【人物編Vol.83】平師盛――三草山で兄弟とはぐれ、一ノ谷で迎えた最期

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人物

第157回

寿永3年(1184年)2月7日、摂津国一ノ谷。

海辺では、敗れた平氏の武士たちが船へ乗り込もうとしていた。

東の生田森も西の一ノ谷も、源氏軍の攻撃を受けている。山側の陣地まで破られ、平氏の軍勢は次々に海へ逃れていた。

その中に、備中守・平師盛がいた。

平清盛の孫であり、内大臣・平重盛の息子である。

『平家物語』巻第九「落足」によれば、師盛は家人たちと小舟に乗り、沖へ逃れようとしていた。

乗っていたのは主従七人。

そのとき、岸から一人の武士が馬を走らせてきた。

清衛門尉公長。

平知盛に仕えていた侍だった。

公長は師盛の小舟を見つけ、自分も乗せてほしいと叫んだという。

師盛は船を岸へ寄せさせた。

ところが公長は、大柄な男だった。

鎧を着たまま、馬から小舟へ飛び乗ろうとする。

その瞬間、船がひっくり返った。

師盛は海へ投げ出された。

波間で浮き沈みする師盛を、源氏方の武士たちが見つけた。

畠山の郎等・本田次郎である。

本田次郎は十四、五騎を率いて駆けつけ、馬から降りた。

そして熊手を使い、師盛を引き寄せた。

『平家物語』は、そのまま師盛の首が討ち取られたと記している。

「生年十四歳とぞ聞えし」

数え14歳だったという。

しかし、師盛の年齢には異説がある。別の伝本には16歳、17歳、18歳とあり、実際にはさらに年長だった可能性も指摘されている。

その数日前、師盛は三草山で兄弟とともに源義経軍を迎え撃っていた。

ところが夜襲によって平氏軍は敗走する。

資盛、有盛、忠房は播磨国高砂から船で屋島へ渡った。

師盛だけが、家人を連れて一ノ谷へ向かったという。

そこで再び源氏軍の攻撃を受けた。

三草山の敗戦から、わずか数日。

師盛は一ノ谷の海辺で命を落とした。

その一方、師盛の子と伝わる人物が平氏滅亡後の京都で生きていた。

源智。

後に法然の高弟となり、『一枚起請文』を授けられた僧である。

平氏の血を引く幼子として母に育てられたという源智は、やがて法然の門へ入り、念仏の教えを後世へ伝えることになる。

平重盛の息子――生年と兄弟順に残る異説

平師盛は、平重盛の息子として生まれた。

祖父は平清盛。

父の重盛は清盛の長男であり、保元の乱、平治の乱で戦い、朝廷では内大臣まで昇った人物だった。

師盛は一般に重盛の五男とされる。

兄には維盛、資盛、清経、有盛がいた。忠房も重盛の息子である。

ところが、師盛の出生順については古い系図の間に違いがある。

『平家物語』覚一本では、師盛は重盛の末子として扱われている。

一方、清経の次に師盛を置く系図もあり、有盛や忠房との前後関係は一定しない。

享年にも異説が残る。

覚一本は一ノ谷での師盛の最期を数え14歳と記す。これに従えば承安元年(1171年)ごろの生まれとなる。

しかし、ほかの伝本には16歳、17歳、18歳とするものもある。

さらに、師盛は承安3年(1173年)には丹後守に任じられ、安元2年(1176年)には宮廷の祝賀行事で笙を奏でていた。

これらの記録は、師盛の年齢を考えるうえで重要な手がかりとなっている。

近年の系図研究では、師盛が覚一本の記述よりも年長で、有盛より早く生まれた可能性も論じられている。

平氏の公達は、幼いころから官位を与えられることが珍しくなかった。それでも、師盛の出生順と年齢をめぐる問題は、系図だけでは解決できない。

一ノ谷で命を落とす十年ほど前から、師盛の名は朝廷の記録に現れていた。

母は藤原経子か――宮廷の服喪記録が示す疑問

師盛の母については、平重盛の正室・藤原経子とする説が知られている。

