家物語』では、弓の名手として描かれている。
後世の墓碑や伝承には、頼賢という名も残されている。
追手が迫ると、頼方は馬を引き返し、先頭を進む旗持ちの武士を狙った。
『平家物語』によれば、頼方の放った矢は旗持ちの首の骨を射抜いた。
武士は馬から逆さまに落ちたという。
しかし、追撃は止まらなかった。
追手の中から、大将らしい武士が進み出てきた。
そして知盛へ馬を並べ、組みつこうとした。
この武士の前へ飛び出したのが、知章だった。
父を討たせまいと敵に組みついた知章
『平家物語』は、知章が父を守ろうとした場面を次のように記している。
「父を討たせじと中に隔たり」
追手の武士が知盛へ馬を寄せたとき、知章は父と敵の間に割って入った。
そして相手に馬を並べ、組みついたという。
二人はそのまま馬から落ちた。
知章は敵を押さえ込み、その首を取ったと伝わる。
平安時代末期の合戦では、馬上から弓を射るだけでなく、敵に組みついて落馬させる戦いも行われた。
敵の首を取ることは軍功を示す行為でもあり、討ち取った人物の身元を確認するためにも重要だった。
知章は父を狙った武士を倒し、その首を取るところまで戦ったという。
しかし、立ち上がろうとしたところへ、別の敵が駆けつけた。
『平家物語』では「敵が童」と記されている。
「童」は少年を意味することもあるが、武士に従う若い従者を指す場合もある。
この場の敵が何歳だったのかはわからない。
その童が知章へ襲いかかり、首を取ったと伝えられる。
数え16歳。
父を守ろうとして敵に組みついた知章は、その場で命を落とした。
ただし、知章の組討ちの詳しい経過や、最後に首を取った敵の実名を確認できる同時代史料は乏しい。
この戦闘の具体的な描写は、『平家物語』によって伝えられたものである。
知章を討った児玉党の武士
『平家物語』「知章最期」では、追手の武士たちを児玉党と思われる者と記している。
しかし、知章が組みついた武士や、最後に首を取った童の名前は明らかにされていない。
一方、知章と児玉党を結びつける記録は、武蔵国の地域史にも残っている。
現在の埼玉県本庄市は、児玉党の活動について市の歴史資料で紹介している。
それによれば、頼朝に従った児玉党の一族は、範頼や義経らの軍勢に加わり、平家との戦いで活躍した。
さらに一ノ谷の戦いでは、児玉党の一軍が平武蔵守知章と監物ら主従を討ち取ったことが記されている。
同じ戦いでは、児玉党の庄四郎高家が平重衡を生け捕りにしたことも知られている。
重衡は知章の父・知盛の弟であり、知章にとって叔父にあたる。
一ノ谷で児玉党の武士たちは、平家一門の有力な武将たちと戦っていた。
ただし、本庄市の地域史は後世に伝えられた記録を整理したものであり、知章を討ち取った個人の実名まで明らかにするものではない。
『平家物語』も追手を児玉党と思われる者と記しており、断定を避けた表現になっている。
知章が武蔵守の官職を持っていたこと、そして武蔵国の武士と伝わる者たちに追撃されたという記録は、平家と東国武士の関係が変化していた時代を示している。
監物太郎頼方も討死する
知章が討ち取られると、監物太郎頼方がその場へ駆け寄った。
『平家物語』によれば、頼方は知章を討った敵の童に襲いかかり、これを討ち取ったという。
先ほどは弓で追手の旗持ちを射落とした頼方が、今度は知章を討った敵を倒したのである。
しかし、追手はなお残っていた。
頼方は矢が尽きるまで弓を射続けた。
やがて矢がなくなると、太刀を抜いて戦ったという。
その途中、左の膝を激しく射られた。
『平家物語』には「弓手の膝口を強かに射させ」とある。
弓手は左側を指す。
頼方は膝の傷によって立ち上がれなくなった。
