第105回
治承4年(1180年)5月26日、以仁王は奈良へ向かって南山城を走っていた。
前夜に園城寺を出て、宇治では追ってきた平氏軍と戦っている。源頼政は平等院に残り、一族とともに最期を迎えた。以仁王はさらに南へ進み、援軍が期待できる興福寺を目指した。
数え30歳。
その数週間前まで、京都で「高倉宮」「三条宮」と呼ばれていた後白河法皇の皇子である。
だが正式な身分は親王ではない。
後白河の実子でありながら、一度も親王宣下を受けず、「王」のまま30歳を迎えていた。
異母弟の憲仁親王は数え8歳で高倉天皇となり、さらにその子の言仁親王が数え3歳で安徳天皇となる。以仁王は二代にわたる皇位継承を横から見送った。
幼少期には寺院へ入り、のちに還俗して元服し、鳥羽法皇の皇女・八条院暲子内親王の猶子となった。京都には邸宅を持ち、子どももいた。
親王になれなかったからといって、社会から切り離されて暮らしていたわけではない。
状況が大きく動くのは治承3年(1179年)から翌年にかけてである。
父・後白河法皇は平清盛によって鳥羽殿へ移され、院政を止められた。以仁王が長年関わってきた城興寺も手を離れたと伝わる。
そして1180年2月、清盛の外孫・安徳天皇が即位する。
その春、以仁王は平氏追討を呼びかけた。
なぜ30歳になった王は、ここで武力行使を選んだのか。
1151年、後白河の皇子として生まれる
以仁王は仁平元年(1151年)、後白河の皇子として生まれた。久安6年(1150年)生まれとする説もあるが、現在は1151年とするのが一般的である。
母は藤原成子。藤原季成の娘で、「高倉三位」とも呼ばれた。
後白河の第三皇子とされることが多い一方、兄の守覚法親王が早く仏門へ入ったため、第二皇子と記す史料や辞典もある。
以仁王が生まれたころ、父の後白河はまだ天皇ではなかった。
久寿2年(1155年)、近衛天皇が17歳で亡くなると皇位継承が動き、後白河が即位する。以仁王は幼くして天皇の皇子となった。
しかし、皇子に生まれた男子が全員皇位を目指す時代ではない。
皇位から外れた皇子は寺院へ入り、有力門跡を継ぐ道も珍しくなかった。
以仁王にも、まず寺院で生きる道が用意された。
天台座主・最雲の弟子となった少年時代
幼い以仁王は、天台座主・最雲法親王のもとに入った。
最雲は堀河天皇の皇子で、皇族出身の僧として延暦寺の天台座主を務めている。
以仁王がその弟子となったのは、皇子が寺院へ入り宗教界で地位を得る、当時としては自然な進路の一つだった。
兄の守覚も仁和寺に入り、のちに守覚法親王となっている。
ところが応保2年(1162年)、最雲が死去した。以仁王は数え12歳前後。
このあと寺院に残って僧侶の道を進まず、俗世へ戻る。
永万元年(1165年)12月には元服した。数え15歳である。
寺院で生きる道から離れ、皇族男子として京都で生きることになった。
『平家物語』は以仁王を才学に優れた人物として描き、笛など諸芸にも通じたと記す。
こうした能力の細部には物語的な潤色を考える必要があるが、後世に「才気ある王」として記憶された人物ではあった。
その元服の前後、皇位継承では年下の異母弟が急速に前へ出てくる。
10歳ほど年下の弟が皇太子になった
異母弟・憲仁親王の母は平滋子。後白河の寵愛を受け、のちに建春門院となる女性である。
滋子は平清盛の妻・時子の異母妹でもあった。
応保元年(1161年)に生まれた憲仁親王は、永万2年(1166年)に皇太子となった。まだ数え6歳ほどである。
仁安3年(1168年)、六条天皇が譲位すると憲仁親王が即位した。高倉天皇である。
高倉天皇は数え8歳。以仁王は18歳を迎える年だった。
年長の兄は「王」のまま、幼い弟が天皇になる。
ここで以仁王が親王宣下を受けていなかった事実が重く見えてくる。
なぜ「親王」になれなかったのか
平安後期には、天皇の子であっても親王宣下を受けて初めて正式な親王となる。以仁王は生涯その宣下を受けなかった。
