【人物編Vol.66】平敦盛――沖の船を前に引き返した若武者、須磨の浜に残された一本の笛

【PR】この記事には広告が含まれています

人物

第136回

寿永3年(1184年)2月7日、摂津国の一ノ谷で平家軍が敗れた。

海岸には源氏の武士たちが迫り、平家一門の人々は沖に浮かぶ船へ逃れようとしていた。

そのなかに、一騎の若武者がいた。

鶴の模様を縫い取った直垂に萌黄匂の鎧。鍬形のついた兜をかぶり、連銭葦毛の馬に乗っている。

若武者は馬を海へ入れ、沖の船を目指した。

ところが、その姿を見つけた源氏方の熊谷直実が扇を上げ、大声で呼び止める。

『平家物語』によれば、若武者は直実の声に応じて引き返し、岸で組み合ったという。

直実は相手を馬から引き落とし、首を取ろうとした。

しかし、兜を押し上げると、そこに現れたのは自分の息子と同じ年頃の少年だった。

直実は討つことをためらったものの、背後から味方の軍勢が迫っていた。

やがて少年は首を取られる。

その腰には、錦の袋に入れた一本の笛が差されていたという。

若武者の名は平敦盛。

平清盛の弟・平経盛の末子である。

嘉応元年(1169年)生まれとされ、一ノ谷で命を落としたときは数え16歳。ただし、『平家物語』覚一本では17歳と記されている。

京都で平家一門の公達として育ち、父や兄たちとともに都を追われ、一ノ谷で命を落とした敦盛。

その最期は、熊谷直実の出家をめぐる物語と結びつき、数百年後の能や幸若舞、歌舞伎の舞台にも受け継がれることになった。

平清盛の弟・経盛の末子として生まれる

平敦盛は嘉応元年(1169年)、平経盛の子として生まれたとされる。

父の経盛は平忠盛の子で、平清盛の異母弟にあたる。

清盛は敦盛にとって伯父、忠盛は祖父となる。

敦盛には兄として平経正と平経俊がいた。

経正は琵琶の名手として知られ、仁和寺の宮に仕えた人物である。

経俊も朝廷に仕え、若狭守などを務めた。

一方、敦盛の母については確実な記録が乏しく、その出自は明らかになっていない。

敦盛が生まれた嘉応元年、平家一門はすでに京都で大きな権力を握っていた。

清盛は保元元年(1156年)の保元の乱で後白河天皇方として勝利に貢献し、平治元年(1159年)の平治の乱でも源義朝らの軍勢を破った。

義朝は敗走の末に殺害され、その子の頼朝は伊豆国へ流された。

清盛はその後も朝廷で昇進を重ね、仁安2年(1167年)には太政大臣に就任する。

武士の一族である平家は、軍事力を背景に朝廷の官職や所領を獲得していった。

清盛の子や弟たちも高い地位を得て、京都の宮廷社会に深く関わるようになる。

敦盛の父・経盛もその一人だった。

経盛は朝廷の官職を歴任し、後には修理大夫を務めた。

和歌や音楽に親しんだことでも知られ、仁和寺との関係を示す記録が残されている。

敦盛は、そうした家に生まれた。

ただし、幼少期について詳しい記録はほとんど残っていない。

どこで育ち、誰から武芸や音楽を学んだのか。母や兄たちとどのような生活を送っていたのかについても、具体的なことはわからない。

後世に広まった敦盛の人物像は、主に『平家物語』が描く一ノ谷の最期から形作られている。

仁和寺と深く結びついた経盛の家

敦盛の父・経盛と兄・経正には、宮廷音楽に関する伝承が残されている。

平安時代の貴族社会では、和歌や管弦が重要な教養となっていた。

琵琶や笛などの楽器は宮中の儀式や宴で用いられ、演奏の技量は宮廷社会で高く評価された。

平家一門も、朝廷で地位を高めるにつれて、こうした文化に親しむようになっていた。

経盛は和歌を詠み、仁和寺の宮が開いた歌会にも参加したとされる。

その息子・経正は、特に琵琶に優れた人物として知られた。

『平家物語』によれば、経正は幼いころから仁和寺の御室に仕えていたという。

経正が幼少期に仕えたのは覚性法親王と考えられる。

覚性法親王は鳥羽天皇の皇子で、仁和寺の門跡を務めた人物だった。

覚性の死後、仁和寺の御室となったのが守覚法親王である。

後に経正が都落ちの際に別れを告げた相手は、この守覚法親王だったと考えられている。

