【戦い・事件編】丁未の乱――蘇我馬子と物部守屋、最後の決戦

戦い・事件

第2回

用明天皇2年(587年)7月。

大和から河内へ、蘇我馬子を中心とする軍勢が進んだ。

軍には泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子ら皇族が加わり、大伴・阿倍・平群・坂本・春日などの豪族も兵を率いて従った。

目指したのは河内国渋川郡。

現在の大阪府八尾市周辺にあたる地域で、物部守屋の本拠があった。

守屋も一族と兵を集め、稲城を築いて待ち受ける。

『日本書紀』は、守屋の軍勢が強く、皇子や群臣の軍が三度退いたと記している。

守屋自身も弓を手にして戦った。

やがて一本の矢が守屋を射落とす。

欽明天皇の時代から朝廷の中枢に立ってきた蘇我氏と物部氏。

その関係は、仏教の受容をめぐる争いに皇位継承をめぐる皇族・豪族の動きが重なり、587年、ついに武力衝突へ進んだ。

欽明天皇の時代から続いた仏教をめぐる争い

蘇我氏と物部氏が仏教をめぐって向かい合ったのは、587年が最初ではない。

『日本書紀』では、欽明天皇の時代に百済から仏像や経典がもたらされた際、朝廷で仏教を受け入れるかどうかが議論されたと記されている。

蘇我稲目は受容に賛成した。

物部尾輿と中臣鎌子は、外国の神を拝めば国神の怒りを招くとして反対した。

欽明天皇は仏像を稲目に与え、試しに礼拝させたという。

稲目は自宅を寺として仏像を安置した。

その後、疫病が広がると、尾輿と鎌子は仏教を受け入れたためだと訴えた。

『日本書紀』には、仏殿を焼き、仏像を難波の堀江へ流したという記事が残っている。

この対立は次の世代へ引き継がれた。

蘇我稲目の子が馬子。

物部尾輿の子が守屋である。

二人はそれぞれ大臣、大連として朝廷の中枢に立った。

敏達天皇の時代――再び仏像が捨てられる

敏達天皇の時代になると、馬子は仏教への信仰を深めていった。

百済から渡来した僧らを迎え、仏殿を設ける。

敏達天皇14年(585年)、再び疫病が流行した。

物部守屋と中臣勝海は、馬子が仏法を行っていることを問題とし、仏教を禁じるよう求めた。

『日本書紀』によれば、天皇の許可を得た守屋は寺へ向かった。

仏塔を倒して火を放ち、仏像を難波の堀江へ捨てた。

僧尼も捕らえられ、処罰された。

その後も疫病は続き、馬子自身も病にかかった。

馬子は再び仏法を行うことを願い出て、許されたという。

同年8月、敏達天皇が崩御した。

次に即位したのは、敏達天皇の異母弟・橘豊日皇子だった。

用明天皇である。

用明天皇と蘇我氏

用明天皇の母は、蘇我稲目の娘・堅塩媛だった。

蘇我馬子にとって用明天皇は、姉妹の子にあたる。

用明天皇の皇子の一人が厩戸皇子である。後世に聖徳太子と呼ばれる人物だった。

用明天皇の即位後も、馬子と守屋はそれぞれ大臣、大連として朝廷に残った。

皇族には、敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子、欽明天皇の皇子である穴穂部皇子や泊瀬部皇子、用明天皇の皇子である厩戸皇子らがいた。

