【戦い・事件編】源義忠暗殺事件――源氏の棟梁を殺したのは誰だったのか? 河内源氏を崩壊させた1109年の暗殺

戦い・事件

第89回



1109年2月――河内源氏の棟梁が、京都で斬られた

天仁2年(1109)2月。

京都で、河内源氏の棟梁が何者かに襲われた。

源義忠。

父は「八幡太郎」源義家。前九年合戦、後三年合戦を経験し、東国武士の間に大きな名声を築いた人物である。

その義家が死んでから、まだ3年ほどしかたっていなかった。

義忠は襲撃で深手を負い、まもなく死亡する。

新しい棟梁の死だけでも河内源氏にとっては大事件である。ところが、この事件はそこからさらに大きく広がった。

犯人として疑われたのは、義忠の叔父・源義綱の一族だった。

義綱の子が追討される。義綱は息子たちを連れて近江へ逃れる。

朝廷から追討軍が送られ、息子たちは次々と命を落とす。

最後に義綱自身も出家して降伏し、佐渡へ流された。

その追討に加わったのが、まだ14歳だった源為義である。為義は後に河内源氏を率い、

その孫が源頼朝となる。

一人の暗殺から、河内源氏の有力一族がまとめて消えていった。

さらに後世になると、この事件の裏側にもう一人の源氏がいたという話まで現れる。

新羅三郎・源義光。

義忠を殺したのは誰だったのか。なぜ義綱一族は壊滅したのか。

事件を追うには、まず源義家が死んだ直後の河内源氏を見ていく必要がある。


1106年――「八幡太郎」源義家、死す

嘉承元年(1106)7月4日。

源義家が死去した。数え68歳。

父・頼義とともに前九年合戦を戦い、後三年合戦では陸奥守として清原氏の内紛へ介入した。

朝廷から正式な恩賞を得られなかった将兵に自分の財産から報いたという話も残り、東国武士から厚い信望を得たことで知られる。

義家の死によって、大きな問題が表面化する。

誰が河内源氏を継ぐのか。

義家には複数の男子がいた。長男・義宗は父より先に死んでいた。

次男・義親は対馬守となった後、九州で大宰府と衝突。隠岐への配流を経て出雲で再び武力行動を起こし、朝廷から追討される立場になった。1108年には平正盛が「義親を討った」と報告している。

