【戦い・事件編】以仁王の挙兵――77歳の源頼政、宇治橋で平氏に挑む

戦い・事件

第102回

治承4年(1180年)5月26日、源頼政は宇治の平等院で最期を迎えた。

数え77歳。2年前には従三位に昇り、「源三位」と呼ばれた老将である。

保元の乱では後白河天皇方、平治の乱では最終的に平清盛方につき、河内源氏が京都から消えたあとも朝廷に残った。

平氏が最も栄えた時代に、公卿まで昇った数少ない源氏だった。

その頼政が、人生の最後に平氏へ弓を引いた。

頼政が奉じたのは後白河法皇の皇子・以仁王である。

以仁王もまた、天皇の皇子でありながら親王宣下を受けないまま30歳を迎えようとしていた。

前年の治承三年の政変では父・後白河法皇が幽閉され、自身が長く知行してきた常興寺領も失ったとされる。さらに1180年2月、清盛の外孫で数え3歳の安徳天皇が即位した。

4月から5月にかけて、以仁王の名で平氏追討を呼びかける「宮の宣」が動き始める。

計画が露見すると王は園城寺へ逃亡。

平氏は園城寺攻撃の準備を進め、その追討軍の一員には、まだ源頼政の名も入っていた。

ところが5月21日夜から22日未明、頼政は一族を連れて園城寺へ入った。

追う側にいるはずだった77歳の源氏が、突然、追われる側へ回ったのである。

延暦寺の協力は得られず、園城寺にとどまることも難しくなった。

25日夜、以仁王と頼政らは奈良の興福寺を目指して出発する。翌26日、宇治で平氏軍に追いつかれた。

頼政は平等院で自害し、以仁王も南山城まで逃れたところで命を落とす。挙兵は短期間で潰れた。

それでも、この事件は終わらなかった。以仁王の名で発せられた平氏追討の呼びかけは王の死後も各地に残り、その年の夏から東国、甲斐、信濃へと戦乱が広がっていく。

宇治で敗れた反乱が、5年に及ぶ治承・寿永の内乱の入口になった。

30歳になっても「親王」になれなかった後白河法皇の皇子

以仁王は仁平元年(1151年)、後白河天皇の皇子として生まれた。

母は藤原季成の娘・成子。後白河の皇子のなかでは第三皇子とされる。

ただし、以仁王は成人しても親王宣下を受けなかった。

天皇の男子だからといって、自動的に「親王」となるわけではない。朝廷から親王宣下を受けて初めて正式な親王となるため、史料上の以仁王は「王」のまま生涯を終えている。

一方で、皇族としての立場が低かったわけでもない。

以仁王は八条院暲子内親王の猶子となった。

八条院は鳥羽天皇の皇女で、広大な荘園群を持つ有力な皇族である。

八条院領はのちの政治史にも大きな影響を及ぼしており、その周辺には貴族や武士、寺社との広い人脈が形成されていた。

以仁王自身も和歌や笛などに通じた人物として伝わり、「高倉宮」「三条宮」と呼ばれた。

それでも皇位継承からは遠ざかっていく。

大きかったのは、異母弟の憲仁親王が皇位へ進んだことだった。

憲仁親王の母は、平清盛の妻・時子の異母妹にあたる平滋子である。

仁安3年(1168年)、憲仁親王は8歳で即位し、高倉天皇となった。

さらに承安2年(1172年)、清盛の娘・徳子が高倉天皇へ入内する。

治承2年(1178年)11月には徳子が言仁親王を出産し、翌月には皇太子となった。

そして治承4年(1180年)2月21日、高倉天皇が譲位し、言仁親王が安徳天皇として即位した。

数え3歳、満年齢では1歳の幼帝である。

そのころ以仁王は数え30歳を迎えていた。

後白河法皇の皇子でありながら親王宣下も受けず、異母弟の高倉天皇から、さらにその幼い皇子へと皇位が渡っていく。

そこへ前年の治承三年の政変が重なった。

後白河法皇は鳥羽殿へ幽閉され、院近臣の多くが失脚している。

1180年春の以仁王を取り巻く状況には、皇位継承問題と平氏政権への不満が重なっていた。

77歳の源頼政――平氏政権で出世した源氏

