【人物編 vol.29】平貞盛――父を殺され、将門に追われた男。その血筋は180年後、平清盛へつながる

人物

第59回



――「将門討伐の英雄」になるまで、貞盛は何度も敗れていた

平将門の乱を語るとき、どうしても平将門の強烈な人物像に目が向く。

平将門の乱そのものの経過は、こちらの記事で詳しく解説しています。

【戦い・事件編】平将門の乱(前編)――反乱の原因とは? 935年の一族争いから常陸国府襲撃へ
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「新皇」を名乗り、坂東を席巻した男。

その将門を最後に討った人物として知られるのが、藤原秀郷と平貞盛である。

しかし、貞盛の人生を調べると、意外な姿が見えてくる。

貞盛は、最初から将門を討つために動いていたわけではない。

父は平国香。将門とは従兄弟。

935年に父・国香が将門との戦いで命を落としたあとも、貞盛は将門との関係を修復しようとした。

ところが一族の争いは止まらない。

将門に追われ、逃げ、京都へ向かい、朝廷に訴え、それでも再び追われる。

何度も追い詰められた貞盛が大きく反撃するのは、将門が朝廷そのものに敵対する存在になった940年だった。

藤原秀郷と手を組み、将門を追い詰める。

そして、天慶3年(940)2月14日。

平将門は討たれた。

貞盛の人生は、ここから大きく変わる。

朝廷から恩賞を受け、官人として出世し、鎮守府将軍や陸奥守などを歴任する。

そして貞盛の子・平維衡の系統は伊勢へ進出し、後の伊勢平氏へつながっていく。

その先に、平清盛がいる。


1.平貞盛の生い立ち――坂東の平氏に生まれる

平貞盛の父は、平国香。

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桓武天皇の皇孫・高望王から続く平氏一族の人物である。

国香は常陸国に勢力を持ち、常陸大掾として活動していた。

貞盛が生まれた年は史料から確定できない。没年も確定していない。

そのため、貞盛について「何年生まれ」「何歳で死亡」といった数字を置くことはできない。

確実に追えるのは、935年以降の活動である。

当時の坂東には、平氏一族が広く進出していた。

国香。良兼。良正。将門。

それぞれが土地と人脈を持ち、独自の勢力を築いていた。

同じ一族だから仲良く暮らしていたわけではない。

むしろ、土地や縁組、在地勢力との関係をめぐって争いが起きる。

そして貞盛は、この平氏一族の激しい競争の中で成長した。


2.若い貞盛は京都へ出た

貞盛は若いころ、京都へ上った。

『将門記』には、貞盛が左馬允として在京していたことが記されている。

左馬允は左馬寮の官職である。

左馬寮は朝廷の馬を管理する役所だった。

馬は当時の軍事力そのものだ。

騎馬で戦う武人にとって、馬は移動手段であると同時に戦闘力でもあった。

つまり貞盛は、東国の武装豪族としてだけでなく、

朝廷に仕える官人としての経験も持っていた。

これが後の人生で大きな意味を持つ。

貞盛は京都の政治を知っていた。そして東国の武力も知っていた。

将門との戦いでは、この二つを使うことになる。


3.935年――父・平国香が死ぬ

貞盛の人生を一変させた事件が起きる。

承平5年(935)2月、平将門と源護一族の対立が激化した。

将門は源護の子らと戦い、その勢いのまま敵対勢力の拠点を攻撃した。

『将門記』には、野本・石田・大串・取木などの地域が焼かれたことが記されている。

そして、平国香の館も焼かれた。

国香は命を落とした。

父・国香が死んだとき、貞盛は京都にいた。

知らせを受けた貞盛は東国へ戻る。

父を殺した相手は、自分の従兄弟・平将門。

ここから貞盛の人生は、将門との戦いから逃れられなくなる。


4.父の仇なのに、貞盛は将門と和解しようとした

ここが貞盛という人物の面白いところだ。

父を失った貞盛は、すぐに将門へ復讐しようとはしなかった。

『将門記』には、貞盛が将門と親しくしようとしたことが記されている。

つまり、一族の争いを収めようとした。

将門は従兄弟である。

このまま戦い続ければ、平氏一族そのものが消耗する。

貞盛は将門との関係を修復しようとした。

