【人物編Vol.31】小野好古――大宰府を奪った藤原純友を追撃!「海賊の大反乱」を終わらせた男の正体

人物

第61回



――「純友を討った武将」は、その後どうなったのか

天慶4年(941)5月20日。

筑前国博多津。

瀬戸内海を荒らし、大宰府まで攻め落とした藤原純友の軍勢が、朝廷軍と激突した。

朝廷側の中心にいたのが、小野好古だった。

好古は陸路から博多津へ進み、藤原慶幸や大蔵春実らは海路から攻撃した。

戦いは朝廷軍の勝利に終わる。

純友軍は大敗。800余艘の船を奪われ、数百人の死傷者を出した。

純友は小舟で逃げ、伊予へ戻った。

そして6月20日、伊予国警固使の橘遠保によって討たれる。

ここで一つ重要なことがある。

小野好古が純友本人を討ち取ったわけではない。

好古がやったのは、純友軍の主力を博多津で叩き潰し、反乱の軍事力をほぼ崩壊させたことだ。

そして、この戦いを終えた好古は京都へ帰る。

ところが、彼の人生はここで終わらない。

純友を追討した功績を足掛かりに、好古はその後も出世を続ける。

天暦元年(947)には参議。

応和2年(962)には従三位。

康保4年(967)には致仕。

そして翌康保5年(968)2月14日、85歳で亡くなった。

「藤原純友を討った男」という一場面だけでは、小野好古という人物の本当の姿は見えてこない。

この男は、戦場だけでなく、朝廷の政治と地方行政の世界でも長く生きた。


1.小野好古は、あの小野篁の孫だった

小野好古は元慶8年(884)に生まれた。

父は小野葛絃。祖父は、あの小野篁である。

小野篁といえば、平安時代前期を代表する文人。

遣唐使をめぐる逸話や、百人一首に収められた、

「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」で知られる人物だ。

そして好古の弟には、書の名手として知られる小野道風がいる。

つまり好古は、小野篁の孫で、小野道風の兄。

文芸と書の世界で名を残した一族の中から、好古は軍事と政治の道へ進んだ。

同じ小野家でも、好古の人生はかなり異色だった。

和歌を詠み、宮廷文化にも関わりながら、武官として朝廷の軍事行動を担う。

この二つの顔が、好古という人物の特徴になる。


2.若き日の好古――地道に官職を積み上げる

好古が最初から大物だったわけではない。

若い頃は地方官や京の官職を一つずつ経験していった。

延喜17年(917)には、東宮である保明親王の春宮権少進となる。

延喜22年(922)には、従五位下に叙せられ、右京亮となった。

その後、大蔵少輔。中宮大進。右衛門権佐。と官職を進めていく。

延長8年(930)には右衛門権佐。

承平元年(931)には昇殿を許された。

そして承平8年(938)、右近衛権少将に進む。

ここまでの好古は、まだ「藤原純友を討った武将」ではない。

朝廷の中で地道に官歴を積み上げる一人の貴族だった。


3.好古は、戦うだけの男ではなかった

好古について面白いのは、軍事だけでなく和歌にも秀でていたことだ。

醍醐天皇の崩御に際して奉悼歌を詠み、藤原師輔の五十賀の屏風にも歌を寄せている。

『後撰和歌集』などにも好古の歌が収録された。

つまり、弓馬を扱う武官でありながら、宮廷文化にも通じた貴族。

これが小野好古だった。

平安時代の武人というと、後世の武士のような姿を想像しがちだ。

しかし好古は、まだ武士が社会の主役になる前の人物である。

朝廷の官人として出世し、必要になれば軍事を担う。

その世界で頭角を現した。


4.940年――東と西で朝廷が揺れた

天慶3年(940)。

朝廷は異常事態に直面していた。

東では平将門。

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西では藤原純友。

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二つの大きな反乱が同時に進行していた。

元日の朝廷行事にも影響が出るほどの非常事態だった。

朝廷は各地に追捕使を置き、軍事体制を整える。

その中で好古にも重要な役割が与えられる。

山陽道追捕使。

さらに追捕山陽南海両道凶賊使の長官となった。

相手は、瀬戸内海を中心に勢力を拡大していた藤原純友だった。

ここで好古の人生が大きく変わる。


5.「純友を討て」――好古が西国へ向かう

純友は瀬戸内海の各地を襲撃していた。

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伊予。讃岐。備前。備後。安芸。周防。土佐。

さらに九州へも勢力を伸ばしていた。

