第148回
第148回
寿永3年(1184年)2月13日、京都。
源義経の宿所に、平家一門の首が集められていた。
六日前の一ノ谷の戦いで討ち取られた武将たちである。
首は六条室町にあった義経の宿所から八条河原へ運ばれ、それぞれの名前を記した札を付けて獄門に懸けられた。
『吾妻鏡』は、見物人が集まり、辺りは市のようになったと記している。
その首の中に、能登守平教経のものもあった。
平清盛の甥で、一門屈指の猛将として知られた人物だった。
教経は甲斐源氏の安田義定の軍勢に討たれたという。
ところが、この戦死記録には奇妙な問題が残されている。
六日後の2月19日。
九条兼実は日記『玉葉』に、教経についての情報を書き留めた。
「於教経者一定現存云々」
教経は確かに生きている。
この一節は、長くそのように解釈されてきた。
すでに首をさらされた武将が、まだ生存しているというのである。
さらに翌元暦2年(1185年)3月24日。
源平最後の決戦となった壇ノ浦で、教経は再び姿を現す。
『平家物語』巻第十一「能登殿最期」によれば、教経は源氏方の船へ次々に乗り移り、太刀と長刀を振るって戦い続けた。
平家の敗北が決まった後も、その勢いは衰えなかったという。
やがて教経は、源氏の大将である義経を探し始めた。
船から船へ飛び移り、ようやく義経を見つけたとき、義経は二丈ほど離れた味方の船へ跳び移って逃れたと伝わる。
そして教経は、敵の武士二人を両脇に抱え、そのまま海へ沈んだという。
数え二十六歳。
これが『平家物語』の伝える教経の最期だった。
一ノ谷で首をさらされたという記録。
その後の生存をうかがわせる情報。
そして壇ノ浦での壮絶な死。
平教経という武将には、今も食い違う記録が残されている。
平清盛の甥、門脇中納言の次男
平教経は、平教盛の次男として生まれた。
教経にとって清盛は伯父だった。
生まれた年はわかっていない。
永暦元年(1160年)ごろの生まれとされることがあるのは、『平家物語』が壇ノ浦での享年を数え二十六歳としているためである。
父の教盛は、平家一門の中で高い地位にあった。
中納言に昇進し、京都の六波羅では門脇に屋敷を構えていたことから、「門脇中納言」と呼ばれた。
教盛の長男は平通盛。
次男が教経で、その下には業盛らがいた。
通盛は越前守を務め、後に三位へ昇ったため、「越前三位」と呼ばれている。
一方、教経は能登守の官職を得ていた。
『平家物語』で「能登殿」と呼ばれるのは、この官職によるものである。
能登国は現在の石川県能登地方にあたる。
ただし、教経が実際に任国へ赴き、国務に携わったという詳しい記録は見つかっていない。
教経が生まれたころ、平家は朝廷で勢力を拡大していた。
平治元年(1159年)の平治の乱で清盛が源義朝を破ると、平家一門の政治的な地位はさらに高まった。
清盛は仁安2年(1167年)に太政大臣となり、その後も一門の人々が高い官職を占めていく。
教経の父・教盛も、そうした平家政権を支える人物だった。
しかし、治承4年(1180年)に各地で反平家勢力が挙兵すると、一門の武士たちは戦場へ向かうようになる。
教経も、兄の通盛らとともに軍事活動へ加わっていった。
北陸で戦う兄・通盛
教経の兄・通盛は、北陸方面での軍事活動に関わっていた。
平家と源氏の争いが広がると、北陸道では木曾義仲らの勢力が拡大した。
平家は越前国などへ軍勢を送り、その進撃を食い止めようとしていた。
養和元年(1181年)には、越前国の火打城で平家方と源氏方が戦っている。
