第146回
第146回
元暦2年(1185年)2月、讃岐国屋島。
沖に浮かぶ平家の船から、一人の男が姿を現した。
年のころは五十歳ほど。黒革威の鎧を着け、白柄の長刀を手にしていたという。
男は船の端に立つと、舞を舞い始めた。
その少し前、源氏方の若武者が放った一本の矢が、平家の船に掲げられた扇を射落としていた。
紅色の扇は空高く舞い上がり、春風にあおられて海へ落ちた。
沖の平家は船端をたたき、陸の源氏は箙をたたいて歓声を上げたと伝わる。
舞を舞う男も、その見事な射撃に感動したのだろう。
ところが、陸上からもう一本の矢が放たれた。
今度の的は扇ではなかった。
矢は男の首を射抜き、船の底へ倒したという。
平家方は静まり返った。
源氏方では再び歓声が上がったが、その中には「情けなし」と口にする武士もいた。
『平家物語』巻第十一「弓流」は、この場面を伝えている。
二本の矢を放った若武者の名は、那須与一。
下野国那須の武士で、源義経に従って屋島へやって来たとされる人物だった。
『平家物語』では、まだ二十歳ほどの青年として描かれている。
義経の命令を受け、波間に揺れる小舟の扇を射落とした。
その名は八百年以上にわたって語り継がれ、源平合戦を代表する弓の名手として知られるようになった。
ところが、与一の生涯を詳しく調べると、意外な問題に行き当たる。
屋島の戦いを記した『吾妻鏡』には、与一が扇を射落としたという記事が見当たらない。
源頼朝から五か国の所領を与えられたという話があるものの、それを裏付ける当時の文書も確認されていない。
生まれた年も、亡くなった年も定まっていない。
近年には、那須与一の実在を疑う研究も発表されている。
『平家物語』に鮮やかに描かれた一人の若武者。
その実像を知る手がかりは、故郷の那須氏に残された記録と、後世に伝えられた系図の中にある。
下野国那須に勢力を持った武士たち
那須与一の故郷は、下野国那須郡だったと伝わる。
現在の栃木県北部にあたり、北には那須連山がそびえ、那珂川や箒川が地域を流れている。
平安時代末期、この一帯には那須氏という武士の一族が勢力を持っていた。
那須氏は後世の系図で藤原氏の流れをくむとされ、那須地方に土着して所領を広げたと伝えられている。
しかし、一族がいつこの地を本拠とし、どのように勢力を築いたのか、初期の詳しい経過は明らかでない。
那須氏は鎌倉時代以降も下野国北部で活動した。
一族は各地に分かれ、福原、烏山、佐久山、千本などに拠点を持つようになる。
室町時代から戦国時代にかけては、周辺の宇都宮氏や佐竹氏などと争いながら勢力を維持した。
江戸時代にも一族の系統は続き、福原の那須家は幕末まで存続している。
その長い歴史の中で、那須氏が特に重要な祖先として伝えてきたのが与一だった。
ただし、与一が生きたとされる12世紀後半については、本人の活動を記した史料が少ない。
現在知られる与一の経歴は、『平家物語』『源平盛衰記』と、後世に編まれた那須氏の系図による部分が大きい。
那須与一の父と十一人の兄弟
『平家物語』巻第十一では、与一は次のように紹介されている。
「下野国の住人、那須太郎資高が子に与一宗高」
父は那須太郎資高。
与一の実名は宗高と記される。
一方、栃木県や大田原市が紹介する那須氏の伝承では、父は資隆、与一の実名は宗隆となっている。
父の名は資高と資隆。
本人の名も宗高と宗隆。
読みは共通するが、使われる漢字には違いがある。
後世の那須氏系図によれば、資隆には十一人の息子がいた。
長男の光隆、次男の泰隆をはじめ、幹隆、久隆、之隆、実隆、満隆、義隆、朝隆、為隆と続き、末弟が宗隆だったとされる。
「与一」という通称は、十一男であることに由来するという。
十より一つ余る子。
そのため「余一」と書かれることもあった。
当時の武士には、太郎、次郎、三郎など、生まれた順序に関わる呼び名が用いられていた。
与一も、そうした通称の一つとして伝えられてきた。
もっとも、十一人の兄弟については系図ごとに異同がある。
名前や生まれた順序、後に継いだ家まで、すべてを確定できるわけではない。
那須氏が各地に分かれて活動するようになった後、一族の由緒を説明するために系図が整えられた事情も考える必要がある。