守屋は穴穂部皇子と結びつきを持っていた。

敏達天皇崩御後、穴穂部皇子は敏達天皇の殯宮へ入ろうとして三輪逆と対立する。

その後、穴穂部皇子の命を受けた守屋が兵を動かし、三輪逆は殺された。

仏教をめぐって対立していた馬子と守屋の周囲で、皇位をめぐる皇子たちの動きも激しくなっていった。

用明天皇が「三宝に帰依したい」と告げる

用明天皇2年(587年)4月2日。

用明天皇が病に倒れた。

『日本書紀』によれば、天皇は群臣を集め、三宝に帰依したいので議るよう命じたという。

三宝とは、仏・法・僧を指す。

物部守屋と中臣勝海は反対した。

国神に背いて外国の神を敬うことなど聞いたことがない、と主張する。

蘇我馬子は天皇の意思に従うよう求めた。

そこへ穴穂部皇子が僧を連れて宮中へ入った。

守屋はこれに怒ったと『日本書紀』は記している。

対立はさらに緊迫する。

守屋のもとには、群臣が自分を討とうとしているという知らせが届いた。

守屋は阿都にあった別邸へ退き、人を集めた。

中臣勝海も兵を集める。

馬子の側でも警戒が強まり、大伴毘羅夫が弓矢と楯を持って馬子の邸宅を昼夜守ったという。

そのさなか、用明天皇の容体が悪化した。

用明天皇の死

4月9日、用明天皇が崩御した。

即位から二年に満たない治世だった。

次の天皇はまだ決まっていない。

朝廷には複数の皇子がおり、馬子と守屋の双方が兵を集めている。

その緊張のなかで馬子が先に動いた。

標的となったのは、守屋と結びついていた穴穂部皇子だった。

穴穂部皇子を殺す

6月7日、穴穂部皇子の宮が兵に包囲された。

『日本書紀』では、馬子が炊屋姫尊――のちの推古天皇――の命を奉じ、佐伯丹経手、土師磐村、的真噛らに穴穂部皇子を討たせたと記す。

穴穂部皇子は逃れようとしたが、衛士に発見され、殺害された。

翌8日には宅部皇子も殺された。

用明天皇の死から約二か月。

守屋と近い位置にいた皇子たちが相次いで倒れた。

そして7月、馬子は諸皇子・群臣とともに物部守屋討伐へ向かった。

河内・渋川へ

馬子方の軍勢は大和から河内へ進んだ。

『日本書紀』には、泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子らの名が見える。

大伴噛、阿倍人、平群神手、坂本糠手、春日臣らも軍勢に加わった。

向かった先は河内国渋川郡。

現在の大阪府八尾市を中心とする地域である。

物部氏はこの中河内を有力な拠点としていた。

守屋も一族と兵を集めて待ち受けた。

『日本書紀』には、守屋が「稲城」を築いたとある。

稲城は稲束などを積み上げて防壁としたものと考えられている。

馬子方には複数の皇子と有力豪族が参加していた。

守屋方も容易には崩れなかった。

守屋、木の上から矢を放つ

『日本書紀』は、戦場での守屋の姿を詳しく描いている。

守屋は衣摺にあった朴の木へ登った。

そこから弓を引き、馬子方へ矢を放ったという。

『日本書紀』は、その矢が雨のように降り注いだと記す。

守屋方の抵抗は激しく、皇子や群臣が率いる軍勢は三度退いた。

河内まで進んできた馬子方は、守屋の陣を攻めきれずにいた。

その戦況のなかで、『日本書紀』は厩戸皇子の有名な誓願を記している。

厩戸皇子、四天王像を作る

厩戸皇子は敏達天皇3年(574年)の生まれとされる。

587年の戦いでは、数え年14歳だった。

『日本書紀』では、まだ髪を額の上で束ねる年少者の姿で軍の後方に従っていたと描かれる。

馬子方が三度退くのを見た厩戸皇子は、白膠木を切った。

その木で四天王の像を作り、髪の上に置いて誓願したという。

この戦いに勝つことができれば、四天王のために寺塔を建てる。

馬子もまた、戦いに勝てば諸天王・大神王のために寺塔を建て、三宝を広めると誓ったと『日本書紀』は続ける。

のちに厩戸皇子は四天王寺、馬子は法興寺の建立へ進んだと伝えられる。

四天王寺は現在も、物部守屋との戦いで厩戸皇子が四天王像を作って勝利を祈り、その誓願によって推古天皇元年(593年)に建立されたと寺伝を伝えている。

馬子方は再び兵を整え、守屋の陣へ向かった。

迹見赤檮の一矢

戦闘が続くなか、守屋の最期が訪れる。

『日本書紀』にその名を残すのが迹見首赤檮である。

赤檮が矢を放った。

木の上にいた守屋は射落とされた。

さらに赤檮の配下が進み、守屋とその子らを殺したと『日本書紀』は記す。

大将を失った守屋方は崩れた。

守屋の一族や従者たちは散り、葦原へ逃れて姓や名を変えた者、行方が分からなくなった者もいたという。

587年7月、物部守屋は河内で戦死した。

馬子と守屋の武力衝突は、ここで大勢が決した。

守屋の死後も戦った捕鳥部万

守屋の軍が崩れたあとも、武器を捨てなかった者がいた。

『日本書紀』が詳しく最期を記している捕鳥部万である。

万は守屋の資人で、約100人を率いて難波の守屋邸を守っていた。

守屋の死を知ると馬に乗って逃れ、茅渟県の有真香邑へ向かい、山中へ入った。

朝廷側は数百の衛士を送り、万を包囲する。

万は竹に縄を結び、それを引いて竹を動かし、自分の居場所を惑わせながら矢を放った。

『日本書紀』では、その矢は外れなかったという。

衛士たちは近づくことができず、万と射合った。

万は弓を折り、剣を抜いた。

最後まで戦い、首を刺して死んだと記されている。

守屋が倒れたあとにも、物部方の抵抗は続いていた。

戦いのあと、守屋の土地と人々はどうなったのか

守屋の敗北後、その財産や従者にも処置が加えられた。

『日本書紀』では、守屋の奴の半分と宅地を分けて四天王寺へ与えたと記される。

守屋を射落とした迹見赤檮には田が与えられた。

戦いの前に寺院建立を誓った馬子は、飛鳥に法興寺を建てていく。

物部氏のすべてが587年を境に姿を消したわけではない。

それでも、大連として朝廷の中枢に立ち、馬子と並ぶ勢力を持っていた物部守屋は、この戦いで命を落とした。

朝廷における蘇我馬子の立場は大きくなっていく。

泊瀬部皇子、崇峻天皇となる

守屋の死後、皇位に就いたのは泊瀬部皇子だった。

崇峻天皇である。

『日本書紀』では、用明天皇2年8月に即位したと記されている。

守屋討伐軍に加わっていた皇子の一人だった。

蘇我馬子は崇峻天皇のもとでも大臣として政治の中心に残った。

守屋との戦いが終わっても、馬子を取り巻く政治的な争いまで終わったわけではない。

丁未の乱から5年後の崇峻天皇5年(592年)。

崇峻天皇と馬子の関係が悪化する。

同年11月、馬子の命を受けた東漢直駒が崇峻天皇を殺害したと『日本書紀』は記している。

翌推古天皇元年(593年)、炊屋姫尊が推古天皇として即位した。

その推古天皇のもとで皇太子となったのが、587年の河内で馬子とともに守屋軍へ向かった厩戸皇子だった。

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