【戦い・事件編】藤原純友の乱(後編)――大宰府を襲った藤原純友はなぜ敗れたのか? 博多津の決戦と最期

戦い・事件

第57回

天慶4年(941)5月。

藤原純友の軍勢が、九州の政治・外交・防衛を担う大宰府へ攻め込んだ。

政庁や周辺の役所は火災に見舞われ、財物が奪われる。

現在の大宰府跡では、第Ⅱ期政庁を覆う火災の痕跡が確認されており、941年の藤原純友の乱による焼失と考えられている。その後、政庁はほぼ同じ規模で再建された。

5月19日。

追捕使・小野好古から、純友軍が大宰府内を虜掠したとの報告が京都へ届く。

翌20日。

筑前国博多津で、小野好古らの追捕軍と純友軍が激突した。

純友軍は敗れ、瀬戸内海から九州へ広がっていた勢力は急速に崩れていく。

前編で見た940年初夏、朝廷は純友と結びつく武装勢力への追捕を強めていた。

それでも西国の兵乱は収まらず、940年後半から戦いはさらに拡大していった。

1.940年8月――伊予・讃岐への大規模攻撃

天慶3年(940)6月18日。

朝廷は追捕山陽道凶賊使に対し、純友の「暴悪な士卒」を追捕するよう命じる官符を出すことを決めた。

それまで朝廷は純友本人に従五位下を与えて懐柔を図っていたが、その周囲の武装勢力との衝突は続いていた。

8月になると情勢は大きく動く。

8月26日に京都へ届いた報告では、18日から賊船400余艘が襲来し、伊予・讃岐が相次いで攻撃を受けた。

備後国が用意していた兵船100余艘も焼き払われたという。

阿波でも賊徒への対応が必要となり、近江国から兵士100人が徴発された。

純友と結びつく勢力による攻撃は、瀬戸内海各地へ広がっていた。

2.小野好古・源経基らの追討軍

8月27日。

朝廷は諸国から兵士を徴発し、追討軍の陣容を整えた。

小野好古を追捕山陽南海両道凶賊使の長官、源経基を次官、藤原慶幸を判官、大蔵春実を主典に任じた。

後に博多津で純友軍と戦う人物たちが、この時期に追討軍の中心へ据えられたのである。

小野好古は同年1月から山陽道追捕使を兼ね、播磨・讃岐などで兵船を集めながら西へ進んでいた。

しかし、追討体制が強化されても純友側の活動は止まらない。

8月29日には紀伊国からも海賊襲来の報告が京都へ届いた。

3.大宰府の兵も敗れた

940年秋になっても戦闘は続いた。

10月22日。

安芸・周防両国から、大宰府の兵が海賊との戦いで敗れたとの報告が京都へ届く。

11月7日には、周防国の鋳銭司が海賊の攻撃を受けて焼失した。

鋳銭司は銭貨を鋳造する朝廷の重要施設だった。

12月19日には、土佐国幡多郡も海賊の攻撃を受けて焼亡したと報告されている。

純友と結びつく勢力の活動範囲は、伊予・讃岐を中心とする瀬戸内海から紀伊、周防、土佐、九州方面へ広がっていた。

朝廷が追討軍を動かした後も、西国の兵乱は収束しなかった。

4.941年1月――純友追討の決定

天慶4年(941)1月15日。

公卿たちが朱雀天皇の前に集められ、藤原純友追討について協議した。

愛媛県史は、これを純友追討の最終的な決定とみている。

1月21日には、伊予国で純友側の藤原己辰が討たれ、その首が京都へ送られた。

純友側の内部にも変化が起きていた。

その一人が藤原恒利である。

恒利は純友側の有力者とされていたが、朝廷側へ帰服した。

2月9日には、宮道忠用・藤原恒利らが伊予国へ向かい、海賊を攻撃したことが讃岐国から報告されている。

後世の叙述では、恒利が純友側の内情を追討軍へ伝え、本拠地への攻撃に関わったともされる。

ただし、この日の記録から直接確認できるのは、宮道忠用・藤原恒利らが伊予で海賊を攻撃したことまでである。

5.941年2月――伊予・讃岐の回復

愛媛県史は、941年2月ごろまでに伊予・讃岐の両国が朝廷側によって回復されたとみている。

伊予は純友が長く活動してきた地域だった。

その伊予で朝廷側の攻勢が強まり、追討軍による圧力は次第に純友側を追い詰めていく。

その後、純友は九州へ向かった。

そして5月。

純友軍は大宰府を襲撃する。

純友が以前から大宰府攻略を計画していたのか、伊予方面での劣勢を受けて九州へ向かったのかは、史料から確定できない。

大宰府は西海道諸国を統轄し、外交・防衛も担う朝廷の重要拠点だった。

そこに純友軍が直接攻撃を加えたのである。

6.大宰府襲撃

純友軍が大宰府を襲撃した正確な日付は分かっていない。

確認できるのは、5月19日に小野好古から京都へ、純友軍が大宰府内を虜掠したとの報告が届いたことである。

大宰府は大きな被害を受けた。

現在の大宰府政庁跡では、第Ⅱ期政庁が941年の藤原純友の乱によって焼失したと考えられている。

かつては、この火災によって大宰府政庁がそのまま廃絶したとも考えられていた。

しかし発掘調査によって、焼失後にほぼ同規模の第Ⅲ期政庁が再建されたことが判明した。現在、大宰府政庁跡で見ることのできる礎石も、この第Ⅲ期の建物に関わるものである。