経子は藤原家成の娘で、藤原経宗の猶子ともされる女性だった。

高倉天皇の乳母を務め、宮廷では典侍となった。

清経や有盛、忠房らの母とも伝わる。

『延慶本平家物語』系統の系図などには、師盛も経子の子とするものがある。

しかし、古い系図には師盛の母の名前を記さないものも残っている。

この問題を考えるうえで注目されるのが、安元2年(1176年)の宮廷記録である。

同年2月24日、藤原成親の母が亡くなった。

成親は経子の兄にあたり、清経にとっては母方の伯父だった。

近親者は服喪することになり、後白河法皇の五十賀に向けた舞楽の催しでも、参加者の調整が行われた。

『定能卿記』によれば、清経らは服喪のため舞人としての参加を見合わせている。

一方、師盛は笙を担当する楽人として参加していた。

この扱いの違いから、師盛は清経と母を異にした可能性が指摘されている。

藤原経子の子とする系図と、宮廷での服喪の記録。

双方を照らし合わせると、師盛の母を確定することは難しい。

ただ、師盛が重盛の息子として宮廷で官職を得ていたことは、当時の記録から確認できる。

承安3年――丹後守となった師盛

承安3年(1173年)。

師盛は丹後守に任じられた。

丹後国は現在の京都府北部にあたり、日本海に面した国である。

京都から比較的近く、若狭や但馬へ通じる交通の要地でもあった。

国司の任命は朝廷の除目で行われる。

師盛は先任者に代わり、丹後守となったと記録されている。

このころ父の重盛は朝廷で高い地位を占め、祖父の清盛も大きな政治的影響力を持っていた。

平氏の子供たちは幼少時から地方官に任じられ、各地の知行国を通じた一門の経済的な基盤も築かれていた。

師盛の丹後守任官も、そうした時代の出来事だった。

もっとも、師盛が実際に丹後へ赴任し、現地で国務を執ったという記録は残されていない。

当時の有力な貴族や武家の子弟は、国司の官名を持ちながら京都にとどまることも多かった。

師盛も宮廷に出仕する公達として生活していたと考えられる。

そして安元2年、後白河法皇の五十歳を祝う盛大な行事に参加する。

後白河院の五十賀――笙を奏でた師盛

安元2年(1176年)3月。

後白河法皇の五十歳を祝う賀宴が催された。

3月4日から6日にかけ、高倉天皇が法住寺殿へ行幸し、舞楽や管弦が披露された。

平氏一門の公達たちも、この祝賀に数多く加わっている。

平重盛や宗盛、知盛、重衡らが出仕し、若い公達たちは楽器を奏で、舞を披露した。

とりわけ有名なのが、平維盛の青海波である。

重盛の長男・維盛は舞人として参加し、宮廷の人々からその姿を称賛された。

師盛も、この賀宴に関わっていた。

当時の官職は丹後守。

『安元御賀記』には、笙を担当する楽人の一人として師盛の名が残されている。

笙は、竹管を束ねた形をした雅楽の楽器である。

息を吹き込むと複数の音が重なり、管弦の演奏に独特の響きを加える。

笛や篳篥、琵琶、箏などとともに、宮廷の音楽に欠かせない楽器だった。

師盛は、そうした管弦の催しに参加する人物だった。

後に三草山で兄弟たちと源氏軍を迎え撃つ師盛も、このころは宮廷の祝賀に出仕し、笙を奏でていたのである。

ただし『安元御賀記』には伝本による加筆や改変もあり、行事の細部を検討する際には記録の系統に注意が必要となる。

師盛の名前が宮廷音楽に関わる記録に残されたことは、彼の若いころの姿を知る貴重な手がかりとなっている。

若狭守、そして備中守へ

治承2年(1178年)正月28日。

師盛は若狭守に任じられた。

九条兼実の日記『玉葉』に、その任官が記されている。

若狭国は現在の福井県南部にあたり、京都へ海産物を運ぶ交通路を持つ国だった。

師盛は丹後守に続き、日本海側の国司を務めることになった。

さらに治承3年(1179年)には、備中守としての名が記録に現れる。