通盛はこの方面で活動し、『平家物語』には弟の教経も兄を支援するために出陣したとする話が伝わる。
しかし、平家の北陸方面の戦況は次第に悪化した。
寿永2年(1183年)5月、平家は越中国の倶利伽羅峠で木曾義仲に大敗した。
さらに加賀国篠原でも敗れ、北陸道の防衛線を失った。
軍勢を率いていた平維盛らは退却し、京都を守るための兵力は大きく減った。
やがて延暦寺も義仲方へ傾き、平家は都での立場を失っていく。
同年7月、平宗盛は安徳天皇と三種の神器を奉じて京都を離れた。
都落ちである。
平家は九州で態勢を立て直そうとしたが、豊後国の緒方惟栄らが抵抗し、大宰府周辺にも安定した拠点を築けなかった。
その後、瀬戸内海へ戻り、讃岐国屋島を中心に軍勢を整える。
このころから教経は、平家に背いた武士たちを追う武将として、『平家物語』にたびたび登場するようになる。
水島の戦い、船をつないで義仲軍を迎える
寿永2年閏10月1日。
備中国水島の海上で、木曾義仲方と平家方の軍勢が激突した。
現在の岡山県倉敷市玉島付近にあたる。
義仲方の大将は矢田判官代義清。
侍大将には信濃国の海野弥平四郎行広がいた。
義仲軍は兵船を集め、讃岐国屋島へ攻め込もうとしていた。
『平家物語』巻第八「水島合戦」によれば、義仲方の船は500余艘。
これに対して平家は1000余艘を繰り出したという。
平家方の大将は平知盛。
搦手を率いたのが教経だった。
両軍の船が近づくと、教経は味方の兵たちへ命じた。
船をつなげ。
船首と船尾の綱を結び、船と船の間にもやいを入れ、さらに板を渡させた。
こうして平家方の武士たちは、船から船へ移動できるようになったという。
『平家物語』は、船上が平地のようになったと描いている。
やがて両軍は鬨の声を上げ、弓を射合った。
船が近づけば太刀や熊手を使い、敵船へ乗り移って戦う。
組み合ったまま海へ落ちる者もいたと伝わる。
戦いは平家方が優勢となった。
義仲方の海野行広が討たれ、大将の矢田義清も命を落とした。
義仲軍は敗走する。
この日、水島では日食も起きていた。
『源平盛衰記』には、突然暗くなった空を見て義仲方が動揺したという話が残っている。
日食が起きたこと自体は当時の記録からも確かめられるが、それが実際に戦況へどれほど影響したのかはわからない。
また、教経が船をつなぐよう命じた場面も『平家物語』の描写による。
ただ、軍記の中で教経は、この水島から海上の軍勢を指揮する武将として活躍し始める。
平家は水島で勝利した後、福原方面へ軍勢を進めていった。
下津井で平家に背いた武士を追う
平家が一ノ谷へ戻ったころ、四国の武士たちの間では離反の動きが広がっていた。
『平家物語』巻第九「六箇度合戦」は、教経による一連の追討戦を描いている。
阿波国や讃岐国の在庁官人たちは、平家に背いて源氏方へ加わろうとしていた。
しかし、昨日まで平家に従っていた者が、突然源氏のもとを訪ねても信用されるとは限らない。
そこで平家へ一度矢を射かけ、その行動を手柄の証拠にしようと考えたという。
標的に選ばれたのは、備前国下津井にいた門脇中納言教盛とその息子たちだった。
兄の通盛。
弟の教経。
父子三人が同じ場所にいたのである。
四国の武士たちは兵船十余艘を出し、平家方へ近づいた。
形だけ矢を放ち、すぐに退くつもりだったという。
ところが、教経は激怒した。
昨日まで自分たちの馬の草を刈っていた者たちが、もう主人を裏切ろうとしている。
一人も逃すな。