源氏と平家に分かれた兄弟
那須氏には、源平合戦の際に一族が敵味方へ分かれたという話が残されている。
父の資隆は平家方に従い、長男から九男までの兄たちも平家に味方したという。
一方、十男の為隆と末弟の与一は源氏方に加わったと伝わる。
同じ父から生まれた兄弟が、別々の軍勢で戦うことになったのである。
大田原市の郷土史資料には、治承4年(1180年)、源義経が奥州から兄の頼朝のもとへ向かう途中、那須を訪れたという伝承も紹介されている。
このとき為隆と与一が義経に従ったという。
義経は藤原秀衡に保護され、奥州の平泉で青年期を過ごしていた。
頼朝の挙兵を知り、東国へ向かったのが治承4年である。
その道中で那須氏の兄弟が義経に仕えるようになったという話は、後世の那須氏に伝えられてきた。
ただし、義経が実際に那須を訪れ、与一たちを家人にした年月は確認できない。
父や兄たちがどの平家軍に加わり、どの戦場で戦ったのかも不明な点が多い。
源平合戦では、各地の武士が一族内で立場を分けることがあった。
那須氏の伝承にも、そうした時代の情勢が反映されているのだろう。
義経に従った与一が広く知られるようになるのは、屋島の戦いだった。
一ノ谷で敗れた平家、屋島へ
寿永3年(1184年)2月7日、平家は摂津国の一ノ谷で大敗した。
源範頼の軍勢が東から攻め込み、義経らは西側の陣地へ迫った。
平忠度、平敦盛、平経正、平通盛らが討死し、平清盛の子・平重衡も源氏方に生け捕られた。
平家は福原周辺の拠点を失い、船で西国へ退いた。
しかし、安徳天皇と三種の神器は、なお平家の手中にあった。
讃岐国の屋島には平宗盛らが安徳天皇を奉じ、瀬戸内海には多くの兵船が残っていた。
海上を移動する平家を追うには、源氏方も船を集めなければならなかった。
元暦元年(1184年)9月、範頼は大軍を率いて西国へ向かった。
範頼軍が山陽道から九州方面へ進む一方、翌年2月には義経が屋島へ向かうことになる。
『吾妻鏡』によれば、義経は暴風の中で渡海を決行し、阿波国へ上陸した。
現地の案内役を得て平家方の拠点を攻め、夜を徹して讃岐国へ進んだという。
2月19日、義経軍は屋島の対岸に現れた。
牟礼と高松の民家に火を放つと、平家方は大軍が迫っていると考えた。
宗盛らは安徳天皇を船へ移し、海上へ退いた。
義経軍はその間に屋島の内裏を焼き払った。
しかし、平家の船団は沖に残っていた。
義経の軍勢が少ないことに気づいた平家方は、再び船を岸へ寄せて戦った。
この戦闘で、義経に仕えていた佐藤継信が討死する。
そして『平家物語』は、その日の夕暮れ、平家の船から一艘の小舟が現れたと描いている。
夕暮れの海に現れた女房
『平家物語』巻第十一「那須与一」によれば、義経軍にはその後、阿波や讃岐の武士たちが加わった。
十四、五騎、二十騎と集まり、軍勢は三百余騎になったという。
戦いは夕方まで続いていた。
義経も日暮れまでに決着をつけるのは難しいと考え、軍勢を引こうとしていた。
そのとき、沖から美しく飾られた小舟が一艘、岸へ近づいてきた。
船は磯から七、八段ほどの場所で横向きになったという。
中から現れたのは、十八、九歳ほどの女房だった。
柳の五衣に紅色の袴を着けていたと伝わる。
女房は紅色の扇を取り出し、船の端に立てた。
扇には日の出の意匠が施されていた。
そして、陸上の源氏方へ向かって手招きを始めた。
沖には平家の船団が並び、陸には源氏の騎馬武者たちがいた。
その間に浮かぶ小舟から、一人の女房が扇を示している。
義経は後藤兵衛実基を呼んだ。
あれは何をしようとしているのか。
そう尋ねたという。
実基は、扇を射てみよという挑戦だろうと答えた。
しかし、もう一つの可能性も考えていた。
義経が美しい女房を見るために前へ進めば、平家方の弓の名手に狙われるかもしれない。
扇は大将を誘い出すための罠かもしれなかった。
実基は警戒しながらも、誰かに扇を射させるよう勧めたという。
義経はそこで、源氏方に弓の名手はいないかと尋ねた。
後藤実基が推薦した若武者
後藤実基が名前を挙げたのが、那須与一宗高だった。
