第51回
――「道真を陥れた悪人」の正体は、平安時代を動かした政治家だった
菅原道真が大宰府へ左遷された901年。
その中心にいた人物が、藤原時平である。

後世の日本史では、
「菅原道真を妬み、讒言して追放した男」という印象が強い。
道真は大宰府へ送られ、903年にそこで亡くなる。
一方、時平も909年、わずか39歳で死去する。
そして後世になると、道真の死後に起きた落雷や疫病、政敵たちの死などが道真の怨霊と結びつけられた。
そのため時平には、「道真を追放した罰を受けた男」というイメージまで加わった。
しかし、史実の藤原時平を追っていくと、まったく別の姿が見えてくる。
時平は、藤原北家の嫡流に生まれ、若くして朝廷の中枢へ進み、28歳で参議、28歳で左大臣となり、道真失脚後は醍醐天皇の政治を支えた。
902年には荘園整理令を発布。
律令国家の土地支配を立て直そうとし、班田も実施した。
さらに『延喜格』の編纂にも関わり、平安朝廷の法制度を整備した。
藤原時平は、道真を追放しただけの人物ではない。
彼は、平安時代の国家運営そのものを担った政治家だった。
1.871年――藤原北家の頂点に生まれる
藤原時平は、貞観13年(871)に生まれた。
父は藤原基経。

母は人康親王の娘だった。
基経は、平安時代前期の朝廷政治を動かした最大級の権力者である。
清和天皇の時代から陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇の時代まで政治の中心に立ち、日本史上初めて関白となった人物として知られる。
その長男として生まれた時平は、最初から藤原北家の嫡流を背負う立場にいた。
弟には、後に摂政・関白となる藤原忠平がいる。
妹の温子は宇多天皇の女御となり、穏子は醍醐天皇の中宮となった。
時平の一族は、天皇家との婚姻関係を次々と築いていった。
つまり時平は、藤原氏の政治力と天皇家との血縁を背負った人物として成長した。
2.886年――16歳の元服で見せた異例の待遇
仁和2年(886)、時平は16歳で元服した。
このとき加冠役を務めたのは光孝天皇だった。
さらに、時平に授けられた正五位下の位記は、光孝天皇が自ら筆を執ったと伝わる。
若い貴族の元服としても異例の待遇だった。
時平はその後、侍従などを経て蔵人頭となり、朝廷の実務へ入っていく。
藤原氏の嫡流に生まれた時平は、家柄だけで政治家として完成していたわけではない。
朝廷の実務を経験しながら、着実に政治の中枢へ進んでいった。
3.891年――28歳で参議
寛平3年(891)、時平は参議となった。
28歳。
参議は太政官の議政官であり、朝廷の政策決定に直接関わる重要職だった。
その後、中納言、大納言へと昇進する。
この時期、朝廷では宇多天皇が親政を進めていた。
宇多天皇は、父・光孝天皇の時代まで強大だった藤原基経の政治的影響力を抑え、天皇自身が政治を主導する体制を目指した。
その政治を支えた人物の一人が菅原道真だった。
そして、もう一人の有力者が藤原時平だった。
ここで二人の人生が交差する。
4.時平と道真――二人の政治家が並び立つ
菅原道真は、学者の家に生まれながら朝廷で異例の出世を遂げた。
宇多天皇から厚い信任を受け、蔵人頭、参議、権大納言などを経て、899年には右大臣となった。
その左大臣にいたのが藤原時平だった。
つまり899年、
左大臣・藤原時平 右大臣・菅原道真

という体制が成立した。
二人は醍醐天皇を支える朝廷の最高幹部だった。
しかも、この時点で時平と道真は単純な「最初から敵同士」という関係ではない。
両家には以前から交流があり、時平の父・基経と道真の父・是善の世代から関係が存在した。
政治的な立場が近づくにつれて、二人は朝廷の主導権をめぐる緊張関係へ入っていく。
5.899年――28歳で左大臣
昌泰2年(899)、時平は左大臣となった。
わずか28歳。
朝廷の最高幹部である。
一方、道真も右大臣として政権の中枢にいた。
この時点で、時平と道真は左右の大臣として並んでいる。
ここから約2年後、朝廷を揺るがす大事件が起こる。
6.901年1月7日――二人は同じ日に従二位となった
昌泰4年(901)1月7日。
時平と道真は、ともに従二位へ昇叙された。
左右大臣として二人は朝廷の最高位層にいた。
ところが、その18日後、1月25日。
朝廷は突然、大規模な人事を発表する。
菅原道真を大宰権帥へ左遷する。
時平は、その政変の中心人物となった。
わずか18日。
朝廷の二大臣の一人だった道真の人生が一気に崩れ落ちた。
7.昌泰の変――道真は何の罪に問われたのか
901年1月25日。
朝廷が示した道真の処分理由は明確だった。
道真が、宇多上皇を欺き、醍醐天皇を廃して別の皇族を皇位につけようとしたという内容だった。
その背景として重要なのが、斉世親王である。
斉世親王は宇多天皇の皇子。
そして道真の娘婿だった。
そのため、道真が斉世親王を皇位につけようとしているという疑いが朝廷内で問題となった。
道真は大宰権帥へ左遷され、子供たちもそれぞれ地方へ左遷・流罪となった。
これが昌泰の変である。
昌泰の変そのものの経過は、こちらの記事で詳しく解説しています。