教経はそう命じ、小舟を出して追撃を始めたと伝わる。
四国の武士たちは予想外の激しい反撃を受け、淡路国福良の港まで逃げた。
現在の兵庫県南あわじ市にあたる。
しかし、教経はそのまま追いかけた。
淡路で源為義の子らを討つ
福良へ逃れた武士たちは、淡路国にいた源氏の一族を頼った。
賀茂冠者義嗣と淡路冠者義久である。
『平家物語』では、二人を源為義の子と伝えている。
為義は源頼朝の祖父にあたり、保元の乱で敗れて処刑された武将だった。
その一族が淡路で反平家勢力の中心となっていたという。
教経は淡路へ攻め込み、彼らの籠もる城を攻撃した。
賀茂冠者義嗣は討死。
淡路冠者義久も重傷を負い、生け捕りにされたと伝わる。
さらに『平家物語』は、城に残って戦っていた武士230余人の首を斬らせ、討ち取った者の名前を記して福原へ送ったと書き残している。
教経の武功を伝える章段だが、そこに描かれた戦いは苛烈だった。
平家に背いた武士たちを追い、降伏しなかった者を討ち取る。
戦死者の首を集め、戦果として報告する。
教経は、こうした追討戦を繰り返し任される武将として描かれている。
淡路での戦いを終えると、父の教盛は福原へ戻った。
一方、通盛と教経には新たな討伐の命令が下った。
今度の相手は、伊予国の河野通信だった。
河野通信を追い、安芸国へ
河野通信は、伊予国の有力武士だった。
河野氏は瀬戸内海の海上交通にも関わり、船を動員する力を持っていた一族である。
通信は後に義経へ兵船を提供し、源氏方を支えることになる。
しかし、このころは平家の召集に応じず、教経らの攻撃を受ける立場にいた。
『平家物語』によれば、通盛と教経は河野通信を攻めるため四国へ渡った。
通盛は阿波国花園城へ。
教経は讃岐国屋島へ入ったという。
その動きを知った通信は、伊予国を離れ、安芸国へ向かった。
通信には安芸国に母方の伯父がいた。
沼田次郎である。
通信は伯父と合流し、沼田城に立て籠もった。
教経は通信の動きを知ると、屋島から兵を進めた。
途中、備後国蓑島に宿泊し、翌日には沼田城へ攻め寄せたと伝わる。
沼田次郎は抵抗しきれず、兜を脱ぎ、弓の弦を外して降伏した。
しかし通信は従わなかった。
500余騎いた軍勢は50騎ほどに減り、城を脱出したという。
教経の家人である平八兵衛為員は、200騎ほどを率いて通信を追った。
通信はさらに兵を失い、主従七騎となった。
そこへ為員の子・讃岐七郎義範が追いついた。
義範は弓の名手だったと伝わる。
逃げる七騎のうち五騎を射落とし、通信の周囲には郎党が一人残るばかりとなった。
郎党を担いで逃れた河野通信
海岸へ向かって逃げる通信を、讃岐七郎義範がなおも追いかけた。
義範は通信の大切にしていた郎党へ馬を並べ、そのまま組み伏せたという。
そして首を取ろうとした。
その様子を見た通信は、逃げかけていた馬を引き返した。
義範へ斬りかかり、その首を掻き切ったと『平家物語』は伝えている。
通信は首を深田へ投げ捨てると、大声で名乗りを上げた。
伊予国の河野四郎越智通信。
数え二十一歳。
戦いとはこうするものだ。
そのように叫んだという。
そして傷ついた郎党を肩へ担ぎ、追撃を振り切って伊予国へ逃れたと伝わる。
教経は通信を討ち取れなかった。
一方、降伏した沼田次郎を連れ、一ノ谷へ戻ったという。
『平家物語』は通信の脱出を、危険な状況でも郎党を見捨てなかった武士の姿として描いている。
その一方で、通信を主従二騎にまで追い詰めたのが教経の軍勢だった。