『平家物語』は、その原因を建春門院滋子に求める。以仁王は才学に優れていたため、わが子・高倉天皇の立場を脅かすと考えた滋子が親王宣下を妨げた、という筋である。
後世には広く知られた話だが、これをそのまま史実とするのは難しい。
皇位継承には母方の家格、後見する勢力、父である院の意向、その時々の政治状況が絡む。
以仁王の母・成子は後白河の后や女御ではなく、憲仁親王には母の滋子だけでなく、清盛・時子につながる平氏一門もいた。
後白河自身も憲仁親王の立太子と高倉天皇の即位を進めている。
以仁王が親王宣下を受けなかった事情を、滋子一人の妨害だけで説明する史料的根拠は弱い。
それでも、親王にならなかった以仁王が皇族社会の周縁へ消えたわけではなかった。
八条院の猶子となる
以仁王は元服後、八条院暲子内親王の猶子となった。
八条院は鳥羽天皇と美福門院得子の娘で、父母から広大な所領を受け継いでいる。その荘園群はのちに「八条院領」と呼ばれ、全国に広がった。
実子のいなかった八条院と猶子関係を結んだことは、以仁王にとって大きい。
猶子は現代の養子と同じ制度ではないが、有力者と擬制的な親子関係を結ぶことで後見や財産、人脈のつながりを持てる。八条院の周囲には公家だけでなく寺社や武士も集まっていた。
以仁王は後白河の皇子という血統に加え、八条院の周辺にも足場を持つことになる。
この関係は本人の死後にも残った。
以仁王の子・北陸宮は後年、木曾義仲に擁立され、皇位継承をめぐる場面に再び登場する。
「高倉宮」「三条宮」と呼ばれた京都での暮らし
以仁王は京都の三条高倉付近に住み、「三条宮」「高倉宮」と呼ばれた。
この「高倉宮」は高倉天皇の名にちなむものではなく、邸宅の所在地による呼称である。
妻妾や子もおり、八条院とのつながりを保ちながら皇族として暮らしていた。
この期間は意外に長い。
高倉天皇が1168年に即位してから、以仁王が兵を挙げる1180年まで12年ほどある。清盛が太政大臣に上り、平氏一門が朝廷で勢力を広げても、以仁王はすぐに反平氏運動へ向かったわけではない。
その均衡が崩れるのが1179年である。
1179年、後白河法皇が鳥羽殿へ移される
治承3年(1179年)11月14日、平清盛は福原から京都へ入った。
関白・松殿基房が退けられ、後白河院に近い公卿や官人が大量に解官される。11月20日には後白河法皇も鳥羽殿へ移され、20年以上にわたって続けてきた院政が止まった。
治承三年の政変である。
以仁王から見れば、政治の中心から外された法皇は実父だった。
さらに政変の直後、以仁王自身の経済基盤にも変化が起きた。
最雲から受け継いだ城興寺を失う
現在の京都市南区東九条付近には城興寺がある。
平安時代には広い寺域を持つ寺院で、天台座主・最雲を経て、その弟子である以仁王が知行していたと伝わる。
治承三年の政変後、この城興寺の知行が以仁王から取り上げられた。『山槐記』にも、この時期の城興寺をめぐる処置に関わる記録が見える。
城興寺は、幼少期に最雲へ預けられた以仁王と古くから縁のある寺だった。所領や収入にかかわるだけでなく、寺院との人的なつながりも含む基盤である。
父の院政が止まり、自分が長く関わった寺の知行も失う。
そこへ数か月後、皇位継承がさらに一世代進んだ。
数え3歳の安徳天皇が即位する
治承4年(1180年)2月、高倉天皇は譲位した。
皇位を継いだ言仁親王は、清盛の娘・徳子と高倉天皇の子である。安徳天皇。数え3歳、満年齢では1歳だった。
清盛は幼帝の外祖父となる。
以仁王は30歳になっていた。
自分より10歳ほど年下の弟が天皇となり、その弟から、今度はまだ幼い甥へ皇位が移った。しかも前年には父・後白河法皇の院政が停止し、自身の城興寺知行も失っている。
1180年春の以仁王を取り巻く政治状況は、それ以前とは明らかに違っていた。
このころ源頼政との接点が生まれる。
77歳の源頼政と、いつ手を結んだのか
源頼政は摂津源氏の武将で、平治の乱後も京都に残り、朝廷へ仕え続けていた。
治承2年(1178年)には清盛の奏請で従三位へ昇る。
数え75歳で公卿となり、「源三位」と呼ばれた。