下野国那須太郎資高の子である。
『平家物語』によれば、実基は与一について、小柄だが腕の立つ射手だと語った。
飛ぶ鳥を三羽狙えば、そのうち二羽は必ず射落とすほどの腕前だったという。
義経は与一を呼び寄せた。
そのとき与一は二十歳ほどの青年だったと『平家物語』は記している。
褐色の直垂には赤地の錦で縁取りが施され、萌黄色の糸で威した鎧を着けていた。
太刀を佩き、矢を背負い、滋籐の弓を持っている。
兜を脱いで鎧の紐に掛け、義経の前へ進み出たという。
義経は与一に、沖の扇を射落とすよう命じた。
ところが、与一はすぐには引き受けなかった。
自分が射損じれば、源氏方の恥になる。
もっと確実に射られる者へ命じてほしい。
そう申し出たという。
扇は波間に揺れる船の上にあった。
風が吹けば船も動き、的の位置も変わる。
弓の名手であっても、必ず射られるという保証はなかった。
しかし、義経は辞退を許さなかった。
義経の叱責と与一の決断
『平家物語』では、与一の辞退を聞いた義経が激しく怒ったと伝えている。
鎌倉から西国へ向かってきた武士であれば、自分の命令には従わなければならない。
異存のある者は、今すぐ鎌倉へ帰れ。
義経はそのように叱ったという。
与一は、それ以上辞退しなかった。
「御諚で候へば仕つてこそ見候はめ」
命令であれば、やってみましょう。
そう答えて義経の前を離れたと伝わる。
弓の腕前を買われて呼び出された与一だったが、射損じれば自分一人の失敗では済まなかった。
源氏方の武士たちが見守り、沖には平家の船団が並んでいた。
その中で義経から射撃を命じられたのである。
『平家物語』は、若い与一が負った重圧を、義経とのやり取りによって描いている。
与一は弓を取り直した。
そして、黒くたくましい馬へ乗った。
馬には金覆輪の鞍が置かれ、「丸ぼや」と呼ばれる文様が描かれていたという。
与一は手綱を引き、ゆっくりと海岸へ向かった。
後ろでは源氏の武士たちが見守っていた。
あの若者なら、きっとやり遂げるだろう。
そのように話す者もいたと『平家物語』は伝えている。
馬を海へ進めても扇は遠かった
与一は馬を海へ乗り入れた。
しかし、扇はまだ遠かった。
『平家物語』では、海へ一段ほど進んでも、扇までは七段ほど離れていたと記している。
七段は、およそ七十数メートルにあたる。
小さな扇を射るには遠い距離だった。
しかも、的は地面に置かれていない。
波間に揺れる小舟の上に立てられていた。
『平家物語』が記す時刻は、2月18日の酉の刻。
現在のおおむね午後6時ごろである。
北風が強く、岸へ打ち寄せる波も高かったという。
船は波に持ち上げられ、また沈んだ。
そのたびに扇も揺れていた。
沖では平家の船が一面に並び、陸では源氏の騎馬武者たちが与一を見つめている。
与一は馬上から扇を狙った。
そして、弓を引く前に目を閉じたという。
故郷の神々へ祈るためだった。
那須の神々へ祈った一矢
与一は、八幡大菩薩へ祈った。
さらに日光権現、宇都宮、那須の湯泉大明神の名を唱えたという。
いずれも下野国に関わる神々だった。
日光権現は、現在の日光二荒山神社に結びつく信仰である。
宇都宮は下野国一宮として知られる二荒山神社に関わり、那須の湯泉大明神は現在の那須温泉神社に伝わる神だった。
与一は、自分を育んだ故郷の神々へ助けを求めた。
願いは、あの扇の真ん中を射させてほしいということだった。
もし射損じれば、弓を折って自害する。
再び故郷へ帰れる運命であるなら、この矢を外させないでほしい。
そのように祈ったと『平家物語』は記している。
やがて与一が目を開けると、風が少し弱まっていた。
扇の揺れも幾分落ち着き、射やすくなったという。
与一は矢を取り、弓につがえた。
選んだのは鏑矢だった。
先端に音を出す仕組みを備えた矢で、飛ぶと風を切る音が響く。
『平家物語』は、その矢の長さを「十二束三伏」と記している。
与一は滋籐の弓を十分に引き絞った。
そして放った。
海へ落ちた紅色の扇
鏑矢は音を立てながら海上を飛んだ。
『平家物語』によれば、矢は扇の要から一寸ほど離れた部分を射切ったという。
一寸は約3センチである。
鏑矢はそのまま海へ落ちた。