備中国は現在の岡山県西部にあたり、瀬戸内海にも面している。

師盛は丹後守、若狭守、備中守と、複数の地方官の官歴を持っていた。

兄の資盛は近衛府の官職を経て蔵人頭となり、清経や有盛も近衛府の武官として昇進した。

師盛は地方官の官歴が目立つ人物だった。

その後の『平家物語』でも、師盛は「備中守師盛」と呼ばれている。

一ノ谷での最期を伝える場面に残る官名である。

師盛がこれらの国々でどのような行政上の仕事を担ったのか、記録は乏しい。

ただ、朝廷で官職を得ながら宮廷の行事にも参加していたことは確認できる。

その生活を支えてきた父・重盛が、治承3年7月に亡くなった。

父・重盛の死――小松家を取り巻く変化

治承3年(1179年)7月29日。

平重盛が亡くなった。

享年42歳。

重盛は清盛の長男であり、後継者と目されていた。

後白河法皇とも深い関係を持ち、清盛と法皇の間で政治的な調整に関わることがあった。

重盛の死によって、小松家の立場は変化した。

嫡男の維盛は父の家を継ぐ立場となった。

しかし平氏一門全体の政治的な中心となったのは、重盛の弟・平宗盛だった。

宗盛は清盛の正室・平時子の子で、高倉天皇の中宮・徳子の兄でもある。

皇室との結びつきが強く、朝廷での地位も高かった。

同年11月、清盛は軍勢を率いて京都へ入り、後白河法皇を鳥羽殿へ幽閉した。

治承三年の政変である。

翌治承4年(1180年)、以仁王と源頼政が平氏打倒を掲げて挙兵した。

8月には源頼朝が伊豆で兵を挙げる。

維盛は東国追討軍の大将となったが、富士川で軍勢が崩れ、京都へ引き返した。

さらに治承5年(1181年)閏2月、清盛が亡くなる。

重盛と清盛を相次いで失った平氏は、宗盛を中心に各地の反乱へ対処することになった。

このころ師盛がどのような軍事活動を行ったのか、詳しい記録は少ない。

しかし寿永2年(1183年)、平氏軍が北陸で大敗すると、師盛も一門とともに京都を離れることになる。

寿永2年7月――師盛も都を去る

寿永2年5月。

平維盛らが率いた北陸追討軍は、倶利伽羅峠で木曾義仲に大敗した。

続く篠原の戦いでも敗れ、義仲の軍勢は京都へ迫った。

延暦寺も平氏への協力を拒むようになり、都を守ることは難しくなっていた。

7月24日夜から25日未明にかけて、後白河法皇は京都を脱出し、比叡山へ移った。

宗盛は都での抵抗を断念する。

7月25日。

平氏一門は安徳天皇と三種の神器を奉じ、西国へ向かった。

師盛も兄弟たちとともに京都を離れた。

『平家物語』には、兄の維盛が妻子との別れを惜しむ様子が記されている。

資盛も親しく交わっていた建礼門院右京大夫と別れていた。

一方、師盛が都落ちを前に誰と会い、何を語ったのかは伝わっていない。

宮廷で笙を奏で、丹後守や若狭守を歴任した師盛も、安徳天皇を奉じる一門に従った。

平氏は福原を経て瀬戸内海へ向かい、九州での再起を目指した。

しかし豊後国の緒方惟義が反旗を翻し、大宰府から退去することになる。

緒方は、かつて師盛の父・重盛に仕えていた武士だった。

平氏はさらに九州の沿岸を移動した後、瀬戸内海へ戻る。

その逃避行の中で、清経が海へ沈んだと伝わる。

『平家物語』によれば、清経は豊前国柳ヶ浦で一門の行く末を悲観し、月夜に横笛を吹いて入水したという。

清経の死後も、平氏は戦いを続けた。

寿永2年閏10月には備中国水島で木曾義仲方を破り、11月には室山で源行家の軍勢に勝利する。

そして翌年正月、再び福原周辺へ進出した。

師盛も、その反攻に加わることになった。

福原への反攻――一ノ谷を守る平氏軍

寿永3年(1184年)正月。

平氏は讃岐国屋島から軍勢を進め、摂津国福原周辺へ進出した。

福原は、清盛が大輪田泊を整え、一時は都を置いた場所だった。

平氏は一ノ谷や生田森に陣を構え、源氏軍の進攻に備える。

