【人物編Vol.53】平重盛――「忠か、孝か」父・清盛に逆らった平氏の嫡男

人物

第100回

平清盛の死後、平氏一門を率いたのは三男の宗盛だった。

そのため宗盛が初めから清盛の後継者だったように見えるが、本来その位置にいたのは長男の平重盛である。

保延4年(1138年)に生まれた重盛は、19歳で保元の乱に出陣し、平治の乱でも父とともに戦った。その後は清盛の昇進に続くように官位を上げ、30歳で権大納言、40歳で内大臣となる。

知行国や家人を持ち、武士を動かす役目も担っており、1170年代の平氏では清盛に次ぐ存在とみてよい。

ところが『平家物語』に登場する重盛は、武将や政治家としての顔より、父を諫める温厚な人物として知られている。

鹿ケ谷事件の後、後白河法皇を幽閉しようとする清盛に向かって語ったとされる言葉は、その代表だろう。

「君に忠ならんと欲すれば、父に孝ならず。父に孝ならんと欲すれば、君に忠ならず」

法皇への忠義を取れば父に背くことになり、父に従えば法皇への忠義を失う。『平家物語』は、この板挟みに苦しむ重盛を清盛とは対照的な人物として描いた。

ただ、同時代の記録まで見ていくと、これほどきれいに割り切れる人物ではない。

1170年の殿下乗合事件では、息子・資盛が受けた辱めへの報復として、摂政・松殿基房の一行を襲わせた側に重盛の名が出てくる。必要なら武力を使う、平氏の武将らしい一面も持っていた。

そんな重盛が、なぜ晩年には清盛と後白河院の間で苦しい立場に置かれたのか。『平家物語』の名場面と実際の重盛を分けながら、その生涯を見ていく。

清盛の長男として生まれた重盛――時子腹ではなかった嫡男

平重盛は保延4年(1138年)、平清盛の長男として生まれた。祖父は平忠盛、母は高階基章の娘とされる。のちに清盛の正妻となる平時子の子ではない。

時子からは宗盛、知盛、重衡らが生まれている。さらに時子の妹・時忠や、時子の異母妹である建春門院滋子などを通じて、この一族は後白河院や皇室と強く結びついていった。

重盛には長男という強みがあったが、母方の縁という点では、のちに皇室と直結する時子腹の弟たちとは事情が違っていた。それでも若いころから官位は順調に上がっていく。

久安6年(1150年)、まだ十代前半で蔵人となり、翌仁平元年(1151年)には従五位下に叙された。

父の清盛も、武力だけを頼みに勢力を伸ばしたわけではなく、鳥羽院政のもとで官位を重ねて朝廷に足場を築いている。重盛も少年期から同じ道を歩み始めたが、20歳を前にして実戦も経験することになる。

19歳の初陣――保元の乱で父・清盛と戦う

保元元年(1156年)7月、鳥羽法皇の死後に京都で保元の乱が起きた。

後白河天皇方には平清盛、源義朝らがつき、崇徳上皇方には平忠正、源為義、源為朝らが集まった。

数え19歳の重盛も父・清盛に従って後白河天皇方に参加した。

同時代の日記『兵範記』には、中務少輔重盛の名が確認できる。

後世の『保元物語』では、若い重盛の姿は非常に勇ましく描かれた。

崇徳方には、強弓で知られる源為朝がいた。

為朝の矢を受けた清盛方が苦戦し、清盛がいったん兵を退こうとすると、重盛はなお戦おうとしたという。

この勇ましいやり取りは軍記物語の描写であり、そのまま史実とはできないが、重盛が父とともに出陣したこと自体は確認できる。

戦いは後白河天皇方の勝利に終わった。

翌保元2年(1157年)、重盛は従五位上へ昇進する。さらに清盛が大内裏の仁寿殿造営で得た恩賞を重盛へ譲ったことで正五位下へ進んだ。

清盛が自ら得た恩賞を長男へ譲っているところを見ると、このころから重盛を次代の一門を担う人物として育てていたことがうかがえる。3年後、重盛は再び京都で戦うことになる。相手は保元の乱では味方だった源義朝である。

平治の乱――若き重盛が「武将」として名を上げる

平治元年(1159年)12月、京都で再び政変が起こった。

藤原信頼と源義朝が挙兵し、後白河上皇を幽閉。さらに二条天皇まで掌握した。

このとき清盛は熊野参詣の途中にあり、急いで京都へ戻った。やがて二条天皇が信頼・義朝側から脱出して六波羅へ入ると、清盛方が天皇を擁する形となり、情勢は大きく変わった。

