第25回
774年、海道蝦夷が桃生城を襲撃した。
伊治公呰麻呂の乱、阿弖流為が朝廷軍を破った巣伏の戦い、坂上田村麻呂の遠征、胆沢城造営、811年の文室綿麻呂による征討まで、38年間に及んだ朝廷と蝦夷の戦いを追う。
宝亀5年(774年)7月25日。
陸奥国から朝廷へ、海道の蝦夷が兵を集めて蜂起したとの報告が届いた。
蝦夷側は橋を焼き、道を塞いで往来を断ち、桃生城へ攻め込んだ。
『続日本紀』は「桃生城を侵して其の西郭を敗る」と記す。
朝廷が陸奥北部へ進出するために築いた城柵が襲われ、その西郭が破られた。
この桃生城襲撃から弘仁2年(811年)まで、東北では朝廷と蝦夷をめぐる軍事衝突が繰り返される。
38年。
後世の研究で「三十八年戦争」と呼ばれる長期抗争の始まりだった。
774年――海道蝦夷が桃生城を襲う
桃生城は、現在の宮城県石巻市に置かれていた城柵である。
城柵は軍事拠点であると同時に、朝廷が東北を統治するための行政拠点でもあった。
8世紀の朝廷は陸奥・出羽に城柵を築き、坂東などから人々を移住させながら北方への進出を続けていた。
桃生城は、その最前線に位置していた。
海道蝦夷は橋を焼き、街道を遮断してから城へ攻め込んだ。
交通路を断ち、西郭を破る。
朝廷の城柵と、それを支える交通網が攻撃対象となった。
朝廷は坂東諸国へ援兵の準備を命じ、陸奥での軍事行動を強めていく。
776年――胆沢への攻撃
宝亀7年(776年)11月、朝廷は陸奥国の軍士3000人を動員し、胆沢の蝦夷を攻撃した。
現在の岩手県奥州市周辺にあたる胆沢が、朝廷の征討対象として史料に現れる。
後に阿弖流為の拠点として知られる地域である。
この時期、陸奥と出羽では蝦夷との衝突が続き、坂東諸国から兵士や武器、食糧が送り込まれた。
朝廷は城柵を築き、道路を整え、人々を移住させながら北方への進出を進めていた。
4年後、その支配体制の内部にいた伊治公呰麻呂が反乱を起こす。
780年――伊治公呰麻呂、多賀城を焼く
宝亀11年(780年)3月22日。
伊治城で大事件が起きた。
反乱を起こしたのは伊治公呰麻呂である。
呰麻呂は朝廷に従っていた蝦夷の有力者で、栗原郡の大領を務めていた。
宝亀9年(778年)には蝦夷征討での戦功によって外従五位下を与えられている。
その呰麻呂が、伊治城で按察使の紀広純と牡鹿郡大領の道嶋大楯を殺害した。
『続日本紀』は、道嶋大楯が呰麻呂を「夷俘」としてたびたび侮っていたことを記している。
反乱軍はさらに南へ向かった。
目標となったのは、陸奥国府であり東北支配の中心だった多賀城である。
多賀城にいた大伴真綱らは城を捨てて逃れた。
数日後、呰麻呂の軍勢が城へ入り、府庫に蓄えられていた物資を奪い、残った物に火を放った。
東北支配の中心だった多賀城は炎上した。
朝廷の郡司から反乱の指導者へ
呰麻呂はもともと朝廷の郡司を務め、位階を与えられ、朝廷軍の一員として蝦夷征討にも参加していた。
8世紀の東北には各地に有力者が存在し、朝廷との関係もそれぞれ異なっていた。
朝廷に協力して地位を得る者もいれば、後にその支配から離反する者もいた。
伊治公呰麻呂の反乱は、朝廷が築きつつあった北方支配の内部から起こった大規模な反乱だった。
781年――桓武天皇即位
天応元年(781年)、桓武天皇が即位した。
東北では伊治公呰麻呂の乱後も緊張が続いていた。
桓武朝は数年をかけて大規模な遠征の準備を進める。
延暦7年(788年)3月には諸国から歩兵・騎兵5万2800余人を徴発し、翌年3月までに多賀城へ集結させるよう命令が出された。
陸奥国には軍粮3万5000余斛、東海・東山・北陸諸国には糒2万3000余斛などの輸送も命じられた。
数万人の兵士と大量の兵糧が、胆沢への遠征に向けて動き始めた。
789年――4000人の朝廷軍が進む
延暦8年(789年)。
征東大将軍・紀古佐美の軍は胆沢を目指した。
5万2800余人という数字は、遠征に向けて徴発された軍勢全体の規模である。
実際に巣伏方面へ進んだ部隊は、その一部だった。