それでも戦い続け、座ったまま討死したと伝わる。
主従三騎のうち、知章と頼方の二人がこの戦闘で命を落とした。
一方、父の知盛は、二人が敵と戦っている間にその場から逃れていた。
『平家物語』は、知盛がこの混乱に乗じて海岸へ向かったと記している。
知盛を逃がした名馬「井上黒」
知盛が海岸へたどり着くことのできた経過についても、『平家物語』は詳しく描いている。
知盛が乗っていたのは、「井上黒」と呼ばれる名馬だった。
信濃国の井上で生まれた黒い馬と伝わっている。
知盛はこの馬を海へ入れ、沖に浮かぶ宗盛の船を目指したという。
『平家物語』では、馬が二十余町を泳いだと記されている。
一町は約109メートルなので、二十町であれば約2.2キロメートルになる。
ただし、この距離は軍記物語の描写によるもので、実際の海上の距離を確認できる記録ではない。
知盛は馬に乗ったまま海を進み、宗盛の船へたどり着いた。
しかし、船にはすでに大勢の人々が乗っていた。
馬を乗せる場所は残っていない。
知盛は井上黒を海岸へ追い返した。
そのとき、平家の武将である阿波民部重能が馬を射ようとしたという。
優れた軍馬が源氏方に捕らえられれば、敵のものになってしまう。
重能は弓に矢をつがえた。
しかし、知盛がそれを止めたと伝わる。
今、自分の命を助けてくれた馬である。
たとえ敵のものになっても、その馬を射殺すことはできない。
知盛はそのように語ったという。
井上黒はすぐには船から離れなかった。
しばらく沖を泳いだ後、やがて岸へ戻っていく。
そして船の方を振り返り、二、三度いなないたと『平家物語』は描いている。
その後、河越小太郎重房が井上黒を捕らえ、後白河法皇へ献上したという。
この馬には、もともと後白河院の所有だったという話も残る。
宗盛が内大臣となった際に賜り、その後、知盛へ預けられたと伝わっている。
知盛は井上黒を大切にし、馬の長寿を願って毎月一日に泰山府君を祀っていたという。
泰山府君は、人の寿命や生死に関わる神として信仰された存在である。
井上黒は後白河院のもとへ戻され、河越重房の名にちなんで「河越黒」と呼ばれるようになったと伝わる。
知盛の命を救った馬が、もとの持ち主のもとへ戻るところまで、『平家物語』は記している。
その一方で、知章は海岸へたどり着くことができなかった。
宗盛の船で知盛が語ったこと
知盛は宗盛の船へ乗り込んだ。
宗盛は清盛の子で、平家一門の中心に立っていた人物である。
『平家物語』によれば、知盛は兄の前で涙を流し、戦場で起こったことを語った。
「武蔵守にも後れ候ひぬ」
長男の武蔵守知章に先立たれた。
さらに監物太郎頼方も討死した。
今はすっかり心細くなってしまったと、知盛は訴えたという。
そして、知章が討たれたときのことを思い返した。
息子は父を守ろうとして敵に組みついた。
知盛はその姿を見ながら、助けに戻ることもできずに逃れてしまった。
もし他人の身に起きた出来事であれば、その父をどれほど責めただろう。
しかし、自分が同じ立場になると、命が惜しくなってしまった。
『平家物語』には、その知盛の言葉が残されている。
「よう命は惜しいものにて候ひけりと今こそ思ひ知られて候へ」
そして知盛は、周囲の人々が自分をどのように思っているのか、その心の内を考えると恥ずかしいとも語ったという。
知盛は袖を顔へ押し当て、さめざめと泣いたと伝わる。
多くの軍勢を率い、平家の有力な大将として活動してきた知盛。
その知盛が、息子を救えなかった苦しさを兄の前で語る。
『平家物語』の「知章最期」は、知章が敵を討ち取った武勇とともに、生き延びた父の姿を詳しく描いている。
ただし、宗盛の船上で交わされた会話をそのまま記録した同時代史料は確認できない。