以仁王の挙兵を語るうえで欠かせないのが源頼政である。

頼政は長治元年(1104年)生まれ。清和源氏の一流である摂津源氏に属し、父は源仲政だった。

河内源氏の源義朝や、その子の頼朝とは同じ清和源氏ではあるが、系統は異なる。

頼政は若いころから朝廷に仕え、京都の治安維持や警護に関わってきた。

保元元年(1156年)の保元の乱では後白河天皇方に参加する。

3年後の平治の乱では、源義朝が藤原信頼とともに挙兵したが、頼政は最終的に義朝と行動を共にせず、平清盛側についた。

義朝が敗死すると河内源氏の主だった者は京都から姿を消したが、頼政はその後も朝廷に残った。

平氏全盛期になってからも排除されていない。

仁安元年(1166年)には正五位下となり昇殿を許され、その後も官位を上げていく。

治承2年(1178年)には従三位に叙せられ、公卿に列した。

数え75歳での従三位だった。

これによって頼政は「源三位」と呼ばれるようになる。

平氏に圧迫され続けた源氏の老人が、長年の恨みから突然立ち上がった――というだけでは、頼政の経歴を説明できない。

頼政は30年以上にわたって朝廷内部で生き残り、清盛とも正面から敵対せず、平氏政権のもとで従三位まで昇った人物だった。

だからこそ、1180年にその頼政が以仁王側へ移ったことは重い。

「木の下」の歌で三位になった――これは『平家物語』の物語

頼政が従三位になった経緯について、『平家物語』には有名な話がある。

長年三位になれずにいた頼政が、

「のぼるべき たよりなき身は 木の下に
椎を拾ひて 世を渡るかな」

という歌を詠んだという。

「昇進する手立てもない私は、木の下で椎の実を拾って暮らすしかない」という意味を込め、清盛がこれを聞いて頼政の昇進を取り計らったという筋書きである。

頼政が実際に従三位へ昇ったことは確かだが、この歌によって清盛が昇進させたという経緯は『平家物語』の逸話として見る必要がある。

同じように、頼政の子・仲綱が所有していた名馬を平宗盛に奪われ、辱めを受けたことが挙兵の原因になったという話も『平家物語』では大きく扱われる。

宗盛が仲綱の馬を欲しがり、断られると強引に召し上げ、「仲綱」と名付けて人前で恥をかかせた。その屈辱に頼政が怒り、平氏打倒を決意したという。

非常に印象に残る話だが、これだけを頼政挙兵の原因とすることはできない。

治承三年の政変後、朝廷の政治そのものが大きく変わっていた。後白河院政は停止し、1180年2月には幼い安徳天皇が即位する。

頼政は長年、朝廷の内側で活動してきた武士である。

その頼政が最後に以仁王と結びついた背景は、一頭の馬をめぐる私怨だけで説明できるものではない。

4月、以仁王は平氏追討を呼びかける

『吾妻鏡』は治承4年(1180年)4月9日付として、以仁王が諸国の源氏や武士たちへ平氏追討を呼びかけた令旨を載せている。

その内容は激しい。

平清盛やその一族を朝廷の秩序を乱す存在として挙げ、諸国の源氏や武勇の者たちに追討への参加を求める。以仁王自身も「最勝親王」を称し、平氏を倒したのちの政治秩序まで意識した内容になっている。

この令旨を各地へ運んだ人物として『吾妻鏡』に登場するのが源行家である。

行家は源為義の子で、源義朝の弟。したがって源頼朝にとっては叔父にあたる。

『吾妻鏡』によると、4月27日、行家は伊豆に流されていた源頼朝へ以仁王の令旨を届けた。

この4月9日付令旨は、治承・寿永の内乱を考えるうえで非常に重要な文書である。

ただし注意も必要になる。

『吾妻鏡』そのものが1180年に書かれた同時代の日記ではなく、鎌倉幕府成立後かなり時間がたってから編纂された史書である。現在伝わる令旨の文面についても、その書式や成立過程をめぐって古くから議論があり、「そのまま1180年4月9日の原文」と扱えるかどうかは研究者の間でも意見が分かれてきた。