後に源氏方へ加わる通信と、平家の武将として戦う教経。
二人はすでに、西国の戦場で敵同士となっていた。
西宮沖、吹井浦、今木城
教経の追撃はさらに続いた。
淡路国の安摩六郎忠景も、平家に背いて源氏方へ通じようとしていた。
忠景は大船二艘に兵糧米と武具を積み、京都へ向かったという。
福原で知らせを受けた教経は、小舟十艘ほどを出して追撃した。
西宮沖で忠景の船へ攻めかかる。
忠景は抵抗したものの、教経の攻撃に耐えきれず、和泉国吹井浦へ退いた。
そこへ紀伊国の園辺兵衛忠康が駆けつけた。
忠康は百騎ほどを率い、忠景と合流したという。
しかし、教経は再び攻め寄せた。
二人は郎党たちに防戦を任せ、自らは京都へ逃れたと伝わる。
『平家物語』によれば、教経は残された兵200余人の首を斬らせ、福原へ送った。
さらに、豊後国の臼杵惟隆、緒方惟義、伊予国の河野通信らが備前国今木城に立て籠もった。
教経は3000余騎を率いて攻め込んだという。
城内の武士たちの抵抗が強かったため、教経は福原へ援軍を求めた。
平家の大軍が来ると聞いた城内の武士たちは、九州や四国へ退いたと伝わる。
『平家物語』は、こうした戦いを「六箇度合戦」としてまとめている。
下津井から淡路、安芸、摂津、和泉、備前へ。
教経は、平家を離れようとする武士たちを追って各地を転戦した。
この章段は、平家が西国で勢力を立て直す過程を、教経の武功を通じて描いている。
ただし、戦闘の順序や軍勢の規模には伝本による異同があり、各地の戦果を軍記に書かれた数字のまま確定することは難しい。
一ノ谷、山の手の守備を命じられる
寿永3年(1184年)2月。
源頼朝の命を受けた範頼と義経の軍勢が、西国へ向かった。
平家は摂津国福原を中心に陣を構えていた。
2月5日、義経軍は三草山で平家方を破った。
その知らせが一ノ谷の平家陣営へ届く。
義経の軍勢が山の手から攻め込んでくるかもしれない。
宗盛は一門の武将たちへ使者を送り、山側の守備を引き受けるよう求めた。
ところが『平家物語』巻第九「老馬」によれば、武将たちは次々に辞退したという。
一ノ谷の背後には険しい山地があった。
源氏方が攻め下ってくれば、防戦の難しい場所となる。
宗盛は教経へ使者を送った。
これまでにも何度も戦いを任せてきたが、今回も山の手へ向かってくれないか。
教経はその命令を受け入れた。
戦いやすい場所だけを選んでいては勝てない。
敵の強いところへは、何度でも自分が向かう。
『平家物語』は、教経がそのように答えたと記している。
宗盛は喜び、越中前司平盛俊を先鋒として、一万余騎を教経へ付けたという。
教経は兄の通盛とともに、一ノ谷の背後にあたる鵯越の山麓を守ることになった。
決戦前夜、兄・通盛を叱りつける
一ノ谷の決戦を前に、教経の仮屋には兄の通盛がいた。
通盛は妻の小宰相局を呼び寄せ、別れを惜しんでいたという。
小宰相局は宮中に仕えた女性で、その美しさが知られていた。
『平家物語』には、通盛が長く思いを寄せ、ようやく夫婦となったという話が残る。
このとき小宰相局は身重だったとも伝わる。
翌日に大きな戦いを控え、通盛は妻と語り合っていた。
ところが、教経はその様子を見ると激しく怒った。
自分たちが守る山の手は危険な場所だった。
今すぐ敵が山から攻め下ってきたらどうするのか。
弓を持っていても、矢をつがえる時間がなければ役に立たない。
教経は兄を厳しく戒めたという。
通盛は弟の言葉を聞き、急いで武具を整えた。
そして小宰相局を船へ帰したと伝わる。
