第14回
672年7月22日、大海人皇子の軍が瀬田川へ到達した。
川の西側には、大友皇子と近江朝廷の群臣がいた。
『日本書紀』は、軍勢の後方が見えないほど兵が並び、旗が野を覆い、鉦や鼓の音が響いたと記している。
大軍を印象づける表現を含むとはいえ、近江朝廷が都の目前に残る兵力を集めた様子が伝わってくる。
瀬田川を越えれば近江大津宮は近い。
橋を守る近江軍の先鋒は智尊だった。
橋の途中には板を使った仕掛けが設けられ、渡ろうとする大海人皇子軍を矢が迎えた。狭い橋の上で進撃は止まる。
そこで大分君稚臣が前へ出た。
長い矛を捨て、鎧を重ねて着け、刀を抜いて橋へ走る。
矢を受けながら板を渡り、仕掛けにつながった綱を切って敵陣へ入ったと『日本書紀』は伝える。
近江軍が崩れ始めた。
智尊は退く味方を斬って押し戻そうとしたものの、流れを止められず、自らも橋の近くで討たれた。
大友皇子は瀬田を離れた。
翌23日、逃げる場所を失った皇子は「山前」で自ら首をくくる。
壬申の乱の最後を飾る瀬田橋の戦いだった。
現在の瀬田唐橋から約80メートル南の川底では、7世紀中頃とみられる古代橋の橋脚遺構も確認されている。
大海人皇子が吉野を出たのは6月24日。
瀬田橋の激闘まで、一か月にも満たない。
その短い期間に、大和、伊賀、近江の各地で激しい戦闘が続いていた。
7月2日、不破から軍勢が動く
6月27日までに大海人皇子は美濃へ入り、野上周辺に本拠を置いた。
先行していた村国連男依らは美濃で3000人を集め、不破道を押さえている。
伊賀、伊勢からも兵が加わり、東海道と東山道の諸国にも徴兵の使者が走っていた。
7月2日、大海人皇子は軍勢を二方向へ送り出す。
大和方面を任されたのは、紀臣阿閉麻呂、多臣品治、三輪君子首、置始連菟らだった。
もう一軍は近江へ向かう。
村国連男依、書首根麻呂、和珥部臣君手、胆香瓦臣安倍らが率い、不破から琵琶湖東岸を進んで大津を目指した。
『日本書紀』は双方の兵をそれぞれ「数万」と記している。
7世紀の軍勢について、名簿や兵站記録から実人数を確かめることはできない。
ここでは『日本書紀』が大規模な軍勢として記録していることを押さえておけばよい。
兵士たちは衣服の上に赤い印をつけた。
同じ地域の人間同士が戦い、武具にも大きな違いがない内乱である。
混戦になったとき、味方を見分けるための印だった。
大海人皇子自身は野上に残った。
近江へ向かう軍を村国男依、大和の戦いを大伴吹負らが担い、各地で別々の戦闘が始まっていく。
不破へ向かうはずだった近江軍
近江朝廷も大軍を集めていた。
山部王、蘇我臣果安、巨勢臣比等らが率いる軍勢が犬上川付近に集結する。
現在の彦根市周辺である。
不破へ向かい、大海人皇子軍の中心を攻める軍だったとみられる。
ところが出発前に軍中で異変が起きた。
山部王が蘇我果安と巨勢比等によって殺された。
理由は『日本書紀』にも記されていない。
軍は混乱し、進むことができなくなった。蘇我果安も犬上から戻った後、自ら首を刺して死んだとされる。
羽田公矢国とその子・大人も一族を率いて大海人皇子側へ移った。
近江朝廷が不破へ送り込もうとしていた軍は、この段階で大きくつまずいた。
そのころ大和では、近江側の軍が大海人皇子方を追い詰めていた。
飛鳥を押さえた大伴吹負
大和で動いた中心人物が大伴連吹負だった。
6月29日、吹負は飛鳥にあった近江朝廷側の軍営を掌握している。
『日本書紀』によれば、吹負は高市皇子が不破から来るという情報を利用して軍営を動揺させ、十数騎ほどで乗り込んだ。
近江側で徴兵に携わっていた穂積臣百足は殺され、高坂王らも吹負の軍に組み込まれた。