知盛の言葉は、軍記物語の中に残されたものである。
宗盛が悼んだ十六歳の甥
知盛の話を聞いた宗盛も、涙を流したという。
『平家物語』によれば、宗盛は知章が父の命に代わって討死したことをたたえた。
武芸に優れ、心も強く、立派な大将となる人物だったと語ったという。
そして、知章の年齢に触れた。
「清宗と同年にて、今年は十六な」
清宗は宗盛の長男で、知章とは従兄弟にあたる。
その清宗と知章は、同じ年齢だった。
宗盛はそばにいた清宗の方を見て、涙ぐんだと伝わっている。
知章の父である知盛は、目の前で息子を失った苦しさを語っていた。
宗盛のそばには、その知章と同じ年ごろの息子がいた。
『平家物語』は、二人の父親の姿を続けて描いている。
その場にいた平家一門の人々も、鎧の袖を涙で濡らしたという。
知章が16歳だったという年齢は、この宗盛の言葉にも残されている。
『平家物語』に描かれた「知章最期」
知章の最期は、『平家物語』巻第九に独立した章段として収められている。
章段名は「知章最期」。
伝本によっては「武蔵守最期」などの名称が用いられる。
また、知章の名を「知明」と記す伝本も存在する。
『平家物語』には複数の系統の本文があり、同じ出来事でも人物名の表記や細部の文章に違いが見られる。
「知章最期」は、生田の森を守っていた知盛の軍勢が敗れ、知章と頼方を伴って海岸へ逃れる場面から始まる。
続いて児玉党と思われる武士たちの追撃が描かれる。
頼方が旗持ちを射落とし、知章が父を狙った武士に組みつく。
知章は敵を倒した直後、別の若い敵兵によって討ち取られる。
頼方も戦い続けて討死し、知盛だけが海岸へ逃れた。
さらに井上黒の逸話を挟み、宗盛の船上で知盛が息子の死を悼む場面へと続いていく。
知章の戦死については人名辞典にも記録されている。
一方、十騎ほどの追手、組討ちの経過、井上黒が泳いだ距離、知盛と宗盛の会話などは、『平家物語』によって詳しく伝えられた内容である。
また、一ノ谷の戦い全体についても、同時代の日記『玉葉』と『平家物語』では記述に違いがある。
軍記物語には、戦場の出来事に加えて、人物の言葉や情景を印象深く描く叙述が数多く含まれている。
知章についても、同時代の記録から詳しい生涯を追える部分は限られている。
そのため、知章が実際にどのような言葉を発し、どの武士と組み討ちを行ったのかまでは確定できない。
それでも「知章最期」は、平家の敗走を描いた『平家物語』巻第九の中で、父子の別れを伝える重要な章段となっている。
一ノ谷で失われた平家の公達たち
一ノ谷の戦いでは、知章のほかにも多くの平家一門の武将が命を落とした。
清盛の弟・経盛の子である平敦盛は、熊谷直実との組討ちで知られている。
同じ経盛の子である平経正も、一ノ谷で討死した。
清盛の弟・教盛の子である平通盛と業盛らも、この戦いで命を落としている。
一方、知盛の弟・平重衡は源氏方に生け捕られた。
平家はわずか一日の戦いで、数多くの一門の武将を失った。
知章の父・知盛は船へ逃れることができたものの、長男を失っている。
宗盛や知盛らは、残った軍勢とともに西国へ退いた。
安徳天皇と三種の神器は、なお平家のもとにあった。
平家は一ノ谷で大敗した後も、屋島を拠点として源氏との戦いを続けることになる。
知盛が迎えた壇ノ浦の最期
知章を失った後も、知盛は平家一門の有力な武将として活動を続けた。
平家は讃岐国の屋島を中心に軍勢を整え、瀬戸内海の航路を利用して源氏方に対抗した。
しかし、源氏軍の追討は続いた。
元暦2年(1185年)2月、源義経が屋島を急襲する。
平家は屋島を離れ、さらに西へ退いた。
