第111回
治承4年(1180年)12月28日。
奈良の北側、奈良坂と般若寺の周辺では朝から戦いが続いていた。
京都から南下してきた平氏の軍勢を率いるのは、平清盛の五男・平重衡。数え24歳である。
迎え撃つ南都側は、興福寺を中心とする大衆だった。
奈良へ通じる道を掘り切り、楯を並べ、逆茂木を置いて平氏軍を待ち構えたと『平家物語』は伝える。
平氏軍は奈良坂と般若寺方面から攻め込んだ。
戦いは夕方になっても終わらない。
日が暮れたあと、奈良の町に火が上がった。
火は興福寺へ入り、さらに東大寺へ広がる。
興福寺では中金堂や講堂、五重塔など主要な堂塔が焼けた。
東大寺でも大仏殿が炎に包まれ、盧舎那大仏が大きく損傷する。
奈良時代以来の大寺院が、一夜のうちに甚大な被害を受けた。
この日の戦いは、突然始まったものではない。
平氏と南都の対立は、前年から続いていた。
清盛が京都を制圧した治承三年の政変
治承3年(1179年)の夏、清盛の周囲で大きな変化が続いた。
6月17日、娘の盛子が24歳で死去する。
盛子は摂政・近衛基実の未亡人で、基実の死後も摂関家領の多くを管理していた。盛子の死後、後白河法皇はその所領に自らの近臣を関与させた。
7月29日には、清盛の嫡男・平重盛が数え42歳で死去する。
重盛が知行していた越前国も後白河院側へ移った。
さらに10月、関白・松殿基房の子で数え8歳の師家が権中納言となる。
清盛が後押ししていた近衛基通を越える人事だった。
11月14日、福原にいた清盛が数千の兵を率いて京都へ入った。
翌15日、松殿基房は関白を解かれ、近衛基通が新たな関白となる。
17日には太政大臣・藤原師長をはじめ、後白河院に近い公卿、殿上人、受領ら39人が解官された。
20日、後白河法皇は鳥羽殿へ移される。
周囲には武士が置かれ、法皇への出入りも制限された。
治承三年の政変である。
翌治承4年2月、高倉天皇は皇太子・言仁親王へ譲位した。
安徳天皇である。
数え3歳、満1歳。
母の徳子は清盛の娘であり、清盛は幼い天皇の外祖父となった。
その春、後白河法皇の皇子・以仁王が動き出す。
以仁王が頼ろうとした南都
治承4年4月、以仁王は諸国の源氏や寺社へ平氏追討を呼びかけた。
計画が平氏側に知られると、5月15日、以仁王は園城寺へ逃れる。
やがて源頼政も加わった。
園城寺からは比叡山延暦寺、さらに奈良の興福寺へ協力が求められた。
興福寺の大衆は動き始める。
5月22日、九条兼実のもとには、南都の大衆が蜂起し、京都へ向かおうとしているとの情報が届いている。
以仁王と頼政は25日夜に園城寺を出た。
向かった先は奈良だった。
ところが翌26日、宇治で平氏軍に追いつかれる。
宇治橋をめぐる戦いで頼政は敗れ、平等院で自害した。
以仁王は奈良を目指して逃走を続けたが、光明山鳥居前付近で追手に討たれる。
興福寺の軍勢と合流することはできなかった。
以仁王の死後も、興福寺と平氏の関係は戻らなかった。
南都には興福寺だけでなく東大寺をはじめとする大寺院が集まり、多数の僧侶、大衆、寺領を抱えていた。興福寺は藤原氏の氏寺であり、大和国内に多くの荘園や末寺を持つ。
寺院の大衆が武装して動けば、無視できない反抗勢力となる。
福原遷都と各地の挙兵
以仁王が討たれて7日後の6月2日、安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇らが京都を離れて福原へ入った。
現在の神戸市兵庫区周辺である。
清盛が長く拠点としてきた場所だった。
福原への遷都が始まる。
その夏から秋にかけて、東国でも戦乱が広がった。
8月17日、伊豆の源頼朝が挙兵する。
23日の石橋山では大庭景親らに敗れたものの、頼朝は安房へ逃れ、千葉常胤、上総広常らの軍勢を加えた。
10月6日には鎌倉へ入る。
甲斐では武田信義ら甲斐源氏が活動し、信濃では木曾義仲が挙兵した。
10月には平維盛を大将とする追討軍が東海道を下った。