通盛が妻との別れを惜しむ間にも、教経は敵の襲来を警戒していた。
『平家物語』は、二人の兄弟を対照的に描いている。
2月7日。
源氏方は一ノ谷への攻撃を始めた。
通盛は湊川付近で討死する。
弟の業盛も命を落とした。
通盛の妻・小宰相局は、船で西国へ逃れる途中、夫の死を知った。
『平家物語』では、やがて小宰相局も海へ身を投げたと伝えている。
教経が決戦前夜に叱りつけた兄は、二度と帰ってこなかった。
そして教経本人についても、戦死したという記録が残されることになる。
一ノ谷で討たれた能登守の首
『吾妻鏡』寿永3年2月7日条には、一ノ谷の戦死者が記されている。
平忠度、平通盛、平敦盛、平経正、平業盛ら、一門の武将たちの名が並ぶ。
その中に教経もいた。
同書によれば、教経は但馬前司経正、備中守師盛とともに、安田義定の軍勢によって討ち取られた。
2月13日。
平家一門の首が義経の宿所へ集められた。
通盛、忠度、経正、教経、敦盛らの首である。
首にはそれぞれ名前を書いた札が付けられ、八条河原へ運ばれた。
獄門に懸けられると、見物人が集まり、辺りは市のようになったという。
さらに2月15日、鎌倉へ届けられた戦勝報告にも、教経は安田義定によって討ち取られた武将として名が記された。
戦場で討たれたという報告。
京都でさらされた首。
そして鎌倉へ届けられた戦勝記録。
『吾妻鏡』には、教経の戦死が繰り返し記されている。
ところが、一ノ谷の戦いから十二日後、京都で別の情報が書き留められた。
『玉葉』の「一定現存」をどう読むか
寿永3年2月19日。
九条兼実は日記『玉葉』に、一ノ谷で敗れた平家の消息を記している。
平家は讃岐国屋島へ戻り、なお三千余騎の軍勢があるという情報だった。
その記事の中に、教経に関する一節が残る。
「於教経者一定現存云々」
一般には、教経が確かに生存しているという噂があったと解釈されている。
国立劇場の文化デジタルライブラリーや兵庫県立歴史博物館も、この一節を教経の生存情報として紹介している。
一ノ谷で教経の首がさらされたという報告がありながら、その後も本人が生きているという話が伝わった。
もし生存情報が正しければ、京都へ運ばれた首は別人のものだったことになる。
ただし、この一節には別の読み方もある。
国文学者の西田直敏は、『玉葉』の「一定現存」を詳しく検討し、教経本人ではなく、教経の首が確かに存在していたという意味に読む説を提示した。
問題の一節が、京都でさらされた平家の首について述べる文章の中に置かれているためである。
この解釈では、『玉葉』も教経の首が京都にあったことを伝えており、教経の生存を示す記録にはならない。
つまり、一ノ谷後の教経については、史料の内容だけでなく、その文章をどう読むかでも見解が分かれている。
兼実自身が教経の姿を確かめたわけでもない。
教経が一ノ谷で死んだのか、あるいは別人の首が教経のものとされたのか。
この問題は、後に残された別の記録も合わせて考える必要がある。
屋島で義経を狙った能登守
元暦2年(1185年)2月19日。
源義経が讃岐国屋島へ攻め込んだ。
義経は暴風の中で阿波国へ渡り、夜を徹して山道を進んで平家の背後へ現れた。
平家は安徳天皇を船へ移し、海上へ退いた。
しかし、義経の軍勢が少数と知ると、再び岸へ船を寄せて反撃した。
『平家物語』巻第十一「嗣信最期」では、このとき教経が平家方の攻撃に加わったと描いている。
船の戦いには、船の戦い方がある。