朝廷は純友を放置できなくなった。

そして好古に追討を命じる。好古は京都を離れ、西国へ向かった。

このときの好古は、後世の武将のように自分の家臣団を率いて戦う人物ではない。

朝廷から官職を与えられ、朝廷の命令によって軍事行動を行う官人だった。

好古と純友は、どちらも地方社会と深く関わった人物だが、立っている場所が違った。

純友は地方の海上勢力を背景に朝廷と対立した。

好古は朝廷の側から、その勢力を鎮圧する。

同じ時代に生きた二人の道が、ここで真正面からぶつかった。


6.941年――純友の本拠地を攻める

天慶4年(941)2月。

純友の部将だった藤原恒利が朝廷側へ帰服した。

この情報を利用して、朝廷軍は純友の本拠地を攻撃する。

純友の勢力は大きかった。

記録には、1,500余艘の船を並べて朝廷軍を待ち受けたとする記述もある。

朝廷側は好古を中心に軍を動かした。

しかし、この戦いで純友軍は敗北する。

本拠地を失った純友は海上へ逃れ、九州へ向かった。

ここから純友は最後の勝負に出る。

狙ったのは、大宰府。


7.純友、大宰府を落とす

九州へ逃れた純友は、勢力を立て直す。

そして大宰府を攻撃した。

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大宰府は西海道の中心。

九州を統括する巨大な行政・軍事拠点だった。

純友はここを攻撃し、府内に入り、放火と略奪を行った。

朝廷にとっては重大事件だった。

純友は単なる海賊ではない。

西日本の朝廷支配の中心を直接攻撃するところまで来ていた。

朝廷は急いで軍を動かした。

その中心にいたのが、小野好古。

好古は陸路から大宰府へ向かった。

一方、藤原慶幸や大蔵春実らは海路から進んだ。

そして5月20日。

筑前国博多津で、純友軍と朝廷軍が激突する。


8.博多津の決戦――純友軍、壊滅

博多津の戦いは、純友にとって最後の大勝負だった。

純友は海を知り尽くしていた。

これまで船を使って瀬戸内海を移動し、各地を襲撃してきた。

ところが、朝廷側も海上戦力を整えていた。

好古が陸路から進み、海上では大蔵春実らが攻撃する。

陸と海。

両方から挟み込まれた純友軍は崩れた。

この戦いで、800余艘の船が朝廷側に奪われた。

死傷者も数百人に達したと記録される。

純友は小舟で逃げた。

かつて巨大な船団を率いた男が、最後は小舟一隻に命を預けて逃げることになった。

これが純友の乱の大勢を決めた瞬間だった。


9.好古は純友本人を討っていない

ここは歴史を知るうえで重要だ。

「小野好古が藤原純友を討った」と簡単に説明されることが多い。

しかし、実際の経過は違う。

博多津で好古が率いる朝廷軍が純友軍を破った。

純友本人はそこから逃げた。

伊予へ戻った純友は、6月20日、伊予国警固使・橘遠保によって討たれた。

つまり、好古が討ったのは純友軍の主力。

純友本人を討ったのは橘遠保。

この違いを押さえると、藤原純友の乱の最後がかなりはっきり見える。

藤原純友の乱そのものの経過は、こちらの記事で詳しく解説しています。


10.純友を倒した男に、朝廷はどう報いたのか

好古の功績は大きかった。

天慶4年(941)5月7日、従四位下に叙せられる。

さらに同年8月には昇殿を許された。

そして翌942年には左近衛中将。944年には山城守。945年には大宰大弐となる。

ここが面白い。

純友を討ったあと、好古自身が大宰府と深い関係を持つことになる。

純友が攻撃した大宰府を、今度は好古が統治する側に回った。

そして947年。

好古はついに、参議となる。

参議は朝廷の政治に参加する公卿の一員だ。

武功を立てた地方官人が、中央政治の中枢へ入っていく。

好古の出世はここで一段上がった。


11.「野大弐」と呼ばれた男

好古はその後も大宰大弐を務めた。

一度ではない。

大宰大弐を二度務めたことから、「野大弐」と呼ばれた。

さらに参議でもあったため、「野宰相」という呼び名も残る。

これは好古が単なる軍人ではなく、地方行政にも関わった公卿だったことを示している。

好古は九州の統治にも関わった。

軍事だけではない。地方を治める。朝廷と地方をつなぐ。

そして政治にも参加する。

純友の乱をきっかけに、好古の人生は完全に変わった。


12.好古、もう一度大宰府へ

好古は天慶8年(945)に大宰大弐となった。

そして天暦元年(947)に参議となった後も大宰大弐を兼ねた。

さらに康保4年(960)には再び大宰大弐を兼任している。

つまり好古は、純友を討った場所に近い九州と、長く関わり続けた。

これは偶然ではない。