一方、切り離された扇は空へ舞い上がった。
しばらく宙に浮かんでいた扇は、春風にあおられて海へ落ちたという。
紅色の扇には日の出の意匠が描かれていた。
夕日を受けたその扇が、白波の上に浮き沈みしていたと『平家物語』は伝えている。
沖の平家方は船端をたたいた。
陸の源氏方も箙をたたき、歓声を上げた。
敵味方を問わず、与一の射芸をたたえたという。
先ほどまで扇の的を射られるかどうか、固唾をのんで見守っていた武士たちが、いっせいに声を上げた。
那須与一の名が広く知られるようになったのは、この一矢による。
しかし、『平家物語』の物語はここで終わらない。
扇を射落とした直後、与一はもう一本の矢を放つことになる。
舞う男へ放たれた二本目の矢
扇を射落とした後の出来事は、『平家物語』巻第十一の「弓流」に続いている。
平家の船から現れたのは、五十歳ほどの男だった。
黒革威の鎧を着け、白柄の長刀を持っていたという。
男は扇が立てられていた場所へ進み、舞を舞い始めた。
与一の見事な射撃に感動したのだろうと、物語は描いている。
そのとき、伊勢三郎義盛が与一の後ろへ馬を寄せた。
そして、義経の命令だと告げ、舞っている男を射るよう伝えたという。
与一は再び弓を引いた。
今度は鏑矢を使わなかった。
通常の戦闘に用いる中差を取り、弓につがえた。
そして放つ。
『平家物語』によれば、矢は男の首を射抜き、船底へ倒したという。
平家方は静まり返った。
源氏方では再び箙をたたいて歓声が上がった。
「あ、射たり」
そう喜ぶ者もいた。
一方、男を射たことを「情けなし」と口にする者もいたという。
扇を射落としたときには、平家方も与一をたたえていた。
しかし、二本目の矢で一人の男が倒れ、両軍の間に再び緊張が走った。
平家方は怒り、武士たちを岸へ上げて戦いを挑んだと伝わる。
一人の若武者が扇を射落とし、源平双方から歓声を浴びた。
その直後、同じ弓で人を射殺した。
『平家物語』は二つの射撃を続けて描いている。
扇を掲げた平家の意図
平家は、何のために扇を掲げたのだろうか。
『平家物語』では、後藤実基が弓の腕前を試す挑戦と考え、義経を誘い出す罠の可能性も警戒していた。
一方、軍記物語の研究者である國學院大學の野中哲照教授は、扇の的に戦勝占いの意味があったという説を提示している。
野中教授が注目したのは、扇を掲げた女房の装束と扇の意匠だった。
女房は柳の五衣に紅の袴を着けていた。
扇は紅地に金色の日輪を描いたもので、祝儀や神事に関わる意匠だったという。
さらに与一が用いたのは、通常の征矢よりも風の影響を受けやすい鏑矢だった。
野中教授は、こうした点から、平家が扇を差し出したのは戦の吉凶を占うためだったと考えている。
もし源氏方が射損じれば、平家に勝運があることになる。
反対に射落とせば、源氏に神仏の加護があると受け取られる。
与一が故郷の神々へ祈った場面も、そのような意味を持っていたという解釈である。
ただし、平家が実際に戦勝占いとして扇を掲げたことを示す同時代の記録は見つかっていない。
これは『平家物語』の描写を分析した研究上の見解である。
与一は源氏方の代表として弓を引き、その結果を敵味方が見守っていた。
物語の中で、一本の矢には大きな意味が与えられていた。
『吾妻鏡』に与一の名が見えない
那須与一の扇の的は、『平家物語』の中でも特に有名な場面である。
ところが、『吾妻鏡』の屋島合戦の記事には、この逸話が記されていない。
『吾妻鏡』は、義経の渡海、阿波国への上陸、屋島の内裏の焼き討ち、佐藤継信の戦死などを伝えている。
平家方が海上へ退いた後も戦闘が続いたことはわかる。
しかし、与一が扇を射落としたという記事は見当たらない。
当時の公家の日記などにも、扇の的を詳しく記した確かな記録は残されていない。
この逸話は、『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語によって伝わった。
『平家物語』は鎌倉時代に成立し、語りや写本を通じて広まっていった。
現在広く読まれている覚一本は、南北朝時代の応安4年(1371年)に明石覚一が整理した本文にさかのぼる。