経正は仁和寺で琵琶の名器「青山」を預かったと伝えられる。

一方、弟の敦盛は笛の名手として後世に知られるようになった。

『平家物語』によれば、敦盛が所持していた笛は、祖父の忠盛から父の経盛へ伝わったものだったという。

ただし、敦盛が幼いころから実際にどのような音楽教育を受けていたのかは不明である。

後世の軍記物語は、経正の琵琶と敦盛の笛を通じて、経盛の家が宮廷音楽に親しんでいた姿を描いている。

「無官大夫」と呼ばれた敦盛

敦盛は「無官大夫」という呼び名でも知られている。

「大夫」は五位の位階を持つ人物などに用いられた呼称である。

敦盛は従五位下に叙されていたものの、特定の官職には就いていなかったとされる。

そのため「無官大夫」と呼ばれた。

平家一門には、幼少期から官位を与えられ、朝廷で昇進を重ねた人物が多い。

例えば清盛の子・平重衡は数え6歳で従五位下に叙され、その後も中宮亮、春宮亮、蔵人頭、左近衛権中将などを歴任している。

これに対し、敦盛がいつ従五位下に叙されたのか、詳しい官歴は明らかになっていない。

10代半ばで命を落とした敦盛には、朝廷の官人として長く活動する機会がなかった。

それでも、経盛の子として平家一門に属し、宮廷社会の中で育った公達であることに変わりはない。

『平家物語』では、立派な鎧や太刀を身につけ、顔には薄化粧を施した若武者として描かれている。

武士の一族に生まれながら、貴族社会の文化にも親しんだ平家の公達。

敦盛は、そうした一門の若者として成長していった。

伯父・清盛の死と源氏の挙兵

治承4年(1180年)、平家に対する反抗が各地で始まった。

5月には後白河法皇の皇子・以仁王と源頼政が平家打倒を掲げて挙兵する。

平家軍は宇治川付近でこれを鎮圧し、頼政は平等院で自害。以仁王も奈良へ向かう途中で討ち取られた。

しかし、この挙兵をきっかけに反平家の動きは広がっていく。

8月には伊豆国で源頼朝が挙兵した。

信濃国では木曾義仲が勢力を伸ばし、東国や北陸でも平家に対する抵抗が続いた。

同年12月には平重衡が率いる軍勢が南都へ進軍し、東大寺と興福寺の主要な堂塔が焼失する。

平家と寺社勢力の対立も激しくなっていた。

翌治承5年(1181年)閏2月4日、清盛が死去した。

一門を率いてきた清盛の死によって、政治と軍事の中心は息子の平宗盛へ移る。

敦盛の父・経盛も、宗盛らとともに平家を支えていた。

このころ敦盛は数え13歳前後。

各地で戦いが続いていたものの、敦盛自身が軍事行動に参加していたことを示す確実な記録はない。

どのような生活を送り、父や兄たちから戦況について何を聞いていたのかもわからない。

やがて木曾義仲の軍勢が北陸で勢力を伸ばし、平家は京都を離れることになる。

倶利伽羅峠の大敗――平家とともに都を離れる

寿永2年(1183年)5月、平家軍は北陸で大敗した。

倶利伽羅峠の戦いである。

平維盛らが率いた軍勢は木曾義仲の攻撃によって大きな損害を受け、続く篠原の戦いでも苦戦した。

平家は北陸方面の支配を失い、義仲軍の京都進出を止められなくなっていく。

7月25日、平宗盛らは安徳天皇と三種の神器を伴って都を離れた。

敦盛も父の経盛や兄たちとともに西国へ向かったと考えられる。

嘉応元年生まれとすれば、このとき数え15歳である。

平家一門は京都を離れ、かつて清盛が遷都を進めた福原を経て瀬戸内海へ向かった。

長く暮らしてきた邸宅や、宮廷での生活から離れ、西国で軍勢を立て直さなければならなくなったのである。

『平家物語』は、この都落ちを数多くの別れの場面とともに描いている。

清盛の弟・平忠度は歌の師である藤原俊成を訪ね、自らの和歌を託した。

また、敦盛の兄・経正は仁和寺へ向かい、預かっていた琵琶を返したと伝えられる。

戦乱のなかで京都を離れる人々の姿を描いた、著名な逸話である。

兄・経正が仁和寺へ返した琵琶「青山」

『平家物語』巻第七「経正都落」には、平経正が都落ちの前に仁和寺を訪ねる場面が描かれている。

