第159回
寿永2年(1183年)7月25日。
平氏一門が京都を離れ、西国へ向かっていた。
木曾義仲の軍勢は都へ迫り、後白河法皇もすでに脱出している。平宗盛は安徳天皇と三種の神器を伴い、都落ちを決行した。
その行列に、五百余騎を率いた一人の武将が出会った。
肥後守・平貞能(たいらのさだよし)。
平清盛の腹心として知られ、長男・重盛にも仕えた譜代の家人である。
『平家物語』によれば、貞能は宗盛に都へ戻って戦うよう訴えた。
しかし宗盛は聞き入れない。
貞能は兵の大半を重盛の息子たちに預け、わずかな手勢を連れて京都へ引き返した。
そして、四年前に亡くなった主君・重盛の墓を掘り返したという。
平氏が都を捨てた日、貞能は亡き主君の遺骨に向かって涙を流した。
それから二年後。
壇ノ浦で平氏が滅びると、貞能は源頼朝に仕える宇都宮朝綱のもとへ現れる。
朝綱はかつて、貞能の取りなしによって京都から帰国できた武士だった。
平家貞の息子として清盛に仕える
平貞能の生年は明らかになっていない。
父は平家貞。
清盛の父・平忠盛の時代から仕えた有力家人で、平氏の家政や軍事を支えた人物だった。
清盛が家督を継いだ後も家貞は引き続き重臣として活動し、平氏の勢力拡大を支えている。
平氏には伊藤忠清、平盛国、瀬尾兼康、平盛俊ら多くの有力家人がいた。
貞能も父の代から続く譜代の家人として清盛に仕えた。伊賀国との関係が深い武士とされる。
保元元年(1156年)、崇徳上皇と後白河天皇の対立から保元の乱が起こった。
清盛は後白河天皇方に加わり、源義朝らとともに勝利する。
平治元年(1159年)の平治の乱では、清盛が義朝を破った。
二度の戦乱を経て清盛は朝廷で地位を高め、仁安2年(1167年)には太政大臣に昇った。
貞能もこの時期、清盛の家人として活動していたと考えられる。ただし、保元・平治の乱における具体的な戦功は明らかでない。
やがて清盛が政治の第一線を離れると、長男の重盛が平氏一門の中心的な役割を担うようになった。
貞能も重盛の家に深く関わり、小松家の公達たちを支えていく。
重盛と小松家の公達たち
平重盛は清盛の長男で、保元・平治の乱を経て朝廷で昇進を重ねた。
治承元年(1177年)には内大臣となり、平氏一門の後継者として政治に携わった。
重盛は清盛を補佐する一方、後白河法皇との関係にも心を配り、両者の間に立つこともあった。
その邸宅にちなみ、小松殿と呼ばれた。
重盛の長男・維盛には乳父の伊藤忠清が深く関わり、貞能は次男・資盛らを支える立場にあったと考えられている。
維盛、資盛、清経、有盛、師盛、忠房。
重盛の息子たちは宮廷で官職を得た後、源平合戦の各地へ出陣することになる。
貞能は、彼らがまだ京都にいたころから小松家に仕えた武将だった。
『平家物語』巻第三「無文」には、重盛が維盛に形見の太刀を渡す場面がある。
その場にも貞能は立ち会っていた。
無文の太刀――重盛が維盛へ渡した形見
治承3年(1179年)。
『平家物語』によれば、重盛はある夜、不吉な夢を見た。
春日大明神の鳥居の近くに多くの人々が集まり、その中に清盛の首が掲げられていたという。
その後、重盛は院へ出仕しようとしていた長男・維盛を呼び止めた。
維盛は当時、少将を務めていた。
重盛は酒を勧めるよう命じ、貞能を呼んだ。
貞能が用意した酒を、まず重盛が三度受け、続いて維盛も三度受ける。
それから重盛は、息子への引出物を持ってくるよう貞能に命じた。
貞能が運んできたのは、錦の袋に包まれた一振りの太刀だった。
維盛は、家に伝わる名刀・小烏丸ではないかと思った。
しかし袋を開けると、中にあったのは無文の太刀だった。
大臣の葬儀で用いる太刀である。