屋島の戦いから約190年後のことである。
また、『平家物語』には複数の伝本があり、同じ出来事でも描写や人物の扱いに違いがある。
与一の話も、その中で語り継がれてきた。
屋島で扇が射落とされた可能性を完全に否定する材料はない。
しかし、誰が、いつ、どのような状況で射たのかを、軍記物語の記述だけで確定することも難しい。
与一の実像を調べるうえで、この点は避けて通れない。
屋島の戦いの日付も一致していない
与一の扇の的には、日付の問題も残されている。
『平家物語』では、扇を射たのは2月18日の酉の刻とされる。
現在のおおむね午後6時ごろである。
一方、『吾妻鏡』が義経による屋島攻撃を記しているのは、元暦2年2月19日条だった。
一日ずれている。
さらに『源平盛衰記』や『長門本平家物語』などでも、屋島合戦の日付や戦闘経過には違いが見られる。
そのため、扇の的を2月19日の夕方に起きた出来事として確定することはできない。
与一の年齢も伝本によって異なる。
『平家物語』では二十歳ほど。
『源平盛衰記』では十七歳とする記述がある。
射手を決めるまでの経緯にも違いがある。
『源平盛衰記』では、畠山重忠や那須十郎の名が挙がり、十郎が負傷していたため弟の与一が推薦されたと描かれる。
後藤実基の推薦によって与一が選ばれる『平家物語』とは、話の運びが異なる。
同じ扇の的でも、伝本によって物語の細部は変わっている。
五か国の所領を与えられたという話
屋島での軍功によって、与一は源頼朝から大きな恩賞を受けたと伝わっている。
栃木県や大田原市の資料では、五か国の荘園を与えられ、那須氏の惣領となったという家伝が紹介されている。
惣領は、一族の中心として家や所領を統率する立場である。
『大田原市史』に収録された那須氏系図には、次の五か国が挙げられている。
丹波国、信濃国、若狭国、武蔵国、備中国。
所領の名としては、丹波国の五賀荘、信濃国の角豆荘、若狭国の東庄・宮河原、武蔵国の本田庄、備中国の荏原荘などが伝わっている。
ただし、所領の表記には系図による異同がある。
五か国の広い地域に、与一が所領を与えられたという話だった。
下野国那須の末弟だった若武者が、屋島の一矢によって全国に所領を持つ武士になったという。
しかし、頼朝が与一本人へこれらの所領を与えたことを裏付ける下文などの確実な記録は確認されていない。
後世、那須氏の一族が各地に所領を持ったことと、与一が1185年の軍功によってそれらを得たことは、別に検討する必要がある。
五か国の恩賞は、那須氏が受け継いできた家伝として知られている。
兄たちを赦した頼朝
那須氏の伝承には、与一が一族の惣領となった後の話も残されている。
源平合戦で平家方に従った兄たちは、敗戦後、信濃国の諏訪へ逃れていたという。
故郷へ帰れずにいた兄たちは、諏訪明神へ帰国を祈り続けた。
やがて夢に神のお告げが現れ、五男の之隆を鎌倉へ向かわせることになったと伝わる。
之隆は末弟の与一を頼り、源頼朝に赦免を願い出たという。
頼朝は与一の軍功に免じ、兄たちを許した。
十人の兄は故郷へ帰ることができたとされる。
『大田原市史』に収められた那須氏系図では、その後、父の資隆が十人の兄にそれぞれ土地を分け与えることを計画したと記している。
森田、佐久山、福原、千本など、兄弟が各地に拠点を持つようになったという話である。
那須氏はその後、実際に各地で複数の家に分かれて活動した。
ただし、文治2年あるいは3年に兄たちが赦免され、父の計らいによって土地を分けたという詳しい経過は、後世の系図による記述である。
一族が分かれていった経緯を、与一の軍功と結びつけて伝えてきたのだろう。
扇の的の後、与一はどこへ行ったのか
屋島の戦いから約1か月後、元暦2年3月24日、源平両軍は長門国の壇ノ浦で最後の決戦を迎えた。
義経は源氏方の中心となって戦い、平家はこの戦いで滅亡した。
しかし、与一が壇ノ浦でどのような行動を取ったのかはわかっていない。
『吾妻鏡』には、与一が壇ノ浦で軍功を挙げたという具体的な記事が見当たらない。
平家滅亡後、義経は頼朝と対立し、京都を離れて逃亡することになる。
そのとき与一がどこにいたのかも明らかでない。