経正は幼いころから仁和寺の御室に仕え、琵琶の演奏に親しんでいた。

その縁によって預かっていたのが、「青山」という名器である。

都落ちが決まると、経正は琵琶を携えて仁和寺へ向かった。

これから西国で戦いが続けば、いつ京都へ戻れるかわからない。

大切な琵琶を戦乱のなかで失うことを恐れ、返却することにしたと『平家物語』は伝える。

経正は従者を伴って仁和寺を訪ね、守覚法親王に面会したという。

そこで、幼いころから宮に仕えてきた日々を振り返り、別れの思いを伝えた。

『平家物語』には、経正が和歌を詠み、琵琶を演奏した場面も描かれている。

名器「青山」は仁和寺へ戻された。

ただし、経正と守覚の詳しい会話や演奏の様子を、そのまま史実として確認することはできない。

経正がかつて仕えた覚性法親王と、都落ちの際に御室だった守覚法親王との関係も、伝本によって描き方が異なる。

一方、経正が仁和寺と関わりを持っていたことは、関連する史料からも検討されている。

兄の経正は、琵琶「青山」を京都に残して西国へ向かった。

弟の敦盛は、後に一本の笛を戦場まで携えていたと語られることになる。

西国での生活――敦盛の足取りは記録に乏しい

都落ちした平家は、まず九州で勢力を立て直そうとした。

しかし、豊後国の緒方惟栄ら在地勢力の抵抗を受け、安定した拠点を築くことができなかった。

その後、一門は讃岐国の屋島へ移る。

屋島は瀬戸内海に面した軍事拠点であり、四国や中国地方の武士たちを集めるうえで重要な場所だった。

平家は船を利用して兵や物資を運び、失った勢力を回復させようとする。

寿永2年閏10月、備中国の水島で平家軍は木曾義仲が派遣した軍勢を撃破した。

さらに11月、播磨国の室山では源行家の軍勢を破る。

水島と室山での勝利によって、平家は再び東へ進出する機会を得た。

ただし、この時期の敦盛については具体的な記録が乏しい。

敦盛自身が水島や室山の戦いに参加したことを示す確実な史料も残されていない。

父の経盛や兄たちと行動をともにしていたと考えられるが、九州や屋島でどのように過ごしたのかはわからない。

平家の軍勢はその後、摂津国の福原周辺まで戻っていった。

かつて清盛が拠点とした土地である。

平家は京都への帰還を目指して軍勢を集め、源氏軍を迎え撃つ準備を進めていた。

しかし、京都の情勢も大きく変わっていた。

寿永3年(1184年)1月20日、源範頼と源義経の軍勢が木曾義仲を破り、義仲自身も近江国の粟津で討死した。

京都を確保した頼朝方は、そのまま平家追討へ向かった。

福原に集結した平家は、再び源氏との決戦を迎えることになる。

一ノ谷の防衛線――敦盛はどこにいたのか

寿永3年2月、平家軍は福原周辺に防衛線を築いていた。

東側の要地が生田の森。

西側には一ノ谷があり、北には山地、南には瀬戸内海が広がっていた。

平家はこの地形を利用し、源氏軍の進撃を防ごうとしていた。

生田の森を守ったのは平知盛と平重衡ら。

西側の一ノ谷には平忠度らが配置され、山手では平通盛や平盛俊らが守備に関わっていたと伝えられる。

敦盛が具体的にどの陣地へ配置されていたのか、誰の指揮下で戦う予定だったのかは明らかでない。

ただし、敦盛が一ノ谷の戦いで討死したことは『吾妻鏡』にも記されている。

平家軍の一員として、決戦の日に現地にいたことは確かである。

源氏軍は二手に分かれて進軍した。

範頼は大手を率い、東側から福原へ迫る。

一方、義経は搦手として丹波方面の山道へ入り、一ノ谷の西側へ進んだ。

2月4日から5日にかけて、義経軍は三草山で平資盛・平有盛らの軍勢を夜襲し、これを破る。

平家は山側の進路を守る軍勢を失い、義経軍の進撃を許すことになった。

そして2月7日、源平両軍は一ノ谷で激突した。

2月7日――海岸へ逃れる平家の武士たち

一ノ谷の戦いでは、源氏軍が複数の方面から平家の陣地へ攻撃を仕掛けた。

東の生田の森では範頼軍が平知盛・重衡らと交戦し、西側の一ノ谷口では熊谷直実や平山季重らが先陣を争っていた。

さらに山側からも源氏方の軍勢が迫る。