ところが、周囲の一族がそれを許さなかった。

叔父・平良兼らが将門と対立し、戦いが続く。

貞盛も一族の側に立たざるを得なくなっていく。

ここから、「将門の従兄弟」だった男が、「将門の敵」へ変わっていく。


5.将門に追われる貞盛

貞盛は将門に対抗した。

しかし、将門の勢力は強かった。

貞盛は何度も追われる。

逃げる。身を隠す。

再び動く。また追われる。

この繰り返しだった。

特に938年、貞盛は京都へ向かおうとした。

目的は朝廷へ訴えることだった。

ところが将門は貞盛の動きを察知する。

貞盛は信濃国小県郡方面まで追われた。

それでも逃げ切った。

この時期の貞盛は、まだ「将門を討った英雄」ではない。

むしろ、将門から逃げ続ける男だった。


6.938年――貞盛、京都へ向かう

天慶元年(938)2月29日。

貞盛は密かに上洛しようとした。

しかし将門に察知される。

追撃を受けた貞盛は、信濃国小県郡へ逃げ込んだ。

将門側の勢力圏を抜け、ようやく脱出する。

貞盛が目指したのは京都だった。

理由は明快だ。

自分だけの力では将門に勝てない。

だから朝廷の力を借りる。

貞盛は京都へ戻り、将門との争いについて訴えた。

朝廷の権威を背負って東国へ戻る。


7.朝廷の命令を持って帰ってきても、将門は止まらない

貞盛は朝廷から将門追捕に関する官符を得た。

これで将門を追い詰められる。貞盛はそう考えた。

しかし現実は甘くない。

東国に戻れば、そこには将門の軍事力がある。

朝廷の命令書だけで将門を屈服させることはできなかった。

貞盛は再び将門に追われる。

938年10月には、陸奥へ向かおうとした際にも将門の追撃を受けたと『将門記』は伝える。

さらに11月には、常陸で将門を討とうとした。

これも失敗した。

貞盛は藤原為憲とともに身を隠した。

ここまで来ると、貞盛の執念が見えてくる。

何度失敗しても、将門を討つことを諦めなかった。


8.貞盛の前に、最大のチャンスが来る

転機は、天慶2年(939)に訪れる。

将門が常陸国府を攻撃した。

さらに上野国府を攻略。

坂東各地の国府を制圧する。

そして、「新皇」を称した。

ここで将門は、単なる一族争いの相手ではなくなった。

朝廷にとって、明確に討つべき存在になった。

貞盛にとっては大きなチャンスだった。

今度は、自分だけが将門を追っているのではない。

朝廷そのものが将門を討とうとしている。


9.940年正月――将門を討った者には破格の恩賞

天慶3年(940)正月。

朝廷は将門追討のための追捕官符を出した。

内容は非常に大きかった。

将門を討った者には、五位以上の位階を与える。

さらに、子孫に伝えられる功田を与える。

将門討伐に成功すれば、自分だけでなく子孫にも利益が残る。

朝廷はそれほど大きな恩賞を掲げた。

この命令によって、坂東では将門討伐の機運が一気に高まった。

そして、その中心にいたのが、平貞盛と藤原秀郷だった。


10.藤原秀郷との同盟

ここで貞盛は強力な味方を得る。

藤原秀郷。

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「将門を討った男」の前半生は、意外なほど謎に包まれている平安時代の東国を語るとき、藤原秀郷の名前は外せない。平将門を討った武将。後世には「俵藤太」の名前で知られ、三上山の大百足を退治した英雄。さらに、その子孫から小山氏、佐野氏、長沼氏など…

下野国を基盤とする有力者だった。

貞盛には将門を討つ理由がある。

秀郷にも朝廷の追捕命令に応じる理由がある。

二人の利害が一致した。

貞盛と秀郷は手を組み、将門討伐へ向かう。

それまで将門に追われていた貞盛が、今度は将門を追う側に回った。

人生最大の転換点だった。


11.最後の戦い――兵力差が将門を追い詰めた

天慶3年(940)2月。

【戦い・事件編】平将門の乱(後編)――「新皇」平将門はなぜ敗れたのか? 藤原秀郷・平貞盛との最後の戦い
天慶3年(940)2月14日。下総国幸島郡の北山で、平将門は最後の戦いに臨んだ。将門のもとに集まった兵は400余人。迎え撃つのは、藤原秀郷・平貞盛・藤原為憲らの軍勢だった。激しい風が吹き荒れるなか、将門軍は騎馬で攻め込み、追討軍を崩した。『…

