第156回
寿永3年(1184年)2月、三草山。
夜半、山の麓に鬨の声が響いた。
平氏の陣に、源義経の軍勢が襲いかかってきたのである。
『平家物語』巻第九「三草合戦」によれば、平氏の兵たちは翌朝の戦いに備え、眠っていた。
先陣は警戒していたものの、後陣では兜や鎧の袖を枕にして寝入る者もいたという。
そこへ源氏軍が突入した。
弓を取った者は矢を見失い、矢を手にした者は弓を探す。
騎馬武者が迫ると、兵たちは踏みつけられることを恐れて陣の中央を空けた。
その間を源氏軍が駆け抜け、平氏の陣は崩れたと物語は伝える。
この軍勢を率いていたのは、平資盛。
資盛のもとには三人の弟がいた。
平有盛、平忠房、平師盛。
重盛の息子たちが、丹波方面から進む義経軍を食い止めようとしていたのである。
しかし夜襲を受け、平氏方は敗走した。
『平家物語』によれば、資盛、有盛、忠房の三人は播磨国高砂へ逃れ、そこから船で讃岐国屋島へ渡った。
ところが師盛は、兄たちと別の道へ進んだ。
平内兵衛清家、海老次郎盛方らを連れ、一ノ谷へ向かったのである。
三日後。
師盛はその一ノ谷で討ち死にした。
有盛は屋島へたどり着き、生き延びた。
それから一年余り。
元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦。
有盛は再び兄の資盛とともにいた。
『平家物語』は、二人が従兄弟の平行盛と手を取り合い、同じ場所で海へ沈んだと記している。
三草山では弟と道を分かち、壇ノ浦では兄と最期をともにした有盛。
その名は、後に遠く奄美大島へも伝わった。
壇ノ浦で死んだはずの三人が、実は生き延びて南の島へ渡ったというのである。
現在も奄美市名瀬浦上には、有盛を祀る神社と江戸時代に建立された墓碑が残されている。
平重盛の四男――母は藤原経子
平有盛は、長寛2年(1164年)に生まれたと伝わる。
父は平重盛。
祖父は平清盛である。
重盛は清盛の長男として保元の乱、平治の乱に従い、朝廷では内大臣まで昇った人物だった。
清盛の後継者と目され、一門の中でも高い地位を占めていた。
有盛はその四男にあたる。
母は藤原経子。
鳥羽院の有力な近臣だった藤原家成の娘で、重盛の正室となった女性である。
経子は藤原経宗の猶子ともされる。
仁安元年(1166年)、憲仁親王が皇太子となると、その乳母を務めた。
憲仁親王は、のちの高倉天皇である。
高倉天皇の即位後、経子は典侍として宮廷で活動した。
大納言典侍、大納言三位などの呼び名でも知られている。
清盛の孫である有盛は、母方を通じても朝廷に深い人脈を持っていた。
有盛には兄の維盛、資盛、清経がいる。
弟には師盛、忠房らがいた。
維盛と資盛は有盛と母を異にし、清経は藤原経子を母とする同母兄だった。
師盛や忠房も経子の子とする系譜がある。
重盛には複数の妻と子供があり、それぞれの母方にも有力な公家が連なっていた。
長男の維盛は父の家を継ぐ立場となり、次男の資盛は宮廷で官位を重ねていく。
三男の清経は幼少時から高い位階を得て、近衛府の官職へ進んだ。
有盛も幼いころから朝廷へ出仕した。
祖父の清盛が太政大臣まで昇り、父の重盛が内大臣となった時代だった。
従五位下から右近衛権少将へ――若き日の官歴
安元元年(1175年)。
有盛は従五位下に叙されたと伝わる。
長寛2年生まれとすれば、数え12歳のころである。
平安時代の宮廷では、有力な貴族や武家の子弟が幼いうちから官位を与えられることがあった。
清盛の孫たちも次々に官職を得ている。
兄の資盛は幼いころに越前守となり、清経も早くから高い位階を与えられた。
有盛も父の重盛や祖父の清盛の地位を背景に昇進を続けた。