飛鳥周辺の兵も次第に集まり、吹負は大海人皇子から将軍に任じられた。
三輪君高市麻呂、鴨君蝦夷らも加わる。
ここで飛鳥を押さえたとはいえ、河内からは近江軍が近づいていた。
7月1日、吹負は大和盆地西側の道へ兵を出す。
竜田には坂本臣財ら300人。
大坂には佐味君少麻呂ら数百人。
石手道にも鴨君蝦夷ら数百人を置いた。
河内から大和へ入る道を分担して守らせたのである。
奈良県の資料でも、吹負方が大坂などの交通路へ兵を配置して近江軍を迎えた経過が確認できる。
近江軍はすでに河内まで来ていた。
壱伎史韓国らの軍と戦った吹負側の部隊は押し戻される。
大和戦線では、近江側が先に攻勢へ出た。
7月4日、奈良山で大敗する
大伴吹負は奈良盆地の北へ向かった。
7月3日、乃楽山に陣を置く。
飛鳥の守りを心配した荒田尾直赤麻呂は、古京へ兵を戻すよう進言した。
吹負は赤麻呂と忌部首子人を戻し、二人は道路の橋板を外して楯にし、町の辻々に並べたという。
翌4日、乃楽山へ近江軍が現れた。
率いるのは大野君果安。
戦闘は近江軍が制した。
吹負軍の兵は散り、吹負自身も逃れた。
『日本書紀』も、この戦いについては大野果安が吹負を破ったとはっきり書いている。
果安は逃げる軍を追って南へ向かった。
飛鳥が見える場所まで進んだところで、町の各所に立つ楯が目に入った。
先ほど赤麻呂らが並べていたものだった。
果安は伏兵を警戒して軍を引いた。
本当に大軍が隠れていたという記録はない。
奈良山で勝利した近江軍は、そこで追撃を止めた。
吹負は飛鳥を完全に失わずに済み、南へ退いて散った兵を集め始める。
田辺小隅、夜の山道を進む
奈良山で吹負が敗れた翌日、今度は伊賀方面で近江軍が動いた。
7月5日の夜。
近江方の将・田辺小隅は鹿深の山を越え、倉歴へ向かった。
この夜襲について、『日本書紀』は細かな描写を残している。
小隅軍は旗を巻いた。
鼓も抱え、音を出さないようにする。
さらに人と馬に「枚」を含ませた。
口にくわえて声や馬のいななきを抑えるためのもので、軍勢は気配を消したまま山道を進んだ。
真夜中、小隅軍が田中臣足麻呂の陣へ入る。
暗闇では敵味方の区別がつかない。
小隅軍は「金」を合言葉にした。
出会った相手に「金」と言わせ、答えられない者を敵として斬った。
田中足麻呂は合言葉に気づき、自分も「金」と答えて逃れたという。
近江軍が周到に準備した夜襲だった。
翌6日、小隅は莿萩野へ進む。
そこには多臣品治が3000人を率いていた。
今度は品治軍が小隅を迎え撃ち、精兵を使って追撃した。
『日本書紀』では、小隅は一人で逃れ、その後この方面へ姿を見せなかったと記されている。
近江方には、夜襲によって大海人皇子側の陣を崩すほどの将もいた。
戦況が明確に傾き始めるのは、琵琶湖東岸で村国男依が進撃を続けるようになってからだった。
7月7日、息長横河
村国男依らは不破から西へ進んだ。
7月7日、息長の横河で近江軍とぶつかる。
現在の滋賀県米原市周辺に比定されている。
近江方の将は境部連薬。
村国男依軍が勝ち、境部薬は戦死した。
7月9日には鳥籠山で再び戦う。
場所については現在も確定していないが、彦根市周辺の山地に求める説がある。
ここでも村国男依軍が近江方を破り、秦友足を討った。
さらに13日、安河の浜へ進む。
安河は現在の野洲川にあたる。
村国男依軍は近江軍を破り、社戸臣大口と土師連千嶋を捕らえた。
17日には栗太の軍を攻め、そのまま南へ追う。
不破から始まった進軍は、息長、鳥籠山、安河、栗太と琵琶湖東岸を南へ進み、大津へ近づいていった。
大和の戦況も、このころから変わる。
奈良山で敗れた吹負に援軍が届く
