第19回
645年6月12日。
飛鳥板蓋宮に、蘇我入鹿の姿があった。
『日本書紀』は入鹿を疑い深い人物とし、昼夜を問わず剣を身につけていたと記している。
中臣鎌足は、そのことを知っていた。
そこで俳優に働きかけ、入鹿が笑った隙に剣を外させたという。
宮中では三韓の上表文を読み上げる準備が進み、中大兄皇子は衛門府に命じて十二の門を閉じさせた。
中大兄皇子は長槍を持って殿側に潜む。
中臣鎌足らも弓矢を手に待っていた。
入鹿を斬る役目を与えられた佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田は、入鹿の威勢を恐れて動けない。
『日本書紀』は、二人が恐怖のあまり、飯を水で流し込もうとして吐き戻したとまで記している。
その入鹿へ最初に飛び出したのは、中大兄皇子だった。
頭と肩を斬られ、さらに脚を傷つけられた入鹿は、皇極天皇の御座へ進み出た。
そして皇位継承について訴えたうえで、自分には何の罪があるのか、どうか審理してほしいと訴えた。
その願いが受け入れられることはなかった。
佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田によって、入鹿は宮中で斬られた。
『日本書紀』は、この男について「自ら国政を執り、その威勢は父に勝った」と記している。
祖父・蘇我馬子から父・蘇我蝦夷へ受け継がれた政治的基盤を背景に、皇極朝で大きな力を握った蘇我入鹿。
その入鹿は、なぜ山背大兄王一族を滅ぼし、そのわずか2年後に宮中で殺されたのか。
蘇我馬子の孫、蘇我蝦夷の子
蘇我入鹿の生年は分かっていない。
父は蘇我蝦夷。
祖父は蘇我馬子である。
蘇我氏は馬子の時代に朝廷で強大な勢力を築いた。
587年、馬子は物部守屋との戦いに勝利する。
592年には崇峻天皇暗殺に関与し、その後に推古天皇が即位した。
推古朝では厩戸皇子とともに政治の中心に立ち、626年に死去するまで大臣を務めた。
その地位を受け継いだのが、入鹿の父・蝦夷だった。
628年に推古天皇が死去すると、皇位継承をめぐって田村皇子と山背大兄王が有力候補となった。
群臣の意見は割れ、蘇我氏内部でも境部摩理勢が山背大兄王を支持した。
最終的に田村皇子が629年に即位する。
第34代・舒明天皇である。
入鹿が後に滅ぼす山背大兄王は、この時点ですでに皇位継承をめぐる政局の中心にいた。
『藤氏家伝』に残る若き入鹿
入鹿の若いころについて、『日本書紀』はほとんど記していない。
一方、奈良時代に成立した藤原氏の家伝『藤氏家伝』には、若い入鹿を伝える記事が残されている。
入鹿は僧・旻の学堂で学んでいた。
旻は遣隋使に従って大陸へ渡り、長く学んだ後に帰国した僧である。
『藤氏家伝』によれば、旻の学堂には有力者の子弟たちが集まり、『周易』を学んでいた。
その中で旻は、「宗我太郎」に及ぶ者はいないという趣旨の評価をしている。
この宗我太郎が入鹿である。
『藤氏家伝』は藤原氏の家伝として後世に編纂された史料であり、入鹿の同時代記録ではない。
それでも、後世に強権的な人物として描かれる入鹿について、学問の場で高く評価されたという姿も伝えられている。
642年――「威は父に勝る」
641年10月。
舒明天皇が死去した。
翌642年1月、舒明天皇の皇后だった宝皇女が即位する。
第35代・皇極天皇である。
父・蝦夷は引き続き大臣だった。
ところが『日本書紀』は、皇極天皇即位の記事で入鹿について強い言葉を残している。
入鹿が自ら国政を執り、その威勢は父を上回ったという。
盗賊さえ恐れ、道に落ちた物を拾わなかったとも記されている。
蝦夷がまだ大臣の地位にありながら、その息子である入鹿が国政へ大きな影響力を持っていた。
入鹿の台頭は、山背大兄王襲撃が起こる643年より前から始まっていた。
父子のために造られた「大陵」と「小陵」
同じ642年。