治承2年(1178年)には正五位下へ進み、侍従となった。
同じころ、出雲権介を兼ねたという官歴も伝わる。
侍従は天皇の身近に仕え、宮廷の儀礼や行事に関わる役職である。
出雲権介は出雲国の国司に属する官職だった。
有盛が出雲へ赴任して国政を執ったという記録は確認できないが、宮廷に仕える公達として地方官の官名も得ていた。
その後、右近衛権少将となり、従四位下まで昇ったとされる。
『平家物語』では「小松少将有盛」と呼ばれている。
近衛府は天皇の警護や宮中の儀礼を担う組織であり、少将はその幹部にあたる。
有盛は宮廷の官職を持ちながら、平氏一門の若い公達として成長した。
しかし、その生活を支えていた父が亡くなる。
治承3年(1179年)のことである。
鹿ケ谷事件と重盛の死――失われた父の人脈
有盛の母・藤原経子には、藤原成親という兄がいた。
後白河法皇の近臣として権大納言まで昇った人物である。
有盛にとって、成親は母方の伯父にあたる。
成親は平氏一門と親族関係を持ちながら、後白河院の周辺で活動していた。
しかし治承元年(1177年)、平氏打倒の謀議に関わったとして捕らえられる。
鹿ケ谷事件である。
清盛は成親を捕らえ、西光を処刑した。
俊寛らは鬼界ヶ島へ流され、成親も備前国へ配流された。
成親は同年、配流先で死亡している。
『平家物語』には、重盛が成親の助命に奔走したという話が残る。
成親は重盛の妻の兄であり、重盛の息子たちとも深い関係を持っていた。
成親の娘を妻としたのは、維盛や清経だったと系譜に伝わる。
重盛の家と成親の家には、複数の婚姻関係があったのである。
有盛自身が伯父の失脚をどう受け止めたのかはわからない。
その二年後、父の重盛も亡くなった。
治承3年7月29日。
享年42歳。
重盛は清盛の長男であり、後継者と目されていた。
後白河法皇とも関係が深く、清盛と法皇の間で政治的な調整に当たることもあった。
その重盛が亡くなり、平氏一門の中心となったのは弟の宗盛だった。
宗盛は清盛の正室・平時子の子であり、高倉天皇の中宮・徳子の兄でもある。
長男の維盛が重盛の家を継ぐ立場となったものの、一門全体の指導者となったのは叔父の宗盛だった。
同年11月、清盛は軍勢を率いて京都へ入り、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉する。
治承三年の政変である。
8月には源頼朝が伊豆で兵を挙げる。
兄の維盛は東国追討軍の大将となったが、富士川で軍勢が崩れ、西へ引き返した。
さらに治承5年(1181年)閏2月には祖父の清盛も死去する。
父の重盛と祖父の清盛を失った有盛は、宗盛のもとで各地の反平氏勢力と向き合うことになった。
寿永2年7月――兄弟たちと京都を去る
寿永2年(1183年)5月。
平維盛らが率いた北陸追討軍は、倶利伽羅峠で木曾義仲に大敗した。
続く篠原の戦いでも敗れ、義仲の軍勢は近江へ進む。
京都を守る兵力は減り、延暦寺も平氏への協力を拒むようになった。
7月24日夜から25日未明にかけて、後白河法皇は京都を脱出して比叡山へ移った。
宗盛は都での抵抗を断念する。
7月25日。
平氏一門は安徳天皇と三種の神器を奉じ、西国へ向かった。
有盛も兄の維盛、資盛、清経、弟の師盛、忠房らとともに京都を離れた。
維盛は妻子を都に残した。
『平家物語』には、別れを惜しむ維盛のもとへ資盛らが訪ね、早く出発するよう促す場面がある。
資盛も建礼門院右京大夫と別れていた。
右京大夫の歌集には、資盛が死を予感し、後世の供養を願ったことが記されている。
有盛が都を離れるとき、誰とどのような別れを交わしたのかは伝わっていない。
当時は二十歳前後。