貞盛・秀郷側は将門を追った。

『将門記』では、追討軍は4,000余騎に達したとされる。

一方、将門側は多くの兵を帰郷させていた。

最後の戦いに残った兵力は大幅に減っていた。

将門は坂東を制圧するほどの勢力を持っていた。

しかし、広い地域を維持するためには兵力が必要だった。

各地の戦いを続ければ続けるほど、軍勢を維持する負担も増える。

将門は最後の段階で、十分な兵力を集められなかった。

そこへ、4,000余騎の追討軍が迫る。

戦況は一気に将門側へ不利になった。


12.2月1日――川口で激突

2月1日、将門は貞盛・秀郷らの軍を迎え撃った。

戦場となったのが、下総国川口。

激戦の末、将門側は退却した。貞盛・秀郷軍は追撃する。将門はさらに逃れる。

本拠地周辺へ追い詰められていく。

そして13日、将門の本拠が攻撃される。

将門にとって、最後の一日が近づいていた。


13.2月14日――北山の決戦

天慶3年(940)2月14日。

貞盛・秀郷軍と将門軍は、幸島郡北山で激突した。

将門側の兵力は少ない。

それでも将門は戦場に立った。

最後の戦いは激しく続いた。

そして、将門は額に矢を受けて戦死した。

平将門、死す。

935年から続いた一連の戦乱は、ここで終わった。

『将門記』は将門の最期を劇的に描いている。

東北から吹いた風によって将門の兜が浮き上がり、額が露出した。

その瞬間、矢が飛んだ。

将門は落馬した。

軍記として描かれたこの場面は、平将門最期の姿として後世に強烈な印象を残した。

そして将門を討った側には、平貞盛と藤原秀郷の名が残った。


14.父を失ってから5年――貞盛の人生が逆転する

935年、父・国香が死んだ。

940年、従兄弟・将門を討った。

わずか5年で、貞盛の立場は完全に変わった。

しかも貞盛は、戦場で将門を討っただけではない。

将門の追撃から何度も逃げた。

京都へ行った。朝廷へ訴えた。官符を得た。

再び東国へ戻った。そして秀郷と結んだ。

つまり貞盛は、「逃げ続けた5年間」を、最後の勝利につなげた。

ここが平貞盛という人物の最大の面白さである。


15.将門討伐の翌月、朝廷から恩賞を受ける

将門討伐の功績は、すぐに評価された。

貞盛は、従五位上に叙せられ、右馬助に任じられたと伝えられる。

将門討伐によって、貞盛は一躍朝廷から認められる存在になった。

父・国香の死後、将門に追われていた男が、

今度は朝廷から将門討伐の功労者として評価された。

貞盛にとって、これ以上ない逆転だった。


16.将門討伐後の貞盛――武将から朝廷の官人へ

貞盛は将門を討った後も朝廷に仕えた。

その後、鎮守府将軍や陸奥守などを務めたとされる。

さらに丹波守も歴任し、従四位下まで昇進した。

将門との戦いで得た軍事的な名声を、朝廷での地位につなげたのである。

若いころの貞盛は、京都の左馬允だった。

将門討伐後には、地方の軍事と行政を担う高位の官人になった。

貞盛は、坂東の武人から朝廷の武人へと姿を変えていった。


17.貞盛には「弓の達人」としての逸話も残る

貞盛には、後世の説話集『今昔物語集』に印象的な話が残っている。

あるとき貞盛が法師の家に泊まっていると、盗人が押し入った。

貞盛は弓を手に取る。

そして、盗人を射た。

『今昔物語集』巻二十九には、

「平貞盛朝臣、法師の家にして盗人を射取る語」という一話が収められている。

この話は、将門討伐からかなり後の時代にまとめられた説話である。

この話からは一つ面白いことがわかる。

後世の人々は、平貞盛を「弓を使う強い武人」として語っていた。

将門を討った人物だからこそ、こうした武勇伝が生まれた。


18.さらに強烈な話――「胎児の肝」の逸話

貞盛には、さらに凄まじい逸話がある。

『今昔物語集』巻二十九第二十五話。

題名は、「丹波守平貞盛、児の肝を取る語」である。

丹波守だった貞盛が重い皮膚病を患う。

そこで京から名医を呼んだ。