そこで河内源氏の嫡流を継いだ人物が源義忠だった。

義忠を義家の四男で、嫡流を継いだ人物とされている。

義家という巨大な父が死に、兄・義親も脱落した。

義忠は、河内源氏を立て直さなければならない立場に置かれたのである。


源義忠――父とは少し違う道を選んだ後継者

義忠の生年や前半生には不明な部分が多い。

それでも、義家の死後に河内源氏の中心となったことは確かである。

当時の京都では政治の形そのものが変わり始めていた。

白河院が院政を進め、その身辺では北面武士など新たな武力が用いられるようになっていた。

そして、その流れにうまく乗り始めていたのが伊勢平氏である。

平正盛は白河院に接近し、受領を歴任しながら勢力を伸ばしていた。1108年には義忠の兄・義親を追討した功績によって但馬守へ進み、中央での評価をさらに高める。

河内源氏が義家の死後に後継問題を抱える一方、伊勢平氏は院との結びつきを強めていた。

義忠は、そんな時代に河内源氏を背負った。

ところが翌1109年、その義忠が突然襲われる。


2月3日――義忠襲撃

天仁2年(1109)2月3日夜。

義忠が何者かに斬りつけられた。

事件の細かな現場描写を、そのまま再現できる同時代史料は乏しい。

しかし関白・藤原忠実の日記『殿暦』には、義忠殺害に続いて起きた義綱追捕の記事が集中的に残されている。

東京大学史料編纂所によれば、『殿暦』天仁2年条には、義忠殺害事件に関連する義綱追捕について、2月6日・16日・17日・18日・29日と詳細な記録が並んでいる。

河内源氏の身内だけで終わる事件ではなかった。

摂関家の最高位にいた藤原忠実が、その推移を連日記録するほどの政治事件だったのである。

義忠は襲撃で負った傷によって死亡した。

河内源氏は、義家を失ってからわずか3年ほどで、次の棟梁まで失った。

そして京都では、犯人捜しが始まる。


疑いが向いたのは、叔父・義綱の一族

最初に事件の中心へ引きずり出されたのが、源義綱。

義忠の父・義家の弟である。義綱は源頼義の次男。

賀茂社で元服したことから、賀茂次郎とも呼ばれた。

兄・義家ばかりが有名になったため目立ちにくいが、義綱自身も相当な武将だった。

前九年合戦では父・頼義、兄・義家とともに奥州へ向かう。

後には陸奥守となり、1094年には出羽で起きた平師妙・師季らの反乱を鎮圧。その功績で美濃守となり、従四位上へ昇ったとされる。

つまり義忠が死んだ1109年時点で、義綱は河内源氏の中でも最有力級の人物だった。

しかも義家との関係には、以前から亀裂があった。


1091年――義家と義綱、一触即発

寛治5年(1091)。

義家と義綱の郎党同士が争いを起こした。

そこから対立は主人同士へ波及し、兄弟が京都で兵を構える事態にまで発展した。

朝廷が警戒するほどの緊張だった。

この過去が、18年後の暗殺事件で重く響く。

義忠が殺された。

その義忠の父・義家と、かつて武力衝突寸前まで対立した義綱。

疑いの目が義綱側へ向きやすい状況が、そこに存在した。

しかも事件では、義綱本人より先に、その息子の名前が浮かび上がる。

源義明である。


義綱の子・義明が追われる

義明は義綱の子である。

事件後、義明に義忠殺害への関与が疑われた。

朝廷側は義明の追討へ動き、義明は討たれる。

ここから父・義綱の運命も一気に変わった。

息子へ暗殺の嫌疑がかかり、追討によって命まで奪われる。

義綱は朝廷の処置に従わず、一族を連れて京都を離れた。

向かった先は、近江国甲賀。現在の滋賀県甲賀市周辺である。

甲賀市の史跡保存計画でも、1109年に義綱が義忠殺害の嫌疑を受けて籠った「甲賀山」が、現在の水口周辺にあった大岡寺と伝えられていることを紹介している。

ここから暗殺事件は、「犯人探し」から本格的な武力追討へ変わった。


近江・甲賀――義綱一族が立て籠もる

義綱には複数の息子がいた。その一族が近江へ入る。

京都から見れば、義忠暗殺の嫌疑を受けた有力武将が、息子たちとともに武装して近国へ移動したことになる。

しかも義綱は、前九年合戦を経験し、陸奥守となり、出羽の反乱まで鎮圧した武将である。

放置できる相手ではなかった。

白河院政下の朝廷は追討に動く。

そこで前面に出てきた人物が、源為義。

まだ数え14歳だった。


14歳の源為義――父を失った翌年、叔祖父を追う

為義は永長元年(1096)生まれ。一般には源義親の子とされる。

つまり前年の1108年、父・義親は平正盛によって討たれたと報告されたばかりだった。

その翌年、14歳の為義は、今度は義家の弟・義綱を追う側に立った。

為義は義親の四男(一説に五男)で、義忠、さらに義家の養子となって嫡流を継いだとする。そして1109年2月、14歳で義綱を近江に捕らえ、その功によって同年3月に左衛門尉となった。