そして3月24日、長門国の壇ノ浦で最後の決戦を迎える。
源氏方の軍勢に敗れた平家は、海上で崩壊した。
安徳天皇は祖母の平時子に抱かれ、海へ沈んだと伝わっている。
知盛も壇ノ浦で命を落とした。
『平家物語』によれば、知盛は平家の最期を見届けた後、次の言葉を残したという。
「見るべき程の事は見つ。今は自害せん」
そして鎧を二領重ねて着込み、乳母子の伊賀平内左衛門家長とともに海へ身を投げたと伝えられる。
一ノ谷で息子の知章を失いながら生き延びた知盛も、およそ1年後、壇ノ浦で生涯を終えた。
なお、知盛の最期は後世の浄瑠璃や歌舞伎にも取り上げられている。
『義経千本桜』には、大碇とともに海へ沈む「碇知盛」が登場する。
これは後世の芸能で発展した姿であり、『平家物語』に記された知盛の入水とは描写が異なる。
母・治部卿局と守貞親王のその後
知章の母と伝えられる治部卿局は、平家滅亡後も生き延びた。
一ノ谷では知章が戦死し、翌年の壇ノ浦では夫の知盛も命を落とした。
治部卿局は、守貞親王の乳母だった女性である。
守貞親王は平家の都落ちに同行していたが、壇ノ浦の後、京都へ戻った。
治部卿局もその後、宮廷との関係を保ったと伝えられている。
守貞親王は後に出家し、行助入道親王と名乗った。
承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して挙兵する。
承久の乱である。
しかし、上皇方は敗れ、後鳥羽上皇らは配流された。
その後、守貞親王の子である後堀河天皇が即位する。
守貞親王自身は天皇として即位したことがなかったが、太上天皇の尊号を贈られ、後高倉院と称されるようになった。
そして院政を行う立場となった。
平家が滅亡してから36年後のことだった。
治部卿局は、その守貞親王を乳母として養育した女性だった。
治部卿局の没年については寛喜3年(1231年)とする伝記もあるが、確実な記録による確認には注意が必要である。
少なくとも、知章や知盛が亡くなった後も、治部卿局の生涯は続いたと伝えられている。
ただし、一ノ谷で知章を失ったとき、治部卿局がどのようにその知らせを受け取ったのか、具体的な記録は乏しい。
『平家物語』は知盛が宗盛の前で泣いた様子を描いているが、母の治部卿局について同じような会話を残していない。
弟・知忠に及んだ平家追討の手
知章の弟とされる知忠は、兄とは異なる生涯をたどったと伝わる。
知忠は平家の都落ちの際、まだ幼かったという。
そのため父の知盛に伴われて西国へ向かわず、伊賀国で養育されたとする伝承が残っている。
『平家物語』の異本である延慶本などには、知忠のその後を扱う話が伝えられている。
知忠は平家滅亡後も生き延びていたが、やがて追討の対象となった。
建久7年(1196年)ごろ、京都の法性寺付近に姿を現し、追討を受けたという伝承がある。
知忠は抵抗したものの、若くして命を落としたと伝わる。
さらに、その首を母の治部卿局が確認したという話も残されている。
ただし、これらの具体的な経過や人物の行動は、後世の軍記物語や伝承によるところが大きい。
知忠の年齢や、追討が行われた詳しい経緯についても諸説がある。
知章は一ノ谷の戦場で命を落とした。
一方、知忠については、平家滅亡から十年以上が過ぎた後も追討を受けたという伝承が残る。
知盛の子どもたちにも、平家と源氏の戦いが終わった後まで、その影響が及んでいた。
武蔵守の官職は平賀義信へ
知章が一ノ谷で討死した年、武蔵国の国司人事にも変化があった。
元暦元年(1184年)6月5日、平賀義信が武蔵守に任じられた。
平賀義信は清和源氏の一族で、源頼朝のもとで活動していた武士である。