近衛少将まで昇った若い公達も、安徳天皇を奉じる一門に従い、西国へ向かった。
九州で再起を目指したものの、豊後国の緒方惟義が反旗を翻し、大宰府からも退去を迫られる。
一門は山鹿、柳ヶ浦へと逃れ、やがて瀬戸内海へ戻った。
その逃避行の中で、有盛は兄を一人失ったと伝えられる。
同母兄の清経だった。
柳ヶ浦での悲報――同母兄・清経の入水
寿永2年秋。
『平家物語』巻第八「大宰府落」は、清経が豊前国柳ヶ浦で入水したと記している。
清経は平重盛の三男で、有盛の同母兄だった。
京都では木曾義仲らの軍勢に追われ、九州では父の旧家人だった緒方惟義に追い出された。
逃げ場を失った清経は、一門の行く末を嘆いたという。
「網にかかれる魚のごとし」
網に捕らわれた魚のようだ。
どこへ逃げようとしても追手が迫る。
そのように語ったと『平家物語』は伝える。
そしてある月夜、船の屋形から外へ出た。
横笛を吹き、朗詠を始める。
やがて経を読み、念仏を唱えて海へ身を沈めたという。
有盛がその夜、どの船に乗っていたのかはわからない。
清経の入水をいつ知ったのかも明らかでない。
ただ、重盛の息子が九州で命を落としたことは、後世の『平家物語』で一門の悲しみとして語り継がれた。
兄の清経を失った後も、有盛は宗盛らとともに戦いを続けた。
寿永2年閏10月、平氏は備中国水島で木曾義仲方の軍勢を破る。
続く11月には播磨国室山で源行家の軍勢にも勝利した。
西国で勢力を盛り返した平氏は、翌年正月、福原周辺まで進出する。
京都を追われた一門が、再び畿内へ迫っていた。
その軍勢の中に、有盛の姿があった。
寿永3年正月――再び福原へ迫った平氏
寿永3年(1184年)正月。
平氏は屋島から軍勢を進め、福原周辺へ進出した。
福原は祖父の清盛が大輪田泊を整え、一時は都を置いた場所である。
都落ちから半年ほど。
一門は再び畿内の一角を押さえていた。
一方、京都では木曾義仲が源範頼・義経の軍勢に敗れ、近江国粟津で討ち死にした。
範頼と義経は、続いて平氏の追討へ向かう。
範頼は大手の軍勢を率い、義経は搦手から進んだ。
平氏は福原周辺の生田森や一ノ谷に陣を置き、源氏軍を迎え撃つことにした。
海沿いの道を進む範頼軍に対しては、生田森方面を固める。
一方、丹波方面から山道を進む義経軍を食い止めるため、別の軍勢を配置した。
『平家物語』によれば、その守備を任されたのが重盛の息子たちだった。
資盛、有盛、忠房、師盛。
父の重盛はすでに亡くなり、祖父の清盛もいない。
四人は一門の若い武将として、義経軍の進路に立ちはだかることになった。
三草山――丹波路を守る重盛の息子たち
『平家物語』巻第九「三草合戦」。
平氏方の大将として、まず資盛の名が挙げられている。
小松新三位中将・資盛。
同じく小松少将・有盛。
丹後侍従・忠房。
備中守・師盛。
侍大将には伊賀平内兵衛清家、海老次郎盛方らがいた。
軍勢は三千余騎と記されている。
一方、『吾妻鏡』では平氏方を七千余騎と伝えており、兵数には違いがある。
両軍が実際にどれほどの兵を集めたのか、正確な規模はわからない。
三草山の場所についても、二つの説が知られている。
一般に古戦場として紹介されるのは、現在の兵庫県加東市にある三草山である。
『平家物語』では、義経軍が丹波の小野原から進み、三草山の西側に陣を構える平氏軍を攻めたと記されている。
一方、『吾妻鏡』は三草山を摂津国の山としている。
この記述から、兵庫県猪名川町と大阪府能勢町の境にある三草山を合戦地と考える説もある。
『宝塚市史』では、義経の進路を検討するうえで、この摂津国側の三草山に注目している。
合戦地の比定にはなお議論が残る。
