【人物編 Vol.37】平直方――平忠常を倒せなかった追討使と、河内源氏へ渡った「鎌倉」

人物

第73回



長元元年(1028)。

房総で平忠常の乱が起こると、朝廷は追討使の人選に入った。

候補には源頼信、平正輔、平直方、中原成通らが並ぶ。右大臣・藤原実資は源頼信を推した。それに対して関白・藤原頼通が推したのが、平直方(たいらのなおかた)である。

直方は、平将門を討った平貞盛の流れをくむ中央軍事貴族だった。父・平維時も都で名を知られた武者であり、一族は朝廷に仕えながら東国にも地盤を持っていた。直方自身も相模・伊豆と結びつき、後世の史料では鎌倉に館を構えていた人物として語られる。

追討の相手である平忠常も桓武平氏である。ただし系統は違う。忠常は平良文の子孫。直方は平貞盛の系統だった。

つまり1028年に始まった戦いには、朝廷対反乱者という表の構図の下に、良文流と貞盛流による坂東の主導権争いが重なっていた。

直方にとって忠常追討は大仕事であると同時に、父祖の代から競争してきた一族を押さえ、貞盛流平氏の勢力を坂東へ広げる絶好の機会でもあった。

ところが、忠常は倒れない。

1028年8月に京都を出発してから約2年。朝廷はついに直方を召還した。

そして後任の源頼信が追討使となると、前年から講和を探っていた忠常は、頼信の軍と大決戦を行うことなく降伏する。

結果だけを見れば、直方は平忠常の乱で大きな失敗をした男に見える。

しかし、その後の日本史をたどると、直方はむしろ別の場所で強烈な痕跡を残している。

直方は源頼信の子・源頼義を娘婿に迎えた。

その娘から、

源義家 源義綱 源義光らが生まれる。

さらに後世の史料では、直方が自らの鎌倉の屋敷を頼義へ譲ったと伝えられている。

平忠常を倒せなかった男が、結果として河内源氏の東国進出と「鎌倉」の歴史をつなぐ人物になったのである。


生没年は分からない――それでも「名門の武者」だった

平直方の生年と没年は、確実な史料からは分からない。

人物編では、ここを推測の年齢で埋める必要はない。

確実なのは、直方が平貞盛の系統に属する軍事貴族だったことである。

父は平維時(たいらのこれとき)。

維時も京で活躍した武者で、常陸介などを務めた。

平貞盛は天慶3年(940)、藤原秀郷らとともに平将門を討った人物である。

将門追討の功績によって従五位上、さらに従四位下へ進み、その子孫は京都で朝廷に仕える中央軍事貴族へ成長していった。

直方も、その流れの中にいた。

市原歴史博物館の解説では、父・維時は貞盛の孫にあたりながら貞盛の養子となり、直方も貞盛流平氏の有力者として位置づけられている。

このころの「武士」は、後世の戦国大名とはかなり違う。

京都では天皇・上皇・摂関家などに仕え、必要があれば警固や追捕、反乱鎮圧を担う。一方で地方国司を務めたり、東国に所領や私的な主従関係を持ったりして、自前の軍事力を育てていた。

つまり、都で朝廷に仕える顔と、地方で武力と土地を押さえる顔を同時に持つ。

直方はまさに、その典型である。

平忠常の乱で朝廷が直方を選んだ理由も、ここにあった。単に弓や馬が得意な武者だからではない。京都で使える身分と、東国で兵を動かせる地盤。その両方を持っていたからこそ、直方は国家規模の追討を任されたのである。


