第117回
寿永2年(1183年)5月11日、加賀と越中の国境に連なる砺波山で、木曾義仲と平氏の北陸道追討軍が激突した。
平氏軍を率いていたのは、平重盛の嫡男・維盛をはじめ、通盛、知度、経正、行盛ら一門の武将たちである。
彼らは4月に京都を発ち、越前へ進軍した。
27日には義仲方が守る火打城を攻略し、そのまま加賀へ入っている。
ここまでは平氏軍の進撃が続いていた。
その軍勢を待ち受けたのが木曾義仲だった。
現在の富山県小矢部市と石川県津幡町の境にある倶利伽羅峠。
山の尾根には北陸道が通り、その両側には急な斜面と谷が続く。
この山中で平氏軍は大敗する。
『平家物語』が「倶利伽羅落とし」と描き、後世の『源平盛衰記』が「火牛の計」を伝えた、木曾義仲最大の勝利の一つである。
火打城を突破した平氏軍
平氏が北陸道への本格的な追討軍を送り出したのは、寿永2年4月だった。
北陸では1181年以来、平氏に反発する勢力が活発に動いていた。
越前では平通盛の軍が敗れ、信濃では同年6月の横田河原の戦いで、越後の城資職が義仲らの軍に敗れている。
その後も北陸の情勢は平氏にとって安定しなかった。
1183年になると、平氏は維盛ら一門の武将を北陸道へ向かわせる。
『平家物語』は、この追討軍を10万余騎と記している。
軍勢は近江から越前へ入り、4月27日に火打城を落とした。
火打城には平泉寺長吏斎明、稲津実澄、富樫入道仏誓、石黒、宮崎ら北陸各地の武士が集まり、『平家物語』では6000余騎が籠もったとされる。
城兵は川をせき止めて水をため、平氏軍の接近を防いだ。ところが斎明が平氏へ内通し、堰を切る方法を知らせる。
水が引いたところへ平氏軍が攻め込み、城兵は加賀方面へ退いた。
越前を抜けた平氏軍は、北陸道をさらに北へ進んだ。
平氏軍は二手に分かれた
『平家物語』によれば、5月8日、加賀の篠原付近まで進んだ平氏軍は二手に分かれた。
一方は平維盛、平通盛らが率いて砺波山へ向かい、もう一方は平忠度、平知度らが能登方面へ進んだ。
越中へ入るには山を越えなければならない。
砺波山を通る道の一つが倶利伽羅峠だった。
現在の倶利伽羅峠周辺も尾根と谷が複雑に入り組んでいる。
後世には加賀藩の参勤交代にも使われた街道が通り、古くから加賀と越中を結ぶ交通の要地だった。
寿永2年の戦いにちなむ史跡も現在まで残されている。
義仲は平氏軍が迫っていることを知り、信濃から越中へ向かった。
義仲軍には、信濃から従ってきた今井兼平、樋口兼光、根井行親らに加え、北陸の武士たちも加わっていた。
砺波山で本隊同士がぶつかる前に、越中側ではすでに戦いが始まっていた。
今井兼平、般若野で平氏軍を破る
『平家物語』では、平氏軍の先遣隊5000余騎が越中の般若野へ進んだとする。
義仲方から向かったのは今井四郎兼平だった。
兼平は義仲と同じ信濃で育ち、のちに粟津の戦いまで行動をともにする武将である。
『平家物語』によれば、兼平は6000余騎を率いて般若野へ向かい、夜明けに平氏軍へ攻めかかった。
平氏側は支えきれず、加賀方面へ退いた。
般若野で戦ったのは先遣隊であり、維盛らの主力は砺波山方面に展開している。
兼平も義仲のもとへ合流した。
5月11日、戦場は加賀・越中国境の山中へ移る。
義仲、埴生八幡宮へ
砺波山へ向かう義仲は、越中の埴生を通った。
現在の富山県小矢部市埴生である。
そこに八幡神を祀る社があった。
『平家物語』によれば、社を見つけた義仲は馬から下り、戦勝を祈願した。
願書を書いたのは、義仲に従っていた覚明である。
覚明はもと僧侶で、義仲の軍中では文書作成にも携わっていた。
『平家物語』には、このとき八幡神へ奉ったとする長い願書が収められている。
現在の埴生護国八幡宮には、寿永2年5月の倶利伽羅合戦を前に義仲が戦勝を祈願したとの伝承が残る。現在の社殿は後世の建築だが、義仲との縁は長く語り継がれてきた。
祈願を終えた義仲は砺波山へ向かった。
平氏軍はすでに山中に陣を構えていた。
5月11日、砺波山で両軍が向かい合う
『平家物語』は、砺波山方面へ進んだ平氏軍を7万余騎と記す。
義仲も軍勢を分けて山中へ配置した。
『平家物語』では、義仲方が正面から平氏軍に対しながら、別の部隊を山道から迂回させ、平氏軍の後方へ回した様子が描かれている。
