第10回
天智2年(663年)8月。
倭国・百済復興軍は、朝鮮半島の白村江で唐・新羅軍に敗れた。
百済王として復興軍に迎えられていた豊璋は高句麗へ逃れ、百済再興の試みも終わりを迎える。
倭国軍は朝鮮半島から撤退し、百済の人々の中には海を渡って倭国へ移る者もいた。
翌664年、対馬・壱岐・筑紫には防人と烽が置かれ、筑紫には水城が築かれた。
665年には長門国、大野、椽に城が築かれる。
667年には高安城・屋嶋城・金田城が築かれ、その同じ年、中大兄皇子は政治の中心を近江大津宮へ移した。
白村江の敗戦後、倭国では西日本各地の防衛施設と朝廷の体制が相次いで整えられていく。
661年、斉明天皇が筑紫で崩御
斉明7年(661年)。
百済復興を支援するため、斉明天皇は中大兄皇子らを伴って筑紫へ向かった。
朝倉橘広庭宮に滞在していた同年7月24日、斉明天皇は亡くなる。
皇太子だった中大兄皇子は、このとき即位しなかった。
『日本書紀』は、中大兄皇子が皇太子のまま政務を執ったこの期間を「称制」と記している。
中大兄皇子が天智天皇として正式に即位するのは668年である。
斉明天皇の死から7年後だった。
この称制の期間中に、百済復興をめぐる戦いと白村江での敗戦、その後の西日本防衛が進められる。
663年、白村江で倭国軍が敗れる
天智2年(663年)8月27日。
倭国水軍は白村江で唐水軍と戦った。
翌28日にも戦闘が続く。
『日本書紀』は、倭国軍が隊伍を整えないまま唐軍へ攻撃を仕掛け、唐軍に挟撃されたと記している。
兵士の多くが海へ落ち、溺死した。
百済復興軍の拠点だった周留城も陥落し、豊璋は高句麗へ逃れた。
倭国軍は百済から撤退する。
倭国へ渡った百済人の中には、のちに築城に関わる技術者や官人も含まれていた。
白村江から約1年後、筑紫を中心とする防衛施設の整備が始まった。
664年、対馬・壱岐・筑紫に防人と烽
天智3年(664年)。
『日本書紀』には、
「対馬島、壱岐島、筑紫国等に防と烽とを置く」
と記されている。
防人が配置され、異変を煙や火で伝える烽が設けられた。
朝鮮半島から倭国へ向かう海路上にある対馬・壱岐と、北部九州の筑紫が防衛の前面に置かれた。
さらに筑紫には水城が築かれる。
筑紫を遮る巨大な水城
水城は現在の福岡県太宰府市から大野城市にかけて残る巨大な土塁である。
『日本書紀』は、
「筑紫に大堤を築きて水を貯へ、名づけて水城と曰ふ」
と記している。
現在残る主な土塁は全長約1.2キロ。
基底部の幅は約80メートルに達する。
博多湾側には外濠が設けられ、土塁の内部を通して水を送る木樋も確認されている。
北側から大宰府方面へ入る交通路を横切るように築かれた防衛施設だった。
白村江の戦いから約1年後のことである。
同じ664年、百済に駐屯していた唐側から使者が筑紫へ来た。
664年、郭務悰が筑紫へ来る
天智3年5月。
百済鎮将の劉仁願が、朝散大夫・郭務悰(かくむそう)らを倭国へ派遣した。
郭務悰らは表函と献上品を携えていた。
この使者は唐皇帝自身が直接派遣した公式使節としてではなく、百済に駐屯していた劉仁願のもとから送られてきたものだった。
倭国側は筑紫で応対した。
白村江では前年まで唐と戦っていたが、その後すぐに唐の支配下に置かれた旧百済地域との交渉が始まっていた。
郭務悰らは同年12月に帰国した。
翌665年には、別の唐使節がやって来る。
665年、劉徳高ら254人が来訪
天智4年(665年)。
唐から劉徳高、百済禰軍、郭務悰ら254人が派遣された。
一行は7月に対馬へ到着し、9月に筑紫へ入った。
前年の郭務悰来訪に続く使節だった。
白村江の戦いから2年。
倭国側は防衛施設を築きながら、唐側との使節往来も続けていた。
その665年、西日本ではさらに大規模な築城が進められる。
665年、百済から渡った人々が築城に関わる
天智4年8月。
朝廷は長門国と筑紫国に城を築いた。
『日本書紀』によれば、長門国には百済出身の達率・答㶱春初(とうほんしゅんそ)が派遣された。
筑紫国には、同じく百済出身の達率・憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)が派遣される。
二人が築いたと記されるのが、大野城と椽城である。
椽城は、のちの史料に見える基肄城にあたると考えられている。