富士川まで進んだ平氏軍は兵力を維持できず、20日夜から21日にかけて退却する。
頼朝はそのまま京都へ向かわず、常陸の佐竹氏を攻めるため北へ向かった。
畿内でも近江源氏が動いていた。
平氏は東国だけに兵力を向けていればよい状況ではなくなっていた。
11月23日、安徳天皇らは福原を出発し、26日に京都へ戻った。
およそ半年で福原遷都は終わる。
そして12月、平氏は畿内の反抗勢力に軍勢を向けた。
園城寺の次に南都が残った
近江では源氏勢力が活動し、園城寺の大衆も関わっていた。
園城寺は5月に以仁王を受け入れた寺でもある。
12月、平氏軍が近江へ入り、反抗勢力を攻撃した。
園城寺も攻撃を受け、堂舎を焼かれた。
そのころ京都では、もう一つの寺院勢力が警戒されていた。
南都である。
12月12日、『玉葉』を書いた九条兼実のもとに、南都の大衆が末寺や荘園の武士らを集めて京都へ向かうという情報が届いた。
14日には、延暦寺の大衆まで動いて六波羅を襲うという噂が流れる。
16日には南都の大衆が京都へ向かっているとの知らせを受け、官軍が出動した。
このときの情報は流言だった。
それでも京都側が南都の動きを強く警戒していた様子は分かる。
22日になると、兼実の日記にはさらに踏み込んだ情報が現れる。
南都の「悪徒」を捕らえ、房舎を焼く。
そのための準備が進められているという。
南都への軍事行動が迫っていた。
『平家物語』は、この間に別の事件があったと記す。
清盛が備中国の武士・妹尾兼康を500余騎で奈良へ送り、南都の大衆がその部下60余人を捕らえて斬首し、首を猿沢池のほとりに並べたという。
これを聞いた清盛が激怒し、重衡へ南都攻撃を命じたという筋書きである。
この60余人斬首の記事は、『玉葉』『山槐記』など同時代の日記には見えない。
一方、南都への攻撃準備そのものは同時代史料から確認できる。
12月25日、ついに軍勢が京都を出た。
12月25日――平重衡、南都へ出陣
大将を任されたのは平重衡だった。
清盛と時子の子で、宗盛や知盛の弟にあたる。
この年、数え24歳。
5月の以仁王追討にも出陣している。
副将格として平教盛の子・通盛も加わった。
『平家物語』は重衡・通盛の軍勢を4万余騎と記す。
南都側も7千人。
軍記物語らしい大きな数字である。
同時代の公卿・中山忠親が記した『山槐記』では、南都へ向かった官軍を数千騎としている。
25日、軍勢は京都を発った。
冬の悪天候に遭い、その日は宇治周辺にとどまった。
翌26日から再び南へ進む。
京都から奈良へ入るには、宇治を越え、木津川周辺を通って大和へ向かう。
南都側もこの進路を読んでいた。
大衆は木津川沿岸から奈良北方へかけて抵抗し、平氏軍の南下を食い止めようとした。
27日、重衡軍は木津方面まで進んだ。
南都側では大規模な動員が伝えられ、『玉葉』には6万という途方もない数字まで記録されている。
実数と見ることはできない。
ただ、興福寺だけの僧侶が武器を持って集まったのではなく、末寺や荘園を通じて人を集めていたことは、12月初旬から京都へ入っていた情報とも重なる。
平氏軍は奈良北方へ迫った。
そこで待っていたのが、奈良坂と般若寺を中心とする防衛線だった。
奈良坂と般若寺に築かれた防御線
奈良の北側には丘陵が広がる。
京都方面から奈良へ入る軍勢は、その間を抜けて南へ進まなければならない。
南都側は道を利用して防御を固めた。
『平家物語』によれば、奈良坂と般若寺の二か所で道を掘り切り、楯を並べ、逆茂木を置いた。
逆茂木は枝先を敵側へ向けて置いた木の障害物である。
馬を自由に走らせにくくなる。
南都側の多くは徒歩で戦った。
狭い道に障害物を置き、その後ろから弓を射れば、騎馬を中心とする平氏軍も一気には突破できない。
般若寺は東大寺の北に位置する。
ここを抜かれれば、その先には東大寺と興福寺の寺域が広がっている。
12月28日、重衡軍が本格的な攻撃を始めた。
12月28日――朝から始まった戦い