ここは「14歳の少年が一人ですべての軍事指揮を執った」と考えるより、為義が河内源氏の次世代を代表する立場として追討側へ立ったと見る方が自然である。

実際の軍事行動には、経験豊かな郎党や他の武士たちも加わっていた。

それでも象徴的な意味は大きい。

義家の死。義親の追討。義忠の暗殺。

そして今度は義綱一族の追討。

次々と上の世代が消えていく中で、まだ14歳の為義が河内源氏の表舞台へ押し出されたのである。


義綱の息子たち――一族壊滅

追討軍に迫られた義綱一族は、急速に追い詰められた。

この追討によって義綱の子息5人が自害したとされる。

後世の史料には、それぞれの息子が異なる方法で死を選んだという、かなり劇的な話も残る。

ただし、この部分には後世の潤色が入り込んでいる可能性が高い。

確実に押さえたいのは、

義綱の息子たちが次々と失われ、一門が壊滅的な打撃を受けたこと。

そして、義綱自身は生き残ったこと。である。

義綱は出家し、追討軍へ降伏した。

長年戦場を歩き、兄・義家と並ぶほどの軍歴を持った男が、髪を落として武器を置いた。

処分は流罪。行き先は佐渡国だった。


義綱はその後も20年以上生きた

義綱の人生は1109年で終わっていない。

佐渡へ流された後、いったん赦されて京都へ戻ったとされる。

ところが長承年間、再び問題となり、最終的には追討を受けて死亡した。

史実では、没年を1132年または1134年とする違いがある。

つまり義忠暗殺事件から20年以上、義綱は生きていたことになる。

義忠を殺した首謀者としてただちに処刑された人物ではない。

それでも1109年の追討によって、義綱流の政治的・軍事的な力はほぼ失われた。

そして事件には、どうしても残る疑問がある。

本当に義綱一族が義忠を殺したのか。


同時代史料だけでは「真犯人」は決められない

ここは、この事件を書くうえで最も重要なところである。

義忠が殺されたこと。義綱一族へ嫌疑が向いたこと。義綱が近江へ逃れたこと。

追討を受け、出家して降伏し、佐渡へ流されたこと。

これらは同時代史料から追うことができる。『殿暦』にも義綱追捕の経過が詳しく残されている。

一方で、「誰が義忠暗殺を企てたのか」となると話は別である。

後世の史料では、義綱一族とは別の人物が黒幕として語られる。

その人物が、源義光。

義家・義綱の弟である。


新羅三郎・源義光

義光は「新羅三郎」と呼ばれた。

後三年合戦では、兄・義家が奥州で苦戦していると聞き、官職を辞してでも救援へ向かったという逸話で知られる。

後世のイメージだけを見ると、兄思いの勇将である。

しかし河内源氏の内部では、義光自身も独自の勢力を持っていた。

その子孫からは甲斐源氏が広がり、武田氏などにつながっていく。

そして後世に作られた系譜・物語では、この義光が義忠暗殺の黒幕だったという筋書きが登場する。


義光黒幕説――義明に罪を着せるための謀略

後世に伝わった話では、義光は周囲の人間を使って義忠を殺し、その罪を義綱の子・義明へ着せたことになっている。

そこで登場するのが、藤原季方や平成幹、いわゆる鹿島三郎と呼ばれる人物である。

さらに、義明の刀を利用して犯行の嫌疑を義明へ向けたという、非常に具体的な謀略まで語られる。

この筋書きなら、1109年に起きたことが一本につながる。

義忠が死ぬ。義明に疑いが向く。

義明が討たれる。父・義綱が反発する。

義綱一族が追討される。

結果として義忠も義綱流も表舞台から消える。

ただし、この鮮やかな「完全犯罪」の物語を、1109年当時の史料がそのまま記録しているわけではない。

義光黒幕説の詳細は、後世の史料によって形作られている。

そのため、源義光を真犯人として断定することはできない。

現代でもこの問題は研究対象となっており、佐々木紀一「源義忠の暗殺と源義光」では、義忠暗殺と義光との関係が改めて検討されている。

事件の面白さは、ここにある。

1109年に何が起きたかはかなり追える。

それでも、最初の一撃を命じた人物だけが見えない。