平氏は「天皇を擁する側」として反撃を開始する。

この戦いでも重盛は前線に出ている。

『平治物語』では、重盛が兵を率いて内裏方面へ攻め込み、源義朝の長男・悪源太義平と激しく戦う姿が描かれる。

重盛は数え22歳。一騎打ちを思わせる細部は軍記物語の表現として見る必要があるものの、若い重盛が父とともに二度の内乱を経験したことは、後年の姿を考えるうえでも見逃せない。

平治の乱は清盛方の勝利で終わる。

藤原信頼は処刑され、源義朝は逃亡途中に尾張で殺害された。義朝の子・頼朝は伊豆へ流される。

源義朝が倒れたことで、京都で平氏に対抗できる有力な武家は姿を消した。清盛の地位が上がるにつれ、重盛も朝廷で昇進を重ねていく。

清盛の後継者へ――30歳で権大納言

平治の乱後、重盛の官位は着実に上がっていった。

長寛元年(1163年)に従三位、永万元年(1165年)には参議となって公卿に列し、仁安元年(1166年)には権中納言へ進んだ。翌仁安2年(1167年)には従二位・権大納言。数え30歳である。

同じ1167年、父・清盛は武士として異例の太政大臣に就任している。

父が太政大臣、長男が権大納言という並びを見ても、この段階で重盛が後継者として扱われていたことは分かる。

さらに重要なのが軍事面である。

山川出版社『日本史小辞典』が指摘するように、重盛は1167年に賊徒追討の宣旨を受け、その後、平氏の軍事指揮において中心的な役割を担っていった。

朝廷で官位を上げる一方、保元・平治の乱を経験し、平氏の武士たちを動かす役目も担う。重盛は公卿として出世しただけの人物ではなかった。

また清盛が知行国を増やしていくなかで、重盛の家も独自の所領や家人を抱えるようになった。越前は仁安元年(1166年)から治承3年(1179年)まで重盛家の知行国となり、のちには丹後にも影響力を持った。重盛は清盛の長男というだけでなく、自らの家を率いるだけの力を持っていた。

一方で、このころから重盛はたびたび病に悩まされるようになる。

仁安3年(1168年)12月、31歳の重盛は病を理由に権大納言を辞任した。翌嘉応元年(1169年)には正二位に進み、嘉応2年(1170年)4月に権大納言へ復帰する。ところが同年末には再び辞任し、承安元年(1171年)12月にもう一度権大納言へ戻った。

まだ30代前半だったが、すでに病を理由とする辞官が繰り返されていた。その最中の1170年、後世の「温厚な重盛」とはかなり印象の違う事件が起こる。

摂政の行列を襲った重盛――殿下乗合事件が崩す「聖人像」

嘉応2年(1170年)7月3日、重盛の次男・資盛の一行が摂政・松殿基房の行列と路上で行き合った。

当時の社会では、身分の低い者が高位者の行列に出会えば、下車や下馬の礼を取る必要がある。

ところが資盛側の対応が無礼とされ、基房の従者たちは資盛一行に乱暴を加えた。

約3か月後の10月21日、高倉天皇の元服に関する評定へ向かっていた基房の一行が武士たちに襲われる。

基房の随身たちは馬から引きずり下ろされ、髻を切られるなどの辱めを受ける。

摂政本人が参内できなくなったため、朝廷の重要な予定まで延期された。

『平家物語』では、報復を命じるのは清盛で、重盛は逆に息子・資盛を叱り、襲撃に加わった武士を処罰する。しかし九条兼実の『玉葉』や慈円の『愚管抄』では、事件の責任は重盛側に置かれている。報復の主体が清盛へ移されたのは、『平家物語』が重盛をどのような人物として描こうとしたのかを考えるうえで興味深い。

なぜ人物が入れ替わったのか。『平家物語』では清盛が平氏の驕りや暴走を背負い、重盛はそれを諫める人物として造形されている。

摂政への乱暴な報復を重盛が命じたままでは、その後の「理想の忠臣」という姿とつながりにくい。

実際の重盛は、自分の子が辱められたとき、摂政の一行にさえ報復する人物でもあった。後世に語られる「平家の良識人」という印象だけでは、重盛の姿を捉えきれない。

後白河院に近かった重盛――妻は藤原成親の妹

ただ、清盛と重盛では、後白河院やその近臣たちとの関わり方に違いがあった。

清盛は平氏一門の頂点に立ちながら、後白河院と協力して権力を拡大してきた。

重盛自身も、後白河院の近臣たちと深い関係を築いていた。

重盛の正室・経子は、鳥羽院の近臣として大きな力を持った藤原家成の娘で、後白河院近臣・藤原成親の妹にあたる。さらに重盛の長男・維盛も成親の娘を妻とし、重盛家と成親家は二重の婚姻関係で結ばれていた。