維盛は驚き、貞能が取り違えたのではないかと疑った。
すると重盛は、自分の考えで渡した品だと説明した。
本来は父・清盛が亡くなった際、自分が葬儀で佩くために用意していた太刀だった。
ところが、どうやら自分のほうが先に亡くなるらしい。
だから維盛に譲るのだという。
維盛は言葉を失い、その日は出仕せずに屋敷へ戻ったと『平家物語』は伝える。
その後、重盛は熊野へ参詣した。
帰還から間もなく病に倒れ、治承3年閏7月29日に亡くなった。42歳だった。
重盛が死を予感していたという話は、『平家物語』に描かれた逸話である。
その中で貞能は、重盛の命を受けて維盛に酒を勧め、無文の太刀を運ぶ役目を果たしている。
重盛の死から四年後、貞能は再び『平家物語』の重要な場面に登場する。
九州の平氏支配を支えた貞能
貞能は筑前守、筑後守、肥後守などを歴任したと伝わる。
『平家物語』の都落ちの場面では肥後守、『吾妻鏡』では前筑後守と記されている。
清盛の時代、平氏は九州各地に勢力を広げていた。
大宰府は九州を統括する行政機関であり、平氏はその官職や現地の武士たちとの関係を通じて影響力を強めていた。
清盛自身も大宰大弐を務めたことがある。
九州には、筑前の原田氏、肥後の菊池氏、肥前の松浦党、豊後の緒方氏など、有力な武士団が存在した。
彼らはそれぞれの地域で勢力を持ち、平氏との関係も一様ではなかった。
貞能の父・家貞も、九州における平氏の活動に関わったとされる。
貞能自身も、九州の所領や交通路との関係を持ちながら、平氏の軍事活動を支えた。
治承4年(1180年)、源頼朝が伊豆で挙兵すると、各地で反平氏の動きが広がり始める。
九州でも反乱が起こった。
肥後国の菊池隆直が平氏に反旗を翻したのである。
菊池隆直の挙兵と鎮西への出陣
菊池隆直は、肥後国菊池郡を本拠とする有力武士だった。
治承4年、以仁王の挙兵や頼朝の旗揚げを機に、隆直も平氏に反抗した。
その軍勢は大宰府方面へ進み、平氏方の武士たちと衝突する。
原田種直らも反乱への対応を迫られ、大宰府周辺にも戦火が及んだ。
平氏にとって九州は、瀬戸内海の航路や大陸との交易にもつながる重要な地域である。
東国では頼朝が勢力を広げ、北陸では木曾義仲が活動を始めていた。
九州まで失えば、平氏の支配はさらに揺らぐ。
治承5年(1181年)、貞能は鎮西の反乱を鎮めるため九州へ下向した。
同年閏2月、清盛が亡くなっている。
その後、宗盛を中心とする平氏政権のもとで、貞能は九州の反乱勢力への対処を進めた。
菊池隆直の抵抗は続いたが、養和2年(1182年)4月には降伏に追い込んだと伝わる。
貞能は足掛け二年にわたる鎮西での活動を通じて、九州の反乱をひとまず鎮めた。
しかし、各地の武士が平氏に従い続ける保証はなかった。
豊後の緒方氏をはじめ、平氏への反発を続ける勢力も残っていた。
貞能はその後も九州で軍勢をまとめ、京都へ戻ることになる。
『平家物語』巻第七「主上都落」には、菊池氏、原田氏、松浦党らを率いて上洛したと記されている。
兵数は三千余騎というが、軍記物語の数字をそのまま実数とみなすことは難しい。
貞能が京都に戻ったころ、平氏は深刻な危機に直面していた。
倶利伽羅峠の敗戦と京都への帰還
寿永2年(1183年)5月。
平維盛らが率いた平氏の追討軍は、北陸の倶利伽羅峠で木曾義仲に敗れた。
続く篠原の戦いでも敗北し、義仲の軍勢は京都へ迫っていく。
東国では頼朝が勢力を固め、北陸では義仲が勝ち進んでいた。
『平家物語』によれば、貞能は7月14日に京都へ帰り着いた。
九州で反乱を鎮めて戻った貞能を待っていたのは、木曾義仲の進撃と平氏軍の相次ぐ敗北だった。