教経はそう語り、鎧直垂を着けず、小袖の上から唐綾威の鎧をまとったという。
大きな太刀を佩き、二十四本の矢を背負い、滋籐の弓を持っていた。
狙ったのは源義経だった。
教経は平家一門でも屈指の弓の名手として描かれている。
しかし、義経の前には家人たちが馬を並べていた。
佐藤継信。
佐藤忠信。
江田源三。
熊井太郎。
武蔵坊弁慶。
彼らは馬の頭を並べ、義経を矢から守っていたという。
教経は退くよう叫び、次々に矢を放った。
『平家物語』によれば、鎧武者十余騎が射落とされた。
そして、奥州の佐藤継信にも矢が命中した。
佐藤継信を射た一本の矢
佐藤継信は、奥州の佐藤基治の子だった。
弟の忠信とともに義経へ仕え、各地の戦いに従ってきた武士である。
『平家物語』によれば、教経の矢は継信の左肩から右脇へ貫いた。
継信は馬から落ち、その場に倒れたという。
義経は継信を陣の後方へ運ばせ、自ら駆けつけた。
死を前にした継信は、義経の身代わりとなって討たれたことを名誉に思うと語ったと伝わる。
『吾妻鏡』にも、継信が屋島の戦いで負傷し、命を落としたことが記されている。
ただし、教経がその矢を放ったという詳しい場面は『平家物語』の描写による。
一ノ谷で教経が戦死したという『吾妻鏡』の記録を採るなら、教経はこの屋島にいなかったことになる。
『平家物語』は、一ノ谷を生き延びた教経を、再び義経の前に立たせたのである。
さらにこの戦いでは、教経の身近にいた若者も命を落とす。
菊王丸の死
継信が馬から落ちると、平家方の船から若い武士が飛び出した。
菊王丸である。
『平家物語』では、教経に仕える十八歳の童として描かれている。
菊王丸は刀を抜き、継信の首を取ろうとした。
しかし、その様子を見ていた弟の佐藤忠信が弓を引いた。
兄の首を取らせるわけにはいかなかった。
忠信の矢は菊王丸の草摺の近くを貫き、菊王丸はその場に倒れたという。
教経はすぐに手を伸ばした。
左手には弓を持ったまま、右手で菊王丸をつかみ、船の中へ投げ入れたと『平家物語』は記している。
しかし、傷は深かった。
菊王丸は助からなかった。
菊王丸は、もともと教経の兄・通盛に仕えていた若者だったという。
通盛が一ノ谷で討死した後、教経が引き取り、かわいがっていたと伝わる。
兄を失い、その兄に仕えていた菊王丸も失った。
『平家物語』では、教経が菊王丸の死を深く悲しみ、その後は戦わずに船を退いたと描いている。
敵へ矢を放ち続けていた教経は、一人の近習の死によって戦場を離れた。
屋島の戦いは源氏方の勝利に終わった。
平家は安徳天皇を奉じ、長門国彦島へ退いた。
約一か月後、関門海峡で最後の決戦が始まる。
父・教盛が海へ沈んだ壇ノ浦
元暦2年3月24日。
長門国壇ノ浦。
『吾妻鏡』によれば、源氏方の兵船は840余艘、平家方は500余艘だった。
平家は筑前国の山鹿秀遠や肥前国の松浦党らを先陣として戦った。
しかし、源氏方の武士たちが船へ乗り移り、平家の陣形は崩れていった。
安徳天皇は海に沈み、平家一門の武将たちも次々に命を落とした。
その中に教経の父・教盛もいた。
『平家物語』では、教盛は弟の経盛と手を取り合い、鎧の上に重い碇を背負って海へ入ったと描かれている。
経盛も清盛の弟で、一ノ谷では息子の経正や敦盛を失っていた。
教盛自身も、一ノ谷で通盛と業盛を失っている。
そして最後は、壇ノ浦で自らも海へ沈んだと伝わる。
一方、『平家物語』の教経は、まだ戦っていた。
源氏方の船が近づく中、教経は弓を引き続けたという。