後世の歴史では、時平が道真を讒言してこの政変を起こしたという理解が定着した。
実際、時平が道真の失脚に深く関わったことは史料・後世史書の両方で強く結びつけられている。
ただし、昌泰の変は時平一人の私怨だけで説明できる事件ではない。
当時の朝廷では、
醍醐天皇と宇多上皇の政治的関係 皇位継承 道真の急速な出世
藤原氏を中心とする上級貴族の政治的立場
が絡み合っていた。
昌泰の変は、こうした政治的対立が一気に爆発した政変だった。
8.宇多上皇は道真を救おうとした
道真左遷を知った宇多上皇は動いた。
宇多上皇は醍醐天皇に会って処分を覆そうとした。
しかし、内裏の警固によって参内を阻まれた。
宇多上皇はその場で長時間待ったが、醍醐天皇との面会は実現しなかった。
これによって、道真の処分は覆らなかった。
宇多天皇の時代から政治を支えてきた道真は、ここで完全に朝廷の中枢から姿を消した。
そして、その後の朝廷を主導する立場に立ったのが時平だった。
9.901年――時平の時代が始まる
道真が去った。
時平は醍醐天皇のもとで政治の中心に立った。
この時代の醍醐朝は、後世に「延喜の治」と呼ばれる。
そして、その政治の中核を担った人物の一人が時平だった。
時平は権力を握ると、朝廷の制度や土地支配の立て直しへ動き始める。
その代表が翌902年の荘園整理令である。
10.902年――延喜の荘園整理令
延喜2年(902)。朝廷は荘園整理令を発布した。
当時、地方では土地の私的な開発と寄進が進んでいた。
有力者や寺社、皇族などの権威を利用して土地を確保し、租税・課役を逃れる動きも広がっていた。
朝廷にとって深刻な問題だった。
国家の財政基盤は、人民から徴収する租税によって成り立つ。
土地と人民が有力者の支配へ流れていけば、朝廷の収入は減少する。
そこで朝廷は、
勅旨田や皇族・有力貴族などによる不法な土地占有を規制する政策を打ち出した。
これが902年の荘園整理令である。
ここで重要なのは、これを単純な「荘園禁止令」と理解しないことだ。
狙いは、新たな土地占有や不法な寄進を規制し、国家の土地支配と財政を立て直すことにあった。
この政策は、時平政権の性格をよく表している。
道真との政争で権力を握った時平は、その権力を国家運営へ投入していった。
11.902年――最後の班田
同じ902年。
朝廷は班田を行った。
班田は、戸籍に基づいて人民へ田地を班給する律令国家の基本制度である。
そして、この902年の班田が、歴史上最後の班田となった。
これは非常に重要な出来事である。
律令国家の土地制度は、8世紀から少しずつ現実とのずれを広げていた。
土地の開発が進み、私的な土地支配が拡大していく。
その中で、朝廷は最後の班田を実施しながら、同時に荘園整理にも取り組んだ。
律令国家の仕組みを維持しようとする政治と、現実社会の変化への対応が同時に進んでいた。
これが時平の時代だった。
12.901年――『日本三代実録』が完成
時平が政治の中心にいた時代には、歴史書の編纂も進んでいた。
その一つが『日本三代実録』である。
『日本三代実録』は、清和・陽成・光孝の三代、858年から887年までの歴史を記録した勅撰国史。
全50巻。
六国史の最後を飾る歴史書である。
編纂には藤原時平も関わった。
そして延喜元年(901)8月に完成した。
この時点で、時平はまだ39歳にもなっていない。
道真の左遷からわずか7か月後、時平らが関わった国家的な歴史編纂事業が完成している。
『日本三代実録』は、詔勅や上奏文書、災害などを詳細に記録しており、平安前期を知るうえで極めて重要な史料となっている。
13.『延喜格』――朝廷のルールを整理する
時平の政治を語るうえでもう一つ重要なのが、『延喜格』である。
「格」は、律令を補足・修正する法令。
「式」は、律令や格を実際に運用するための細則である。
平安時代になると、律令制定後に出された法令が大量に蓄積していた。
朝廷は、それらを整理する必要があった。
そこで醍醐天皇の時代に、格と式の編纂が進められた。
『延喜格』は907年に完成した。
一方、『延喜式』は927年に完成し、施行は967年。
つまり、延喜式までを時平一人の事業として扱うのは誤りである。
時平はその編纂事業の初期段階を担い、死後も弟の忠平らによって作業が継続された。
時平の政治は、目の前の政争だけではなく、朝廷の法体系そのものを整理する方向へ進んでいた。
14.時平はどんな人物だったのか
藤原時平には、政治家としての厳しい顔だけではなく、豪快な人物像も伝わっている。
平安時代後期に成立した歴史物語『大鏡』には、時平の性格を伝える有名な逸話がある。
ある宴席で、同席者が放屁した。
すると時平は大笑いした。しかも一度笑い始めると止まらない。