宗盛は都の防衛を図ったものの、戦況を立て直せない。
比叡山の僧兵も平氏への協力を拒んだ。
さらに7月24日夜から25日未明にかけて、後白河法皇が京都を脱出する。
宗盛は安徳天皇と三種の神器を伴い、西国へ退くことを決めた。
7月25日、平氏一門は京都を離れた。
その途中、貞能が宗盛と対面する。
宇度野での対面――都落ちを止めようとした貞能
『平家物語』によれば、貞能は川尻に源氏方の軍勢がいるという知らせを受け、五百余騎を率いて出陣していた。
しかし敵は見当たらなかった。
引き返す途中、宇度野の辺りで平氏一門の行列に出会った。
安徳天皇を奉じ、宗盛らが西国へ向かっていた。
貞能は馬から飛び降り、宗盛の前に進み出た。
そして、どこへ向かうのかと尋ねたという。
西国へ落ち延びれば、各地で落人として討たれることになる。
京都に踏みとどまり、最後まで戦うべきだ。
貞能はそう訴えた。
しかし宗盛は、義仲の軍勢が迫り、後白河法皇もすでに都を去ったことを説明した。
一門の男たちだけなら、京都で戦うこともできる。
だが、建礼門院や二位尼、安徳天皇を危険にさらすことはできない。
宗盛はそのように答えたという。
貞能の進言は受け入れられなかった。
そこで貞能は、宗盛に暇を願い出た。
「貞能は暇を賜はって、都でいかにもなり候はん」
京都へ戻り、そこで最後を迎える覚悟だったと『平家物語』は伝える。
貞能は率いていた五百余騎を重盛の息子たちに預け、三十騎ほどを連れて京都へ引き返した。
小松家の公達たちは、一門とともに西国へ向かっていった。
一方、京都には清盛の弟・頼盛が残っていた。
『平家物語』によれば、貞能が京都へ戻ったと聞いた頼盛は、自分を討ちに来たのではないかと恐れたという。
しかし貞能が向かったのは頼盛のもとではなかった。
清盛の邸宅があった西八条だった。
焼け落ちた西八条の一夜
平氏一門は都落ちに際し、自らの邸宅に火を放っていた。
清盛の邸宅があった西八条も焼け落ちていた。
『平家物語』によれば、貞能はその焼け跡に大きな幕を張り、一夜を過ごした。
都へ戻ってくる平氏の公達を待ったが、誰も姿を現さなかったという。
かつて清盛や重盛に仕えた日々。
多くの公達や家人たちが集まっていた西八条。
その邸宅は焼け落ち、貞能のもとに残ったのはわずかな手勢だけだった。
そこで貞能は、亡き重盛の墓を掘り返すことにした。
義仲の軍勢が京都へ入れば、墓が敵兵の馬に踏みにじられるかもしれない。
貞能は重盛の遺骨を取り出し、その前で泣きながら語りかけたと『平家物語』は記している。
「御一門の御果て御覧候へ」
「あなあさまし、御一門の御果て御覧候へ」
なんという有様でしょう。一門の行く末をご覧ください。
貞能は亡き重盛に、平氏一門が都を追われたことを嘆いた。
「生ある者は必ず滅す。楽しみ尽きて悲しみ来たる」
命ある者は必ず滅び、栄華の後には悲しみが訪れる。
重盛が生きていたころ、平氏は朝廷の要職を占め、清盛は一門の頂点に立っていた。
重盛が亡くなったのは治承3年(1179年)。
その翌々年には清盛も亡くなり、平氏は各地で源氏の軍勢と戦うようになった。
そして今、重盛の息子たちは京都を去り、西国へ向かっている。
貞能は、重盛が亡くなったときに自分も後を追うべきだったと悔やんだ。
命を長らえた末に、一門が都を追われる姿を目にすることになった。
そして、死後は重盛と同じ浄土へ迎えてほしいと願った。
「死期の時は、必ず一仏土へ迎へさせ給へ」
『平家物語』覚一本では、貞能は重盛の遺骨を高野山へ送り、墓の周囲の土を賀茂川へ流させたと記されている。
その後、一門の向かった西国とは反対に、東国へ落ちていったという。