『平家物語』には、義経が険しい坂を騎馬武者とともに駆け下り、平家の陣地を急襲したと描かれている。

後世に「鵯越の坂落とし」として知られる場面である。

ただし、『玉葉』には多田行綱が山手の陣地を最初に破ったと記されており、実際の進軍経路や各武将の役割については議論がある。

平家の防衛線は各所で崩れ、武将たちは海岸へ向かった。

南には瀬戸内海が広がり、沖には平家の船が浮かんでいる。

『平家物語』では、敗れた平家の武士たちが助け船を求め、馬を海へ乗り入れたり、船へ駆け寄ったりする様子が描かれている。

しかし、すべての者が船で逃れられたわけではなかった。

海岸では源氏方の武士たちが追撃を続けていた。

敦盛もその混乱のなかにいた。

『平家物語』巻第九「敦盛最期」は、敦盛の最期を熊谷直実の視点から詳しく描いている。

熊谷直実が見つけた一騎の若武者

熊谷直実は、武蔵国熊谷郷を本拠とする武士である。

治承4年(1180年)の石橋山の戦いでは大庭景親方に加わっていたが、その後、源頼朝の傘下に入った。

佐竹氏追討などで軍功を挙げ、一ノ谷では義経方の軍勢に従っていた。

『平家物語』によれば、直実は平家軍の敗走を見て、有力な武将を討ち取る機会をうかがっていた。

平家の公達たちは沖の船へ逃れようとしているはずだと考え、海岸沿いを進んだという。

そこで見つけたのが、立派な武具を身につけた一騎の若武者だった。

鶴の模様を縫い取った直垂に萌黄匂の鎧。

鍬形のついた兜をかぶり、金飾りの太刀を帯びている。

馬は連銭葦毛で、鞍にも金の飾りが施されていた。

『平家物語』は、その装束を詳しく書き連ねている。

直実は、相手が平家の高い身分の武将であると考えた。

若武者はすでに馬を海へ入れ、沖の船を目指していた。

『平家物語』によれば、馬は五、六段ほど海を泳いでいたという。

その姿を見た直実は扇を上げ、大声で呼び止める。

「あれは大将軍とこそ見参らせ候へ」

立派な大将軍とお見受けする、という呼びかけである。

直実は、敵に背を向けて逃げるのかと挑発し、こちらへ戻って勝負するよう求めた。

すると、若武者は馬を返し、岸へ戻ってきたという。

なぜ敦盛は、沖の船を目指していたところから引き返したのか。

『平家物語』はその行動を記すものの、敦盛の胸中を詳しく語っていない。

直実の挑発に武士として応じたのか。それとも別の思いがあったのか。

その理由を確かめる史料は残されていない。

若武者は岸へ戻り、直実との組討ちに入った。

兜の下に現れた少年

岸へ戻ってきた若武者に、直実は馬を並べた。

『平家物語』によれば、直実は相手に組みつき、馬から引き落として押さえつけたという。

そして首を取ろうと、兜を押し上げた。

ところが、その顔を見た直実は手を止める。

目の前にいたのは、まだ16、17歳ほどの少年だった。

薄化粧を施し、歯を黒く染めている。

『平家物語』では、その容貌が非常に美しいものとして描かれている。

薄化粧やお歯黒は当時の貴族社会における身だしなみとも関係しており、物語は若武者の高い身分を印象づけている。

直実には小次郎直家という息子がいた。

直家も一ノ谷の戦いに参加し、負傷していたと伝わる。

目の前の若武者は、その息子と同じくらいの年齢だった。

直実は相手を討つことをためらい、名を尋ねた。

しかし、若武者は名乗らず、逆に直実が誰なのかと問い返したという。

直実は武蔵国の住人、熊谷次郎直実と答えた。

すると若武者は、自分の名を告げる必要はない、首を取って人に尋ねればわかるだろうと返したと伝えられる。

『平家物語』では、このやり取りによって、若武者の身分と死を前にした態度が描かれている。

実際にこのような会話が交わされたことを示す同時代の記録はない。

しかし、この場面は敦盛の最期を語るうえで、最もよく知られるものとなった。

若武者を逃がそうとした直実

『平家物語』によれば、直実は若武者を助けたいと考えた。

自分の息子がわずかに傷を負っただけでも気がかりなのだから、この少年の父が息子の死を知れば、どれほど悲しむだろうか。