しかし、義経軍が山道から一ノ谷方面へ進み、資盛や有盛らの軍勢がこれを阻もうとしたことは、『平家物語』『吾妻鏡』の双方に伝えられている。
そして義経は、夜のうちに攻撃することを決めた。
「今夜夜討ちにやすべきか」――義経の決断
『平家物語』によれば、義経軍は三草山の東側、小野原へ到着した。
平氏の陣までは三里ほどの距離があったという。
夜になり、義経は侍大将の土肥実平を呼んだ。
今夜のうちに夜討ちを仕掛けるか。
それとも翌朝まで待つべきか。
すると田代信綱が進み出た。
明日まで待てば、平氏に援軍が加わるかもしれない。
今夜のうちに攻めた方がよい。
そう進言したという。
『平家物語』では平氏軍を三千余騎、義経軍を一万余騎としている。
数で勝る源氏方が、さらに夜襲を仕掛けようとしていたのである。
土肥実平も田代信綱の意見に賛成した。
義経は進軍を命じる。
ところが、山道は暗かった。
兵たちは、これほど暗くては進めないと口々に訴えた。
そこで義経は大松明を用意するよう命じたという。
さらに小野原の民家へ火を放ったと『平家物語』は記している。
その火は野山の草木にも燃え広がり、昼のような明るさになったという。
義経軍は火の明かりを頼りに、三里の山道を越えた。
民家への放火は『平家物語』が描く場面であり、夜間行軍の具体的な方法をそのまま復元できるわけではない。
それでも、物語に記されたとおりなら、進軍路にあった村々は戦火に巻き込まれたことになる。
夜の山道を越えた義経軍は、平氏の陣へ迫った。
一方、有盛たちの軍勢は翌朝の戦いに備えていた。
兜を枕に眠る兵たち――三草山の夜襲
『平家物語』によれば、平氏軍はその夜に攻撃を受けるとは考えていなかった。
翌朝に戦いが始まるだろう。
そう見込んで、兵たちは休息していたという。
先陣は警戒していた。
しかし後陣では、眠る者が多かった。
兜を枕にする者。
鎧の袖に頭を預ける者。
箙を枕にして眠る者もいた。
やがて夜半。
山の西側に鬨の声が響いた。
義経軍が襲いかかってきたのである。
『平家物語』は、平氏の陣で起きた混乱を次のように記す。
「弓取る者は矢を知らず、矢を取る者は弓を知らず」
弓を手にした兵は矢を見つけられず、矢を取った兵は弓を探し回った。
突然の襲撃を受け、戦う準備さえ整わなかったという。
そこへ源氏の騎馬武者たちが突入した。
平氏の兵たちは馬に踏まれることを恐れ、陣の中央を空けてしまった。
その間を源氏軍が駆け抜け、陣は崩れたと物語は伝える。
義経軍は逃げる兵たちを追撃した。
『平家物語』では、五百余人が討たれ、多くの負傷者が出たという。
損害の数字には軍記物語特有の誇張が含まれている可能性もある。
しかし、平氏方が不意を突かれて敗走したことは、三草山合戦を伝える史料に共通する。
『平家物語』は2月4日の夜襲として描き、『吾妻鏡』では5日条に翌朝の攻撃が記される。
日付や兵数には違いがあるものの、義経軍が夜間に攻撃を仕掛け、平氏軍を破ったという経過が伝えられている。
有盛たちは、ここで撤退を余儀なくされた。
高砂から屋島へ――資盛・有盛・忠房の退路
三草山で陣が崩れると、大将の資盛も退却した。
『平家物語』は、その後の行動を詳しく記している。
資盛、有盛、忠房の三人は播磨国高砂へ向かった。
高砂は播磨灘に面した港である。
ここから船に乗れば、讃岐国屋島へ向かうことができた。
三人は小舟に乗り、屋島へ渡ったという。
『平家物語』はその場面に、次の言葉を添えている。
「面目なうや思はれけん」
敗戦を恥じたのだろうか。
資盛らが実際に何を考えていたのかはわからないが、軍記物語はそのように語っている。
三草山の陣を破られた三人は、一ノ谷へ戻らず、海路で屋島へ退いた。
ところが、同じ陣にいた師盛は別の道を進んだ。