将門を倒した「貞盛流」の後継者

直方を理解するうえで重要なのが、

「自分たちは平将門を倒した側の平氏である」という家の歴史である。

平将門と平貞盛は、ともに桓武平氏だった。

将門が東国で反乱を起こすと、貞盛は藤原秀郷らとともにこれを討った。

その後、貞盛の子孫は京都へ進出し、朝廷の軍事力を担う家として発展する。

一方、坂東では平良文の子孫が勢力を伸ばした。

その良文の孫が平忠常である。

つまり1028年の対立を系譜で見ると、

貞盛流=平直方対良文流=平忠常という構図になる。

しかも、この2つの系統は1028年になって突然争い始めたわけではない。


父祖の代から続いていた良文流との抗争

平忠常の父は平忠頼。

直方の一族と忠頼の一族は、すでに10世紀末には対立していた。

寛和元年(985)、忠頼とその弟・忠光は、貞盛の弟平繁盛と対立する。

『続左丞抄』に残る太政官符には、繁盛が大般若経600巻を延暦寺へ奉納しようとした際、忠頼・忠光側との争いが問題となり、追討命令まで出されたことが見える。

さらに忠常の時代には、『今昔物語集』の中で貞盛流・常陸平氏側の人物を「先祖の敵」と意識する説話まで残った。

土地。国衙での地位。在地武士とのつながり。朝廷や公卿との人脈。

坂東に進出した平氏の各系統は、こうしたものを何世代にもわたって奪い合っていた。

だから1028年に忠常が国司と衝突すると、直方にとっては大きな機会となった。

朝廷の「追討使」という公的な権限を使って、父祖以来の競争相手を倒せるからである。

市原歴史博物館も、平忠常の乱には朝廷対反乱者という面だけでなく、貞盛流と良文流による平氏内部の主導権争いが重なっていたと整理している。


京都の武者でありながら、相模・伊豆にも勢力を持つ

直方は京都だけで生きていた武士ではない。

相模・伊豆にも勢力基盤を持っていた。

そして特に重要なのが鎌倉である。

市原歴史博物館は、中央軍事貴族が力を保つには地方の地盤も重要だったとしたうえで、直方が相模・伊豆に勢力を持ち、鎌倉に館を構えていたことを紹介している。

この「鎌倉」が、のちに直方の名前を日本史上さらに重要なものにする。

1180年に源頼朝が鎌倉へ入るより、150年以上も前の話である。

鎌倉はまだ幕府の町ではない。

それでも相模湾を望み、三浦半島や房総へもつながり、東海道からも大きく離れていない。

東国に軍事的な足場を持つ者にとって、重要な場所だった。

直方の一族は、源頼朝が現れるはるか以前から、この地域と結びついていたのである。


1028年――平忠常の乱が起こる

長元元年(1028)。

房総最大級の武士だった平忠常が、安房国で国司側と衝突した。

安房守惟忠が焼死。

さらに忠常は上総国府を押さえ、上総介県犬養為政とその家族も拘束した。

6月5日、朝廷は忠常とその子・常昌らの追討を決定する。

問題は、誰に追討を任せるか。だった。

6月21日、朝廷で候補が検討された。

名が挙がったのは、

源頼信 平正輔 平直方 中原成通らである。

右大臣・藤原実資は源頼信を推した。

ところが関白・藤原頼通が推したのは平直方だった。

最終的に、平直方と中原成通が追討使に選ばれた。


なぜ頼信ではなく、直方だったのか

ここは直方の人物編で最も面白いところの一つである。

後から見れば、源頼信を最初から送っておけばよかったように見える。

実際、最後には頼信が忠常を降伏させている。

それでも1028年に選ばれたのは直方だった。

直方は京都で活動する軍事貴族であると同時に、相模・伊豆にも基盤を持つ。

さらに忠常と敵対する貞盛流平氏の有力者だった。

直方の父・維時らも、追討への関与を強めていく。

つまり朝廷側から見ても、

「忠常と同じ平氏で、東国にも勢力を持つ実戦的な武者」だった。

直方自身にとっても大きな利点がある。

忠常を討てば、朝廷から恩賞が得られる。

さらに良文流を押さえれば、南関東における貞盛流の影響力を強められる。

平忠常の乱は、直方にとって一族の勢力を大きく伸ばす機会でもあった。