中軍と後軍から各2000人、合わせて4000人が前進する。
目標は胆沢の奥へ進むことだった。
朝廷軍が阿弖流為の居所付近へ到達すると、約300人の蝦夷軍が現れた。
朝廷軍が攻撃すると蝦夷軍は退いた。
官軍は追撃を続け、蝦夷側の集落を焼きながら巣伏村へ向かった。
その先で戦況が一変した。
巣伏の戦い――前後から襲われた4000人
朝廷軍は巣伏村で、別方向から進んでいた前軍と合流する予定だった。
前軍は北上川の対岸にとどまっていた。
その間に、4000人の朝廷軍の前方へ約800人の蝦夷軍が現れる。
激しい戦闘が始まり、朝廷軍は押し戻された。
さらに東側の山から約400人の蝦夷軍が現れ、後方を遮断した。
前方に約800人。
後方に約400人。
合流するはずだった前軍は北上川の向こうにいる。
朝廷軍は前後から攻撃を受け、隊列を崩した。
『続日本紀』は戦闘後の状況を、戦死25人、矢傷245人、北上川に入って溺死した者1036人、裸身で泳いで帰還した者1257人と記している。
別将の丈部善理、高田道成、会津壮麻呂、安宿戸吉足、大伴五百継らも戦死した。
朝廷軍が焼いた蝦夷側の集落は14村、家屋は約800戸と報告された。
胆沢攻略を狙った紀古佐美の遠征は、巣伏で大きな損害を受けた。
阿弖流為の名が史料に刻まれる
この戦いの記事に、阿弖流為の名が現れる。
『続日本紀』は「賊帥夷阿弖流為」と記す。
朝廷軍が阿弖流為の「居」に近づいたところで、約300人の蝦夷が迎撃したという。
現存史料が伝える阿弖流為の具体的な動向は、789年の巣伏と、13年後となる802年の降伏・処刑に集中している。
人物としての阿弖流為については人物編で詳しく扱い、ここでは三十八年戦争の中での動きを追う。
791年――再び始まる胆沢遠征
巣伏で大きな損害を受けた朝廷は、再び胆沢への遠征を準備した。
延暦10年(791年)、大伴弟麻呂が征東大使となり、坂上田村麻呂らが副使に任じられた。
延暦12年(793年)には「征東使」という名称が「征夷使」へ改められる。
翌延暦13年(794年)、大伴弟麻呂を大将軍とする遠征軍が東北へ向かった。
6月には坂上田村麻呂らが蝦夷と戦い、10月、大伴弟麻呂が朝廷へ戦果を報告した。
斬首457。
捕虜150人。
馬85頭。
焼いた拠点75か所。
朝廷側の奏上に残された数字である。
794年の遠征後も、朝廷は胆沢への進出を続けた。
797年――坂上田村麻呂、征夷大将軍へ
延暦16年(797年)、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられた。
789年の巣伏から8年が経っていた。
延暦20年(801年)、田村麻呂は再び東北へ向かう。
遠征軍は軍士4万人、軍監5人、軍曹32人という大規模な陣容だった。
801年の戦闘経過を伝える史料は限られている。
この時代を記録した『日本後紀』の一部が散逸しているためである。
現存する『日本紀略』には、同年9月、田村麻呂が「夷賊を討伏す」と報告したことが記されている。
現存史料からたどれるのは、この戦果奏上までである。
802年――胆沢城が築かれる
延暦21年(802年)、朝廷は胆沢に新たな拠点を築いた。
胆沢城である。
現在の岩手県奥州市に築かれた城柵で、一辺約670メートルという大規模な施設だった。
正月には駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野から浪人4000人を胆沢城へ移すことが命じられた。
坂上田村麻呂が造営した胆沢城には、大同3年(808年)までに多賀城から鎮守府が移された。
以後、陸奥北部を統治する政治・軍事拠点として長く機能する。
軍勢による遠征とともに、城柵と人々を配置して地域を継続的に統治する体制が胆沢に築かれた。
阿弖流為と母礼、500余人を率いて降伏
同年4月15日。
大墓公阿弖流為と盤具公母礼が500余人を率いて降伏した。
789年、巣伏で朝廷軍を破った阿弖流為が再び史料に姿を現す。