医師は、男子の胎児の肝から作った「児干」という薬が必要だと告げる。

貞盛はその薬を手に入れようとする。

さらに、その治療法を知った医師を口封じのために殺そうとする。

しかし、貞盛の子が医師へ密かに事情を伝える。

医師は逃げ延びる。

貞盛は医師を殺したつもりになるが、実際に殺されたのは別人だった。

かなり凄まじい話である。

しかし、単なる創作として捨てるのも面白くない。

この話は、

「将門を討った英雄・貞盛」とは正反対の、

恐ろしく執念深く、目的のためなら手段を選ばない貞盛を描いている。

『今昔物語集』が貞盛をどういう武人として記憶していたのかを知る、非常に強烈なエピソードである。


19.貞盛は一族の勢力も広げた

貞盛の功績は将門討伐だけではない。

貞盛の子孫は、その後さまざまな地域へ進出した。

特に重要なのが、平維衡。貞盛の子である。

維衡は伊勢国へ進出し、伊勢平氏の基礎を築いていく。

その後、

平維衡
↓
平正度
↓
平正衡
↓
平正盛
↓
平忠盛
↓
平清盛という系統へつながる。

伊勢平氏が成立し、その最終的な到達点の一つが平清盛だった。


20.平貞盛から平清盛へ――約180年の時間

貞盛が将門を討ったのは、940年。

平清盛が生まれたのは、1118年。

その差は、178年。

貞盛が将門を討った時代と、清盛が活躍する時代では、社会も政治も大きく変わっている。

だから、「貞盛が将門を討ったから、そのまま清盛が生まれた」という単純な話ではない。

貞盛の子孫が各地で勢力を築き、伊勢平氏という家系が形成され、その中から正盛、忠盛が登場する。

そして清盛へつながった。

940年の将門討伐は、後の平氏の歴史へつながる長い入口でもあった。


21.平貞盛の晩年

貞盛の生年と没年は確定していない。

後世の系図には989年没とするものもあるが、これを確実な没年として断定することはできない。

晩年の生活についても、詳しい記録は少ない。

しかし、将門討伐後の経歴ははっきりしている。

朝廷に仕え、鎮守府将軍となり、陸奥守などを務め、従四位下まで昇った。

若いころ京都で左馬允を務めた貞盛は、人生の最後には朝廷から信頼される高位の武人になった。

そして自分の子孫へ家を残した。

その家から、伊勢平氏が生まれる。


22.平貞盛という男

平貞盛の人生は、最初から最後まで順調だったわけではない。

935年。

父・国香が死ぬ。貞盛は東国へ戻る。将門との和解を考える。しかし一族の争いに巻き込まれる。

将門に追われる。

938年。京都へ向かう。朝廷へ訴える。また東国へ戻る。また追われる。何度も失敗する。

そして939年。将門が「新皇」を称する。朝廷が将門討伐に動く。

940年。貞盛は藤原秀郷と手を組む。追討軍を率いて将門を追う。

2月14日。北山で決戦。将門戦死。

ここで貞盛の人生は完全に逆転する。

朝廷から恩賞を受ける。その後も官職を重ねる。鎮守府将軍、陸奥守などを歴任する。

さらに子孫の維衡が伊勢へ進出する。その系統から伊勢平氏が発展する。

そして約180年後、清盛が登場する。

平貞盛は、将門を討った一人の武将として語られる。

しかし、その人生を追っていくと、それだけではない。

父を殺され、従兄弟に追われ、何度も逃げ、それでも生き残り、最後にはその従兄弟を討った。

さらに戦後は朝廷の官人として地位を築き、自分の家を次の世代へつないだ。

後世の『今昔物語集』には、弓で盗人を射る勇猛な貞盛も、胎児の肝を求める恐ろしい貞盛も登場する。

一人の人物が、「将門に敗れ続けた男」から、「将門を討った男」へ変わっていく。

その変化こそが、平貞盛という人物の最大の魅力である。

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戦争の日本史(4) 平将門の乱

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