矢に当たった武士たちが、次々に倒れていった。
やがて矢を射尽くすと、教経は弓を捨てた。
そして大太刀と大長刀を左右の手に持ち、船上で振り回したと伝わる。
その前へ進み出る武士はいなかったという。
平知盛が止めた教経の殺戮
教経が敵を討ち続ける姿を見て、平知盛は使者を送った。
知盛は清盛の四男で、教経にとって従兄にあたる。
一ノ谷から屋島、壇ノ浦まで軍勢を支えてきた武将だった。
その知盛が、教経へ告げたという。
「能登殿、いたう罪な作り給ひそ」
これ以上、むやみに人を殺して罪を重ねるな。
さらに、今討っている相手がそれほどの敵なのかと問いかけた。
教経はその言葉を聞き、知盛の意図を悟ったという。
源氏方の兵を何人討っても、平家の敗北は覆らない。
大将を狙えということだろう。
教経は太刀の柄を短く握り直し、源氏方の船へ乗り移っていった。
目指す相手は源義経。
平家を屋島から追い、壇ノ浦でも軍勢を率いている武将だった。
しかし教経には一つ問題があった。
義経の顔を知らなかったのである。
義経を追い回すも、船を跳び移られる
『平家物語』によれば、教経は立派な鎧を着けた武士を見るたびに、義経ではないかと目を向けた。
船から船へ乗り移り、源氏の武士たちを押しのけながら進んでいく。
義経も、教経が自分を狙っていることには気づいていたという。
しかし、容易には顔を合わせなかった。
やがて教経は、義経の乗る船へ行き当たった。
教経が飛びかかろうとする。
その瞬間、義経は長刀を脇に抱え、近くにいた味方の船へ飛び移ったと伝わる。
その距離は二丈ほど。
約6メートルである。
義経は無事に飛び移ったが、教経は続いて飛ぶことができなかった。
この場面は後世、「義経の八艘飛び」として広く知られるようになった。
ただし、『平家物語』覚一本に記されているのは、義経が二丈ほど離れた味方の船へ飛び移ったという描写である。
八艘の船を次々に飛び越える姿は、後の物語や芸能の中で広まった。
教経は義経を討ち損ねた。
もはや敵の大将へ近づくことも難しかった。
教経は手にしていた武器を捨てた。
武器を捨て、頼朝を呼ぶ
教経は大太刀と大長刀を海へ投げ込んだ。
兜も脱ぎ捨てたという。
鎧の袖や草摺を外し、胴だけを着けた姿で立った。
そして大きく両腕を広げ、源氏方の武士たちへ呼びかけた。
自分を生け捕りにできると思う者は、かかってこい。
『平家物語』では、そのように挑発したと伝えている。
さらに教経は、鎌倉へ下って頼朝に会い、一言申し上げたいことがあるとも叫んだという。
しかし、誰も容易には近づかなかった。
大太刀も長刀も捨て、兜まで脱いだ教経を、源氏方の武士たちは警戒していた。
『平家物語』は、教経の周囲に近づく者がいなかったと記している。
そこへ、三人の武士が進み出た。
土佐国安芸郷の住人だった。
安芸太郎実光、三人で挑む
教経へ向かったのは、安芸太郎実光だった。
土佐国安芸郷を支配する安芸大領実康の子である。
『平家物語』では、実光は並外れた怪力を持つ武士として描かれている。
実光には、同じく力の強い弟の次郎がいた。
さらに自分に劣らぬ腕の立つ郎党を一人連れていたという。
三人なら教経を捕らえられる。
そう考えた実光たちは小舟を寄せ、教経の乗る船へ飛び移った。
太刀を抜き、三方から攻めかかったという。
ところが教経は動じなかった。
最初に進み出た郎党を蹴り、海へ落とした。
続いて実光を左の脇へ抱え込んだ。
弟の次郎も右の脇へ抱えたという。