『平家物語』では戦闘開始を卯刻とする。
おおよそ夜明けから朝にかけての時間帯である。
平氏軍は二手に分かれた。
一隊が奈良坂。もう一隊が般若寺。
二方向から南都の防衛線を攻める。
南都側は掘り切った道と逆茂木の内側で待ち受けた。
弓を引き、近づいてくる平氏の武者へ矢を浴びせる。
馬上の武者にとって、前方に堀や逆茂木があれば勢いをつけて突入することは難しい。
平氏方は前へ出た武者から矢を射返した。
防御線へ近づくと、馬を降りて戦う者も出る。
弓矢の次は、太刀や長刀を使う接近戦となる。
奈良坂と般若寺の双方で戦闘が続いた。
平氏側は数で勝り、交代しながら前線へ兵を送り込める。
南都側は狭い道を使って抵抗する。
『平家物語』は、徒歩で戦う大衆に対し、官軍が馬を駆け回りながら矢を射かけ、多くを討ち取ったと描く。
戦いは昼を過ぎても続いた。
平氏軍は少しずつ防御線を押し下げていく。
奈良坂。般若寺。
木津方面から続いていた南都側の抵抗は、奈良の北端まで押し込まれた。
夕刻になるころには、平氏軍が奈良坂と般若寺方面を制圧した。
重衡の軍勢は般若寺周辺へ入る。
東大寺までは遠くない。
それでも戦闘は完全には終わっていなかった。
冬の日が落ちた。
奈良は暗くなった。
そして火が上がった。
夜戦のなかで放たれた火
『平家物語』では、暗くなったため重衡が明かりを取るよう命じ、兵が周囲の民家へ火をつけたとする。
火は風にあおられて広がった。
この描写だけを読めば、大火災は夜戦中の失火だったようにも見える。
同時代の『玉葉』には、戦いが始まる6日前の12月22日、南都の房舎を焼くという情報がすでに記されている。
少なくとも建物への放火を伴う攻撃は、出陣前から想定されていた。
ただし、東大寺大仏殿や興福寺の主要伽藍まで焼き尽くす命令が清盛から出されていたことを示す同時代史料は残っていない。
夜の奈良で放たれた火は、戦場の範囲を越えて広がった。
最初に大きな被害を受けたのが興福寺だった。
中金堂。講堂。五重塔。南円堂。
寺を構成していた主要な堂塔が炎に包まれる。
興福寺は創建以来たびたび火災に遭っているが、治承4年の火災はそのなかでも最大規模となった。
炎はさらに東大寺へ迫った。
東大寺大仏殿が燃える
東大寺は奈良時代、聖武天皇の発願によって造営された。
天平勝宝4年(752年)には盧舎那大仏の開眼供養が行われている。
その大仏を覆っていた巨大な大仏殿が、1180年12月28日の夜に燃えた。
堂内へ火が入り、木造の大仏殿が炎に包まれる。
盧舎那大仏も熱を受け、大きく損傷した。
被害は大仏殿だけにとどまらない。
東大寺の主要な堂舎の多くが失われた。
『平家物語』など後世の物語では、老人、女性、子どもまで大仏殿へ逃げ込み、1700余人が焼死したと語られる。
1700という人数をそのまま確認できる同時代史料はない。
それでも寺院だけが焼けたわけではなかった。
戦場となった奈良には僧侶だけでなく、寺院に属して暮らす人々や周辺の住民もいた。
夜間の戦闘と火災のなかで、多数の人が巻き込まれた。
東大寺。興福寺。
その周囲に広がる僧房や民家。
28日の夜、奈良の北から中心部へかけて炎が広がった。
翌朝、その知らせが京都へ届く。
12月29日――「凡そ言語の及ぶ所にあらず」
京都にいた九条兼実は、南都から届いた知らせを『玉葉』へ書き残した。
兼実にとって興福寺は特別な寺だった。
藤原氏の氏寺である。
その興福寺が焼けた。東大寺も焼けた。
報告を聞いた兼実は、その衝撃を日記に記した。
「凡そ言語の及ぶ所にあらず」
さらに「心神、屠るが如し」と記し、天を仰ぎ、地に伏して泣いた。
奈良で勝敗が決したことより、東大寺と興福寺が失われたことの方が、京都の公卿に強烈な衝撃を与えた。
重衡軍は南都側の抵抗を破った。
しかし、その戦果とともに語られたのは焼け落ちた寺院だった。
討ち取った南都側の首も京都へ運ばれた。
『山槐記』には49の首が持ち帰られたとある。