一方、京都では木曾義仲が源範頼・義経の軍勢に敗れ、近江国粟津で討ち死にしていた。

義仲を破った範頼と義経は、続いて平氏追討へ向かう。

範頼は大手の軍勢を率い、義経は搦手へ回った。

平氏は東から迫る範頼軍に対して生田森方面を固めた。

一方、丹波方面から山道を進む義経軍を食い止めるため、別の軍勢を配置する。

その将として、『平家物語』は重盛の息子たちの名前を挙げている。

資盛、有盛、忠房、師盛。

さらに侍大将として、平内兵衛清家と海老次郎盛方が従った。

師盛は兄弟たちとともに、義経軍の進む山道を守ることになった。

その戦場が三草山だった。

三草山――重盛の息子たちが陣を構える

『平家物語』巻第九「三草合戦」。

平氏方の大将は小松新三位中将・資盛。

有盛、忠房、師盛も軍勢に加わっていた。

『平家物語』はその兵力を三千余騎と記す。

一方、『吾妻鏡』では七千余騎とされ、兵数には違いがある。

合戦地についても異説が残る。

一般に古戦場として知られるのは、現在の兵庫県加東市にある三草山である。

一方、『吾妻鏡』が三草山を摂津国の山として記していることから、現在の猪名川町と能勢町の境付近を戦場と考える説もある。

義経軍が実際に進んだ山道については、地理と史料の両面から研究が続けられている。

『平家物語』によれば、平氏軍は三草山の西側に陣を置いた。

義経軍は東側の小野原に到着し、平氏の陣まで三里ほどのところへ迫っていた。

夜になり、義経は侍大将の土肥実平に尋ねた。

今夜のうちに攻めるか。

それとも翌朝まで待つか。

田代信綱が夜襲を勧めたという。

明日まで待てば平氏には援軍が加わるかもしれない。攻めるなら今夜がよい。

義経はその意見を採った。

しかし、山道は暗かった。

『平家物語』は、義経軍が松明を用意し、進軍路の民家にも火を放って道を照らしたと描いている。

その火を頼りに山を越え、夜半に平氏の陣へ迫ったという。

民家への放火は軍記物語に記された描写であり、実際の夜間行軍を細部まで復元することは難しい。

ただ、平氏軍が夜襲を受けて敗走したことは、『吾妻鏡』にも伝わっている。

眠っていた兵たち――義経の夜襲

平氏軍は、その夜に攻撃を受けるとは予想していなかったという。

『平家物語』によれば、戦いは翌朝になると考え、兵たちを休ませていた。

先陣は警戒していた。

しかし後陣では、兜や鎧の袖、箙を枕にして眠る兵もいたという。

夜半。

山の麓に鬨の声が響いた。

義経軍が襲いかかってきたのである。

平氏方は突然の攻撃に混乱した。

弓を取った者は矢を見つけられず、矢を手にした者は弓を探し回る。

そこへ源氏の騎馬武者が突入した。

平氏の兵たちは馬に踏まれることを恐れ、陣の中央を空けてしまったという。

その間を源氏軍が駆け抜け、陣は崩れた。

義経軍は逃げる兵たちを追撃した。

『平家物語』は五百余人が討たれたと伝えるが、正確な損害はわからない。

資盛らの軍勢は、この夜襲によって敗走した。

そして撤退の途中、師盛は兄弟たちとはぐれることになる。

高砂へ逃れた兄弟――師盛だけが一ノ谷へ

三草山で敗れた平氏軍は、それぞれ退路を探した。

大将の資盛は、有盛、忠房とともに播磨国高砂へ向かった。

高砂は播磨灘に面した港である。

三人はここから小舟に乗り、讃岐国屋島へ渡ったという。

一方、師盛は別の道を進んだ。

『平家物語』は、師盛だけがどうしてはぐれたのだろうかと記している。

夜襲の混乱によって、兄弟と合流できなくなったのかもしれない。

師盛は平内兵衛清家と海老次郎盛方を伴い、一ノ谷へ向かった。

二人は三草山でも侍大将として名が挙げられていた武士だった。

資盛、有盛、忠房は屋島へ。

師盛は一ノ谷へ。

一ノ谷には、平氏の主力軍が布陣していた。

師盛は、そこへ戻って一門の軍勢と合流しようとした可能性がある。