『平家物語』では、その頼政が以仁王を訪れ、平氏を倒して皇位につくよう勧める。
さらに諸国に残る源氏の名を挙げ、挙兵を促す。
物語としては頼政が計画の発案者として鮮明に描かれる。
実際に両者がいつから相談していたのかは分からない。
計画が露見したあと、平氏側が園城寺攻撃軍を整えた際にも頼政は追討する側に数えられている。
以仁王と頼政が1180年春のどの段階で結びついたのかは、現在もはっきりしない。
「以仁王の令旨」は、本当に4月9日に出たのか
以仁王の挙兵で最も有名なのが、諸国へ平氏追討を呼びかけた「令旨」である。
『吾妻鏡』は治承4年4月9日付の文書を載せる。
そこでは東海・東山・北陸三道の源氏や武士へ平氏追討への参加を求め、以仁王は「最勝王」と称される。
一方、この文書には早くから史料批判が加えられてきた。
以仁王は正式な親王ではなく、本来「令旨」を発給できる身分ではない。『吾妻鏡』に載る文面の書式にも問題が指摘されている。また『愚管抄』の記述を重く見て、実際の平氏追討の呼びかけは以仁王が園城寺へ入った5月に出たと考える説もある。
4月9日発給説と5月発給説があり、発給時期には今も議論が残る。
ただ、以仁王の名による「宮の宣」が各地へ伝わったこと自体は、『吾妻鏡』だけに依存する話ではない。『愚管抄』などにもその動きが見え、平氏追討の呼びかけが実際に広がった点は認めてよい。
使者としてよく知られるのが源行家である。
源行家が東国へ向かう
源行家は源為義の子で、源義朝の弟。源頼朝にとっては叔父にあたる。
『吾妻鏡』では、行家が以仁王の呼びかけを諸国へ伝え、4月27日に伊豆の頼朝へ届けたと記す。
以仁王の名を使った平氏追討の呼びかけが、東国の源氏を含む各地へ伝えられたことは、その後の展開を見るうえで欠かせない。
頼朝はすぐには動かず、挙兵するのは以仁王の死から約3か月後の8月である。
以仁王本人には、その結果を見る時間が残されていなかった。
計画露見、三条高倉の邸を脱出する
5月、計画が平氏側に知られた。
朝廷では以仁王から皇族の身分を奪い、源姓を与えて土佐へ流す処置が進められたとされる。後世の史料では「源以光」の名も伝わる。
検非違使が三条高倉の邸へ向かう前に、以仁王は脱出した。
『平家物語』では女房姿に身を変えて夜の京都を抜け、家人の長谷部信連が邸に残って追手と戦ったと描かれる。変装や信連の奮戦は軍記物語の名場面として知られる部分である。
以仁王は東へ走り、園城寺へ入った。
園城寺に入った王を、頼政が追う
園城寺は現在の滋賀県大津市にある三井寺である。
当時の大寺院は多くの所領と僧兵を抱え、政治や軍事にも大きな影響力を持っていた。園城寺は以仁王を受け入れ、王側は延暦寺と興福寺にも協力を求める。
そのころ平氏側は園城寺攻撃の準備を進めた。
追討軍には平宗盛、知盛、重衡、維盛らとともに源頼政の名もあった。
ところが5月21日夜から22日未明、頼政は近衛河原の邸を出て、一族とともに園城寺へ入る。
追う側にいた77歳の老将が、以仁王の側へ移った。
以仁王には皇族としての名があり、頼政には在京武士として長年培った人脈と軍事力がある。
園城寺の僧兵も加わった。
それでも平氏と正面から戦えるだけの態勢にはならなかった。
延暦寺の全面参加を得られず、一行は奈良の興福寺を頼ることになる。
5月25日夜、園城寺を出る
5月25日夜、以仁王と頼政らは園城寺を出発した。
奈良へ向かう途中、翌26日に宇治へ入る。追ってきた平氏軍と宇治川周辺で戦闘になった。
宇治橋の戦いは別記事で詳しく扱っているので、ここでは以仁王の動きを追う。
『平家物語』では、橋板を外した宇治橋で園城寺の僧兵たちが戦い、筒井浄妙や一来法師らが奮戦する。平氏軍はやがて川を越え、頼政は平等院へ退いて自害した。
以仁王は奈良へ向かった。
頼政が宇治に残ったあとも南へ進み、興福寺との合流を目指す。
だが、追撃は止まらなかった。
5月26日、南山城で最期を迎える
以仁王は南山城まで進んだところで追手に追いつかれ、命を落とした。
『平家物語』は光明山鳥居付近で矢を受けて落馬したと描く。