ただし、重盛の墓を掘り返したという話は、軍記物語に伝わる逸話である。
重盛の遺骨が都落ち以前から高野山に納められていたことを示す史料もあり、遺骨の扱いについては記録が一致していない。
『平家物語』の諸本にも違いがあり、貞能が都落ち後にどのような経路をたどったのかは明らかでない。
九条兼実の日記『玉葉』には、貞能が九州で出家したという情報も残されている。
『玉葉』が伝える九州での出家
寿永2年閏10月2日。
九条兼実の日記『玉葉』には、平氏一門が九州から退いた際の動向が記されている。
その中に貞能の名がある。
貞能は九州で出家し、平氏の本隊から離れたという情報である。
『平家物語』覚一本では、貞能は京都で重盛の遺骨を取り出し、そのまま東国へ落ちていったとされる。
一方、『玉葉』の情報に従えば、貞能は平氏一門とともに九州方面へ移動し、そこで離脱した可能性がある。
京都にいた兼実が貞能の行動を直接確認した記録ではなく、伝聞としての性格を持つ記事である。
それでも、都落ち後の貞能について、異なる動向が伝えられていたことがわかる。
平氏は京都を離れた後、福原を経て九州へ向かった。
大宰府周辺を拠点に再起を図ったが、現地の武士たちは必ずしも従わなかった。
かつて貞能が反乱を鎮めた九州も、平氏にとって安全な土地ではなくなっていた。
緒方惟義の反抗と平氏の九州撤退
寿永2年8月、平氏一門は安徳天皇を奉じて九州へ入った。
大宰府を中心に勢力を立て直そうとしたものの、現地の情勢は厳しかった。
豊後国では緒方惟義が平氏に抵抗した。
惟義は緒方惟栄とも記され、豊後国に大きな勢力を持っていた武士である。
かつて重盛に仕えたことがあると伝わる。
『平家物語』では、重盛の次男・資盛が緒方の説得に向かったという。
父・重盛から受けた恩を忘れたのか。
資盛はそう問いかけたが、緒方は従わなかった。
平氏は大宰府を追われ、九州の沿岸を移動することになる。
その後、九州を離れて讃岐国屋島を拠点とした。
平氏は屋島から反攻を開始する。
寿永2年閏10月には備中国水島で木曾義仲方を破り、11月には播磨国室山で源行家の軍勢にも勝利した。
しかし、この時期の貞能が屋島で軍勢を率いたという確かな記録は見当たらない。
『玉葉』が伝える九州での出家が事実なら、貞能はこのころ平氏本隊から離れていたことになる。
貞能の消息をめぐっては、その後も情報が京都へ届いていた。
資盛と貞能が捕らえられたという知らせ
寿永3年(1184年)2月19日。
『玉葉』には、平資盛と貞能が豊後国の住人たちに生け捕られたという情報が記されている。
資盛は重盛の次男であり、貞能が長く仕えてきた小松家の公達だった。
都落ちの際、貞能は自分が率いていた兵の大半を重盛の息子たちへ預けている。
その貞能と資盛が、九州でともに捕らえられたというのである。
『玉葉』によれば、この話は以前から噂されていたものの、人々は信じていなかった。それが事実だと伝えられたという。
ただし、兼実が二人の身柄を実際に確かめたわけではない。
京都へ届いた情報を記した記事である。
また、『平家物語』では資盛がその後も平氏一門と行動をともにし、壇ノ浦で最期を迎えたとされる。
資盛が豊後で捕らえられたのか、その後の行動にどのような経過があったのかについては、史料によって違いがある。
貞能についても、九州での出家や捕縛情報から、その足取りを完全に追うことは難しい。
このころ平氏は、一ノ谷の戦いで大敗していた。
平氏はその後も屋島を拠点に戦い続けたが、元暦2年(1185年)2月には屋島を失う。
そして3月24日、壇ノ浦の戦いで敗れた。
安徳天皇は入水し、宗盛とその子・清宗は捕らえられた。
清盛が築いた平氏政権はここに終わった。