『吾妻鏡』元暦元年6月20日条には、同月5日に行われた除目で義信が武蔵守となったことが記されている。
同じとき、源範頼は三河守、源広綱は駿河守に任じられた。
これらの人事は、頼朝が朝廷を通じて東国の支配を確立していく過程に位置づけられる。
平家はかつて武蔵国の国司や知行国主として、東国の支配に深く関わっていた。
知章の父・知盛も武蔵守を務め、知章自身も同じ官職を得ている。
しかし、頼朝の挙兵によって武蔵国の武士たちは源氏方に加わり、その支配体制も変わっていった。
知章が一ノ谷で討死したのは2月7日だった。
その約4か月後、武蔵守には源氏の一族である平賀義信が任じられている。
知章が最後に称していた官職は、源氏方の人物が担うことになった。
武蔵国をめぐる平家から源氏への政治的な転換は、知章の生涯とも重なっていたのである。
明泉寺に残る知章の五輪塔
現在の神戸市長田区明泉寺町には、平知章を供養する五輪塔が残されている。
臨済宗南禅寺派の天照山明泉寺である。
明泉寺は大日寺とも呼ばれ、寺伝によれば奈良時代の天平年間に起源を持つ。
行基が西代の蓮池を開いた際、水源にあたる場所へ大日如来を祀ったことが始まりと伝わる。
現在の寺院は、戦乱による焼失や再興を経て残されたものである。
明泉寺の公式な由緒には、知章の最期についても記述がある。
寺の北側にある谷、モンナ池の付近で、知章が父の知盛を逃がして討死したという伝承である。
そこには、かつて知章を祀る塚があったと伝えられている。
後に神戸史談会の木村昇三らによって境内へ移され、五輪塔として供養されるようになったという。
現在、知章の墓所と伝わる五輪塔は、明泉寺の境内西北角に祀られている。
ただし、知章が実際に討死した場所や埋葬された地点を、同時代の記録から確定することは難しい。
『平家物語』では、生田の森から海岸へ向かう途中の細道で追手に襲われたと描かれている。
明泉寺の墓所は、後世の人々が知章を供養し、その最期を伝えてきた場所である。
源平勇士の碑と監物太郎の墓
知章とともに戦った監物太郎頼方についても、神戸市長田区には墓所と伝えられる石碑が残されている。
石碑には「監物太郎頼賢之墓」と刻まれている。
『平家物語』に登場する頼方と、後世の墓碑に残る頼賢には名前の表記の違いがある。
また、長田区五番町八丁目には「源平勇士の碑」がある。
ここには平知章の名を刻んだ碑も残されている。
もともと付近には、一ノ谷の戦いに関わった武士たちの碑が点在していた。
平家方の平通盛や、源氏方の木村源吾重章、猪俣小平六則綱らに関わる石碑も伝えられている。
後に知章の碑も明泉寺付近から移され、敵味方の区別なく源平合戦の武士たちを供養する場所となったという。
神戸市の地域史資料によれば、知章の碑は江戸時代の享保年間、儒学者の並河誠所によって顕彰され、移されたと伝えられている。
父を助けて討死した知章の行いが、後世の人々にたたえられたのである。
また、江戸時代の地誌『摂津名所図会』にも、知章や監物太郎の墓に関わる記述が見られる。
一ノ谷の戦いで知章が命を落としてから、長い年月が過ぎても、その名は長田の土地に残り続けた。
現在も明泉寺では知章が「孝子平知章公」として供養されており、寺の年中行事には3月28日の奉賛諷経が記されている。
境内の西北角には知章の五輪塔があり、長田区五番町には源平勇士の碑が残る。
寿永3年2月7日、生田の森から海岸へ向かう途中で父を守ろうとして討死した16歳の武蔵守。
その名は『平家物語』巻第九「知章最期」に記され、神戸の寺院と石碑にも受け継がれている。
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