そして二人を強く締めつけた。
「さらば死出の山の供せよ」
死出の旅路へ、一緒に来い。
教経はそう言い、二人を抱えたまま海へ飛び込んだと伝わる。
数え二十六歳。
これが『平家物語』巻第十一「能登殿最期」に描かれた教経の死である。
郎党一人を蹴り落とし、安芸太郎兄弟を道連れに海へ沈む。
物語の中の教経は、最後まで源氏方の武士と組み合いながら生涯を終えた。
『醍醐寺雑事記』に残る壇ノ浦での死
教経が壇ノ浦で亡くなったという情報は、『平家物語』以外にも残されている。
京都の醍醐寺に関わる記録を集めた『醍醐寺雑事記』である。
その中に、教経が壇ノ浦で自害したという記事がある。
『吾妻鏡』では、教経は一ノ谷で討たれ、首を京都でさらされたことになっていた。
『玉葉』の「一定現存」は、生存情報とも、教経の首が現存したという意味とも読まれている。
そして『醍醐寺雑事記』には、壇ノ浦で自害したという記録が残る。
兵庫県立歴史博物館は、一ノ谷での戦死報告が誤報だった可能性を指摘し、教経が壇ノ浦で最期を迎えたとする説を有力と紹介している。
ただし、壇ノ浦で亡くなったとしても、『平家物語』が描く義経追撃や最後の組討まで、すべて史実と確定することはできない。
安芸太郎兄弟を両脇に抱えて海へ沈んだという詳しい場面は、軍記物語に伝わるものである。
教経の首とされたものが、なぜ一ノ谷から京都へ運ばれたのか。
誰がその首を確認したのか。
その事情は明らかになっていない。
教経の死をめぐる食い違いは、後世の人々にも強い印象を残すことになる。
江戸時代、教経は吉野山に現れる
延享4年(1747年)、大坂で人形浄瑠璃『義経千本桜』が初演された。
竹田出雲らが手がけた、源義経と平家の生き残りを題材とする作品である。
この物語には、すでに亡くなったはずの平家の武将たちが、別の姿で登場する。
平知盛は銀平。
平維盛は弥助。
そして平教経は、横川覚範という荒法師に姿を変えていた。
『義経千本桜』の教経は、壇ノ浦で死んだと見せかけ、吉野山まで生き延びていたという設定である。
教経は義経を恨み、吉野山の僧兵たちとともに襲撃を企てる。
しかし、そこには佐藤忠信がいた。
屋島で兄の継信を教経の矢によって失ったと伝わる武士である。
『義経千本桜』では、義経を追う横川覚範の正体が教経と明らかになる。
吉野山で教経と対決するのは、忠信だった。
忠信は源九郎狐の助けを受けながら教経と戦い、最後には兄の敵を討つ。
その途中では、義経たちを苦しめた藤原朝方が捕らえられ、教経によって討たれるという展開もある。
歴史上の出来事とは異なる、江戸時代の創作である。
しかし、教経が一ノ谷で死んだとされながら、壇ノ浦まで戦ったという記録が残されていることは、この物語に格好の材料を与えた。
国立劇場の文化デジタルライブラリーも、教経の首をめぐる史料の食い違いが、『義経千本桜』の偽首の構想につながった可能性を紹介している。
一ノ谷で討たれたという首があり、壇ノ浦で自害したという記録も残る。
江戸時代の作者たちは、教経をさらに吉野山まで生き延びさせた。
そこでも教経は、なお義経の命を狙っていた。
その前に立ちはだかったのは、屋島で射たと伝わる佐藤継信の弟・忠信だった。
一ノ谷から壇ノ浦へ。
そして五百年以上後の吉野山へ。
教経の死をめぐる謎は、源平合戦が終わった後も、新たな物語を生み続けたのである。
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