8月5日――兵200人を率いて京都を出発

追討使に決まっても、直方はすぐには出発していない。

追討に必要な条件や兵糧について朝廷内で調整が続いた。

そして長元元年(1028)8月5日。

平直方と中原成通は京都を出発する。

中央から率いていった兵は200人。

もちろん200人だけで房総全域を制圧するわけではない。

東国へ入れば国司や現地の武士を動員する。

それでも、ここから直方は遠征軍の中心人物として忠常追討へ向かうことになる。


父・維時まで上総へ――貞盛流平氏を挙げた追討

翌長元2年(1029)。

朝廷はさらに追討態勢を強化した。

2月、東海・東山・北陸道諸国へ忠常追討への協力を命じる。

さらに2月23日。

直方の父・平維時が上総介として京都を出発した。

追討使の直方が軍事行動を担当し、その父が反乱の中心地である上総国の国司となる。

異例の布陣である。

さらに貞盛流と近い武士たちも東国へ配置されていく。

忠常一人を討つというより、

貞盛流平氏とその協力勢力を使って、良文流平氏を押さえ込む体制が組まれていったのである。

岩手県教育委員会の研究でも、平忠常の乱に際して直方が追討使、父・維時が上総介となるなど、貞盛流平氏を動員した配置が確認されている。


ところが忠常を捕まえられない

直方は、圧倒的に有利な立場で戦い始めたように見える。

朝廷の追討宣旨がある。

諸国へ協力命令も出せる。

父は上総介。相手の忠常は「朝敵」である。

それでも、戦争は終わらなかった。

忠常は上総・下総に深く根を張っていた。

土地を知っている。現地の人間関係を持っている。山地へ入って追討軍をかわすこともできる。

反対に、直方側は遠征軍である。軍勢を動かすには兵糧がいる。馬も必要になる。

長期戦になればなるほど、現地から物資を集めなければならない。

結果として、追討戦そのものが房総を荒廃させていった。


1029年6月――わずか1年で「直方を替えるか」が議題になる

長元2年(1029)6月。

朝廷は忠常について「暴悪もっとも盛ん」と判断し、さらに追討官符を出した。

ところが同じころ、平直方の更迭が朝廷で議題に上っている。

直方が京都を出発してから、まだ1年にも満たない。

それほど追討は思うように進んでいなかったのである。

共同追討使だった中原成通も消極的で、同年12月には解任された。

以後、忠常追討の責任は直方へ重くのしかかる。

それでも忠常を捕らえられない。


追討軍が房総を食い潰していく

平忠常の乱では、「忠常が暴れて房総を荒らした」という説明だけでは足りない。

追討軍側による物資徴発も、地域へ大きな負担を与えた。

軍勢を何年も置けば、食料が必要になる。

馬の飼料もいる。武器や船も必要になる。宿泊場所も必要になる。

その費用をすべて京都から運んでくるわけではない。

現地で徴発する。

後に残された記録には、直方ら追討軍による長期の物資徴発によって上総が深刻に疲弊したことが見える。

乱後に上総国から報告された数字では、かつて2万2980町余りあった田のうち、戦乱末期に耕作されていたのは18町余りまで落ち込んだ。

単純計算で約0.08%。

この数字をそのまま現代の農地統計と同じように見ることはできない。

それでも、当時の人々が平忠常の乱を「一国が壊れるほどの戦争」と認識していたことは分かる。

直方は忠常を討てないまま、その戦争を長期化させた責任を負う立場になっていった。


1030年――安房守が逃げ出す

長元3年(1030)3月27日。

忠常側は再び安房国へ進出した。

安房守藤原光業は抵抗できず、国印と正倉の鍵を置いて京都へ逃げ帰る。

反乱開始から約2年。

朝廷が諸国を動員し、直方の父まで上総へ送り込んでいるのに、忠常側にはまだ一国の国守を追い出す力が残っていた。

これは直方にとって大きな痛手だった。


4度目の追討官符を求める直方

同年5月。

直方は朝廷へ、4度目の追討官符を求めた。

もう一度、より強い形で忠常追討を命じてもらおうとしたのである。