大野城は現在の福岡県大野城市・太宰府市・宇美町にまたがる四王寺山に残る。
山の尾根に沿って土塁や石垣が巡らされ、その総延長は数キロに及ぶ。
水城の背後には大野城が置かれ、その南側には基肄城が築かれた。
百済から渡った人々が持つ築城技術が、白村江後の防衛施設に用いられていた。
百済からの渡来者
白村江の敗戦後、百済から倭国へ渡ったのは築城に関わった者だけではなかった。
『日本書紀』には、百済の官人や男女が各地へ移された記事が残る。
天智4年(665年)には百済の男女400余人が近江国神前郡へ移され、翌666年には百済人2,000余人が東国へ移された。
百済から渡った人々は、倭国内の各地で生活することになった。
その一部は朝廷から官位を与えられ、政治・技術・学問などに関わっていく。
667年、さらに三つの山城を築く
天智6年(667年)11月。
『日本書紀』は、新たに三つの城が築かれたことを記している。
大和国の高安城。
讃吉国山田郡の屋嶋城。
対馬国の金田城。
対馬の金田城は、朝鮮半島と倭国を結ぶ海上交通の前面に位置した。
現在の長崎県対馬市には石塁や城門、水門などの遺構が残っている。
讃岐の屋嶋城は瀬戸内海沿岸に置かれ、大和の高安城は畿内東部の高地に築かれた。
664年の水城。
665年の長門の城、大野城、椽城。
667年の高安城、屋嶋城、金田城。
『日本書紀』には、白村江後の数年間に防衛施設が相次いで築かれたことが記録されている。金田城については『日本書紀』の667年記事と遺構の双方が確認されている。
その667年、朝廷の所在地も動いた。
667年、近江大津宮へ遷る
天智6年3月19日。
中大兄皇子は近江大津宮へ遷った。
現在の滋賀県大津市にあたる。
『日本書紀』には、人々が遷都を望まず、風刺する者が多かったことや、火災が起きたことも記されている。
それでも朝廷は近江に移った。
近江大津宮は琵琶湖に面し、東国方面へ通じる交通路にも近い。
同じ年の11月には、高安城・屋嶋城・金田城が築かれた。
翌668年、中大兄皇子はこの近江大津宮で正式に即位する。
668年、天智天皇即位
天智7年(668年)正月。
中大兄皇子が即位した。
天智天皇である。
斉明天皇が亡くなった661年から7年が経っていた。
同じ668年、朝鮮半島では唐・新羅軍によって高句麗が滅ぼされた。
660年の百済滅亡に続き、高句麗も消滅したことで朝鮮半島の勢力関係は大きく変わる。
天智天皇の近くには、中臣鎌足がいた。
645年の乙巳の変以来、中大兄皇子とともに政治に関わってきた人物である。
669年、中臣鎌足の死
天智8年(669年)10月。
中臣鎌足が病に倒れた。
10月15日、天智天皇は大海人皇子を鎌足のもとへ遣わした。
『日本書紀』によれば、大海人皇子は鎌足に大織冠と大臣の位を授け、藤原の姓を与えた。
翌16日、鎌足は亡くなった。
以後、鎌足は藤原内大臣とも呼ばれる。
のちに朝廷で大きな勢力を持つ藤原氏の名は、このとき鎌足に与えられたものとして『日本書紀』に記されている。
670年、庚午年籍を作る
天智9年(670年)。
庚午年籍(こうごねんじゃく)が作られた。
庚午は670年の干支である。
全国規模の戸籍として、人々の氏姓や家族関係などを記録した。
庚午年籍はのちの時代にも氏姓確認の基準として扱われ、長期間保存された。
同じ頃、防衛施設の整備も続いている。
『日本書紀』には高安城を修理し、穀物や塩を蓄えた記事も残っている。
白村江後に始まった築城は、663年直後だけで終わったわけではなかった。
翌671年、近江朝廷の人事に大きな変化が起きる。
671年、大友皇子が太政大臣となる
天智10年(671年)正月5日。
大友皇子が太政大臣に任じられた。
大友皇子は天智天皇の皇子で、大化4年(648年)生まれ。
数え24歳だった。
『日本書紀』において、太政大臣への任命が明記される最初の人物である。
同じ日に、蘇我赤兄が左大臣、中臣金が右大臣となった。
蘇我果安・巨勢人・紀大人は御史大夫に任じられている。
大友皇子を太政大臣とする朝廷首脳部が置かれた。
この時期、『日本書紀』には天智天皇の弟・大海人皇子も「東宮太皇弟」などの表記で現れる。
後世の天武天皇である。
大海人皇子はどのような立場だったのか