なぜ義綱は逃げたのか

義綱が無実なら、なぜ近江へ逃れたのか。

ここも単純には推し量れない。

息子・義明が追討され、実際に殺された。

自分にも嫌疑が及ぶ。

朝廷側の捜査や処分に身を委ねれば、一族ごと処罰される可能性がある。

義綱には兵もいた。

前九年合戦以来の武歴もある。

朝廷の判断を受け入れるより、一族を連れて武力で身を守る方を選んだとしても不思議ではない。

ところが、この行動によって義綱はますます「反抗する者」に見えた。

疑いを晴らすための逃亡が、そのまま追討を招く。

結果として義綱一族は壊滅した。

暗殺そのもの以上に、暗殺後の処理が河内源氏へ与えた打撃の方が大きかったのである。


1106年から1109年――わずか3年で何が起きたのか

ここで時系列を並べると、異常な速さが分かる。

1106年、源義家、死去。

1108年、義家の子・源義親が、平正盛によって討たれたと報告される。

1109年、義家の後継者・源義忠、暗殺。

同年、義家の弟・源義綱一族も追討される。

わずか3年ほどである。

義家。義親。義忠。義綱一族。

河内源氏の上層部が、次々と消えていった。

かつて源頼信、頼義、義家の3代で積み上げた巨大な武名を、次の世代が安定して継ぐことができなかった。

そこで残された人物が為義だった。


14歳の為義が、河内源氏を背負う

1109年、為義は14歳。

父・義親は前年に討たれたとされた。

叔父・義忠は暗殺された。

祖父・義家もすでに死んでいる。

さらに大叔父・義綱一族を、自分が追討する側へ回った。

河内源氏の家督を継ぐという言葉から想像するような、華やかな出発ではない。

身内が次々と死に、追討され、その空白の中へ少年が押し出されたのである。

為義は義綱追捕の功によって1109年3月に左衛門尉へ任じられた。

ここから約半世紀。

為義は河内源氏を背負い続ける。

しかし義家の時代に比べると、その立場は安定しなかった。

一族の統制。院との関係。摂関家との関係。

東国へ勢力を伸ばす息子たち。

為義はその間で苦しむことになる。


一方、平正盛は勢力を伸ばしていた

河内源氏が暗殺事件の処理に追われていたころ、伊勢平氏では平正盛が白河院との関係を強めていた。

前年1108年には源義親追討の功績を挙げ、因幡守から但馬守へ進んでいる。

その後も国司を歴任し、京都の治安維持、僧兵への対応、西国の海賊追捕などを任されるようになる。

正盛の子が平忠盛。その忠盛の子が平清盛である。

源氏と平氏の力関係が、この一事件だけで逆転したわけではない。

それでも1100年代初めを見ると、

河内源氏では義家の死後、身内同士の問題が続く。

伊勢平氏では正盛が院の信頼を積み重ねる。

両家の進む方向に、明らかな違いが出始めていた。


義忠暗殺事件が残した最大の傷

源義忠暗殺事件の最大の謎は、真犯人である。

義綱一族が本当に関与していたのか。

義明だけが関与していたのか。

義光が裏で動いたのか。

後世の物語には鮮やかな答えが用意されている。

同時代史料から、そこまで言い切ることはできない。

一方、事件の結果は驚くほどはっきりしている。

河内源氏の棟梁・義忠が死んだ。義綱の子たちも失われた。義綱は佐渡へ流された。

14歳の為義が前面へ出た。

そして同じ時期、平正盛は白河院のもとで力を伸ばしていた。

義家が死んでから、わずか3年。

河内源氏は敵との大合戦で敗れたわけではない。

家の内側から、大きく削られた。

その傷を背負って次の時代へ進む人物が、源為義である。

そして1156年。

為義は保元の乱で崇徳上皇方につき、長男・義朝は後白河天皇方へ入る。

父と子が敵味方に分かれた。

1109年、義忠暗殺をきっかけに叔父・甥、一族同士が刃を向けた河内源氏。

その亀裂は、半世紀後にも再び姿を現す。

次の主役は、源為義である。

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