【人物編 vol.28】平国香――平将門の叔父、なぜ一族は殺し合ったのか。常陸に勢力を築いた平氏の男、その最期

人物

第58回



――平将門の乱は、935年の一族抗争から始まった

平将門の乱というと、940年に平将門が「新皇」を名乗り、坂東諸国を制圧した場面が注目される。

平将門の乱そのものの経過は、こちらの記事で詳しく解説しています。

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しかし、将門が朝廷に反旗を翻すまでには、数年にわたる一族間の抗争があった。

その最初の大きな犠牲者となったのが、平国香である。

国香は平高望の子で、平将門の父・平良将の兄弟にあたる。

将門から見れば伯父。そして国香の子が、後に将門を討つ平貞盛だった。

つまり、

国香の死 → 貞盛の登場 → 将門との対立激化 → 将門討伐という流れが、後の歴史につながっていく。

では、なぜ同じ平氏一族が、血を流して戦うことになったのか。

その答えは、9世紀末から関東で勢力を伸ばした平氏一族の構造にある。


1.平氏一族が坂東へ進出する

国香の父は、平高望。

桓武天皇の子孫にあたる人物である。

高望については、寛平元年(889)に平姓を賜って臣籍に降り、上総介として東国へ下ったとする系図・後世史料が伝わる。

その後、高望の子らが関東各地に勢力を広げていった。

国香もその一人だった。

ここで重要なのは、平氏一族が関東へ移ったことである。

京都では、平氏は皇族の血を引く一族だった。

しかし坂東へ進出すると、その立場は変わる。

国司としての官職を持ちながら、現地の土地・人々・有力者との関係を築いていく。

そして次第に、「朝廷の官人」であることと「地方の武装した有力者」であることが一体化していく。

これが後の平将門の乱を生む土台になった。


2.国香は常陸大掾だった

国香は、常陸大掾を務めた。

常陸国は現在の茨城県にあたる。

その国府は現在の石岡市付近に置かれていた。

大掾は国司の四等官の一つで、常陸国の行政を担う重要な官職だった。

国香は常陸国真壁郡の石田に居館を構えた。

現在の茨城県筑西市東石田周辺に比定されている。

国香はこの地域を基盤として勢力を持っていた。

当時の地方有力者にとって、館は単なる住居ではない。

家族が暮らす。従者が集まる。物資を蓄える。有事には兵力が集まる。

つまり、館そのものが政治・経済・軍事の拠点だった。

その国香の石田館が、数年後、将門の軍勢によって焼かれることになる。


3.国香と源護――婚姻で結ばれた勢力

国香の立場を理解するうえで、もう一人重要な人物がいる。

源護。

前常陸大掾で、常陸国内に勢力を持っていた人物である。

国香と源護は姻戚関係にあったと伝えられている。

この婚姻関係によって、平氏と源氏の在地勢力が結びついていた。

ところが、この源護一族と平将門の間に争いが起きる。

ここから国香の運命が大きく変わっていく。


4.将門と源護一族が衝突する

承平5年(935)2月、平将門が常陸国真壁郡方面へ向かった。

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その途中、源護の子である、

源扶・源隆・源繁らが将門を待ち伏せした。

場所は、野本。

将門はここで源護の子らと戦う。

『将門記』は、この戦いをかなり生々しく描いている。

将門側は順風を得て、矢を次々と放った。

矢は敵陣へ流れるように飛び、源護側を圧倒する。

源扶らは奮戦した。

しかし、戦いは将門側の勝利に終わった。

死者は多く、生き残った者は少なかったと『将門記』は記す。

ここから将門は引き返さなかった。

そのまま敵方の拠点へ進んでいく。


5.2月4日――将門軍が敵方の家々を焼く

承平5年(935)2月4日。

将門軍は、野本・石田・大串・取木などの家々を焼いていった。

さらに源護側に加勢した人々の小宅まで焼き払った。

『将門記』には、

筑波・真壁・新治の三郡で、敵方に従った人々の家屋500余りが焼かれたと記されている。

500余家。

一つの館を焼くという規模ではない。

敵に加勢した人々の生活基盤そのものを破壊する攻撃だった。

『将門記』は、このときの惨状を激しい文章で描いている。

家の中に隠れた者は煙に追われ、外へ出れば矢が飛んでくる。

火から逃れようとした人々が再び炎の中へ戻る。

家々が焼け、財物が失われる。

立ち上る煙は空を覆い、火の音は雷のように響いた。

これは単なる「館の焼き討ち」ではない。

地域社会そのものを巻き込んだ戦争だった。


6.そして石田館が炎に包まれる

焼き払われた家々の中に、平国香の石田館があった。

『将門記』は、国香の宅が焼け落ち、国香自身も死去したと記す。

ここで史実として重要なのが、国香の最期の描写である。

現存する『将門記』の該当部分は欠落を含んでいる。

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そのため、国香がどのような状況で死亡したのかを細部まで復元することはできない。