しかし、三草山を突破した義経軍も一ノ谷へ向かっていた。

師盛は数日後、再び源氏軍の攻撃を受けることになる。

2月7日――源氏軍が一ノ谷を攻撃する

寿永3年2月7日。

源範頼・義経の軍勢が、摂津国福原周辺の平氏軍を攻撃した。

一ノ谷の戦いである。

範頼軍は生田森方面から攻め込み、義経軍は山側へ回った。

『吾妻鏡』によれば、義経は少数の勇士を率いて一ノ谷の後山へ進み、険しい坂から攻撃を仕掛けたという。

平氏は東西から攻められ、各地で陣を破られていった。

平通盛、平忠度、平敦盛、平経正ら、一門の武将たちが相次いで討ち死にする。

平重衡は捕らわれた。

そして備中守・師盛も、この戦いで命を落とした。

師盛は数日前まで、兄弟とともに三草山で義経軍を迎え撃っていた。

夜襲を受けて一ノ谷へ戻ったものの、そこで再び源氏軍に攻められた。

平氏の陣が崩れると、師盛は海へ逃れようとした。

『平家物語』は、そのとき起こった出来事を詳しく伝えている。

主従七人の小舟――公長を乗せようとした師盛

『平家物語』巻第九「落足」。

一ノ谷で敗れた平氏の武将たちの最期を記した段である。

その冒頭に師盛が登場する。

師盛は主従七人で小舟に乗っていた。

平氏は瀬戸内海の航路を利用し、屋島へ退くことができた。

師盛も船で西へ逃れようとしていたと考えられる。

そのとき、岸から一人の武士が駆けてきた。

清衛門尉公長。

平知盛に仕える侍だった。

公長は師盛の小舟を見つけ、自分も乗せてほしいと呼びかけたという。

師盛は船を岸へ寄せさせた。

公長も源氏軍から逃れようとしていたのだろう。

ところが公長は、鎧を着た大柄な男だった。

馬から小舟へ飛び乗ろうとする。

その重みで、船がひっくり返った。

師盛も海へ投げ出された。

味方の武士を乗せようとした小舟が、岸辺で転覆してしまったのである。

『平家物語』は、この事故の後に起きたことも記している。

海に浮き沈みする師盛――熊手での討取り

師盛は波間に浮き沈みしていたという。

転覆した船に乗っていたほかの家人たちがどうなったのか、詳しいことは記されていない。

海の中にいた師盛を、岸から源氏方の武士たちが見つけた。

畠山の郎等・本田次郎。

十四、五騎を伴っていたという。

本田次郎は馬から降りた。

そして熊手を使い、師盛を引き寄せた。

熊手は長い柄の先に鉤を備えた道具で、戦場では敵を引っかけて引き寄せる際にも使われた。

師盛は海から引き上げられた。

そして本田次郎に首を討ち取られたと『平家物語』は伝えている。

三草山では、兄弟たちとともに義経軍の夜襲を受けた。

敗走の途中で兄たちとはぐれ、一ノ谷へ戻った。

ところが一ノ谷も源氏軍の攻撃を受け、海へ逃れようとした小舟が転覆した。

『平家物語』は、そのように師盛の最期を描いた。

そして年齢を数え14歳と記している。

しかし『吾妻鏡』には、小舟の転覆や熊手による討取りの場面は登場しない。

そこには別の名前が記されていた。

安田義定である。

『吾妻鏡』の記録――安田義定の軍勢

『吾妻鏡』寿永3年2月7日条には、一ノ谷で討ち取られた平氏一門の武将たちの名前が記されている。

その中に師盛もいた。

同書によれば、平経正、平教経、平師盛の三人は、遠江守・安田義定の軍勢によって討ち取られたという。

安田義定は甲斐源氏の武将であり、源頼朝に従って各地の戦いに参加していた人物だった。

一ノ谷でも源氏方として軍勢を率いていた。

2月15日、鎌倉へ届いた戦勝報告にも、師盛は安田義定の軍勢に討ち取られた人物として記されている。

『平家物語』では本田次郎。

『吾妻鏡』では安田義定の軍勢。

記録には違いがある。

ただし、実際に首を取った武士と、その軍勢を率いた指揮官の名が別々に伝えられた可能性もある。

