【戦い・事件編】平将門の乱(前編)――反乱の原因とは? 935年の一族争いから常陸国府襲撃へ

戦い・事件

第53回

天慶2年(939)11月21日。

平将門は千余の兵を率い、常陸国府へ進んだ。

迎え撃った常陸国府側の兵は、『将門記』によれば3,000人。兵数では国府側が上回っていた。

戦いは将門軍の勝利に終わる。

常陸介・藤原維幾は捕らえられ、将門は国司の支配を象徴する印鎰を手にした。

さらに下野、上野へ兵を進め、12月19日には「新皇」を称する。

朝廷の地方支配を揺るがした平将門の乱である。

その4年余り前、将門が戦っていた相手は常陸国の有力者・源護の一族と、同じ桓武平氏につながる人々だった。

935年の戦いから平国香の死、平良兼との激戦、京都での裁判、平貞盛との追撃戦、武蔵国の紛争への介入へと、将門を取り巻く争いは広がっていく。

そして939年。

坂東の一族抗争を戦ってきた将門は、ついに朝廷が置いた国府を武力で制圧した。

平将門は、なぜここまで進んだのか。

その始まりは、承平5年(935)の常陸国にあった。

1.坂東に広がった桓武平氏

平将門は、桓武天皇の子孫にあたる桓武平氏の一族である。

祖父は平高望。父については平良将、または良持とする伝承が残る。

将門は下総国北部の豊田郡・猿島郡を中心に勢力を築いていた。現在の茨城県西部にあたり、鬼怒川や利根川水系が広がる地域である。

その周囲には平国香、平良兼、平良正ら一族の有力者がいた。

平氏一族は坂東各地に根を下ろし、土地を開発しながら在地の有力者や国司と関係を築き、それぞれ独自の勢力を形成していた。

血縁で結ばれた一族の内部にも、土地、婚姻、在地支配をめぐる利害が存在した。

将門と伯父たちの関係も次第に悪化する。

平将門の乱を詳しく伝える『将門記』は現存本文の冒頭部分を欠いているため、争いが始まった事情の全貌は分からない。

その対立が大規模な武力衝突として現れるのが、935年だった。

2.935年2月――野本の戦い

承平5年(935)2月。

将門は常陸国で、源護の子である源扶・源隆・源繁らの軍勢と衝突した。

源護は常陸国西部に勢力を持つ有力者で、平氏一族とも婚姻を通じて深い関係を結んでいた。

『将門記』によれば、源扶らは野本付近に陣を敷き、将門を待ち受けた。

敵軍を確認した将門は進退に迷ったものの、戦闘が始まると風上を取り、矢を浴びせた。

源扶らの軍勢は崩れた。

扶・隆・繁はこの一連の戦いで命を落とす。

2月4日、将門はさらに攻勢を続け、野本・石田・大串・取木などへ進んだ。

『将門記』は、筑波・真壁・新治の3郡で500余りの家が焼かれたと記している。

この戦いでは、将門の伯父・平国香も死亡した。

平氏一族の有力者だった国香の死によって、将門をめぐる争いはさらに深まっていく。

3.平国香の死――平貞盛が坂東へ戻る

国香には平貞盛という息子がいた。

父が死亡した時期、貞盛は京都にいた。

国香の死を知った貞盛は坂東へ戻る。

後に藤原秀郷とともに将門を討つ人物である。

このころの貞盛は京都で官人として生きる道も持っており、将門との全面的な戦争を続けることだけが目的だったわけではなかった。

一方、将門との戦いを進めたのが平良正だった。

承平5年(935)10月21日。

良正は兵を集め、新治郡川曲村で将門と戦った。

将門軍が勝利し、良正は敗走する。

良正が助力を求めた相手が平良兼だった。

良兼も将門の伯父にあたる。

源護一族との戦闘から始まった争いは、将門と平氏一族との本格的な抗争へ広がっていった。

4.936年6月――良兼軍を下野国府まで追う

承平6年(936)6月27日。

平良兼は良正や貞盛らと合流し、将門と戦った。

『将門記』では、良兼側には千余の兵がいたと記される。

将門は良兼軍を破った。

良兼らは敗走し、下野国府へ逃げ込む。

将門軍はそのまま追撃し、国府を包囲した。

国府は国司が政務を行う地方支配の中心地である。