後世の史料には「将門と国香が石田で戦い、国香が討たれた」とする記述もある。

しかし、現存する『将門記』から確実に言えるのは、

将門軍が石田を含む地域を焼き、国香の館が焼失し、国香が死亡したというところまでである。

したがって国香の最期は、

「将門との直接対決で討ち取られた」と単純化するより、

「将門軍による石田一帯への攻撃の中で、館を焼かれ、命を落とした」と捉えるのが史料に忠実である。


7.国香の死を知った息子・貞盛

国香には息子がいた。

平貞盛。

このとき貞盛は京都にいた。

官人として朝廷に仕え、左馬允の職に就いていたと『将門記』に記される。

そこへ、父・国香が死んだという知らせが届く。

貞盛は急いで東国へ戻った。

ここから貞盛の人生が大きく動き始める。

しかし、ここが非常に面白い。

貞盛は最初から、

「父を殺した将門を討つ」と考えていたわけではない。

『将門記』に描かれる貞盛の判断は、むしろ逆だった。


8.貞盛は将門との和解を考えた

貞盛は事件の事情を調べた。

そして、将門は本来の敵ではない。

国香が源護一族との縁で巻き込まれた争いだ。

そう判断した。

『将門記』に記された貞盛の言葉には、

「将門に睦びて」

という考えが示されている。

将門と親しくして、平氏一族として関係を修復する。

これが貞盛の当初の考えだった。

つまり、

国香の死=ただちに貞盛と将門の決戦

ではない。

ここは平将門の乱を理解するうえで非常に重要だ。

国香の死によって将門との関係が決定的に壊れたのではなく、貞盛は一度、将門との関係を修復しようとした。

しかし、そこへ別の人物が入ってくる。


9.平良兼、将門との戦いへ

国香の弟、平良兼。

良兼は将門の叔父にあたる。

そして国香の死後、将門に対抗する勢力の中心となっていく。

さらに国香の弟・平良正も将門と対立した。

承平5年(935)10月21日。

良正は兵を集め、新治郡川曲で将門と戦った。

しかし敗北。

良正は兄の良兼に助力を求める。

こうして平氏一族の対立はさらに広がった。

国香が死んだ時点では、まだ将門との関係修復を考えていた貞盛。

しかし、一族の別の人間たちが将門との戦いを続けた。

そして貞盛も、次第にこの戦いから逃れられなくなっていく。


10.国香の死は、平氏一族の内戦を変えた

国香が生きていたころ、平氏一族には複数の有力者がいた。

国香。良兼。良正。そして将門の父・良将。

それぞれが関東各地に基盤を持っていた。

ところが935年、国香が死ぬ。

その結果、国香の勢力を引き継ぐ立場になったのが、息子の貞盛だった。

そして貞盛は、京都の官人としての立場と、坂東の平氏一族としての立場を同時に背負う。

ここに、将門との対立が複雑になっていく理由がある。

将門も平氏。貞盛も平氏。良兼も平氏。良正も平氏。

同じ一族なのに、

土地・縁戚・官職・一族内の主導権をめぐって対立する。

平将門の乱の前半は、まさにこの一族抗争だった。


11.国香の館があった石田

現在の茨城県筑西市東石田周辺には、国香の館跡と伝わる場所がある。

石田は、国香が常陸で勢力を築いた拠点だった。

その館が935年に焼けた。

国香が死んだ。

そして、その数年後には、この地を舞台に将門と貞盛らの戦いがさらに激しくなっていく。

平氏一族が坂東へ進出し、土地を基盤に力を蓄えた。

その同じ土地をめぐって、一族同士が争った。

坂東の平氏は、土地を得ることで強くなり、その土地をめぐって一族同士で戦うことになった。

これが平将門の乱の核心にある。


12.国香の死から、将門討伐へ

935年。源護の子らが将門を襲撃する。将門が反撃する。

2月4日。将門軍が筑波・真壁・新治方面を焼く。500余家が焼失。石田館も焼ける。国香が死ぬ。

その後、良正が将門と戦う。良兼も兵を動かす。

貞盛も将門との関係に巻き込まれていく。

そして数年後、

天慶3年(940)2月14日。

平将門は、平貞盛・藤原秀郷らの軍勢と戦う。

場所は、下総国北部の石井。

ここで将門は討ち取られる。

その中心にいたのが、平国香の息子・平貞盛だった。


13.父を失った少年は、将門を討つ男になった

国香の死から約5年。

935年に石田館が焼けた。

940年、将門が討たれる。

この5年間で、坂東の情勢は激変した。

国香の死。良正・良兼との戦い。貞盛の帰国。将門の勢力拡大。

そして将門の「新皇」即位。

最終的に貞盛は藤原秀郷らとともに将門を討つ。

平国香自身は、将門との戦いの最初期に命を落とした。

しかし、その死によって、

息子・貞盛の人生が大きく動き始めた。

そして貞盛の子孫から、後の平氏の大きな流れが生まれていく。

平国香は、平将門の乱を語るうえで欠かせない。

なぜなら、

将門の最初の大きな敵対関係の中で命を落とし、その死が貞盛を戦いの中心へ押し出した人物

だからである。

次は、その息子。平貞盛。

父・国香の死を知って東国へ戻り、いったんは将門との和解を考えながら、やがて将門を討つ側へ進んだ男の人生を追う。

平国香が勢力を築いた常陸国は、現在の茨城県。
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