後世の那須氏系図では、与一は家督を継ぎ、兄たちに所領を分けたという話が残る。
京都で官職を得たという伝承もある。
一方、義経のもとで屋島に従軍したとされる若武者が、その後、鎌倉幕府の中でどのような役割を担ったのかを示す確かな記録は少ない。
『平家物語』は与一の装束や馬、矢の長さまで詳しく描いている。
ところが、扇を射落とした後の生涯は、ほとんど伝えていない。
後世の那須氏系図によって、その続きを追うことになる。
文治五年、伏見で亡くなったという伝承
与一の最期については、複数の説が残されている。
那須氏の系図の一つには、文治5年(1189年)8月8日に亡くなったと記される。
京都の伏見で病死したという。
一方、別の系図では建久元年(1190年)に亡くなったとされる。
その説では、頼朝に従って京都へ向かう途中、伏見で急死したと伝わる。
没年が一致していない。
享年についても、二十代前半から半ばとする伝承がある。
『平家物語』では屋島の戦いのころ二十歳ほど、『源平盛衰記』では十七歳と描かれている。
そのため、年齢から生年を逆算することも難しい。
栃木県の公式資料でも、与一の生没年は不詳とされている。
また、若くして出家したという話も残る。
与一の最期に関わる伝承は、現在の京都市にある即成院へつながっている。
京都・即成院に残る与一の墓
京都市東山区、泉涌寺の山内に即成院がある。
真言宗泉涌寺派の寺院で、阿弥陀如来と二十五菩薩の像を安置していることで知られる。
境内には、那須与一の墓と伝わる石造宝塔が残されている。
即成院の寺伝によれば、与一は出陣の途中で病にかかったという。
そこで寺にこもり、本尊の阿弥陀如来へ祈願した。
すると病が治り、その後、屋島の戦いで軍功を立てることができたと伝わる。
与一は仏の加護に感謝し、後に出家して寺に庵を結び、生涯を終えたという。
ただし、病にかかった時期や出家の事情は、詳しい記録で確かめられていない。
また、現在の即成院は、与一が生きたとされる時代と同じ場所にあるわけではない。
寺の起源は、平安時代に伏見に建立された光明院までさかのぼるとされる。
文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の伏見築城に伴って深草へ移転し、明治時代に現在の泉涌寺山内へ再興された。
現在の境内にある宝塔の位置が、12世紀の埋葬地点をそのまま示すとは限らない。
即成院に残るのは、京都で与一を供養してきた歴史である。
玄性寺に並ぶ七基の供養塔
与一の故郷である栃木県にも、墓所が残されている。
大田原市福原の玄性寺である。
玄性寺は曹洞宗の寺院で、那須氏との関係が深い。
境内には那須氏の墓碑群があり、与一宗隆を含む一族の供養塔が七基並んでいる。
現在、この墓碑群は大田原市指定の史跡となっている。
ただし、石塔が建てられたのは与一の時代ではなかった。
大田原市の文化財資料によれば、墓所を整えたのは江戸時代の那須家当主・那須資礼である。
資礼は寛政4年(1792年)に生まれ、文久元年(1861年)に亡くなった人物だった。
与一の生きたとされる時代から、すでに数百年が過ぎていた。
那須家は江戸時代にも福原に所領を持ち、祖先を供養するために墓碑を整えた。
その重要な祖先の一人として、与一の名が刻まれたのである。
京都の即成院には墓と伝わる宝塔があり、下野国の玄性寺には供養塔がある。
どちらも与一の名を残しているが、実際の埋葬地を確定するには至っていない。
恩田と備中に広がった那須氏の伝承
与一の墓に関わる話は、ほかの地域にも残っている。
現在の栃木県那珂川町恩田には、御霊神社がある。
後世の『那須記』には、与一の遺骨がこの地にも葬られたという伝承が記されている。
また、同町片平の常円寺には、与一の位牌が伝わっている。
那須氏の一族が暮らした各地には、祖先である与一を祭る場所が残されてきた。
さらに、与一が所領を与えられたと伝わる備中国荏原荘にも、那須氏の足跡がある。
現在の岡山県井原市周辺にあたる。
鎌倉時代以降、この地域では那須氏の流れをくむ武士たちが活動した。