『吾妻鏡』は鎌倉時代後期に編纂された歴史書であり、戦功に関する記録や伝承も取り込んでいる。

一方、『平家物語』は人物の最期を印象的な場面で描く軍記物語だった。

『吾妻鏡』には平教経の討死も記されるが、『平家物語』では教経は壇ノ浦まで戦い続けている。

一ノ谷での戦死者については、こうした違いも残る。

師盛の小舟が転覆したという出来事は、『平家物語』によって伝えられたものである。

両書に共通するのは、師盛が一ノ谷で命を落としたということである。

八条河原――京都にさらされた師盛の首

寿永3年2月13日。

源氏方は一ノ谷で討ち取った平氏一門の首を、京都でさらした。

『吾妻鏡』によれば、首はまず義経の宿所である六条室町の邸宅へ集められた。

平通盛。

平忠度。

平経正。

平教経。

平敦盛。

平師盛。

ほかにも知章、経俊、業盛、盛俊らの名が記されている。

首は八条河原へ運ばれた。

長い鉾や刀に取り付けられ、名前を書いた赤い札が添えられたという。

その後、獄門に懸けられた。

多くの見物人が集まり、辺りは市のようになったと『吾妻鏡』は伝えている。

師盛はかつて丹後守として後白河法皇の五十賀に参加し、笙を奏でていた。

若狭守や備中守にも任じられた平氏の公達だった。

その師盛の首が、今は都の河原にさらされていた。

一ノ谷では平氏一門の有力武将たちが相次いで命を落とした。

三草山から屋島へ逃れた資盛、有盛、忠房は討死を免れたが、師盛は一ノ谷で最期を迎えた。

そして、師盛の享年については後世の記録に複数の数字が残されることになった。

14歳だったのか――享年をめぐる異説

『平家物語』覚一本は、師盛の享年を数え14歳とする。

しかし、伝本によって数字は異なる。

四部合戦状本や文禄本では16歳。

百二十句本では17歳。

南都本では18歳とされる。

さらに師盛には、1173年の丹後守任官と、1176年の後白河院五十賀への参加記録がある。

これらの記録と年齢を照らし合わせると、師盛が覚一本に記された年齢よりも年長だった可能性が出てくる。

また、師盛の子と伝わる源智は寿永2年(1183年)生まれとされる。

覚一本の享年14歳説を採れば、師盛は数え13歳のころに源智の父となった計算になる。

もちろん、当時の婚姻や子供の出生年齢を現代の基準だけで判断することはできない。

しかし父子関係や生年を検討するうえで、この年齢の問題は避けられない。

近年の研究では、師盛の出生順や母親の比定を見直す議論も進められている。

師盛が何歳で亡くなったのか、正確な生年は今も確定していない。

一方、源智を師盛の子とする伝承は、浄土宗の歴史の中で長く受け継がれてきた。

その出自を記した重要な資料が、『法然上人行状絵図』である。

師盛の子と伝わる源智――母に守られた平氏の幼子

源智は寿永2年(1183年)に生まれたとされる。

後に勢観房と号し、法然の高弟となった僧である。

『法然上人行状絵図』巻第四十五には、源智を備中守・平師盛の子、平重盛の孫とする記述が残されている。

さらに、平氏滅亡後の様子も語られている。

平氏が滅びた後、世間の目を恐れた母が、源智を隠して育てていたというのである。

師盛が一ノ谷で討たれた寿永3年(1184年)、源智は数え2歳だった計算になる。

翌元暦2年(1185年)には、壇ノ浦で平氏が滅んだ。

その後、源氏方による平氏の生き残りへの追及が続いた。

清盛の孫にあたる子供であれば、世間の目を避けて暮らす事情があっても不思議ではない。

源智の母について、氏名や詳しい経歴は明らかになっていない。

ただ、『法然上人行状絵図』は、母が源智を守りながら育てたと伝えている。

この絵伝は鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて成立したもので、師盛の戦死から百年以上後の資料である。