一方、以仁王による「宮の宣」が諸国へ伝えられ、のちの反平氏運動に利用されたこと自体は、『愚管抄』など別系統の史料からも読み取れる。

以仁王側が諸国へ働きかけ、源氏をはじめとする武士に平氏への蜂起を促した。その動きが1180年の各地の挙兵と結びついたことは押さえておきたい。

計画発覚――以仁王の屋敷へ検非違使が向かう

計画は平氏側に知られた。

以仁王を捕らえる動きが始まり、朝廷では以仁王から皇族としての身分を奪い、「源以光」の名を与えて土佐へ流す処置が進められた。

以仁王は捕縛される前に京都を脱出する。

『平家物語』では、女房姿に身を変えて夜の京都を抜けたと描かれる。

ここも軍記らしい場面として読む必要があるが、以仁王が京都から逃れて園城寺へ入ったことは事件の流れとして確認できる。

園城寺は現在の滋賀県大津市にある三井寺である。

当時の寺院は僧侶が経を読むだけの場所ではなかった。

広大な所領を持ち、多数の僧兵を抱え、朝廷の政治にも強い影響力を持つ。

園城寺は比叡山延暦寺と長年対立を繰り返してきた。

以仁王はここで園城寺の大衆を味方につけ、平氏軍を迎え撃とうとした。

そして源頼政も決断する。

5月22日ごろ――頼政、一族を率いて以仁王へ合流

以仁王が園城寺へ逃れたあと、平氏側は武力で寺を攻める準備に入った。

ここで頼政の立場を見ると、事件の意外さがよく分かる。

園城寺攻撃軍の大将として挙げられた顔ぶれのなかに、平宗盛、頼盛、教盛、知盛、重衡、維盛ら平氏一門と並んで、源頼政も入っていた。

平氏側は、この時点まで頼政を敵として扱っていなかったのである。

ところが5月21日夜から22日未明、頼政は近衛河原の邸を離れ、子の仲綱や兼綱ら一族を率いて園城寺へ入った。平氏の追討軍に加わるはずだった老将が、攻撃される寺へ走った。

『玉葉』などから見ても、頼政の離反は京都に大きな衝撃を与えた。

頼政が早くから以仁王と謀議していたという『平家物語』『吾妻鏡』の筋書きと、最後まで平氏側から追討軍に数えられていた事実をどうつなぐかは、研究上も論点になっている。

頼政本人が「なぜ平氏を見限ったのか」を説明した史料は残らない。宗盛に名馬を奪われたから、源氏の衰退を嘆いたから、と原因を一つに決めることはできない。

確かなのは、平氏政権のなかで従三位まで昇った頼政が、77歳でそれまで築いた立場を捨てたことである。

園城寺側は延暦寺と興福寺にも協力を求めた。興福寺には以仁王を支持する動きがあったが、延暦寺は最終的に全面参加しなかった。平氏側も比叡山へ働きかけ、園城寺は孤立を深めていく。