現在の京都府木津川市山城町綺田周辺には、以仁王最期の地と結びつく伝承が残っている。
治承4年(1180年)5月26日。数え30歳。
奈良の興福寺には届かなかった。
以仁王の武力行動は短期間で終わり、頼政も同じ日に死んだ。清盛も平氏政権も残っている。
ところが、事件そのものはそこで終わらなかった。
以仁王の死後、各地で源氏が動く
1180年8月、伊豆の源頼朝が挙兵する。
甲斐では武田信義ら甲斐源氏が動き、信濃では木曾義仲が勢力を伸ばした。
もちろん、各地の武士が以仁王の命令一つで同時に立ち上がったわけではない。東国には所領をめぐる争い、国衙や平氏系勢力との対立があり、それぞれ事情は違った。
それでも、後白河法皇の皇子の名による平氏追討の呼びかけは、反平氏勢力にとって利用できる政治的な根拠となった。
以仁王本人が死んだあとも、「宮の宣」は生き続けたのである。
さらに3年後、以仁王の子も皇位継承の場に現れる。
1183年、北陸宮が天皇候補に浮上する
寿永2年(1183年)、木曾義仲が京都へ入った。平氏は安徳天皇を伴って都を離れ、京都では新たな天皇を誰にするかが問題になる。
義仲が推したのが、以仁王の子・北陸宮である。
北陸宮は父の死後、北陸方面へ逃れていたとされ、義仲の保護を受けて京都へ戻った。
後白河法皇は北陸宮を選ばず、高倉天皇の皇子・尊成親王を即位させる。後鳥羽天皇である。
以仁王の系統が皇位につくことはなかった。
それでも、以仁王の死から3年後にその子が天皇候補として取り上げられたことは興味深い。以仁王の家系と八条院周辺の人脈が、宇治の敗戦だけで消えたわけではなかった。
以仁王は、本当に皇位を奪われた「悲運の皇子」なのか
後世の物語では、以仁王の人生は分かりやすく整えられた。
才学に優れながら建春門院滋子に妨げられ、親王にもなれない。幼い安徳天皇の即位を見て平氏打倒を決意し、源頼政とともに兵を挙げる。
この筋は『平家物語』を読むうえでは魅力的である。
実際の経過はもっと長い。
幼いころは最雲のもとへ入り、寺院で生きる道を歩んだ。最雲の死後に元服し、八条院の猶子となる。高倉天皇が即位したあとも10年以上、京都で皇族として暮らしている。
1180年の挙兵に直接つながる事情として見えやすいのは、治承三年の政変以後である。
父・後白河法皇の院政が止まり、長く関わってきた城興寺の知行も失った。翌年には安徳天皇が即位し、高倉天皇の系統へ皇位が継承されていく。
そこへ源頼政が加わった。
ただし、以仁王自身が「私は皇位を奪われたから兵を挙げる」と説明した史料は残らない。城興寺の問題、父の幽閉、皇位継承、頼政との関係のうち、どれを本人が最も重く見たのかも分からない。
一つの理由にまとめるより、1179年から1180年にかけて以仁王を取り巻く条件が短期間で変わったと見る方が実情に近い。
30歳まで「王」だった人物が残したもの
以仁王は最後まで正式な親王宣下を受けなかった。
それでも1180年、自らの名を使って平氏追討を呼びかけた。『吾妻鏡』に残る文面では「最勝王」と称し、平氏を朝廷の秩序を乱す存在として激しく批判している。
その文書の成立時期や形式には議論がある。
王本人も5月26日に死んだ。
それでも数か月後には頼朝が伊豆で兵を挙げ、甲斐源氏や木曾義仲も動いた。3年後には息子の北陸宮が天皇候補として京都に姿を見せる。
以仁王は皇位につかず、親王にさえならなかった。
けれど1180年の春、長く皇位の外側にいた一人の王が発した平氏追討の呼びかけは、本人の死後も消えなかった。
宇治で失われたのは以仁王の命であり、その名を掲げて動き始めた武士たちの戦いは、そこから続いていく。
天皇の皇子でありながら、最後まで「親王」にならなかった以仁王。中世の「王」と呼ばれた皇族たちをたどると、当時の皇位継承や皇族の立場がより見えやすくなります。以仁王についても一章を割いて扱われています。


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