源智と師盛の父子関係については、系譜や伝記に基づく伝承として扱う必要がある。

それでも源智は、平氏の血を引く子供として育った人物と伝えられてきた。

そして建久6年(1195年)、その源智は法然のもとへ送られる。

建久6年――法然の門に入る

建久6年(1195年)。

源智は数え13歳となり、法然のもとへ送られたという。

法然は比叡山で天台教学を学び、後に専修念仏の教えを広めた僧だった。

阿弥陀仏の本願を信じ、南無阿弥陀仏と称えて極楽往生を願う教えである。

『法然上人行状絵図』によれば、源智はまず法然の紹介によって慈円のもとで出家した。

慈円は九条兼実の弟で、天台座主を務めた人物だった。

のちに歴史書『愚管抄』を著したことでも知られる。

源智は慈円のもとで出家した後、再び法然のもとへ戻ったという。

その初期の指導に当たったのが真観房感西だった。

感西は法然の弟子で、源智はそのもとで念仏の教えを学んだ。

勢観房という号も、感西の真観房にちなむと伝わる。

正治2年(1200年)、感西が亡くなった。

その後、源智は法然の身近で活動するようになる。

『法然上人行状絵図』によれば、源智は十八年にわたって法然に仕えたという。

少年のころに門へ入り、法然の晩年までそのそばで修行を重ねた。

やがて源智は、法然の門弟の中でも重要な立場を占めるようになった。

元久元年――『七箇条制誡』への署名

元久元年(1204年)。

法然の念仏教団は、比叡山延暦寺などから批判を受けていた。

一部の門弟たちが他宗の教えを非難し、戒律を軽んじる言動を取ったことも問題となっていた。

法然は門弟たちの行動を正すため、『七箇条制誡』を作成した。

他宗をむやみに非難しないこと。

戒律を守る人々をあざけらないこと。

争いを招く言動を慎むこと。

門弟たちは、その内容を守ることを誓って署名した。

約190人の名前が残されている。

その中に源智の名がある。

源智は五番目に署名したと伝わる。

法然の門下で重んじられていたことがうかがえる。

しかし専修念仏への反発は収まらなかった。

建永2年(1207年)、法然は流罪を命じられた。

弟子の親鸞も越後国へ流される。

建永の法難である。

源智は法然の赦免を求める動きに関わったと考えられている。

その周囲には葉室氏などの公家との縁があり、朝廷への働きかけにも関係した可能性が指摘されている。

法然はその後、摂津国勝尾寺へ移り、建暦元年(1211年)には京都へ戻ることを許された。

しかし帰洛から間もなく、病に倒れる。

建暦2年(1212年)正月のことである。

その最期の時期に、源智へ重要な文書が授けられたという。

法然から授けられた『一枚起請文』

建暦2年正月。

法然は病床にあった。

源智は長年にわたって仕えてきた師へ、念仏の教えの要点を一枚の紙に書き残してほしいと願ったという。

それに応えて法然が授けたと伝わるのが、『一枚起請文』である。

浄土宗では、法然の教えを簡潔に記した重要な法語として尊ばれている。

そこには阿弥陀仏の本願を信じ、南無阿弥陀仏と称えて極楽往生を願う教えが説かれている。

また、学問や知識を誇ることなく、念仏に専念する姿勢も示されている。

『法然上人行状絵図』によれば、法然は正月23日、この文書を源智へ授けた。

ただし、『一枚起請文』には複数の伝承本があり、成立時期や授与の具体的な経緯については研究上の議論も残る。

法然は正月25日に亡くなった。

享年80歳。

源智は師の最晩年に仕え、その教えを受け継ぐ立場となった。

そして同じ年の暮れ、源智は一体の阿弥陀如来像を造立する。

その仏像の胎内には、数万人の名前が納められていた。

四万六千人の名前を納めた阿弥陀如来像

建暦2年12月24日。

源智は、法然への報恩のために阿弥陀如来像を造立した。

像高は約99センチメートル。

木造の阿弥陀如来立像である。

鎌倉時代の仏師・快慶の工房で制作されたと考えられている。

源智はその胎内に、自ら記した造立願文を納めた。

さらに、念仏によって仏との縁を結んだ人々の名前を記した文書も収めている。

結縁交名と呼ばれる名簿である。

記された名前は、およそ四万六千人に及んでいた。

貴族や武士だけでなく、さまざまな立場の人々が含まれている。

源智は各地で念仏を勧め、結縁する人々の名前を集めた。

そして、仏像の胎内にその名簿を納めた。