将門は敵を追い詰めながら、包囲の一角を開き、良兼らが逃れる道を残した。

『将門記』には、同族をすべて討てば世間の非難を受けると将門が考えた様子が記されている。

この時の将門は、下野国府そのものの支配権を奪うところまでは進まなかった。

3年後の939年。

同じ将門が国府から印鎰を奪うことになる。

5.936年10月――将門、京都で裁かれる

坂東での戦闘は朝廷にも伝わった。

息子たちを失った源護が、将門を朝廷へ訴えたのである。

承平6年(936)10月17日。

将門は召喚に応じて京都へ向かい、検非違使庁で審理を受けた。

この時期の将門は朝廷の命令に従い、京都で裁きを受ける立場にあった。

翌承平7年(937)4月7日。

朱雀天皇の元服に伴う大赦によって、将門は罪を許された。

将門は坂東へ帰る。

しかし一族の争いは収まらなかった。

帰国した将門を待っていたのは、平良兼との激戦だった。

6.937年8月――将門、相次いで敗れる

承平7年(937)8月6日。

平良兼は常陸国と下総国の境にある子飼の渡付近で将門を攻撃した。

『将門記』によれば、良兼軍は陣頭に一族の祖・高望王と、将門の父・良将の像を掲げた。

同じ一族の祖先を前面に立てた戦いだった。

この日の将門は十分な兵を集められず、敗走する。

良兼軍は将門の勢力圏へ入り、豊田郡栗栖院の常羽御厩などを焼いた。

将門は反撃を準備した。

8月17日。

豊田郡下大方郷の堀越の渡で、再び良兼軍を待ち受ける。

『将門記』は、将門が兵を増やし、鉾370枚を買い集めて戦いに備えたと記している。

ところが合戦の日、将門は突然「脚病」に苦しんだ。

良兼軍が迫ると将門軍は崩れ、再び敗走した。

さらに将門の妻子も良兼側に捕らえられる。

妻は良兼の娘とされ、その後、妻の兄弟たちの手引きによって将門のもとへ戻った。

937年夏。

将門は軍事的にも大きな打撃を受けた。

それでも、その勢力が崩壊することはなかった。

7.石井の営所を襲った夜襲

承平7年(937)12月14日。

良兼は、将門に仕えていた丈部子春丸を味方につけた。

子春丸から石井の営所の内部事情を聞き出し、夜襲を仕掛けたのである。

『将門記』によれば、この時に将門の手元にいた兵は10人にも満たなかった。

将門は自ら弓を取り、良兼軍を迎え撃った。

良兼側の多治良利らを射殺し、夜襲を退ける。

935年以来の争いでは、館への襲撃、放火、家族の捕縛、夜襲が繰り返された。

良兼はやがて勢力を失い、天慶2年(939)に病死する。

将門と一族の有力者たちとの長い抗争は、一つの節目を迎えた。

しかし将門の戦いそのものは、さらに大きな舞台へ進んでいく。

8.938年――平貞盛を信濃まで追撃

天慶元年(938)2月29日。

平貞盛は坂東を離れ、東山道を通って京都へ向かおうとした。

将門はその動きを知ると追撃した。

戦場は坂東を越え、信濃国まで広がる。

信濃国小県郡の国分寺付近で将門軍が貞盛に追いつき、戦闘となった。

貞盛は逃げ延び、京都へ到着する。

そこで朝廷に将門の行動を訴えた。

翌天慶2年(939)2月12日には、太政大臣・藤原忠平のもとでも将門を召喚する動きが起きている。

将門は若いころ京都へ上り、忠平に仕えたと伝わる。

坂東の一族争いは、貞盛の上洛によって再び京都の政治と結びついた。

9.938年から939年――武蔵国の紛争

将門が平氏一族と戦っていたころ、武蔵国でも大きな紛争が起きていた。

天慶元年(938)ごろ、武蔵国の権守・興世王、介・源経基と、足立郡司の武蔵武芝が対立した。

国司側と在地の有力郡司との争いである。

天慶2年(939)3月3日。

将門は調停のため武蔵国へ向かった。

将門の仲介によって興世王と武蔵武芝は和解し、酒宴が開かれる。

その最中、武芝側の兵が源経基の営所を包囲した。

経基は身の危険を感じ、京都へ逃れた。

そして朝廷に、将門や興世王らが謀反を企てていると訴える。

将門はこれに対応した。