しかし関白・藤原頼通は認めなかった。

忠常側の兵力は減り、さらに忠常が出家したという情報も京都へ届いていた。

6月には直方・父維時らから提出された文書からも、忠常側が講和を望んでいることが読み取られた。

戦争は、武力で忠常を倒す段階から、どう終わらせるかという段階へ移っていた。

そして長元3年(1030)7月8日、朝廷は決断する。

平直方を召還する。

直方の追討使としての仕事は終わった。


直方はなぜ失敗したのか――「弱かった」だけでは説明できない

直方は忠常を討ち取ることも、捕らえることもできなかった。

追討開始から約2年。朝廷の追討宣旨を背負い、諸国の協力を受け、父・維時まで上総介として送り込まれている。それでも決着しなかった。

ただし、ここを「直方は武将として弱かった」の一言で終わらせると、この戦争の本質を見誤る。

忠常は上総・下総に長年根を張った在地権力者であり、追討軍は外から入ってきた軍勢だった。忠常側は山地へ入り、拠点を移しながら抵抗できる。追討軍は長期滞在するほど現地から兵糧を集める必要があり、その徴発が房総をさらに疲弊させる。

しかも忠常と直方は、同じ桓武平氏の別系統である。忠常にとって直方への降伏は、単に朝廷へ従うだけでなく、父祖の代から競ってきた貞盛流へ屈する意味を持った。

戦場の地理、兵站、在地社会との結びつき、そして一族同士の面子。

直方は、剣の腕だけでは解けない問題を抱えていたのである。

そして1030年9月、後任の追討使に選ばれたのが、1028年の人選で実資が推していた源頼信だった。


源頼信が追討使になると、忠常は戦わず降伏した

源頼信は甲斐守だった。

そして忠常とは乱以前から主従関係を結んでいた。

長元4年(1031)4月。

忠常は子息2人、郎党3人を伴って甲斐にいる頼信のもとへ出頭する。

大規模な合戦は起きなかった。

降伏である。

直方が約2年間追い続けても捕らえられなかった忠常が、頼信には刀を交えることなく降った。

この結果だけを見れば、

直方の失敗と頼信の成功はあまりにも鮮明である。

ただし頼信が着任した時点で、忠常側はすでに疲弊し、前年から講和を模索していた。

そこへ忠常と以前から関係を持つ頼信が現れた。

忠常にとって頼信は、「降伏できる相手」だったのである。


それでも直方は消えなかった

ここからが平直方という人物の面白いところである。

大規模な追討作戦に失敗した。

だからといって、直方がそのまま歴史から消えたわけではない。

後の史料では上野守平直方朝臣として登場する。

つまり平忠常の乱の失敗後も、軍事貴族として一定の地位を保っていた。

そして直方は、自分に代わって忠常の乱を終わらせた河内源氏と、思いがけない形で結びつく。

婚姻である。


直方が見込んだ男――源頼義

源頼信には、頼義という息子がいた。

永延2年(988)生まれ。

後に前九年の役で安倍氏と戦う河内源氏の武将である。

平忠常の乱でも、父・頼信に従って東国へ下ったと伝えられている。

そして後世の軍記・説話的史料『陸奥話記』には、直方と頼義をめぐる非常に面白い場面が残されている。

舞台は小一条院に仕えていたころの頼義。

頼義は弓馬に優れ、狩猟でも並外れた腕前を見せていた。

その騎射を見た直方が感嘆する。

直方は自分が「名将の後裔」であり、武芸を重んじてきた家であることを語ったうえで、

これほど弓を巧みに扱う男を見たことがない

という趣旨で頼義を称えた。

そして、自分の娘を妻にしてほしいと申し出たのである。

『陸奥話記』が伝える有名な「武者が武者を見込んだ」場面である。『陸奥話記』には、直方が頼義の騎射に感服して娘婿に迎えたことが明記されている。


『陸奥話記』が残した名場面――「この男を婿にしたい」

『陸奥話記』が伝えるこの場面は、平直方の記事のなかでも特に人間味がある。

直方は頼義の騎射を見て、その腕前に驚いた。自分は名将の後裔として武芸を重んじてきた、それでもこれほど弓を巧みに扱う者を見たことがない――そう語り、娘を頼義の妻にしたいと申し出たという。