造立願文には、法然への報恩と、多くの人々が極楽往生できるよう願う心が記されている。

この仏像は後に滋賀県信楽の玉桂寺へ伝わった。

昭和49年(1974年)の調査で注目され、昭和54年(1979年)の修理では胎内から多くの文書が発見された。

源智自筆の願文や膨大な結縁交名は、鎌倉時代初期の念仏信仰を知る貴重な資料となった。

仏像は国の重要文化財に指定されている。

その後、浄土宗が迎え、京都国立博物館へ寄託されていた。

令和8年(2026年)4月9日には、京都の総本山知恩院で遷座法要が営まれた。

現在は知恩院の集会堂で本尊として祀られている。

源智が法然の死後に造立した阿弥陀如来像は、八百年以上を経て、浄土宗の総本山へ迎えられたのである。

文暦元年――法然の墓所を守った源智

法然の死後も、源智は京都で活動を続けた。

源智は紫野付近に拠点を持ち、その門下は紫野門徒と呼ばれるようになった。

法然の弟子たちは各地で教えを広め、それぞれの門流を形成していく。

源智も師の遺品や聖教を受け継ぎ、念仏の教えを守り続けた。

文暦元年(1234年)。

法然の二十三回忌にあたり、源智は東山大谷にある法然の廟堂や堂舎を再建したと伝わる。

現在の知恩院につながる場所である。

このころ源智は数え52歳となっていた。

建久6年に法然のもとへ入ってから、四十年近くが過ぎていた。

少年のころに出家し、法然の教えを学んだ。

師の流罪にも直面し、その晩年に仕えた。

法然の没後には阿弥陀如来像を造立し、多くの人々を念仏へ導いた。

さらに師の墓所を整え、その教えを後世へ伝えることに力を尽くした。

暦仁元年(1238年)12月12日。

源智は亡くなった。

享年56歳。

一ノ谷で討ち死にした師盛の子と伝わる源智は、その戦いから五十年以上を生きた。

法然の高弟として活動した源智の名は、その後も浄土宗の歴史に残されることになった。

平師盛の最期――一ノ谷の小舟から知恩院へ

平師盛は、平重盛の息子として生まれた。

丹後守、若狭守、備中守を歴任し、後白河法皇の五十賀では笙を奏でた。

しかし父の重盛は1179年に亡くなり、祖父の清盛も1181年に死去した。

寿永2年(1183年)7月、師盛は平氏一門とともに京都を離れた。

九州で大宰府を追われ、一門は屋島を拠点に反攻する。

翌寿永3年2月。

師盛は資盛、有盛、忠房らとともに三草山へ向かった。

しかし源義経軍の夜襲によって、平氏軍は敗走する。

資盛、有盛、忠房は高砂から屋島へ渡った。

師盛だけが平内兵衛清家、海老次郎盛方を連れ、一ノ谷へ向かったと『平家物語』は伝える。

2月7日。

一ノ谷は源氏軍の攻撃を受けた。

師盛は主従七人で小舟に乗り、海へ逃れようとしたという。

そこへ清衛門尉公長が駆けつけた。

師盛は味方の武士を乗せるため、船を岸へ寄せさせた。

しかし公長が鎧を着たまま飛び乗ろうとした拍子に、小舟は転覆した。

海へ投げ出された師盛は、本田次郎らによって熊手で引き上げられ、首を討ち取られたと『平家物語』は記している。

覚一本では享年14歳。

その一方、実際にはもっと年長だった可能性も指摘されている。

『吾妻鏡』は師盛を安田義定の軍勢による討取りと記録し、2月13日にはその首が八条河原でさらされたことを伝える。

師盛の官歴や年齢、母親については、今も検討すべき問題が残されている。

そして師盛の子と伝わる源智は、平氏滅亡後も生き延びた。

『法然上人行状絵図』によれば、源智は母に守られながら育ち、建久6年に法然のもとへ送られた。

後に『一枚起請文』を授けられ、法然の没後には約四万六千人の名前を納めた阿弥陀如来像を造立する。

その仏像は現在、京都の知恩院に祀られている。

源智と師盛の父子関係は、後世の伝記や系譜によって伝えられたものである。

しかし浄土宗の歴史には、源智が備中守・師盛の子、平重盛の孫だったという記述が残されている。

一ノ谷では、師盛が乗った小舟が転覆したと『平家物語』は記した。

源智の伝記では、師盛の子が母に守られながら生き延び、やがて法然に仕えたと伝えられた。

そして建暦2年、源智は阿弥陀如来像の胎内に数万人の名前を納めた。

その願文と結縁交名は、八百年以上を経た今も残されている。

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