ところが、それを獄門にかけることは見送られた。
南都を破った直後の京都には、勝利を誇示できるような空気がなかった。
なぜ平重衡の名が「南都焼討」と結びついたのか
南都への出兵を決めたのは平氏政権だった。
その軍勢を率いた大将が重衡である。
出陣前の段階で、南都側の人物を捕らえ、房舎を焼く方針が京都へ伝わっていた。
12月28日には実際に奈良坂と般若寺を攻め、夜になると火が放たれた。
ここまでは同時代史料と軍記を照らしながら追うことができる。
一方、東大寺大仏殿と興福寺の主要伽藍まで焼き尽くすことが、最初から重衡に命じられていたのかは分からない。
『平家物語』は、重衡が夜戦の明かりを求めたことから火災が広がったと描いた。
別系統の『平家物語』では放火をより強く意識した描写も残る。
確かなのは、重衡が率いる軍勢の攻撃によって南都で大規模な火災が起こり、東大寺と興福寺が壊滅的な被害を受けたことである。
そのため重衡は、のちに「南都を焼いた大将」として記憶されることになった。
その記憶は、平氏が滅亡したあとまで消えなかった。
一ノ谷で捕らえられた重衡
寿永3年(1184年)2月7日。
摂津・播磨の境で一ノ谷の戦いが起こる。
源範頼、源義経らの軍勢に敗れ、平氏軍は海上へ逃れた。
重衡は逃げ切れなかった。
生田の森付近から退く途中で馬を失い、源氏方に捕らえられる。
南都焼討から3年余りが過ぎていた。
重衡は京都で人々の目にさらされたのち、鎌倉へ送られる。
源頼朝は重衡を丁重に扱った。
やがて元暦2年・文治元年(1185年)3月、壇ノ浦で平氏が滅亡する。
重衡は生き残った。
しかし南都は、1180年の出来事を忘れていなかった。
東大寺と興福寺から、重衡の身柄を求める声が上がる。
頼朝のもとから京都へ戻された重衡は、南都へ引き渡されることになった。
4年半後、同じ奈良への道を進む
文治元年(1185年)6月23日。
重衡は奈良へ向けて送られた。
南都攻撃のとき、重衡は京都から宇治、木津を通って奈良へ向かった。
今度は捕虜として同じ方面へ進んだ。
木津川付近で重衡は斬られた。
数え29歳。
首は奈良へ運ばれた。
『平家物語』では、般若寺の大鳥居に重衡の首がさらされたと語られる。
1180年12月28日、24歳の重衡は大将として般若寺周辺へ軍勢を進めた。
4年半後、29歳になった重衡は捕らわれた身で再びこの地へ送られた。
そのころ、焼けた東大寺ではすでに再建が進んでいた。
焼けた大仏を再び造る
南都焼討の翌年、養和元年(1181年)、俊乗房重源が東大寺再建の大勧進となった。
このとき重源は数え61歳。
重源は各地を歩いて寄付を集め、東大寺再建を進める。
最大の課題は、火災で損傷した盧舎那大仏だった。
巨大な仏像を修復するには大量の銅が必要となる。
さらに大仏殿を再建するための巨大な木材、運搬する人員、資金も集めなければならなかった。
重源は宋の建築技術も取り入れながら事業を進めた。
文治元年(1185年)8月。
修復された大仏の開眼供養が行われる。
導師を務めたのは後白河法皇だった。
重衡が木津川付近で処刑されてから、およそ2か月後である。
大仏殿そのものの再建には、さらに時間がかかった。
建久6年(1195年)、東大寺大仏殿の落慶供養が行われる。
そこには鎌倉から上洛してきた源頼朝も参列した。
1180年12月28日に焼け落ちた東大寺は、15年をかけて再び巨大な伽藍を立ち上げた。
興福寺でも再建が進められ、失われた堂塔が順次建て直されていく。
奈良の寺院は再び姿を取り戻していった。
一方、治承4年の内乱は終わらなかった。
南都が燃えた翌1181年、閏2月4日に平清盛が死去する。
3月には平氏の大軍が尾張へ進んだ。
迎え撃つのは源行家ら源氏勢力。
次の大きな戦場は、尾張と美濃の境を流れる墨俣川だった。


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