7月、坂上田村麻呂は阿弖流為と母礼を伴って都へ入った。
田村麻呂らは二人を奥地へ帰し、現地の蝦夷を帰服させるために使う案を朝廷へ提出した。
公卿たちは、二人を奥地へ放還すれば将来の禍を残すと反対した。
8月13日。
阿弖流為と母礼は河内国杜山で処刑された。
胆沢ではその一方で城柵の整備が進み、朝廷の新たな支配拠点が形を整えていた。
803年――志波城へ
翌延暦22年(803年)、朝廷は胆沢よりさらに北へ拠点を進めた。
志波城である。
現在の岩手県盛岡市に置かれた城柵で、坂上田村麻呂が造営使となった。
胆沢城の造営からわずか1年後だった。
桃生城、伊治城、多賀城、胆沢城、志波城。
8世紀から9世紀初頭にかけて、朝廷の政治・軍事拠点は北上川流域を北へ進んでいった。
その背後では兵士や兵糧が送り込まれ、多くの人々が各地から移住させられていた。
805年――「軍事と造作」の停廃
延暦24年(805年)12月、朝廷内部で大きな政策論争が行われた。
藤原緒嗣と菅野真道による徳政相論である。
問題となったのは、長く続く軍事行動と都城造営だった。
蝦夷征討と平安京の造営には、多くの兵士、労働力、食糧、輸送力が投入されていた。
藤原緒嗣は、天下の人々を苦しめているものとして「軍事と造作」を挙げ、この二つを止めれば百姓は安らぐと主張した。
桓武天皇は緒嗣の意見を採用し、停廃を決めた。
桓武朝が進めてきた大規模な征夷政策は、ここで一つの区切りを迎えた。
811年――文室綿麻呂、爾薩体・幣伊へ
弘仁2年(811年)。
嵯峨天皇の時代に、東北で再び大規模な軍事行動が行われた。
朝廷が攻撃対象としたのは、爾薩体と幣伊の蝦夷である。
文室綿麻呂らは、陸奥・出羽両国の兵を合わせて2万6000人動員する計画を奏上した。
この戦いでは、朝廷に帰順した俘囚も戦力として動員された。
出羽守大伴今人は勇敢な俘囚300余人を率い、雪の中を進んで爾薩体を奇襲した。
『日本後紀』は、この攻撃で60余人を殺したと記す。
同年、文室綿麻呂が征夷将軍に任じられた。
幣伊方面への軍事行動も進み、10月には朝廷へ戦果が報告された。
『日本後紀』には、
「斬獲稍多く、帰降少なからず」
と記されている。
討ち取った者や捕虜が多く、帰順者も少なくなかったという報告である。
捕らえられた人々の一部は、故郷から離れた地域へ移されていった。
「宝亀五年より当年に至るまで、惣て卅八歳」
弘仁2年(811年)閏12月。
文室綿麻呂は、長く続いた東北での軍事動員について朝廷へ奏上した。
その中に、この時代を象徴する一文が残されている。
「宝亀五年より当年に至るまで、惣て卅八歳」
宝亀5年。
西暦774年。
海道蝦夷が桃生城を襲撃した年である。
そこから弘仁2年(811年)まで、38年。
綿麻呂は、この間に辺境で戦乱が繰り返され、警備が絶えることなく続き、壮年も老弱も征兵や物資輸送に疲れ、百姓が困窮していると訴えた。
774年に桃生城の西郭が破られてから38年。
780年には多賀城が炎上し、789年には朝廷軍が巣伏で大きな損害を受けた。
その後も数万規模の軍勢が東北へ送られ、胆沢城と志波城が築かれ、阿弖流為と母礼は降伏後に処刑された。
38年間に及ぶ軍事動員と輸送の負担は、人々を疲弊させていた。
その末に、朝廷側の記録自身が「卅八歳」という歳月を刻んだ。
774年の桃生城襲撃から続いた長期抗争は、811年、その38年間を振り返る文室綿麻呂の奏上とともに一つの節目を迎えた。
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今回の記事で紹介した蝦夷征討や阿弖流為について、さらに詳しく知りたい方には、関連書籍もおすすめです。
『阿弖流為――夷俘と号すること莫かるべし』
阿弖流為の生涯だけでなく、蝦夷の社会、桃生城襲撃、伊治公呰麻呂の乱、延暦年間の征夷、胆沢の戦い、そして阿弖流為の最期まで詳しく扱った一冊です。

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