日中から両軍の接触が始まった。
義仲方は矢を射かけ、平氏方も応戦する。
大軍同士が一度にぶつかる形にはならず、山中で対峙したまま時間が過ぎていった。
やがて日が傾いた。
『平家物語』では、義仲は日没が近づくまで平氏軍をその場にとどめ、暗くなったところで軍勢を動かしている。
山道を回っていた部隊も平氏軍の後方へ迫った。
前には義仲の軍。
加賀へ戻る道にも敵兵が現れる。
夜になり、山の前後から鬨の声が上がった。
平氏軍は暗い砺波山の中で戦うことになった。
倶利伽羅落とし
『平家物語』が伝える倶利伽羅合戦の中でも、最も激しい場面が夜の退却である。
前後から攻められた平氏軍は、加賀方面へ退こうとした。
多くの兵と馬が狭い山道へ集まり、軍勢の列が乱れる。暗闇のため足元も見えにくい。山道の外には急斜面と谷が続いていた。
退く兵が重なり、後方からも人馬が押し寄せる。
『平家物語』は、先に進んだ者が深い谷へ落ち、後ろから来た者も次々と続き、谷が人馬で埋まるほどだったと描いている。
これが後世「倶利伽羅落とし」と呼ばれる場面である。
維盛や通盛らは戦場から脱出したものの、平氏軍は大きく崩れた。
京都にも間もなく敗報が届く。
公家の九条兼実は『玉葉』に、北陸へ向かった平氏軍が義仲らに敗れたとの情報を書き留めている。
『平家物語』が残した山中の夜戦の描写とは別に、平氏の北陸道追討軍がこの時期に大敗したことは、京都側の記録からも追うことができる。
『源平盛衰記』が伝える「火牛の計」
倶利伽羅峠の戦いには、もう一つ有名な物語が残っている。
牛の角に松明を結びつけ、平氏軍へ突入させたという「火牛の計」である。
この場面を伝えるのは、後世に成立した『源平盛衰記』だ。
同書では、義仲が四、五百頭の牛を集め、その角に松明を燃やして平氏の陣へ追い入れたと描く。
暗い山中を、角に炎を掲げた牛の群れが走る。
平氏の兵馬は驚いて崩れ、逃げようとした者が倶利伽羅の谷へ落ちていく。
『平家物語』の「倶利伽羅落とし」には火牛は登場せず、『源平盛衰記』になるとこの鮮烈な場面が加わる。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースでも、『新定源平盛衰記』の「礪並山合戦の事」に四、五百頭の牛と松明の記述があることが確認されている。
火牛の姿は後世の絵にも描かれ、倶利伽羅合戦を代表する逸話として広く知られるようになった。
現在の小矢部市も、『源平盛衰記』に記された火牛の計を倶利伽羅古戦場の伝承として紹介している。
砺波山から逃れた維盛
砺波山を脱出した平維盛らは加賀へ退いた。
4月27日に火打城を落としてから、まだ半月ほどしかたっていない。
越前から加賀へ進み、越中を目前にしたところで追討軍は大きな損害を受けた。
義仲軍は逃げる平氏軍を追って山を越えた。
追撃を受ける平氏軍の中には、斎藤別当実盛がいた。
実盛は武蔵国長井荘を本拠とした老武者で、かつて幼い義仲の命を救い、信濃へ送り出すことに関わった人物として『平家物語』に登場する。
その実盛が、今度は平氏方の武将として義仲軍を迎えることになる。
戦場は加賀国篠原へ移った。
倶利伽羅の敗報、京都へ
砺波山での敗北は京都にも伝わった。
『玉葉』を書いた九条兼実のもとにも、北陸道追討軍敗北の情報が届いている。
平氏は北陸を押さえるため維盛らを送り出したばかりだった。
越前では火打城を攻略し、加賀まで軍を進めた。それが砺波山で義仲軍に敗れ、維盛らは京都へ向かって退くことになる。
義仲は反対に北陸道を西へ進んだ。
まず待っているのは加賀国篠原。
そこでは、髪を黒く染めて戦場へ出たと『平家物語』に語られる斎藤実盛が、義仲軍の前に立つ。
倶利伽羅峠の戦いから間もなく、平氏軍は再び義仲軍と戦うことになる。
木曾義仲をもっと深く知りたい方へ
横田河原から倶利伽羅峠、そして京都へ――。平氏を北陸で破り、一気に歴史の表舞台へ駆け上がった木曾義仲。その生涯や頼朝との関係まで詳しく知りたい方には、『木曽義仲』がおすすめです。


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