貞能は壇ノ浦の戦いには姿を現さない。
『吾妻鏡』によれば、平氏が西海で敗れる以前から行方がわからなくなっていた。
その貞能が、壇ノ浦から三か月余り後、東国で姿を現した。
宇都宮朝綱のもとへ現れた貞能
元暦2年(1185年)7月7日。
『吾妻鏡』に、貞能の消息が記されている。
貞能は前筑後守と呼ばれ、清盛の第一の腹心だった人物として紹介されている。
西海での敗北以前から行方がわからなくなっていた貞能が、宇都宮左衛門尉朝綱のもとへ現れたのである。
宇都宮朝綱は下野国を本拠とする武士で、このころは源頼朝に仕えていた。
貞能はすでに出家していた。
『吾妻鏡』によれば、平氏の命運が尽きることを悟り、一門と同じ災難に遭う前に出家したという。
今後は山林に隠れ住み、仏道に励みながら往生を願いたい。
しかし、頼朝の許しがなければ、安心して暮らすことは難しかった。
そこで貞能は朝綱に、自分の身柄を預かってもらえるよう頼朝へ願い出てほしいと頼んだ。
朝綱はその願いを受け、頼朝へ伝えた。
だが、頼朝は容易に許可しなかった。
貞能は長年、平氏の中枢にいた有力な家人である。
清盛の腹心として活動し、九州では反乱の鎮圧にも携わった。
『吾妻鏡』によれば、頼朝は貞能を帰順者として受け入れることに疑いを示し、許可とも不許可とも明言しなかった。
そこで朝綱は、かつて貞能から受けた恩を語り始めた。
朝綱らを京都から帰した貞能
治承4年(1180年)、源頼朝が伊豆で挙兵した。
そのころ東国の武士の中には、京都へ上って平氏に仕えていた者たちがいた。
宇都宮朝綱も、その一人だった。
ほかに畠山重能、小山田有重らがいた。
頼朝の挙兵を知った朝綱らは、東国への帰還を望んだ。
しかし平氏側は帰国を認めなかった。
『吾妻鏡』では、前内府と記される平氏の有力者が朝綱らの帰還を許さなかったと伝えている。
東国へ戻れば、頼朝の軍勢に加わる可能性があったためだろう。
畠山氏や小山田氏は東国にも大きな勢力を持つ武士団だった。
その動向は平氏にとっても重要だった。
朝綱らのために取りなしたのが貞能である。
貞能の働きかけによって、朝綱、重能、有重らは帰国を許されたと『吾妻鏡』は記している。
朝綱は無事に東国へ戻り、後に頼朝に仕えた。
かつて貞能が帰国を助けた武士が、平氏を倒した頼朝の家人となったのである。
そして平氏が滅亡した後、貞能はその朝綱を頼った。
朝綱は京都で受けた恩を忘れていなかった。
子孫の断絶をかけた助命嘆願
朝綱は頼朝に対し、貞能を許すよう強く訴えた。
かつて京都にいたころ、頼朝の挙兵を知っても帰国を許されなかった。
しかし貞能が取りなしてくれたおかげで、無事に東国へ戻ることができた。
その後、頼朝に仕え、平氏と戦うこともできた。
朝綱はそう説明した。
『吾妻鏡』には、貞能の取りなしが朝綱ら個人への恩にとどまらず、結果として頼朝への功績にもなったと訴えたことが記されている。
それでも貞能は清盛の腹心だった人物である。
受け入れた後、再び反逆する可能性を疑われても不思議はなかった。
そこで朝綱は、さらに強い言葉を口にした。
「後日若彼入道有企反逆事者、永可令断朝綱子孫給」
もし後日、貞能が反逆を企てたならば、朝綱の子孫を永久に断絶させていただいて構わない。
自分の家の存続をかけて、貞能の身柄を保証したのである。
頼朝は朝綱の願いを受け入れた。
元暦2年7月7日、貞能は許され、朝綱に預けられた。
平氏がまだ政権を握っていたころ、貞能は朝綱らを京都から帰国させた。
その後、朝綱は頼朝に仕え、平氏は壇ノ浦で滅亡した。
立場が逆転しても、朝綱は貞能から受けた恩を忘れなかった。
出家後の消息と安善寺の伝承