備中守・師盛。
有盛の弟にあたる。
師盛は平内兵衛清家、海老次郎盛方を連れて一ノ谷へ向かったという。
三草山では四人の兄弟が同じ軍勢に加わっていた。
しかし敗走の途中で、三人と一人に分かれた。
資盛、有盛、忠房は屋島へ。
師盛は一ノ谷へ。
一ノ谷では、源氏と平氏の主力が向き合おうとしていた。
義経軍に敗れたばかりの師盛は、その戦場へ向かったのである。
三日後の一ノ谷――師盛の討ち死に
寿永3年2月7日。
源範頼・義経の軍勢が、福原周辺の平氏軍を攻撃した。
一ノ谷の戦いである。
源氏方は東西から攻め込み、平氏の陣を破った。
平忠度、平敦盛、平通盛ら、一門の武将たちが相次いで討ち死にする。
平重衡は捕らわれた。
そして師盛も、この戦いで命を落とした。
『平家物語』巻第九「落足」には、一ノ谷で討たれた主だった平氏一門の名が挙げられている。
その中に備中守・師盛がいる。
三日前、師盛は有盛たちとともに三草山にいた。
義経の夜襲を受け、兄たちと別れて一ノ谷へ向かった。
しかし、その一ノ谷も源氏軍の攻撃を受けた。
師盛は討ち死にした。
一方、有盛は屋島にいた。
資盛と忠房も屋島へ渡っている。
師盛の死がいつ、どのように有盛へ伝えられたのかはわからない。
ただ、三草山の夜襲で分かれた兄弟のうち、師盛だけが一ノ谷で命を落とした。
有盛は三草山での敗走を生き延び、一門の軍勢に従い続けた。
しかし平氏は一ノ谷でも敗れ、福原周辺の陣地を失った。
残された主要な拠点は屋島だった。
屋島での一年――再び義経が迫る
一ノ谷で敗れた後も、平氏一門は西国で戦いを続けた。
宗盛や知盛らは安徳天皇を奉じ、讃岐国屋島を中心に軍勢を整えていた。
有盛も兄の資盛らとともに、屋島へ退いた一門に加わっていた。
屋島は瀬戸内海の航路に近く、船による移動や補給に適した場所だった。
平氏は長年、西国の海上交通を利用して勢力を保ってきた。
軍船を使えば沿岸の拠点へ移動でき、陸路を進む敵にも対応しやすい。
しかし戦況は次第に厳しくなっていった。
元暦元年(1184年)、源範頼の軍勢は西国へ進出した。
平氏は瀬戸内海の沿岸で抵抗を続けたものの、各地の武士たちは戦況を見て源氏方へ移っていく。
有盛がこの一年の間にどのような任務を担っていたのか、詳しい記録は乏しい。
三草山では兄の資盛とともに軍勢を率いる立場にあった。
屋島でも、一門の若い武将の一人として行動していたと考えられる。
そして元暦2年(1185年)2月。
源義経が屋島へ迫った。
義経は摂津国から阿波国へ渡り、陸路で讃岐へ進んだ。
平氏は海上からの攻撃を警戒していたが、義経軍は陸上から急襲する。
不意を突かれた平氏は屋島の陣を離れ、船へ退いた。
『平家物語』には、那須与一が扇の的を射落とした話や、義経が海に流された弓を拾った逸話が残る。
有盛が屋島の戦いでどの部隊を率いたのかはわからない。
平氏は屋島を失い、西へ向かった。
長門国彦島周辺を拠点に、最後の抵抗を続けることになる。
範頼の軍勢も九州へ進出し、平氏が船で移動できる範囲は狭まっていった。
三草山で有盛らを破った義経が、今度は屋島を奪った。
有盛はさらに西へ退き、長門国の海上で最後の戦いを迎える。
元暦2年3月24日――壇ノ浦の決戦
元暦2年3月24日。
長門国赤間関の海上で、源氏と平氏の船団が激突した。
壇ノ浦の戦いである。
源氏方には源義経がいた。
平氏方では宗盛や知盛らが安徳天皇を奉じ、海上で戦った。
平氏は瀬戸内海の海上交通に通じた武士たちを従えていた。
しかし源氏も西国の水軍を味方につけ、軍船を集めていた。
戦いが進むにつれ、平氏の船団は追い詰められていく。
やがて敗北は決定的となった。