この逸話は後世、歌舞伎作品の「時平の七笑」にまで取り入れられた。
また、『大鏡』には、醍醐天皇と示し合わせて時平が華美な服装で参内し、天皇から叱責されるという逸話もある。
こうした話から、『大鏡』は時平を豪放磊落な人物として描いている。
ただし、『大鏡』は時平の死から約100年以上後に成立した歴史物語である。
したがって、これらは901~909年の時平本人の言動を直接証明する一次史料ではない。
それでも、後世の人々が時平をどのような人物として記憶したのかを知る重要な材料になる。
15.時平の家族――次の藤原氏を担う子供たち
時平には複数の子供がいた。
その中には、後に公卿となる藤原保忠や藤原敦忠がいる。
娘の褒子は宇多天皇の女御となった。
時平の一族は、父・基経の時代から続く藤原北家と皇室との結びつきをさらに強めていた。
そして時平の死後、その政治的地位を受け継ぐのが弟・藤原忠平だった。
藤原氏の歴史は、時平の死によって途切れなかった。
むしろ、次の世代へ引き継がれていく。
16.909年4月4日――時平、39歳で死去
延喜9年(909)藤原時平が死去した。
39歳。あまりにも若い。
901年の昌泰の変からわずか8年。
時平は、朝廷の政治を主導し、荘園整理や法令整備を進めていた最中だった。
その政治家が、39歳で人生を終えた。
死因については、後世に道真の怨霊との関係が語られるようになる。
しかし、ここは史実と伝承を分ける必要がある。
時平が道真の怨霊によって殺されたという史実は存在しない。
時平の死後、道真の怨霊を恐れる社会的・宗教的な動きが強まり、その中で時平の死も道真の祟りと結びつけられていった。
時平には死後、正一位太政大臣が贈られた。
17.時平の死後――藤原忠平へ
時平が死ぬと、藤原北家の政治的中心は弟の藤原忠平へ移る。
忠平は時平の弟。
そして後に摂政・関白となり、醍醐天皇の死後も朝廷政治の中心に立つ。
ここから平安朝廷は、時平の時代から忠平の時代へ移っていく。
そして、その忠平の時代に、東国では大きな事件が起こる。
平将門の乱である。
時平が死んだ909年から約30年後。
朝廷の政治を担う貴族社会の一方で、地方では武士たちの力が強まり始めていた。
その変化を象徴する人物が、平将門だった。
まとめ
藤原時平は、871年に藤原基経の長男として生まれた。
父は平安前期の朝廷政治を動かした最大級の権力者。
その嫡男として生まれた時平は、16歳で元服し、光孝天皇から特別な待遇を受け、若くして朝廷の中枢へ進んだ。
891年、28歳で参議。899年には左大臣。
同じ頃、右大臣には菅原道真がいた。
二人は醍醐天皇を支える左右の大臣として並び立った。
しかし901年、昌泰の変が起こる。
1月7日に二人そろって従二位となった18日後、道真は大宰権帥へ左遷された。
朝廷が示した処分理由は、宇多上皇を欺き、醍醐天皇を廃して斉世親王を皇位につけようとしたというものだった。
時平はこの政変の中心人物となり、道真失脚後、醍醐朝の政治を主導した。
そして902年、荘園整理令を発布。
同年には最後の班田を実施した。
さらに『日本三代実録』の編纂、『延喜格』の編纂など、朝廷の制度と記録を整える仕事にも関わった。
つまり藤原時平は、「菅原道真を追放した男」という一面だけで終わる人物ではない。
藤原氏の嫡流として朝廷の頂点へ上り、政争を勝ち抜き、醍醐天皇のもとで国家運営を担った政治家だった。
しかし、その人生はあまりにも短かった。
909年4月4日。時平は39歳で死去した。
その死後、道真の怨霊伝説が広がると、時平は「道真を追放したため祟られた男」という物語の中へ組み込まれていく。
しかし史実として残る時平は、怨霊に追われた悪役ではない。
藤原氏の権力を背負って若くして朝廷の頂点へ駆け上がり、菅原道真との政争を経て醍醐朝を動かし、土地制度・法制度の整備を進めながら、39歳でその生涯を終えた平安前期最大級の政治家。
それが藤原時平である。
そして時平の死後、藤原氏の政治を引き継いだのが弟・藤原忠平だった。

忠平の時代、朝廷の政治はさらに大きく変化する。
そしてその頃、東国では朝廷を揺るがす男が現れる。
平将門。
ここから物語は、貴族の政争から、地方武士の時代へ進んでいく。
📚 『菅原道真 学者政治家の栄光と没落』
藤原時平と菅原道真、二人の政治家が激しく対立した背景をもっと深く知りたい方へ。道真の出世から昌泰の変まで、平安朝廷の権力争いを詳しく知ることができる一冊です。
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菅原道真 学者政治家の栄光と没落 【電子書籍】[ 滝川幸司 ]
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