成親は妻の兄であり、嫡男の舅でもある。この二重の縁が、治承元年(1177年)の鹿ケ谷事件で重盛を難しい立場に置くことになる。

そのころ清盛と後白河院の関係は、寺社勢力への対応や人事、所領をめぐる問題などから次第に険しくなっていた。

重盛は清盛の長男である一方、後白河院側にも近い親族と人脈を持っていた。後に『平家物語』が重盛へ「忠」と「孝」の葛藤を背負わせた背景には、こうした実際の立場もあったと考えられる。

40歳で内大臣――重盛は平氏の頂点に近づいた

治承元年(1177年)1月24日、重盛は左近衛大将となる。

3月5日には内大臣へ昇進した。正二位、数え40歳。武士の家に生まれた人物としては、父・清盛に続く異例の高位である。

同じ1月には宗盛が右近衛大将となっており、左右の近衛大将を清盛の二人の息子が占めた。重盛が内大臣へ進んだことも合わせれば、平氏の勢力が朝廷の最高層にまで達していたことが分かる。

ただし重盛は6月5日、左近衛大将を辞任する。内大臣の地位は保持した。

小松谷付近に邸宅を構えたことから「小松殿」「小松内府」と呼ばれる。

また『平家物語』などには、邸内に灯籠を設けて仏事を営んだことから「灯籠大臣」と呼ばれたという話も伝わる。京都市も、小松谷の正林寺付近を重盛の別邸跡とする伝承を紹介しているが、邸宅の正確な位置や灯籠堂の細部には伝承的要素が含まれる。

こうした仏教信仰の逸話も、慈悲深く慎みのある人物として重盛を描く後世のイメージと結びついていった。そして同じ1177年、重盛の名を語るうえで欠かせない鹿ケ谷事件が起こる。

鹿ケ谷事件――本当に「一枚岩の平氏打倒計画」だったのか

治承元年(1177年)6月、後白河法皇の近臣・藤原成親、西光、俊寛らが相次いで摘発された。いわゆる鹿ケ谷事件である。

ただし、「鹿ケ谷の山荘で酒宴を開き、瓶子を倒して『平氏が倒れた』と喜んだ」といった有名な場面は『平家物語』などの物語世界によるところが大きい。

そして近年は、成親と西光を最初から一枚岩の「平氏打倒グループ」と見る理解自体も見直されている。両者の政治的立場には違いがあり、それぞれが処罰された背景にも、後白河院・延暦寺・平氏内部の複雑な対立が絡んでいたとする研究がある。

したがって、「鹿ケ谷で平氏打倒の秘密会議が開かれ、それを多田行綱が密告した」という『平家物語』の筋書きを、そのまま事件の全貌として扱うことはできない。

一方で、清盛がこの機会に院近臣を厳しく処分したことは確かである。

西光は捕らえられて斬首され、成親は備前へ流されたのち殺害された。俊寛、平康頼、藤原成経らも鬼界ヶ島方面へ流された。

重盛にとって厄介だったのは、処分された成親がごく近い親族だったことである。

成親の娘は重盛の嫡男・維盛の妻でもある。重盛一門と成親家との結びつきは深かった。

つまり成親の失脚は、重盛にとって単に「法皇の近臣が一人消えた」という話ではない。妻の兄であり、長男の妻の父でもある人物が、父・清盛によって排除されたのである。

『平家物語』は、この事件のあとに重盛最大の見せ場を置いた。怒った清盛が後白河法皇を鳥羽殿へ幽閉しようとすると、重盛が父の前に進み出て思いとどまるよう諫める。そのなかで語られるのが、

「君に忠ならんと欲すれば、父に孝ならず。父に孝ならんと欲すれば、君に忠ならず」

という有名な一節である。

さらに物語の重盛は、清盛がどうしても兵を動かすなら、自分の首を先に刎ねてからにしてほしいと迫る。

物語では清盛もついに思いとどまり、平氏の武士たちも重盛を慕って集まる。清盛の激しさと重盛の慎重さを鮮やかに対比させた、『平家物語』屈指の場面となっている。

「忠ならんと欲すれば孝ならず」――名言は史実なのか

この長い諫言を、1177年の重盛本人の肉声として扱うことはできない。

現在確認できる同時代史料から、重盛が清盛の前で『平家物語』のとおりに法皇幽閉を命懸けで止め、「忠」と「孝」をこの言葉で語ったことまでは裏づけられない。

この重盛像を強く形作ったのは、あくまで『平家物語』である。

近年の研究でも、物語の重盛が「忠」と「孝」を背負う人物として意図的に造形されていることが論じられている。一方、現実の重盛が殿下乗合事件では摂政への報復に関与したとみられることからも、史実上の人物像と『平家物語』の「忠臣・重盛」との間には明確な距離がある。