直実はそう思い、相手を逃がそうとしたという。

ところが背後を振り返ると、源氏方の軍勢が近づいていた。

土肥実平や梶原景時らの率いる50騎ほどだったと『平家物語』は伝える。

これほど多くの味方が迫っていては、若武者を逃がしても別の武士に討ち取られるかもしれない。

直実は助けることを諦めた。

そして、ほかの者に討たせるより、自分の手で首を取り、後に供養しようと考えたという。

直実がその思いを伝えると、若武者は早く首を取るよう促したと物語は記している。

直実は涙を流し、刀を振り下ろした。

若武者はその場で命を落とす。

『平家物語』では、直実が武士として生まれたことを悔やみ、袖を顔に押し当てて泣き続けたと描かれている。

一方、『吾妻鏡』にも敦盛が一ノ谷で討死したことは記されているが、直実との組討ちの詳しい経過までは確認できない。

熊谷直実が敦盛を討ち取ったという話は古くから伝えられてきたものの、海から引き返した理由や最後の会話、直実の心情については『平家物語』の描写に依拠している。

腰に差されていた笛「小枝」

若武者を討ち取った直実は、その首を包もうとして鎧直垂に手をかけた。

そこで、腰に差されていたものに気づいたという。

錦の袋に入れた笛だった。

『平家物語』によれば、直実は笛を見つけ、夜明け前の出来事を思い出した。

その朝、平家の陣から管弦の音が聞こえていたのである。

直実は、あの音楽を奏でていたのが目の前の若武者たちだったのかと考えた。

東国から集まった源氏の武士たちのなかに、戦場へ笛を持ってくる者がどれほどいるだろう。

『平家物語』は、直実が平家の公達の振る舞いに心を打たれたと伝えている。

直実は笛を義経のもとへ持参した。

義経をはじめ、その場にいた人々も笛を見て涙を流したという。

やがて若武者の正体が判明する。

修理大夫・平経盛の子、敦盛だった。

『平家物語』覚一本には、敦盛の笛についても詳しい由来が記されている。

祖父の平忠盛は笛の名手で、鳥羽院から笛を賜ったという。

それを息子の経盛が受け継ぎ、さらに敦盛が演奏に優れていたため持たせていたとされる。

笛の名は「小枝」。

この由来は『平家物語』に記された伝承である。

実際に忠盛が鳥羽院から笛を与えられたのか、経盛を経て敦盛に伝わったのかについては、確かな記録が残っていない。

また、笛の種類や名称にも『平家物語』の伝本による違いがある。

それでも、一本の笛は敦盛の最期を象徴するものとなった。

戦場で少年を討ち取った東国武士と、笛を携えていた平家の公達。

両者の対照的な姿は、『平家物語』を通じて広く知られるようになる。

敦盛は16歳か、17歳か

敦盛の享年には、資料による違いがある。

敦盛の生没年は、一般に嘉応元年(1169年)から寿永3年(1184年)とされる。

この生没年を数え年で計算すると、戦死したときは16歳になる。

兵庫県立歴史博物館や人物事典でも、この生没年を採用している。

一方、『平家物語』覚一本の「敦盛最期」には「生年十七」と記されている。

敦盛を17歳とする紹介が広まった背景には、この軍記物語の記述がある。

しかし、1169年生まれという整理と、数え17歳という数字は一致しない。

敦盛の出生年を直接確認できる同時代の記録も乏しいため、どちらか一方を確実な数字と断定することは難しい。

また、『平家物語』では、直実が兜を押し上げたとき、相手が16、17歳ほどの若者に見えたという描写もある。

この場面では、若武者が直実の息子と同じくらい若かったことが重要な意味を持っている。

敦盛は10代半ばで一ノ谷の戦いに参加し、命を落とした。

生没年を1169~1184年とする資料では数え16歳。『平家物語』覚一本では17歳と伝えられている。

兄・経正と経俊も一ノ谷で討死

一ノ谷の戦いで命を落としたのは、敦盛だけではなかった。

父・経盛は、この戦いで息子たちを相次いで失った。

兄の平経正も一ノ谷で討死している。

経正は都落ちの際、仁和寺へ琵琶「青山」を返したと伝わる人物である。