大田原市と井原市が友好親善都市の関係を結んでいる背景にも、両地域の那須氏の歴史がある。
与一への五か国の恩賞が実際にどのような形で行われたのかは、なお不明な点が多い。
一方、那須氏の一族が各地へ広がり、所領を持つようになった歴史は、後の時代の記録にも残されている。
その中で与一は、一族の軍功を象徴する祖先として語られてきた。
那須与一は本当に実在したのか
那須与一の生涯を調べると、一つの疑問に行き当たる。
与一という人物は、実際に存在したのだろうか。
『平家物語』には、屋島で扇を射落とした若武者として登場する。
『源平盛衰記』にも、その活躍が別の形で描かれている。
しかし、『吾妻鏡』の屋島合戦の記事には扇の的が記されていない。
頼朝から五か国の所領を与えられたという話も、確実な同時代文書によって確認することは難しい。
さらに那須氏の系図には、人物関係や家督相続をめぐる問題が残されている。
國學院大學の野中哲照教授は、こうした点から与一の実在を疑う説を提示している。
2022年刊行の著書『那須与一の謎を解く』では、那須氏の系図を詳しく分析した。
野中教授が注目したのは、与一とその後継者の関係だった。
『群書類従』に収められた那須系図では、与一の後に養子による家督相続が続いている。
血縁関係にある人物がほかにもいたと考えられる中で、二代続けて養子が後を継ぐという点を問題視している。
また、『玉燭宝典』に収められた那須系図には、与一の名前そのものが見えないという。
野中教授はこれらを検討し、那須与一は物語の中で形作られた人物だったのではないかと考えている。
ただし、これは系図と軍記物語を分析した研究説である。
那須与一が実在しなかったという結論が、すべての研究者に共有されているわけではない。
実在した人物の事績が物語の中で変化した可能性も残る。
野中教授は、そうした人物像のモデルとして、ある武士に注目している。
那須光助という武士
野中教授が与一のモデルとして挙げたのが、那須光助である。
光助は『吾妻鏡』に名前が登場する武士だった。
建久4年(1193年)、源頼朝は下野国の那須野で狩りを行った。
このとき、現地の案内役を務めた人物として光助が記録されている。
那須野は現在の栃木県北部に広がる地域である。
頼朝は各地の有力武士を従え、狩猟を行っていた。
大規模な狩りには、地形や獣の動きに詳しい武士の協力が必要だった。
光助はその役目を務められる人物だった。
野中教授は、光助を弓馬に優れた那須地方の開拓領主として捉えている。
現在の大田原市北金丸周辺に関わり、後に箒川流域へ拠点を広げた可能性も指摘している。
そして、光助のような実在の那須氏の武士が、後世に与一という人物像を形作る材料となったと考えている。
ただし、光助が実際に屋島へ出陣した記録は見つかっていない。
平家の扇を射落とした人物が光助だったという直接の証拠もない。
光助を与一のモデルとする説は、系図と軍記物語の分析から導かれた仮説である。
それでも、与一の生涯を考えるうえで、同時代に近い史料に名が残る光助の存在は重要である。
なぜ那須の末弟が選ばれたのか
野中教授は、与一の出身地や一族内での立場にも注目している。
与一は下野国那須の武士として描かれる。
関東の北端に近い地域である。
当時、頼朝の軍勢には相模国や武蔵国などの有力武士たちが集まっていた。
北条氏、三浦氏、畠山氏などは、その代表的な存在だった。
しかし、『平家物語』が扇の的の射手として選んだのは、那須の十一男だった。
一族の惣領でも、鎌倉を支える有力武士団の当主でもなかった。
その若武者が、源平双方の見守る中で扇を射落としたという。
野中教授は、この人物の選ばれ方に、鎌倉の有力武士団の中心から離れた武士たちの立場が反映されていると考えている。
『平家物語』の与一には、身分や出身地の序列を越えて腕前を示す人物像が与えられたという解釈である。
これは軍記物語の構成に関する研究上の見解である。
ただ、与一が那須の末弟として登場することには、物語を読むうえで興味深い意味がある。
義経に推薦したのは後藤実基だった。
源氏方には弓の名手が大勢いたが、その中から与一が選ばれた。