純友軍は大宰府に大きな打撃を与えたが、大宰府の政治拠点としての歴史はその後も続いた。

7.藤原忠文、征西大将軍に

大宰府襲撃の報告が届いた5月19日。

朝廷は参議・右衛門督の藤原忠文を征西大将軍に任命した。

忠文は前年、平将門を討つための征東大将軍にも任じられた人物である。

東国に続き、西国の兵乱にも大将軍として派遣されることになった。

しかし、新たに編成される軍勢が九州へ到着するより先に、戦況は決定的に動いた。

翌5月20日。

すでに西国で追討を続けていた小野好古らが、筑前国博多津で純友軍を撃破した。

藤原純友の乱の行方を決める戦いは、藤原忠文の到着を待たずに始まったのである。

8.5月20日――博多津の決戦

博多津は、大宰府と海を結ぶ重要な港だった。

5月20日。

小野好古らの追捕軍は、ここで純友軍を破った。

『本朝世紀』によって確認できる、藤原純友の乱の大きな転換点である。

戦闘の詳しい経過を伝えている史料の一つが『純友追討記』である。

同書などによれば、小野好古らが陸路から、大蔵春実らが海上から純友軍へ迫った。

愛媛県史は『本朝世紀』『純友追討記』などをもとに、この戦いで純友軍の兵船800余艘が捕獲され、数百人の死傷者が出たと紹介している。

ただし、『純友追討記』は作者も成立目的も分かっていない。

太宰府市公文書館も、誰が何のために作った史料なのかが不明であり、その記述をどこまで信用できるかについて評価が分かれていると説明している。

そのため、800余艘という数字や海陸からの詳しい戦闘経過は、『純友追討記』などが伝える内容として扱う必要がある。

一方、5月20日に小野好古が博多津で純友軍を撃破したことは『本朝世紀』で確認できる。

この敗北によって、純友勢力は急速に崩れていった。

9.博多津からの敗走

6月6日。

純友軍撃破の報告が追捕使から京都へ届いた。

6月11日には、備前国などから送られた飛駅使が、純友らが響灘方面から船を捨てて逃走したと報告している。

朝廷では、純友が京都へ潜入する可能性まで警戒された。

博多津で大敗した純友は、九州から伊予へ戻ったと伝えられる。

そこで最後の戦いを迎える。

10.6月20日――藤原純友の最期

天慶4年(941)6月20日。

伊予へ敗走した純友は、伊予国警固使・橘遠保との戦いで敗れた。

『本朝世紀』『師守記』では、純友は子とともに斬殺されたと伝えている。

一方、『純友追討記』は、純友が捕らえられた後に獄中で死亡したとする。

純友の最期については、史料によって伝え方が異なる。

6月29日には、純友討殺を知らせる伊予国からの解文が京都へ届いた。

7月7日。

橘遠保は、純友とその子・重太丸の首を京都へ送ったと記録されている。

939年末から朝廷との対立を深め、大宰府まで攻め込んだ藤原純友は、ここで姿を消した。

ただし、西国の兵乱そのものはまだ終わっていなかった。

11.純友の死後も続いた追捕

純友の周囲には、各地に武装勢力を率いる人物が残っていた。

8月9日。

石清水八幡宮などへ奉幣された際の宣命には、純友の次将・藤原文元がまだ逃亡中で、伊予へ潜入した可能性があることが記されている。

8月18日には佐伯是基らが日向国を襲撃したが、藤原貞包らとの戦いに敗れて捕らえられた。

9月6日には桑原生行らが豊後国海部郡佐伯院を攻撃する。

追捕使・源経基らとの戦いで敗れ、生行は負傷した後、8日に死亡した。

9月22日には三善文公が播磨で討たれる。

10月18日。

北陸方面へ逃れようとしていた藤原文元らも、但馬国朝来郡で討たれた。

純友の死から約4か月。

各地に残っていた有力者が次々と失われ、西国の兵乱はようやく終息へ向かっていく。

12.11月29日――平定奏上と大宰府の再建

10月23日。

朝廷は山陽・南海両道諸国に置かれていた警固使などを停止する太政官符を出した。

そして11月29日。

大宰府は、藤原純友の党類を討伐し、平定したことを朝廷へ奏上した。

捕らえられた佐伯是基の身柄と、桑原生行の首も左衛門府へ送られることになった。

12月29日には、兵乱が鎮まったことを受けて諸国に大赦が行われた。

純友が討たれた6月20日から、さらに5か月以上が経過していた。

藤原純友の死だけで戦いが終わったのではなく、残された党類への追捕を経て、941年末にようやく兵乱は収束したのである。

一方、純友軍の攻撃で焼失した大宰府政庁は放棄されなかった。

発掘調査によって、焼失した第Ⅱ期政庁の後に、ほぼ同規模の第Ⅲ期政庁が再建されたことが明らかになっている。

941年の火災の痕跡と、その後に築かれた新しい政庁。

現在の大宰府跡には、藤原純友の乱が残した被害と、その後も大宰府が政治拠点として存続した歴史の双方が刻まれている。

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