清盛の妻・平時子は、安徳天皇を抱いて海へ沈んだ。
安徳天皇は数え8歳だった。
平知盛、平教盛、平経盛ら、一門の武将たちも相次いで命を落とす。
宗盛は子の清宗とともに捕らえられた。
海上では、逃げる船と追う船が入り乱れていた。
その中で有盛は、兄の資盛とともにいたと伝えられる。
さらに従兄弟の平行盛も近くにいたという。
『平家物語』巻第十一「能登殿最期」は、三人の最期を短く記している。
資盛・有盛・行盛――三人が手を取り合った最期
『平家物語』には、次の一節がある。
「小松新三位中将資盛、同少将有盛、従弟左馬頭行盛」
資盛は重盛の次男。
有盛はその弟で、重盛の四男だった。
行盛は清盛の次男・平基盛の子である。
三人は近い親族だった。
『平家物語』は、その最期を次のように記している。
「手に手を取り組んで、一所に沈み給ひけり」
三人は手を取り合い、同じ場所で海へ沈んだという。
有盛は三草山で、兄の資盛とともに義経軍の夜襲を受けた。
そこで敗れ、二人は高砂から屋島へ逃れている。
その後も平氏一門に従い、屋島を失って長門国へ向かった。
そして壇ノ浦では、再び兄と同じ場所にいた。
『平家物語』は二人に行盛を加え、三人の入水を描いた。
実際に三人がどの船に乗り、どのような経過で海へ入ったのかは明らかでない。
手を取り合って沈む場面は、軍記物語に残された描写である。
三人は壇ノ浦で亡くなったと伝わる。
長寛2年生まれとすれば、有盛は数え22歳だった。
三草山で義経軍を迎え撃ち、夜襲から逃れた有盛も、最後は兄とともに海へ沈んだと『平家物語』は語る。
ところが、遠く南の島では違う結末が伝えられている。
資盛、有盛、行盛の三人は、壇ノ浦を生き延びていたというのである。
喜界島から奄美大島へ――三人の生存伝説
鹿児島県の奄美群島には、平氏の落人に関する伝承が数多く残されている。
その一つが、資盛、有盛、行盛の三人が奄美へ逃れたという話である。
『平家物語』では、三人は壇ノ浦で海へ沈んだと記されている。
しかし奄美の伝承では、三人は源氏の追討を逃れ、南方の島々へ向かった。
最初にたどり着いたのは喜界島だった。
その後、奄美大島へ渡ったという。
三人は島内の異なる場所に拠点を構え、家人たちを配置したと伝えられている。
行盛は現在の龍郷町戸口。
有盛は奄美市名瀬浦上。
資盛は加計呂麻島の諸鈍。
三人は海上から敵が近づくことに備え、それぞれの場所を守ったという。
この伝承は、奄美市の文化財・史跡案内にも紹介されている。
壇ノ浦から三人が実際に逃れ、奄美へ渡ったという十二世紀の記録は確認されていない。
しかし三人の名前は、島内の地名や神社と結びついて残された。
有盛を祀る神社があるのは、奄美市名瀬の浦上地区である。
奄美市名瀬浦上――有盛が城を構えたという場所
有盛神社は、奄美市名瀬浦上にある。
伝承によれば、有盛は奄美へ渡った後、この浦上に居を構えた。
家人たちを周辺に配置し、源氏の追討に備えたという。
有盛が築いたとされる城は、有盛城とも呼ばれる。
奄美市の文化財案内によれば、有盛神社の境内奥の丘陵には、堀切などの遺構が残っている。
堀切とは、尾根を切り下げて敵の侵入を防ぐ施設である。
山城では、尾根伝いに攻めてくる敵を阻むために設けられた。
市は、これらを中世の山城跡と考えられる遺構として紹介している。
神社の背後に、防御施設とみられる地形が残されているのである。
ただ、その城を有盛本人が築いたという記録は見つかっていない。
堀切がいつ造られ、誰が使用したのかについては、なお検討が必要である。
地域では古くから有盛の伝承が語られ、その名が神社や城跡と結びついてきた。
そして境内には、有盛の名を刻んだ墓碑が残されている。