宮廷音楽に優れた公達だったが、平家一門の武将として一ノ谷に参加していた。

『吾妻鏡』によれば、経正は安田義定の軍勢によって討ち取られたという。

義定は甲斐源氏の一族で、義経方に加わっていた武将だった。

もう一人の兄・経俊も、この戦いで命を落とした。

経俊は若狭守などを務めた人物で、『吾妻鏡』の戦死者記事にもその名が見える。

敦盛、経正、経俊。

経盛の息子たちは、同じ一ノ谷の戦場で相次いで討死した。

一方、父の経盛は一ノ谷を生き延び、平家の残存する軍勢とともに西へ退いた。

平家は安徳天皇と三種の神器を保持したまま屋島へ逃れ、瀬戸内海での抵抗を続けることになる。

経盛も宗盛らと行動をともにし、翌年の壇ノ浦まで生き延びた。

京都の八条河原へ送られた首

一ノ谷で勝利した源氏軍は、討ち取った平家武将たちの首を京都へ送った。

『吾妻鏡』2月11日条によれば、朝廷では平家一門の首を市中でさらすかどうかが議論された。

平家の武将たちは長く朝廷に仕え、高い官位を得てきた人々である。

その首を一般の武士と同じようにさらすことには、慎重な意見もあった。

しかし、範頼・義経らの要請を受け、最終的に首をさらすことが認められたと伝えられている。

2月13日、平家武将たちの首が京都の八条河原へ運ばれた。

『吾妻鏡』には、平通盛、平忠度、平経正、平敦盛、平経俊、平師盛、平知章らの名が記されている。

それぞれの首には名前を書いた札が付けられ、獄門にさらされたという。

ただし、この首の一覧には、平教経のように別の史料では生存を示す記述がある人物も含まれている。

戦勝報告には、人物の取り違えや誤報が含まれていた可能性も考えられる。

敦盛については、一ノ谷で戦死した人物として複数の記録に登場する。

一方、遺体が実際にどこへ埋葬されたのか、確実な記録は残っていない。

現在の須磨には敦盛の墓や供養塔として伝わる場所があるが、それらは後世に形成された伝承とも関係している。

父・経盛は壇ノ浦で入水した

敦盛が一ノ谷で命を落とした後も、平家と源氏の戦いは続いた。

宗盛や知盛らは屋島へ退き、安徳天皇と三種の神器を保持したまま抵抗する。

敦盛の父・経盛も、その軍勢に加わっていた。

翌元暦2年(1185年)2月、源義経の軍勢は屋島を急襲した。

平家は屋島を失い、さらに西へ退く。

そして3月24日、長門国の壇ノ浦で源平最後の決戦が行われた。

戦いは源氏方の勝利に終わり、安徳天皇は海へ沈んだ。

平知盛も入水し、宗盛は捕虜となる。

『平家物語』によれば、敦盛の父・経盛は弟の平教盛とともに海へ身を投げたという。

二人は甲冑に碇を背負い、手を取り合って入水したと描かれている。

一方、『吾妻鏡』では経盛が一度陸地へ上がって出家した後、再び海へ入ったと記されており、最期の経過には違いがある。

いずれの記録でも、経盛は壇ノ浦で命を落としたとされる。

一ノ谷で息子たちを失った経盛は、その約1年後、壇ノ浦で生涯を終えた。

清盛の弟として平家一門を支えてきた経盛の家も、源平の戦いによって多くの人々を失うことになった。

熊谷直実は敦盛を討ったために出家したのか

『平家物語』「敦盛最期」は、敦盛を討った経験を熊谷直実の出家と結びつけている。

自分の息子と同じ年頃の少年を討ち取った直実は、武士として生きることを悔やみ、仏道へ向かう思いを強めたという。

敦盛が腰に差していた笛も、直実の心を動かす重要なものとして描かれている。

しかし、直実の出家については、別の史料も残されている。

『吾妻鏡』建久3年(1192年)の記事には、直実が所領をめぐる争いから出家したという話がある。

直実は武蔵国熊谷郷の土地について、久下直光と対立していた。

頼朝の前で争いが審理された際、直実は自らの主張を十分に認めてもらえず、怒って髪を切ったと伝えられている。

ところが、熊谷家に伝わる文書には、建久2年(1191年)3月の時点ですでに直実が「蓮生」と名乗っていたことを示すものがある。

そのため、『吾妻鏡』の記事が伝える1192年より前に出家していたとする見解が有力となっている。