好古にとって九州は、純友の乱で名を上げた場所であると同時に、朝廷の地方統治を担う重要な舞台だった。

戦場で勝つ。その後、その土地を治める。

好古の人生には、この二つがつながっていた。


13.武人だけではなかった――好古は歌人でもあった

好古の意外な一面がある。

和歌だ。

『後撰和歌集』などに好古の歌が収録されている。

純友を追い、軍を率いた男が、宮廷では和歌を詠む。

これが平安貴族の世界だった。

軍事能力だけでは出世できない。

政治。行政。文学。儀礼。

さまざまな能力が求められる。

好古はその世界を生き抜いた。

だからこそ、彼は「純友を討った武将」だけでは終わらなかった。


14.962年――従三位へ

好古の出世はさらに続いた。

応和2年(962)。従三位に叙せられる。

参議として朝廷の政治に参加しながら、大宰大弐も務めた。

純友の乱から21年。

かつて西国へ追討軍を率いて向かった男は、今や朝廷の高位貴族になっていた。

純友が反乱によって人生を失ったのに対し、好古はその反乱を鎮圧したことで政治的地位を大きく高めた。

同じ乱の中にいた二人の人生は、ここまで正反対の結果になった。


15.967年――85歳を前に政界を去る

康保4年(967)、好古は致仕した。

致仕とは、官職を辞して政界から退くことだ。

好古はこの時、84歳。

平安時代の人間としては非常に長い人生だった。

そして、康保5年(968)2月14日。

小野好古は死去した。享年85。

884年に生まれ、941年に純友軍を破り、

947年に参議となり、962年に従三位となり、

967年に政界を去り、968年に生涯を終えた。

純友の乱から実に27年後まで生きていた。


16.「純友を討った男」のその後が面白い

小野好古の人生で面白いのは、藤原純友の乱が人生の終着点ではなかったことだ。

むしろ、そこからが出世の本番だった。

941年博多津で純友軍を撃破。

947年参議。

953年従四位上。

958年正四位下。

962年従三位。

967年致仕。

968年死去。

純友の乱から27年。好古は朝廷の中で生き続けた。

そして最後は、85歳という長寿をまっとうした。

「乱を鎮圧して終わり」という人物ではない。

戦場で名を上げ、その後は政治家として生きた。

それが小野好古だった。


17.小野好古と藤原純友――勝者と敗者になった二人

好古と純友。

二人は同じ平安時代を生きた。

純友は藤原氏の一族。好古は小野氏の一族。

どちらも地方社会と関わり、どちらも西国の情勢に深く関わった。

しかし、選んだ道は正反対だった。

純友は地方で築いた勢力を背景に朝廷と衝突した。

好古は朝廷の命令を受け、その勢力を討った。

941年5月。

博多津で勝負が決まった。

純友は逃げた。好古は京都へ帰った。

その後、純友は伊予で死ぬ。

好古は参議となり、従三位まで上る。


18.小野好古という人物の本当の姿

小野好古は、後世の「武将」という言葉だけでは収まらない。

小野篁の孫。小野道風の兄。

朝廷の官人。和歌を詠む貴族。

地方行政を担う大宰大弐。参議。

そして、藤原純友の軍勢を博多津で打ち破った追討軍の中心人物。

これが小野好古である。

純友の乱で脚光を浴びたのは、もちろん純友本人だ。

海賊を率いた男。大宰府を攻めた男。瀬戸内海を駆け回った男。

物語としては純友のほうが派手だ。

しかし、その純友を追い詰めた小野好古の人生もまた、かなり激しい。

若い頃から官職を積み重ね、40代後半で純友追討の大役を担い、50代半ばには参議となる。

その後も九州行政に関わり、60代後半で従三位。

80代まで生き、85歳で人生を終えた。

戦場で勝った男が、その後も朝廷の中で生き残り、最後には公卿まで上り詰めた。

それが小野好古だった。

そして好古の人生を見ると、平安時代の「武人」が、後世の武士とはまったく違う存在だったこともわかる。

彼らは朝廷の官人だった。政治家でもあった。地方行政官でもあった。

そして必要になれば、軍を率いて戦場へ出た。

小野好古は、その姿を最もわかりやすく見せてくれる人物の一人である。

小野好古が追討した藤原純友、そして東国を揺るがした平将門。

二人の反乱が同時期に起きた「承平・天慶の乱」をもっと深く知りたい方におすすめの一冊です。

小野好古の記事とあわせて読むと、10世紀の朝廷と地方勢力の激突がよりリアルに見えてきます。

 
平将門と藤原純友 天慶の乱、草創期武士の悲痛な叫び (日本史リブレット人 17) [ 下向井 龍彦 ]

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