軍事貴族が、自分の目で一人の若い武者を見込み、娘婿に選ぶ。

もちろん『陸奥話記』は文学的な表現を含む史料である。それでも、頼義が直方の娘を妻としたことは、後の『中外抄』などからも確認できる。

この婚姻は単なる家族の話ではない。

貞盛流平氏と河内源氏という、二つの有力軍事貴族が婚姻で結ばれたのである。

平忠常の乱では、直方の後を受けた頼信が成功した。だからといって直方が頼信一族と敵対し続けたわけではない。むしろ直方は、その次の世代である頼義を高く評価し、自分の家へ取り込んだ。

武士の世界では、合戦の勝敗だけで勢力図が決まるわけではない。婚姻は、血筋・所領・人脈を次の世代へつなぐ重要な政治手段だった。


直方の娘が産んだ「八幡太郎義家」

この婚姻が、日本史に大きな影響を与える。

源頼義と直方の娘の間には子どもが生まれた。

その長男が、源義家。

長暦3年(1039)生まれ。

後の八幡太郎義家である。

前九年の役では父・頼義とともに安倍氏と戦い、後三年の役でも奥州へ進出。

東国武士の間で圧倒的な名声を得て、

「天下第一武勇之士」

とまで評される男である。

義家の母が平直方の娘だったことは、複数の史料・辞典で確認できる。


義家だけではない――義綱・義光へ続く

直方の娘と頼義の間には、義家だけでなく弟たちも生まれた。

源義綱そして源義光である。

義光は「新羅三郎義光」として知られ、その子孫からは甲斐源氏が広がっていく。

後世、武田氏佐竹氏などにつながる系統である。

つまり直方は、母方の祖父として、後世の武家社会に巨大な血脈を残したことになる。

平忠常を討てなかった追討使の孫たちが、その後の武士の歴史を大きく動かしていくのである。


そして「鎌倉」が河内源氏へ――後世の史料が伝える大きな贈り物

平直方の記事で、絶対に外せない話がある。

鎌倉である。

後世の『詞林采葉抄』には、直方が鎌倉に持っていた屋敷を、娘婿となった源頼義へ譲ったと記されている。

これによって鎌倉が、「源家相伝の地」になったというのである。

『詞林采葉抄』は南北朝時代の史料であり、直方・頼義の時代からおよそ300年後に成立した。だから、「1030年代に直方が鎌倉一帯を法的に丸ごと譲った」といった細部まで11世紀の同時代史実として扱うことはできない。

ただし、この伝承を簡単に切り捨てる必要もない。

頼義が直方の娘婿だったことは別史料から確認できる。さらに研究では、直方から頼義へ鎌倉の屋敷が継承されたという伝承には一定の歴史的背景があると評価する見解もある。鎌倉市も、頼朝以前から源氏と鎌倉が結びついていく過程を説明する際、この伝承を紹介している。