直実はその後、浄土宗の開祖・法然の弟子となり、専修念仏に深く帰依した。

出家した直実は法力房蓮生と呼ばれるようになった。

敦盛を討ったことが直実の信仰にどの程度影響したのかはわからない。

所領争いや頼朝との関係、法然との出会いなど、直実の出家にはさまざまな事情が関わっていたと考えられる。

一方、『平家物語』は敦盛を討った後悔から直実が仏道へ進む物語を描いた。

この筋書きは、後世の能や幸若舞にも受け継がれることになる。

能『敦盛』――亡霊となって現れる若武者

敦盛の最期は、中世の芸能にも取り上げられた。

代表的なのが、世阿弥の作とされる能『敦盛』である。

物語の舞台は、一ノ谷の戦いが終わった後の須磨。

熊谷直実はすでに出家し、蓮生という名で仏道を歩んでいる。

蓮生はかつて自らが討ち取った敦盛を弔うため、一ノ谷の古戦場を訪れた。

そこで草刈りをする若者たちに出会う。

その一人が笛を吹いており、蓮生は音色に心を引かれた。

若者は敦盛にゆかりのある者だと語り、やがて姿を消してしまう。

その夜、蓮生が敦盛の供養を続けていると、甲冑を身につけた若武者の亡霊が現れた。

敦盛である。

亡霊となった敦盛は、平家一門が福原で管弦に興じていた日々や、一ノ谷で敗れたときの様子を語る。

そして自分を討ち取った蓮生を前にして、かつての戦いを思い出す。

一時は蓮生へ斬りかかろうとするものの、やがて敵だった相手の供養を受け入れ、仏の救いを願って姿を消す。

『平家物語』では直実の苦悩が詳しく描かれるが、能『敦盛』では亡霊となった敦盛自身が舞台に現れる。

自分を討った相手と再び向き合い、その念仏によって救済を求めるのである。

能は室町時代に成立・発展した芸能であり、この亡霊との再会は創作によるものだ。

それでも、敦盛は能の舞台でも笛や管弦と深く結びついた人物として描かれた。

幸若舞『敦盛』と織田信長

敦盛の物語は、幸若舞にも取り上げられた。

幸若舞は、語りと舞によって武将たちの物語などを演じる中世芸能である。

室町時代から戦国時代にかけて広まり、武家社会でも親しまれた。

その演目の一つが『敦盛』だった。

作品では、一ノ谷で敦盛を討ち取った熊谷直実が世の無常を感じ、出家を志す姿が描かれる。

そこに登場するのが、後に織田信長と結びついて広く知られる一節である。

「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」

人の世の50年間を天上界の長い時間と比べれば、夢や幻のように短いという趣旨の言葉である。

『信長公記』には、永禄3年(1560年)、今川義元の軍勢が尾張へ迫った際、信長が出陣前に幸若舞『敦盛』を舞ったと記されている。

桶狭間の戦いに先立つ場面である。

なお、幸若舞の詞章には「化天」とある一方、『信長公記』では「下天」と記されている。

この違いは原典の表記によるものである。

また、この言葉を平敦盛本人の辞世の句とする紹介も見られるが、実際には幸若舞の詞章であり、敦盛自身が詠んだものではない。

敦盛が一ノ谷で命を落としてから約370年後。

その名を冠した舞は、信長の時代にも演じられていた。

『一谷嫩軍記』――敦盛を救うために息子を犠牲にした直実

江戸時代になると、敦盛と直実の物語は人形浄瑠璃や歌舞伎にも取り上げられた。

その代表が『一谷嫩軍記』である。

宝暦元年(1751年)、大坂の豊竹座で初演された人形浄瑠璃で、並木宗輔や浅田一鳥らが制作に関わった。

この作品では、一ノ谷における敦盛の最期が大きく変えられている。

『平家物語』では熊谷直実が敦盛を討ち取る。

ところが『一谷嫩軍記』の「熊谷陣屋」では、直実は敦盛を助けるため、自分の息子・小次郎を身代わりにしたという筋書きになっている。

作品中の敦盛は後白河法皇の落胤という設定で、義経はその命を救おうとしていた。

直実は義経の意図を察し、敦盛の代わりに自分の息子を犠牲にする。

首実検では、討ち取った首が敦盛のものだと装い、敦盛本人を逃がしたのである。