乃楽山から逃れた大伴吹負は南へ退った。
墨坂付近まで来たところで、東から軍勢が現れる。
置始連菟が率いる1000騎余りだった。
大和へ向かっていた紀阿閉麻呂らが吹負の敗北を知り、急いで援軍を分けたのである。
吹負は金綱井付近へ移り、散った兵を集め直した。
そのころ壱伎史韓国の近江軍も、大坂道から大和へ入っていた。
吹負は西へ向かって迎え撃つ。
当麻付近で戦闘になった。
『日本書紀』では、来目という兵が刀を抜き、馬を走らせて敵陣へ入ったとされる。
騎兵が後に続き、近江軍は退いた。
壱伎韓国も逃走した。
数日前、奈良山で兵を失った吹負軍は、東から来た援軍を得て再び動けるようになった。
上ツ道・中ツ道・下ツ道
戦場は大和盆地へ広がった。
盆地には南北を結ぶ主要道路として、上ツ道、中ツ道、下ツ道が通っていた。
近江軍もこれらの道を使って南へ進もうとする。
大海人皇子側は各道に兵を置いて迎え撃った。
中ツ道方面では、近江方の犬養連五十君が廬井造鯨へ精兵200人を与え、吹負の本営を襲わせた。
吹負の手元にいた兵は少ない。
『日本書紀』は、大井寺に属していた徳麻呂ら五人が弓を取って抗戦したと記している。
そのころ上ツ道では、三輪君高市麻呂と置始連菟が近江軍と戦っていた。
場所は箸陵。
現在の奈良県桜井市、箸墓古墳の周辺である。
奈良県の紹介でも、壬申の乱で三輪高市麻呂・置始菟の軍と近江方が箸陵付近で戦ったことが取り上げられている。
近江軍が敗れる。
高市麻呂と菟はそのまま進み、廬井鯨軍の後方へ回った。
吹負軍と戦っていた鯨は背後にも敵を受け、軍勢が崩れた。
白馬で逃れた廬井鯨
廬井鯨は馬で逃げた。
『日本書紀』は、その馬を白馬と記す。
途中で泥田にはまり、動けなくなった。
吹負は逃げる鯨を見つけ、甲斐国出身の兵に追わせた。
追手が迫るなか、鯨が馬を打つと泥から抜け、辛うじて逃げ延びたという。
勇士の働きや追撃の細部まで、そのまま当日の記録と考えるのは難しい。壬申紀には、個人の武勇を際立たせる場面が何度も現れる。
戦況として読み取れるのは、箸陵周辺で近江方が敗れ、大和への進撃を維持できなくなったことである。
奈良山では大伴吹負が敗走した。
そこへ1000騎余りの援軍が入り、当麻、箸陵と戦いを重ねるうちに大和の戦線は持ち直していった。
近江でも村国男依軍が南下を続けている。
両方の戦場で、近江朝廷の軍が押し戻され始めていた。
野洲川から栗太へ
7月13日の安河の戦いを終えた村国男依軍は、さらに南へ進んだ。
17日には栗太の近江軍を攻める。
栗太は現在の栗東市、草津市周辺を含む地域である。
その先には瀬田川が流れていた。
瀬田川を越えれば大津へ入る。
天智天皇が667年に移した近江大津宮も近い。
大津宮の所在地は長く分からなかったが、1974年以降の発掘によって大津市錦織地区から内裏南門、正殿、後殿、回廊などが確認され、宮の中枢部が明らかになっている。
村国男依軍は、その近江朝廷の中心へ東から近づいていた。
大友皇子も瀬田へ出る。
7月22日、両軍が橋を挟んで向き合った。
瀬田橋を守った智尊
近江軍は橋の西に陣を置いた。
大友皇子と群臣もそこにいた。
先鋒を任された智尊は、橋に仕掛けを作った。
『日本書紀』には橋の中央部を切り、長い板を渡していたとある。
敵兵が板に乗れば綱を引き、川へ落とす仕組みだった。
板の向こうには近江兵。
正面から矢が飛んでくる。
川の上では左右へ逃げることもできない。
村国男依軍は前へ出られなくなった。
大分君稚臣が長い矛を捨てた。
鎧を重ね、刀を抜く。
板へ走り込み、矢を受けながら綱を切った。
さらに近江軍の中へ踏み込んだと『日本書紀』は描く。