建てられたのは江戸時代だった。
文化13年――大島代官が建てた有盛の墓碑
有盛神社の境内奥、丘陵の頂上付近に平有盛の墓碑がある。
奄美市の資料によれば、文化13年(1816年)、大島代官・肥後翁助が寄進して建立したものだった。
壇ノ浦の戦いから、六百年以上が過ぎている。
当時、奄美大島は薩摩藩の支配下にあった。
島では平氏の落人伝説が語り継がれ、浦上の有盛神社も大切にされていた。
大島代官が墓碑を建てたことからも、江戸時代には有盛を祀る伝承が地域に根づいていたことがうかがえる。
ただし、墓碑は1185年の出来事から六百年以上後に建てられている。
有盛が奄美へ渡ったことを示す同時代の証拠にはならない。
それでも、有盛の名前が島で長く伝えられていたことを示す史跡である。
有盛神社には、石造の弁財天像も残る。
薩摩藩の役人・田代清方が航海安全を願い、寄進したものとされる。
奄美市では、この弁財天像を有形文化財に指定している。
さらに有盛神社の境内の森林も、市の天然記念物となっている。
かつて奄美大島から薩摩へ向かう船は、トカラ列島付近の難しい海域を越えなければならなかった。
航海の安全を願う人々が、有盛神社へ参詣したという。
壇ノ浦の武将を祀る神社は、江戸時代には海を渡る人々が祈りを捧げる場所にもなっていた。
行盛神社と大屯神社――奄美に残る三人の名前
奄美には、有盛だけでなく資盛と行盛の名も残されている。
行盛を祀るのは、龍郷町戸口の行盛神社である。
伝承によれば、行盛は戸口に城を構え、周辺の防備を固めたという。
資盛は、奄美大島の南側にある加計呂麻島の諸鈍へ移ったと伝わる。
諸鈍には、資盛を祀る大屯神社がある。
三人はそれぞれ島内の異なる場所に住み、家人たちを配置したという。
源氏の追討軍が海から近づくことに備え、遠くを見張る場所も設けたと伝えられている。
奄美各地には、その見張り役に結びつけられた伝承も残る。
笠利方面の蒲生崎や、龍郷町の今井崎にも平家伝説が伝わっている。
しかし、そこに記された家人の名前や役割を、十二世紀の史実として確かめることは難しい。
奄美に残されたのは、長い年月をかけて受け継がれてきた物語である。
興味深いのは、その三人の組み合わせだった。
資盛、有盛、行盛。
『平家物語』が壇ノ浦でともに海へ沈んだと記した、まさにその三人なのである。
その名が、奄美では別々の集落に祀られる武将として伝わっている。
讃岐の山里にも――「有木」と名を変えたという伝承
有盛の生存を伝える場所は、奄美だけではなかった。
香川県観音寺市大野原町の有木地区にも、平有盛の落人伝説が残されている。
観音寺市観光協会によれば、壇ノ浦で敗れた有盛がこの山間部へ逃れ、「有木」と名を変えて暮らしたという。
現在の有木地区には、三部神社がある。
地元では「ありもりさん」とも呼ばれ、有盛にゆかりのある神社として親しまれてきた。
伝承によれば、有盛は逃れる際、阿弥陀如来像や陣太鼓などを持ってきたという。
その阿弥陀如来坐像は、現在も地区に大切に伝えられている。
香川県指定の有形文化財となっている像である。
また、地域には有盛の屋敷に関わるとされる場所や、有盛橋、有盛路といった名前も残されている。
地元では、有盛が名を変えて暮らした後、その子孫や家人たちが土地に根づいたという話も語られている。
ただし、阿弥陀如来像を有盛自身が持参したことや、地名の由来を十二世紀の史実として確認できる記録は乏しい。
奄美では、有盛は海を渡って浦上に城を構えた。
讃岐では、山里へ逃れて名を変えて暮らした。
同じ有盛をめぐり、遠く離れた二つの地域に異なる生存伝説が残っている。
奄美の海辺と讃岐の山間部。