5月2日、常陸・下総・下野・武蔵・上野の5か国から得た文書を添え、謀反の事実がないことを藤原忠平へ報告する。

将門の説明は受け入れられ、朝廷がこの時点で将門追討へ動くことはなかった。

939年春の将門は、自らの立場を朝廷へ説明し、謀反の疑いを晴らそうとしていた。

それから半年ほどで状況は一変する。

舞台は常陸国だった。

10.藤原玄明を保護した将門

常陸国では、藤原玄明と国司側の対立が続いていた。

『将門記』は玄明を、国司の命令に従わず、官物などをめぐって問題を起こした人物として描いている。

玄明を追及したのが常陸介・藤原維幾だった。

常陸国は親王任国であり、現地では介が実質的に国務を担っていた。

追われた玄明は将門を頼った。

将門は玄明を受け入れる。

一方、武蔵国で新たな国司と対立した興世王も将門のもとへ身を寄せていた。

国司と対立した人々が、将門の周囲に集まり始めたのである。

常陸国府との対立も深まった。

将門は玄明への追及をやめるよう求めたが、国府側は応じなかった。

『将門記』には、常陸国府との戦いに至った経緯として、玄明をめぐる対立とともに、藤原維幾の子・藤原為憲が将門の宿敵である平貞盛と結んだことを重視する記述も残る。

939年秋。

常陸国府と将門の衝突は避けられない状況へ向かっていた。

11.939年11月21日――常陸国府の戦い

天慶2年(939)11月21日。

将門は兵を率いて常陸国府へ進んだ。

現在の茨城県石岡市付近である。

『将門記』は、将門の随兵を千余人、常陸国府側の国軍を3,000人と記している。

将門は玄明への追及をやめるよう国府側に求めた。

国府側はこれを拒み、両軍は戦闘に入った。

将門軍が勝利する。

常陸介・藤原維幾は捕らえられ、国府周辺では300余りの家が焼けたと『将門記』は伝える。

将門はさらに、国司の支配を象徴する「印鎰」を掌握した。

印は国衙が公文書に用いる国印、鎰は正倉などを管理する鍵を指す。

国印と鍵を奪うことは、その国の行政を担う権限そのものを押さえる行為だった。

935年、将門は野本で源護の子たちと戦った。

936年には良兼らを下野国府まで追い詰めながら、国府の支配権を奪う行動には進まなかった。

それから3年。

将門は常陸国府を制圧し、国司を捕らえ、印鎰を手にした。

一族や在地勢力を相手に続いてきた争いは、この常陸国府の戦いを境に朝廷の地方支配との武力衝突へ変わった。

将門自身の立場も、ここから大きく変わっていく。

12.下野、上野へ――そして「新皇」へ

常陸国府を制圧した将門のもとで、興世王はさらに行動を広げるよう進言した。

『将門記』によれば、一国を奪った時点ですでに罪は重く、それなら坂東全体を掌握して朝廷の出方を見るべきだという趣旨だった。

将門は兵を進める。

12月11日。

将門軍は下野国府へ入った。

下野守・藤原弘雅らは印鎰を差し出し、将門はこれを掌握する。

12月15日には上野国府へ進んだ。

そして12月19日。

上野国府で、一人の巫女が八幡大菩薩の使者として将門に皇位を授けると告げた。

『将門記』は、このあと将門を「新皇」と記す。

将門は弟や従者たちを坂東諸国の国司に任じ、自らの支配体制を整え始めた。

承平5年(935)2月、常陸国で源護の子たちと戦ってから4年10か月。

一族間の武力抗争を戦っていた将門は、坂東諸国の国府を掌握し、「新皇」を称するまでになった。

そのころ京都にも、将門が常陸国府を制圧したという知らせが届いていた。

朝廷は将門追討へ動き出す。

そして坂東では、平国香の子・平貞盛が将門を倒すために動いていた。

そこへ加わったのが、下野国の有力武士・藤原秀郷である。

天慶3年(940)2月。

「新皇」を称してから、わずか2か月。

平将門の最後の戦いが始まる。

――平将門の乱・後編へ続く。

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