とはいえ、物語がまったく根拠のない葛藤を作ったとも言い切れない。重盛は清盛の長男でありながら後白河院やその近臣とも関係が深く、処罰された成親は妻の兄にあたる。父と院の関係が悪化すれば、その影響を直接受ける立場にいた。『平家物語』は、そうした重盛の事情を「忠」と「孝」という言葉で印象的に描いたのだろう。

清盛に逆らった男――だが父子は単純な敵同士ではない

ただし、ここで重盛を「反清盛」の人物として描くのも実像から離れる。

保元・平治の乱では父とともに戦い、清盛の昇進に歩調を合わせるように官位を上げ、知行国や家人も抱えるようになった。重盛の地位そのものが、清盛の成功と切り離せない。父子は長く、同じ平氏の繁栄を支えてきたのである。

違いが見え始めるのは、清盛と後白河院の関係が険しくなってからだ。重盛の正室は藤原成親の妹で、嫡男・維盛も成親の娘を妻としていた。院近臣との結びつきは、重盛家にとって政治上の利点でもあった。

そのため、清盛と院の対立が深まれば、重盛は父に従うだけでは済まなくなる。かといって院側へ傾けば、今度は清盛の長男としての立場が揺らぐ。

もっとも、重盛を清盛とは正反対の「穏健派」と見るのも難しい。1170年の殿下乗合事件では、摂政の一行に武力で報復した側に重盛の名が見える。必要とあれば強硬な手段を取る点では、父と大きく違わない。

鹿ケ谷事件で問題になったのは、重盛の性格よりも、これまで両立していた二つの関係が両立しにくくなったことである。清盛の長男として一門を支える立場と、後白河院や院近臣とのつながり。その両方を持っていたことが、かえって重盛を動きにくくした。

宗盛との関係――「後継者争い」と単純化できるのか

重盛の晩年を語るとき、異母弟・宗盛との「後継者争い」が持ち出されることも多い。

宗盛の母・平時子の一族は、皇室との結びつきを急速に強めていた。時子の異母妹・滋子は後白河院との間に高倉天皇をもうけ、清盛と時子の娘・徳子はその高倉天皇に入内する。宗盛自身も昇進を重ね、治承元年(1177年)には右近衛大将となった。

こうした背景だけを見ると、清盛が重盛より宗盛を重く見るようになったと考えたくなる。しかし、重盛が後継者の座から外されたことを示す明確な出来事は確認できない。同じ1177年、重盛は左近衛大将を経て内大臣へ昇っている。鹿ケ谷事件の後も、すぐに官職を奪われたわけではなかった。

重盛にとってより切実だったのは、宗盛との競争よりも病だった。30代前半から辞任と復帰を繰り返し、40歳を過ぎるころには政務を続けること自体が難しくなっていた。

41歳で出した辞表――病が重盛から時間を奪う

治承2年(1178年)2月、重盛は内大臣の辞任を申し出た。前年に就いたばかりだったが、このときは認められず、そのまま職にとどまっている。

同じ年、高倉天皇の中宮・徳子が懐妊し、11月には言仁親王を出産した。のちの安徳天皇である。12月には立太子し、清盛にとっては外孫が皇位継承の最前列に立ったことになる。

一門にとっては大きな慶事となったが、重盛の病状は回復しなかった。翌治承3年(1179年)3月11日、今度は内大臣の辞任が認められる。数え42歳になる年である。

その後は出家し、法名は浄蓮などと伝わる。6月には後白河法皇が小松殿を訪れ、病床の重盛を見舞った。この訪問からも、重盛と院との関係が最後まで続いていたことがうかがえる。

7月末、重盛は死去した。『玉葉』は7月29日の段階でその死を記しており、没日には史料によってわずかな違いがあるものの、一般には7月29日とされる。享年42。父の清盛より2年早く世を去った。

重盛死後に奪われた越前――治承三年の政変への導火線

重盛が亡くなった1179年、清盛と後白河院の関係は一気に険しくなる。

その前月には、清盛の娘で近衛基実の未亡人だった盛子も死去していた。盛子が管理していた摂関家領をめぐって後白河院側が動き、さらに10月には、重盛家が長く知行してきた越前も召し上げられる。