25日、以仁王と頼政は園城寺を出て、援軍が期待できる興福寺へ向かうことを決めた。

5月25日夜――三井寺を出て奈良へ

5月25日の夜、以仁王と頼政らは園城寺を出発した。

目指すのは興福寺である。

現在の大津から奈良へ向かうには、山科方面から京都盆地の東側を南下し、宇治を通る道がある。

以仁王一行は夜を徹して進んだ。

『平家物語』では、以仁王が長い逃避行に疲れ、途中で何度も落馬したと描く。日ごろ馬で長距離を走る生活をしていない皇族にとって、夜通しの移動は厳しかっただろう。

追う平氏軍との距離を考えれば、休んでいる余裕はない。

一行は翌26日、宇治へ到着する。

奈良まではまだ30キロほど残っていた。

その宇治で追討軍が迫った。

宇治橋――頼政は橋板を外して平氏軍を待った

宇治川は京都盆地から南へ向かううえで大きな障害になる。

現在の宇治橋周辺には古代から橋が架けられており、京都と南山城・奈良を結ぶ重要な交通路だった。

頼政らは宇治川を渡ったあと、追撃を遅らせるため宇治橋の橋板を外したと伝わる。

完全に橋そのものを壊したわけではなく、橋桁などを残して通行しにくくした形である。

頼政たちは川の南側に陣取り、平氏軍を迎えた。

『平家物語』は平氏側の大軍を非常に大きな兵数で記すが、その数字をそのまま実数とは扱えない。

平氏軍には平知盛、平重衡、平維盛ら一門の有力者が参加したとされる。

対する以仁王・頼政側は、頼政一族と園城寺から同行した僧兵が中心だった。

兵力差は大きかったと考えてよい。

頼政側にとって宇治川は、その差を埋めるために使える数少ない地形だった。

狭い橋から敵が渡ってくるなら、大軍でも一度に攻撃できる人数は限られる。

ここで『平家物語』屈指の戦闘場面が始まる。

筒井浄妙――矢を24本放ち、橋の上で戦う

園城寺の僧兵・筒井浄妙明秀は、橋桁の上へ進み出て矢を放ったという。

『平家物語』では24本の矢のうち、12本で12人を射殺し、11本で11人を負傷させる。残る1本を持ったまま弓を捨て、薙刀へ持ち替え、それも折れると太刀を抜いた。

その背後から一来法師が来る。狭い橋の上では浄妙が前を塞いでいて進めない。

「悪しう候、浄妙坊」

一来法師はそう声をかけ、浄妙の兜に手をつくと、その肩を飛び越えて敵の前へ躍り出たと語られる。

この場面は戦場の地形をよく生かしている。橋板を外した狭い宇治橋では、大軍でも一度に押し寄せられない。橋桁一本をめぐり、一人ずつが前へ出る戦いとして描くことができた。