大海人皇子は中大兄皇子の同母弟で、母は斉明天皇である。
生年は確定していない。
天智朝では有力皇族として政治に関わっていた。
天智10年正月、大友皇子が太政大臣となった翌日には、冠位・法度に関する命令が出された。
『日本書紀』本文では大海人皇子が宣したとする一方、
「ある本には、大友皇子が宣したという」
という異伝も残している。
天智朝末期に大海人皇子と大友皇子がそれぞれどの程度の政治的権限を持っていたのかは、史料から単純には決められない。
『日本書紀』は大海人皇子を「東宮」「東宮太皇弟」などと記すが、これをそのまま後世の制度上の皇太子と同じ意味で理解できるかについても議論がある。
天智天皇の病状が悪化した671年秋、大海人皇子は大きな決断をする。
671年10月17日、天智天皇の病床へ
天智10年9月。
天智天皇の病状が重くなった。
10月17日。
『日本書紀』によれば、天智天皇は大海人皇子を病床へ呼び、
「後の事を汝に属く」
と告げたという。
大海人皇子は皇位を受けなかった。
皇后に天下を委ね、大友皇子に政務を行わせるよう申し出、自らは出家して天皇のために仏道を修めたいと願った。
天智天皇はこれを許した。
大海人皇子はその場で剃髪し、沙門の姿となったと『日本書紀』は記している。
この会話が実際にどのような言葉で交わされたのかは確認できない。
『日本書紀』は、翌年の壬申の乱に勝利して天武天皇となる大海人皇子の王統のもとで編纂された史書であり、天智朝末期の記事もその成立事情を踏まえて読む必要がある。
2日後、大海人皇子は近江を離れる。
10月19日、大海人皇子が吉野へ入る
天智10年10月19日。
大海人皇子は再び天智天皇に会い、吉野へ入り仏道を修めたいと願い出た。
天智天皇は許可した。
大海人皇子は近江大津宮を離れ、吉野へ向かった。
大臣たちは菟道まで見送った。
『日本書紀』は、このとき一人の人物が、
「虎に翼を着けて放てり」
と語ったという逸話を伝えている。
吉野へ入った大海人皇子には、鸕野讃良皇女ら家族も従った。
近江には大友皇子を太政大臣とする朝廷が残った。
11月23日、大友皇子ら六人の誓盟
天智10年11月23日。
『日本書紀』によれば、大友皇子、蘇我赤兄、中臣金、蘇我果安、巨勢人、紀大人の六人が内裏西殿で誓盟した。
大友皇子が香炉を手に取り、六人で心を一つにして天皇の詔を奉じることを誓ったという。
大友皇子はこの年の正月に太政大臣となっており、蘇我赤兄は左大臣、中臣金は右大臣を務めていた。
近江朝廷の中心にいた人物たちである。
同じ11月、対馬から筑紫大宰府へ大規模な船団の到来が報告された。
唐側から47隻、約2,000人が来航
11月10日。
対馬国司が筑紫大宰府へ使者を送り、海の向こうから来た一行について報告した。
『日本書紀』によれば、11月2日に沙門道久、筑紫君薩野馬、韓島勝裟婆、布師首磐の4人が唐から戻ってきた。
彼らは、
唐の使人・郭務悰ら600人。
送使・沙宅孫登ら1,400人。
合わせて約2,000人が47隻の船に乗り、比知島に停泊していると伝えた。
人数も船も多かったため、突然倭国へ近づけば防人が驚いて攻撃する恐れがあるとして、先に4人を送ったという。
白村江の戦いから8年が経っていた。
なお、『日本書紀』には669年にも「唐が郭務悰ら2,000余人を遣わした」とする記事がある。
671年の記事は人数・船数・同行者まで詳しく記しており、両記事の関係については重出の可能性も指摘されている。
ここでは、年月日と人数が詳しく残る671年11月の記事に従う。
671年12月3日、天智天皇崩御
天智10年12月3日。
天智天皇が近江大津宮で亡くなった。
『日本書紀』では46歳と記される。
斉明天皇の死後、即位せず政務を執った661年から10年。
白村江の敗戦から8年が経っていた。
この間に筑紫の水城、長門の城、大野城、椽城、高安城、屋嶋城、金田城が築かれた。
近江大津宮への移転が行われ、庚午年籍が作られ、大友皇子は太政大臣となった。
天智天皇が亡くなったとき、大友皇子は近江にいた。
大海人皇子は吉野にいた。
翌672年6月。
大海人皇子は吉野を出る。
壬申の乱が始まる。
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