重盛の死後、越前は嫡子・維盛が継いでいたが、後白河院はこれを院分国とし、藤原季能を国守に任じた。重盛家にとっては、当主を失った直後に重要な収入源まで失うことになる。『玉葉』『山槐記』からも、この越前問題が清盛の不満を強めたことが読み取れる。

11月、清盛は福原から兵を率いて上洛する。治承三年の政変である。松殿基房をはじめ、後白河院に近い公卿や院近臣が次々に解官・更迭され、11月20日には後白河法皇も鳥羽殿へ幽閉された。院政はここで止められた。

『平家物語』では、2年前の鹿ケ谷事件で清盛が法皇を幽閉しようとした際、重盛がそれを止めたことになっている。その場面を史実としてそのまま受け取ることはできないが、重盛の死後まもなく清盛が実際に法皇を幽閉したため、後世には両者が強く結びつけて語られるようになった。

もちろん、治承三年の政変を重盛の死だけで説明することはできない。盛子の死後の摂関家領をめぐる問題、越前の召し上げ、清盛と院の長年の対立が重なっている。ただ、後白河院との関係が深かった重盛がその直前に亡くなったことも、両者の関係を考えるうえでは無視できない。

重盛が生きていれば、平氏は滅びなかったのか

重盛の死から約9か月後、治承4年(1180年)4月に以仁王が平氏追討を促す令旨を発した。5月には宇治で源頼政が敗死し、8月には伊豆の源頼朝が挙兵する。木曾の源義仲らも続き、反平氏の動きは各地へ広がった。

翌1181年には清盛も死去し、その後の平氏を率いたのは宗盛である。そこから、「重盛が生きていれば平氏は滅びなかったのではないか」という見方が生まれた。

重盛は保元・平治の乱で実戦を経験し、朝廷では内大臣まで昇り、後白河院や院近臣とも長く関わっていた。清盛の死後まで健在なら、軍事や朝廷への対応が宗盛の時代とは違ったものになった可能性はある。

とはいえ、重盛一人でその後の内乱を止められたと考えるのは難しい。平氏は寺社勢力や後白河院との対立を抱え、東国では在地武士の不満も積み上がっていた。1180年以降の争乱は、清盛一人の性格や宗盛の能力だけで説明できるものではない。

重盛自身も、殿下乗合事件では武力による報復を選んでいる。後世の『平家物語』に描かれたような、争いをすべて収める人物だったわけではない。

ただ、重盛が亡くなった時期は平氏にとって悪かった。4か月後には後白河法皇が幽閉され、翌1180年には以仁王・源頼政、源頼朝らが相次いで兵を挙げる。さらに1181年には清盛も死去した。重盛は、平氏が全国的な内乱に直面する直前に世を去ったことになる。

「忠か、孝か」――史実よりも美しくなった重盛

『平家物語』を読むと、重盛は清盛の暴走を止める良識的な長男として登場する。しかし実際には、保元・平治の乱を戦い、清盛とともに出世し、知行国や家人を抱えた武将でもあった。殿下乗合事件では摂政への報復に関わったとみられ、いつも穏やかに争いを収めていたわけでもない。

その一方で、後白河院や院近臣との縁は深い。とくに藤原成親とは二重の婚姻関係にあり、鹿ケ谷事件で成親が処罰されると、清盛と院の対立は重盛にとって他人事ではなくなった。

「君に忠ならんと欲すれば、父に孝ならず。父に孝ならんと欲すれば、君に忠ならず」という言葉を重盛本人の発言と確認することはできない。それでも『平家物語』がこの言葉を重盛に語らせた理由は分かる。清盛の長男として一門を支えながら、後白河院との関係も簡単には切れない。その立場は、父と院の対立が深まるほど苦しいものになった。

重盛は治承3年(1179年)7月、42歳で亡くなった。その4か月後、清盛は後白河法皇を幽閉する。翌年には以仁王・源頼政が兵を挙げ、源頼朝も伊豆で挙兵した。さらに1181年には清盛も死去し、平氏は宗盛を中心に源氏との戦いへ向かっていく。

重盛が生きていれば、その後の平氏がどうなったかは分からない。少なくとも、清盛の長男として二度の内乱を経験し、朝廷では内大臣まで昇り、後白河院側にも人脈を持つ人物が失われたことは、一門にとって大きな痛手だったはずだ。

後世に「もし重盛が生きていたら」と語られるのは、彼が完璧な人格者だったからではない。清盛とともに平氏を支えてきた人物でありながら、晩年には父と後白河院の対立に巻き込まれ、その行く末を見る前に亡くなったからだろう。『平家物語』はそこに「忠」と「孝」の苦悩を重ね、史実の重盛とは少し違う、もう一人の小松殿を作り上げたのである。

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