この展開は江戸時代の作者たちによる創作であり、史実を伝えるものではない。

『平家物語』では、直実は敦盛を助けたいと願いながら、最後には自らの手で討ち取る。

一方、『一谷嫩軍記』では、その思いがさらに発展し、直実が自分の息子を犠牲にして敦盛を救う物語へと変わった。

一ノ谷で命を落とした敦盛は、後世の舞台では命を救われる人物としても描かれるようになった。

「小枝」と須磨寺の「青葉の笛」

敦盛の笛は、現在では「青葉の笛」という名でも広く知られている。

神戸市須磨区の須磨寺には、敦盛が愛用したと伝わる笛が寺宝として残されている。

須磨寺は一ノ谷の古戦場に近く、源平合戦に関する伝承を数多く伝えてきた寺院である。

寺では敦盛ゆかりの笛を「小枝の笛」、通称「青葉の笛」と紹介している。

しかし、『平家物語』覚一本に記されている名称は「小枝」であり、「青葉」の呼び名がどのように広まったのかについては、別の検討が必要となる。

須磨寺に伝わる笛には、義経が敦盛の遺品として寺へ納めたという伝承もある。

また、後世の寺院縁起には、弘法大師に由来する笛とする話も見える。

笛にまつわる伝承は、時代とともに内容を変えながら広まってきたのである。

現在の寺宝が実際に敦盛の所持品だったことを確認できる同時代の記録はない。

一方、須磨寺には古くから敦盛ゆかりの笛が伝えられていたことを示す記録が残る。

室町時代には「小枝」という名の笛に関する記述があり、江戸時代には「青葉の笛」が寺の名物として広く知られるようになっていた。

須磨寺には松尾芭蕉や与謝蕪村、正岡子規らも関わる文芸の伝統があり、敦盛の笛は多くの人々が訪れる理由の一つとなった。

『平家物語』に描かれた一本の笛は、須磨の寺院に伝わる宝物と結びつきながら、後世へ伝えられていった。

須磨に残された敦盛塚と首塚

現在の神戸市須磨区周辺には、敦盛にゆかりのある史跡が残されている。

その一つが、須磨浦公園の西側にある敦盛塚である。

国道2号沿いに建つ大きな五輪塔で、総高は約3.95メートル。

神戸市の指定有形文化財となっている。

古くから敦盛の供養塔として知られ、敦盛の胴体を葬った場所だという伝承もある。

また、鎌倉幕府の執権・北条貞時が弘安年間に平家一門を供養するため建立したという説も伝えられてきた。

しかし、神戸市埋蔵文化財センターは、現存する石造五輪塔の制作年代を室町時代後期から桃山時代にかけてと案内している。

そのため、鎌倉時代の建立伝承を、現在残る石塔の確定年代とすることはできない。

敦盛の遺体が実際にこの場所へ葬られたことを示す確実な記録も残されていない。

一方、須磨寺の境内には、敦盛の首塚と伝わる五輪塔がある。

寺では敦盛の菩提を弔う場所として大切にされてきた。

境内には熊谷直実との組討ちを表現した「源平の庭」も設けられている。

一ノ谷の戦いで敦盛が討死した場所や、遺体が葬られた位置を厳密に確定することは難しい。

しかし、須磨には古くから敦盛を供養するための史跡があり、軍記物語と結びついた伝承が受け継がれてきた。

現在の須磨寺では、一ノ谷の戦いで命を落とした人々を弔う法要も行われている。

境内の首塚には敦盛の菩提を弔う人々が訪れ、宝物館には「青葉の笛」と呼ばれる笛が伝えられている。

寿永3年2月7日に一ノ谷で命を落とした平敦盛。

その後、父の経盛は壇ノ浦で入水し、兄たちも一ノ谷から戻ることはなかった。

一方、熊谷直実は後に出家して蓮生と名乗り、能『敦盛』では、かつて自分が討った若武者を須磨の地で弔う人物として描かれた。

須磨寺では現在も敦盛の供養が続き、『平家物語』に記された一本の笛の伝承が残されている。

【PR】

熊谷直実
熊谷直実

【PR】

【 伊勢 宮忠 】【 龍笛 篠竹籐巻特製 】歌口2.6cm 指孔2.3cm 長さ39.7cm 雅楽 管楽器 竜笛 横笛 能管 和楽器
【 伊勢 宮忠 】【 龍笛 篠竹籐巻特製 】歌口2.6cm 指孔2.3cm 長さ39.7cm 雅楽 管楽器 竜笛 横笛 能管 和楽器

コメント

タイトルとURLをコピーしました