そして康平6年(1063)、頼義は鎌倉の由比郷に石清水八幡宮を勧請した。これが後の鶴岡八幡宮の起源となる。

直方から頼義へ伝わったと語られる鎌倉と、頼義が建てた八幡宮。

12世紀に突然「源氏の鎌倉」が生まれたのではない。11世紀から積み重なった武士たちの人脈と記憶が、その土台になっていたのである。


直方から頼義、そして頼朝へ

この「鎌倉」の流れは非常に面白い。

平直方
↓
娘婿・源頼義
↓
河内源氏
↓
源義朝
↓
源頼朝

という形で、鎌倉との結びつきが語られていく。

治承4年(1180)。

石橋山の戦いで敗れた頼朝は房総へ逃れ、再起すると鎌倉へ入った。

頼朝が鎌倉を選んだ理由は地形・交通・東国武士との関係など複数ある。

その背景の一つとして、「鎌倉は父祖の地だった」という源氏側の歴史があった。

そして、その始まりに平直方がいる。

鎌倉市の解説でも、直方から頼義への屋敷譲渡を経て鎌倉が「源家相伝ノ地」となったという伝承が紹介されている。


平忠常の乱で「敗れた男」が残したもの

直方本人の最大の軍事任務は、成功したとは言い難い。

平忠常を捕らえられず、約2年後には追討使を召還された。

しかも後任の源頼信が、ほとんど戦うことなく忠常を降伏させた。

武将としては、屈辱的な結末だったはずである。

ところが長い歴史で見ると、直方の価値はそこだけでは決まらない。

直方は源頼義を娘婿に迎えた。

娘は義家らを産んだ。

さらに鎌倉の屋敷を頼義へ譲ったと伝えられる。

つまり直方が持っていた、

貞盛流平氏の血 東国の人脈 相模との結びつき 鎌倉という拠点

が、河内源氏へ流れ込んでいったのである。


平氏から源氏へ――武門の主役が移っていく時代

平将門の乱が終わった10世紀。

軍事の世界で大きな名声を持っていたのは、将門を討った平貞盛や藤原秀郷らだった。

直方は、その貞盛流平氏の後継世代にあたる。

しかし11世紀に入ると、そこへ河内源氏が伸びてくる。

源頼信。

源頼義。

源義家。

彼らは東国の武士たちと次々に主従関係を結び、前九年・後三年の役を通じて、「源氏の棟梁」という立場を強めていった。

その過程で、平直方の家が持っていたものまで河内源氏へ受け継がれていく。

だから直方の人生は、「平氏が負けて源氏が勝った」という単純な交代ではない。

婚姻によって血が混ざり、所領が渡り、人脈が継承されながら、武士の勢力図そのものが組み替えられていったのである。


直方の血は「源氏の外側」ではなくなった

直方の娘が頼義へ嫁いだことで、貞盛流平氏の血は河内源氏の内部へ入った。

その子が義家・義綱・義光である。

ここは、後世の「源氏対平氏」というイメージだけで平安中期を見ないほうがいい理由でもある。

11世紀の武門は、源氏と平氏が完全に二陣営へ分かれていた世界ではない。争うこともあれば、同じ朝廷の軍事を担い、婚姻によって結びつくこともある。

平忠常を追った直方の家と、その乱を終わらせた頼信の家が、次の世代には一家族となった。

そして直方の外孫・義家は、前九年の役と後三年の役を通じて東国武士の間に強烈な名声を残す。

直方が平忠常の乱で得られなかった「坂東の武士を束ねる威望」は、皮肉にも娘の子である義家の世代で、河内源氏の側に大きく育っていくのである。


「忠常を討てなかった追討使」だけでは終われない

平直方の生涯には、不明な部分が多い。

生年も没年も確定しない。

晩年の細かな動向も、藤原道長や源義家ほど豊富には残っていない。

それでも、1028年以降の直方には日本の武士社会が変わっていく瞬間が凝縮されている。

将門を討った貞盛流平氏の後継者として生まれた。

平忠常の乱では、朝廷の権力を背負って東国へ向かった。

父・維時まで上総介として追討を支えた。

それでも忠常を倒せず、追討使を解かれた。

代わって源頼信が乱を終わらせた。

そして直方は、その頼信の子・頼義を娘婿に迎えた。

娘から義家・義綱・義光らが生まれた。

さらに鎌倉の屋敷も頼義へ渡ったと伝えられる。

平氏の名門が持っていた東国の地盤の一部は、婚姻を通じて河内源氏へ受け継がれていった。

それから約150年。

源頼朝は鎌倉へ入り、東国武士をまとめていく。

頼朝の時代から逆に歴史をたどれば、その途中には頼義がいる。

義家がいる。

そして、その義家の外祖父として、平直方がいる。

平忠常の乱で勝者になれなかった男は、自分の代で歴史の主役になることはなかった。

しかし、直方が河内源氏へつないだ血と東国の地盤は、その後の武士の時代へ確実に受け継がれていったのである。

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