本人は一度辞退したものの、義経に叱責され、海へ馬を進めた。
『平家物語』は、若い与一をそのように描いている。
各地に描かれた扇の的
那須与一の扇の的は、後世の絵画や芸能に繰り返し取り上げられた。
屋島合戦図屏風には、沖の船に掲げられた扇を狙う与一の姿が描かれている。
海には平家の赤旗が並び、陸には源氏の白旗がひるがえる。
その間で馬上から弓を引く若武者。
扇の的は、屋島の戦いを象徴する場面として広まっていった。
江戸時代には武者絵や浮世絵にも描かれ、与一の名は全国に知られるようになった。
また、『平家物語』の「扇の的」は学校で学ぶ古典としても広く読まれてきた。
そのため、源平合戦の武将の中でも、那須与一の知名度は高い。
ただし、絵画に描かれた姿の多くは、『平家物語』の記述をもとに後世の絵師が表現したものである。
与一本人の容貌を伝える確かな肖像画があるわけではない。
紺色の直垂、萌黄色の鎧、黒い馬、海へ放たれた鏑矢。
軍記物語の言葉によって描かれた姿が、絵画や芸能を通じて受け継がれてきた。
故郷の那須に残る与一の名
現在の栃木県大田原市には、那須与一の名を伝える施設がある。
那須与一伝承館である。
屋島の扇の的をはじめ、那須氏に関係する歴史資料や郷土の伝承が紹介されている。
大田原市では、与一は郷土を代表する歴史人物として親しまれてきた。
市内には与一の銅像や記念碑があり、玄性寺には那須氏の供養塔が残されている。
また、栃木県那須町の那須温泉神社にも、与一が屋島で弓を射る前に祈願したという伝承がある。
『平家物語』で与一が念じた那須の湯泉大明神は、故郷の信仰と結びついている。
一方、屋島の対岸にあたる高松市牟礼町にも、与一の名を伝える岩が残っている。
祈り岩と駒立岩である。
祈り岩は、与一が扇を射る前に神仏へ祈った場所と伝わる。
駒立岩は、馬を止めて扇を狙った場所とされる。
駒立岩は潮が引くと姿を現し、現在も高松市の登録史跡になっている。
ただし、与一が実際にどの場所から矢を放ったのかを確定できる記録は残っていない。
二つの岩は、『平家物語』に描かれた場面を屋島の海岸に結びつけ、後世まで伝えてきた場所である。
那須の神社には与一の祈りが、屋島の海岸には弓を引いた場所が伝わっている。
屋島で扇を射落としたと語られる若武者の名は、故郷と戦場の双方に残されてきた。
屋島の一矢を伝え続けた八百年
那須与一の生涯には、今もわからないことが多い。
『平家物語』では下野国の若武者として登場し、源義経の命令を受けて扇を射落とした。
しかし、本人がいつ生まれ、どのような軍功を挙げ、どこで生涯を終えたのかについては、後世の系図や寺伝による部分が大きい。
屋島で扇を射落としたという出来事も、同時代の記録だけで確定することは難しい。
那須光助という別の武士をモデルとする研究説も残されている。
その一方、与一の物語は長く読み継がれてきた。
義経の命令を一度は辞退しながら、海へ馬を進めた若武者。
故郷の神々に祈り、波間に揺れる扇を狙う。
鏑矢は扇の要のそばを射切り、紅色の扇が空へ舞い上がったという。
源平双方が歓声を上げた後、与一はさらに一本の矢を放った。
今度は扇が立っていた場所で舞う男を射倒した。
『平家物語』は、二本目の矢を見て「情けなし」と語る武士がいたことまで書き残している。
与一は二本の矢を放った人物として描かれた。
一本目は敵味方からたたえられ、二本目では人の命を奪った。
その場面を伝える『平家物語』は、鎌倉時代から語り継がれ、後世の絵巻や武者絵、各地の伝承に受け継がれてきた。
与一本人の詳しい経歴を確かめることは、今も難しい。
しかし、屋島の海へ向かって弓を引くその姿は、源平合戦を語る中で繰り返し描かれてきた。
現在、京都の即成院には与一の墓と伝わる宝塔が残り、大田原市の玄性寺には那須氏の供養塔が並んでいる。
遠く讃岐の海岸には、与一が祈ったという岩と馬を止めたという岩が残る。
那須与一。
二本の矢を放った若武者は、八百年以上の時を経て、今も屋島の海に向かって弓を引いている。
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