頼政側が欲しかったのは時間だった。ここで平氏軍を止めている間に、以仁王を興福寺へ近づけたい。奈良まで届けば、まだ戦いを続けられる可能性が残っていた。

平氏軍、宇治川を渡る

橋だけを守っていれば勝てるわけではなかった。

宇治川には流れがあり、渡河は危険だったものの、場所を選べば馬で渡れる地点もある。

『平家物語』では、足利忠綱らが川へ馬を乗り入れて渡河し、それを見た平氏軍が次々に続いたと描かれる。

この渡河の細部や登場人物については軍記の脚色を考える必要があるが、平氏軍が最終的に宇治川を突破したことは戦いの結果から明らかである。

頼政側の防御線は崩れた。

一行は宇治橋の南西にある平等院へ退く。

現在は十円硬貨の鳳凰堂で知られる平等院だが、当時も藤原氏ゆかりの大寺院であり、宇治川のすぐ南に位置していた。

ここが頼政最後の場所になる。

息子たちが次々に倒れ、頼政は平等院へ

平氏軍が宇治川を渡ると、戦場は平等院周辺へ移った。

頼政の子たちも戦う。

長男の仲綱をはじめ、頼政一族から多くの死者が出た。

頼政自身はすでに数え77歳である。

保元の乱から24年、平治の乱から21年がたっていた。

『平家物語』では、戦いのなかで頼政も傷を負い、もはや脱出できないと悟って平等院の一角へ退いたとする。

そこで家人の渡辺唱に介錯を命じた。

頼政が最期に詠んだとして伝わる歌がある。

「埋木の 花咲く事も なかりしに
身のなる果は あはれなりける」

長い人生を、花を咲かせることのなかった埋もれ木に重ねた歌である。

頼政は従三位まで昇った人物なので、「一度も報われなかった人生」と読むと実際の経歴とは合わない。

この辞世を含む最期の描写は『平家物語』によって形作られた部分が大きい。

ただし、頼政が5月26日に宇治で敗れ、平等院で命を落としたこと自体は動かない。

77年の生涯はここで終わった。

以仁王は奈良へ逃げた――平等院では死んでいない

頼政が平等院で死んだあとも、以仁王は生きていた。

ここは「以仁王と頼政が平等院でともに討死した」と一括りにすると正確ではない。

頼政らが宇治で平氏軍を食い止める間、以仁王は奈良を目指してさらに南へ逃れた。

興福寺までたどり着ければ、僧兵の援護を受けられる可能性がある。

宇治から奈良までは直線距離でも25キロ以上ある。

夜通し園城寺から移動し、そのうえ宇治で戦闘に巻き込まれたあとでの逃走だった。

平氏軍は追撃を続ける。

以仁王は南山城まで進んだが、興福寺へ到達することはできなかった。

現在の京都府木津川市付近で追いつかれ、討ち取られたとされる。

数え30歳だった。

後白河法皇の皇子として生まれながら親王宣下を受けず、最後には自ら平氏追討を掲げて兵を挙げた生涯だった。

以仁王の挙兵は、わずか数日で敗れた

軍事的に見れば、以仁王と頼政の挙兵は失敗だった。

京都を奪うこともできず、清盛を倒すこともできない。

期待した寺社勢力をすべて味方につけることもできず、園城寺を出てからわずか1日ほどで頼政は宇治に倒れ、以仁王も追撃を受けて死亡した。

平氏政権はそのまま残った。

むしろ清盛はこの事件のあと、反抗した寺社への圧力を強めていく。

しかし、この事件には別の結果が残った。

以仁王側が平氏追討を諸国へ呼びかけたことである。

京都の反乱は鎮圧できても、すでに外へ出た呼びかけまで回収することはできなかった。

4月27日、令旨は伊豆の頼朝へ届いたと『吾妻鏡』は記す

『吾妻鏡』によれば、源行家が伊豆の源頼朝を訪れたのは4月27日だった。

頼朝は源義朝の三男で、平治の乱後に伊豆へ流されてから20年近くがたっていた。

この時点ですぐに挙兵したわけではない。

5月に以仁王・頼政が敗死したあとも、頼朝は伊豆にいる。

それでも令旨を受けたことは、頼朝が兵を挙げる際の一つの根拠となっていく。

そして8月、頼朝は伊豆国の山木兼隆を襲撃する。

甲斐では武田信義ら甲斐源氏が動き、信濃では木曾義仲が勢力を広げる。

反平氏の動きは、頼朝だけに限られなかった。

以仁王本人が想定していた通りの形で全国の源氏が統一して動いたわけでもない。各地の武士には、それぞれ所領争いや国衙との対立、地域内の利害関係があった。

それでも「以仁王の令旨」は、それぞれの勢力が兵を挙げる際に利用できる政治的な旗印になった。

宇治橋で勝った平氏は、なぜ戦争を終わらせられなかったのか

前年11月の治承三年の政変では、清盛が数千の兵を京都へ入れ、関白を替え、院近臣を大量に解官し、後白河法皇まで幽閉した。それでも京都で清盛へ正面から武器を向ける勢力は現れなかった。

半年後、その状況が崩れた。

後白河法皇の皇子が平氏追討を掲げ、平治の乱以来20年以上も平氏政権のなかで生きてきた77歳の源頼政が一族を連れて離反した。園城寺が王を受け入れ、興福寺も動き、平氏追討の呼びかけは京都の外へ流れていった。

清盛は5月26日の戦いには勝った。頼政は平等院で死に、以仁王も南山城で討たれた。

だが、その夏には頼朝が伊豆で挙兵する。10月には富士川まで東国の軍勢が進み、信濃では木曾義仲が勢力を伸ばす。戦いは近江、美濃、北陸、西国へも広がっていった。

宇治橋で倒れたのは以仁王と頼政だった。

しかし、二人が掲げた平氏追討の旗まで、宇治で倒すことはできなかったのだ。

『平家物語』をこれから読んでみたい人におすすめの入門書です。以仁王の挙兵や宇治橋合戦、源頼政の最期をはじめ、平氏の栄華から滅亡までを現代語訳で読みやすくたどれます。原文は少し難しそう……という人でも入りやすい一冊です。

 
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