有盛の名前は、それぞれの土地で長く語り継がれてきた。
壇ノ浦で死んだ有盛が、なぜ各地に祀られたのか
『平家物語』は、資盛、有盛、行盛の三人が壇ノ浦で手を取り合って海へ沈んだと記す。
一方、奄美では三人が喜界島を経て奄美大島へ渡り、別々の場所に城を構えたと伝わる。
讃岐にも、有盛が山里に隠れ住んだという話が残された。
その結末は、いずれも異なっている。
壇ノ浦での三人の入水は、主として軍記物語によって伝えられている。
実際に三人がどの船に乗り、海上でどのような経過をたどったのか、詳しいことはわからない。
一方、奄美や讃岐へ逃れたことを示す十二世紀の文書も確認されていない。
各地の伝承は、地域の歴史と結びつきながら語り継がれてきたものだった。
平氏の落人伝説は、全国の山間部や離島に数多く残されている。
源平合戦で敗れた武士が遠くへ逃れ、名を変えて暮らしたという話である。
有盛の場合、三草山や壇ノ浦での行動を伝える軍記物語があり、その一方で各地に生存の伝承が残った。
奄美では有盛を祀る神社が建てられ、江戸時代には墓碑も建立された。
讃岐では三部神社や阿弥陀堂に、有盛ゆかりの伝承が残された。
それぞれの土地で、有盛の名前が守られてきたのである。
平有盛の最期――三草山で分かれ、壇ノ浦で手を取る
平有盛は、平重盛の四男として生まれた。
母は高倉天皇の乳母を務めた藤原経子。
祖父の清盛が朝廷で権勢を振るう時代、有盛も幼くして官位を与えられ、右近衛権少将まで昇った。
しかし治承3年(1179年)、父の重盛が亡くなる。
さらに治承5年(1181年)には祖父の清盛も死去した。
源氏との戦いが広がるなか、平氏一門は各地へ追討軍を送るようになる。
寿永2年(1183年)7月25日。
有盛は兄弟たちとともに京都を離れた。
九州で再起を目指したものの、大宰府を追われ、やがて屋島へ拠点を移す。
その逃避行の中で、同母兄の清経が柳ヶ浦で入水したと伝わる。
翌寿永3年2月。
有盛は兄の資盛、弟の忠房、師盛らとともに三草山で義経軍を迎え撃った。
夜襲を受けた平氏軍は大敗する。
『平家物語』によれば、有盛は資盛、忠房とともに高砂から屋島へ逃れた。
師盛は一ノ谷へ向かった。
そして三日後、師盛は一ノ谷で討ち死にした。
有盛は屋島で生き延び、なおも一門に従った。
しかし元暦2年2月、屋島も義経の急襲によって失われる。
平氏は長門国へ退き、3月24日に壇ノ浦で最後の戦いを迎えた。
『平家物語』によれば、有盛はそこで兄の資盛、従兄弟の行盛と手を取り合った。
「手に手を取り組んで、一所に沈み給ひけり」
三人は同じ場所で海へ沈んだという。
有盛は数え22歳ほどだった。
その後、遠く奄美大島には三人が生き延びたという伝説が残った。
有盛は浦上に城を構え、資盛は加計呂麻島の諸鈍に、行盛は戸口に拠点を置いたと伝えられる。
現在、奄美市名瀬浦上には有盛神社がある。
境内奥の丘陵には中世の山城跡と考えられる堀切が残り、文化13年(1816年)には大島代官・肥後翁助によって有盛の墓碑が建てられた。
その石碑が建立されたのは、壇ノ浦の戦いから六百年以上後のことだった。
讃岐国の山里にも、有盛が「有木」と名を変えて暮らしたという伝承が残る。
三草山で義経軍の夜襲を受けた有盛。
兄とともに屋島へ逃れ、師盛とはそこで道を分かった。
そして壇ノ浦では、再び資盛と同じ場所にいたと『平家物語』は伝える。
「手に手を取り組んで、一所に沈み給ひけり」
その一節に記された三人の名は、遠く奄美大島にも伝わった。
浦上の有盛神社には、今も平有盛の墓碑が残されている。
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