一人の勇士の行動に焦点を当てた描写には、戦記らしい誇張も考えられる。
戦闘の結果はその直後に続く。
橋を守る近江兵が崩れた。
智尊は逃げる兵を斬り、陣へ戻そうとする。
止まらなかった。
智尊も橋のそばで討たれる。
大友皇子、左右大臣らは瀬田を離れた。
村国男依軍は橋を渡り、粟津岡付近まで進んだ。
近江大津宮の南まで来ていた。
大津市歴史博物館も、壬申の乱の決着に至る戦いとして瀬田橋を位置づけている。
7月23日、大友皇子の最期
翌23日。
村国男依らは粟津市で、犬養連五十君と谷直塩手を討った。
五十君は大和方面でも近江軍を率いていた人物である。
近江朝廷の軍勢は散り、大友皇子の周囲からも人が離れていった。
『日本書紀』によれば、最後まで従ったのは物部連麻呂と一、二人の舎人だけだった。
大友皇子は山前へ逃れる。
そこで自ら首をくくった。
25歳になる年だった。
「山前」がどこを指すのかは決まっていない。
山城国乙訓郡の大山崎周辺に求める説、大津周辺に求める説などがあり、大友皇子がどこで死んだのかを現在の地名まで絞るのは難しい。
大友皇子には明治3年(1870年)になって「弘文天皇」の追号が贈られた。
『日本書紀』には大友皇子が天皇に即位した記事がないため、672年当時の身分については長く議論が続いている。
本記事では戦争当時の呼称として大友皇子を用いる。
大和の戦いも終わる
瀬田橋で戦闘が行われた7月22日、大和でも軍事行動が終盤に入っていた。
大伴吹負は大和を平定すると、大坂を越えて難波へ向かった。
吹負以外の将たちは上ツ道、中ツ道、下ツ道を北へ進み、山前まで到達する。
吹負は難波小郡に入り、西国の国司たちへ官鑰、駅鈴、伝印を差し出させた。
官鑰は官の倉庫を管理する鍵。
駅鈴や伝印は、官の交通制度を使うための権限にかかわる。
戦場で敵軍を退ける動きと並んで、近江朝廷が持っていた地方支配や交通の権限も大海人皇子側へ移り始めていた。
24日には各方面の将が近江へ集まる。
26日、大友皇子の首が不破へ運ばれ、大海人皇子のもとへ届けられた。
6月24日、大海人皇子が吉野を出たとき、そばにいた男性は二十人余りだった。
そこから一か月余り。
壬申の乱の主要な戦闘は終わった。
敗れた近江朝廷の人々
8月、大海人皇子は近江朝廷に仕えていた人々の処分を進めた。
右大臣の中臣連金は浅井の田根で処刑された。
左大臣蘇我臣赤兄、巨勢臣比等とその子孫、中臣金の子、すでに自害していた蘇我果安の子らは流罪となった。
ほかの者の多くは赦されている。
大海人皇子側で戦った者には褒賞が与えられた。
村国男依、大伴吹負、紀阿閉麻呂、置始菟、多品治。
美濃、伊勢、伊賀、大和、近江で兵を率いた人々が、新しい政権の中へ入っていく。
9月8日、大海人皇子は不破を発った。
桑名、鈴鹿、阿閉、名張を通り、西へ進む。
6月に吉野を出たときにも通った道だった。
12日、飛鳥へ帰る。
その年の冬には飛鳥浄御原宮へ移った。
翌673年2月、大海人皇子は即位する。
天武天皇である。
天智天皇が近江へ移していた政治の中心は、再び飛鳥へ戻った。
白村江の戦いから9年。
朝鮮半島での敗戦を経験した天智政権の末期に起きた内乱を経て、天武天皇の時代が始まる。
この後、天武と鸕野讚良皇女、のちの持統天皇を中心に、官制、皇族秩序、法制、都城、歴史編纂へとつながる動きが進んでいく。
壬申の乱で戦った村国男依や大伴吹負らの名も、その新しい政権の記憶の中に残されることになった。
白村江の戦いを、東アジア全体からもう少し深く知りたい方へ
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