頼朝から許しを得た貞能は、宇都宮朝綱に身柄を預けられた。
『吾妻鏡』によれば、貞能は山林に隠れて仏道に励み、往生を願うことを望んでいた。
その後の生活については、同時代の記録から詳しくたどることができない。
ただし北関東には、貞能に関わる伝承を持つ寺院が残されている。
その一つが栃木県益子町の安善寺である。
寺伝では、貞能が建久5年(1194年)に寺を開いたと伝わる。
宇都宮朝綱の取りなしによって命を救われた貞能が、平氏一門や重盛の菩提を弔ったという。
ただし、貞能による創建や当時の活動を同時代の史料から直接確認することは難しい。
寺に伝わる由緒として扱う必要がある。
さらに茨城県城里町の小松寺にも、貞能と重盛にまつわる伝承が残っている。
小松寺に残る重盛と貞能の墓
茨城県東茨城郡城里町上入野。
小松寺の裏手にある白雲山の中腹には、平重盛の墓と伝わる宝篋印塔が残されている。
「伝内大臣平重盛墳墓」として茨城県の史跡に指定されている。
その傍らには、貞能と重盛の夫人の墓と伝わる五輪塔もある。
茨城県教育委員会の文化財解説には、貞能が重盛の遺骨を守り、重盛の夫人とその妹を伴って高野山で出家したという伝承が紹介されている。
その後、北陸や上野を経て常陸国へ入り、重盛の遺骨を埋葬したという。
貞能は小松以典と名乗り、重盛の菩提を弔うために寺を開いたと伝えられる。
小松寺という寺号も、重盛が小松殿と呼ばれたことに由来するという。
さらに貞能は89歳で亡くなったという伝承も残る。
ただし、この享年や没年を裏づける確実な同時代史料はない。
重盛の墓と伝わる宝篋印塔も鎌倉時代のものとされ、重盛が亡くなった1179年当時の墓そのものとは確認できない。
『平家物語』には、都落ちの日に重盛の墓を掘り返し、遺骨を守ろうとした貞能の姿が描かれている。
小松寺の伝承では、その遺骨を携えて東国へ下り、重盛の供養を続けたと語られる。
いずれも後世に伝わる話だが、貞能と重盛の関係は、この地にも残された。
平家滅亡後、かつて救った武士が返した恩
平貞能の没年は明らかになっていない。
『吾妻鏡』に残る晩年の重要な記録は、元暦2年7月7日の宇都宮朝綱による助命嘆願である。
貞能は平家貞の息子として清盛に仕え、重盛の家を支えた。
『平家物語』には、重盛が維盛へ無文の太刀を渡した場面で、父子のそばに仕える姿が描かれている。
重盛の死後も小松家に仕え、九州では菊池隆直の反乱鎮圧に携わった。
寿永2年、平氏が京都を追われると、貞能は宗盛に都で戦うよう訴えたという。
その進言は受け入れられず、貞能は一門から離れて京都へ引き返した。
焼け落ちた西八条で一夜を過ごし、亡き重盛の墓を掘り返したと『平家物語』は伝える。
その後の足取りには不明な点が多い。
『玉葉』には九州での出家や、資盛とともに捕らえられたという情報が残る。
やがて貞能は東国へ下り、宇都宮朝綱のもとへ現れた。
朝綱はかつて、貞能の取りなしによって京都から帰国できた武士だった。
貞能が出家して隠棲を望むと、朝綱は頼朝へ助命を願い出た。
もし貞能が反逆すれば、自分の子孫を断絶させても構わない。
朝綱はそこまで言って、かつての恩人をかばった。
頼朝は貞能を許し、その身柄を朝綱へ預けた。
貞能が朝綱の帰国を助けたころ、平氏はまだ政権を握っていた。
その数年後、清盛の腹心だった貞能は、平氏を倒した頼朝の許しを求める身となった。
朝綱が差し伸べた手によって、貞能は命をつないだ。
元暦2年7月7日。
『吾妻鏡』には、貞能が宇都宮朝綱に預けられたことが記されている。
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