父・蝦夷は、国中の民と百八十の部曲を動員し、今来に二つの墓を造らせた。
蝦夷の墓を「大陵」。
入鹿の墓を「小陵」と呼んだ。
『日本書紀』によれば、その目的は父子が死んだ後に人々を墓造営へ駆り出さないためだった。
ところが墓造営には、山背大兄王ら上宮王家に属する乳部の人々まで動員された。
これに上宮大娘姫王が怒った。
『日本書紀』は彼女の言葉を通じ、蝦夷・入鹿父子の政治を厳しく批判している。
蘇我本宗家が滅亡した後に成立した『日本書紀』の叙述であることには注意が必要だが、蝦夷と入鹿が大規模な人員を動員できる立場にあったことを伝える記事でもある。
643年――入鹿へ渡された紫冠
643年10月。
父・蝦夷は病気を理由に朝廷へ出なくなった。
その際、蝦夷は息子・入鹿へ私的に紫冠を授けた。
『日本書紀』は「大臣の位に擬した」と記している。
天皇による正式な大臣への任命ではない。
蝦夷が自らの権威によって、入鹿を大臣に相当する立場へ置いたのである。
さらに入鹿の弟を「物部大臣」と呼ばせたとも記されている。
父から息子への権力継承は、ここまで進んでいた。
そして同じ月。
入鹿は山背大兄王の排除へ動き始める。
入鹿はなぜ山背大兄王を狙ったのか
山背大兄王は、厩戸皇子の子である。
母・刀自古郎女は蘇我馬子の娘だった。
628年の推古天皇死後には、田村皇子と並ぶ皇位候補として名前が挙がっている。
『日本書紀』は643年10月、入鹿が上宮王らを廃し、古人大兄皇子を天皇に立てようと企てたと記している。
さらに、上宮王らの威名が天下に広がっていることを深く忌んだとも記す。
古人大兄皇子は舒明天皇の皇子だった。
その母・法提郎女も蘇我馬子の娘である。
『日本書紀』の記述に従えば、入鹿は古人大兄皇子の擁立を企て、その中で上宮王家を排除しようとした。
入鹿本人が残した言葉や記録は伝わっていない。
山背大兄王襲撃の目的について分かるのは、『日本書紀』が入鹿を事件の中心人物として描き、古人大兄皇子擁立と上宮王家への警戒を理由として挙げていることまでである。
643年11月1日――斑鳩を襲撃
643年11月1日。
入鹿は巨勢徳太臣と土師娑婆連らに兵を率いさせ、斑鳩にいた山背大兄王を襲撃した。
戦いは簡単には終わらなかった。
山背大兄王側では、奴の三成が数十人の舎人とともに抵抗した。
三成は奮戦する。
土師娑婆連は矢を受けて死亡し、攻撃側の兵は恐れて退いた。
『日本書紀』は、兵たちが三成を「一人で千人に当たる」と評したと伝えている。
山背大兄王は馬の骨を寝殿へ投げ込み、妃や子弟らを率いて宮殿を脱出した。
攻撃側は斑鳩宮を焼き、灰の中に残された骨を見て山背大兄王が死んだと思った。
しかし王は生きていた。
家族や側近とともに生駒山へ逃れていたのである。
入鹿、自ら生駒山へ向かおうとする
山背大兄王を山中で見た者が、そのことを入鹿へ知らせた。
『日本書紀』は、入鹿がこれを聞いて大いに恐れ、ただちに軍勢を出したと記している。
高向国押に山背大兄王を捜索するよう命じたものの、国押は天皇の宮を守っていることを理由に断った。
すると入鹿は、自ら生駒山へ向かおうとした。
その入鹿を止めたのが、古人大兄皇子だった。
古人大兄皇子は入鹿に対し、鼠は穴に伏して生き、穴を失えば死ぬという趣旨の言葉を述べた。
入鹿は自ら出向くことをやめ、軍勢に捜索させた。
しかし山背大兄王を見つけることはできなかった。
王とその一行は4、5日ほど山中に留まり、食事も取れない状態が続いた。
山背大兄王は戦うことを選ばなかった
山中で身を潜めていた山背大兄王に、側近の三輪文屋が進言した。
深草屯倉へ向かい、そこから馬で東国へ行く。
そして乳部の民を基盤として兵を起こし、入鹿と戦う。
三輪文屋は、そうすれば勝利できると訴えた。
山背大兄王も、兵を起こして入鹿と戦えば勝利できると認めた。
それでも戦わなかった。
自分一人のために多くの民を苦しめたくない。
自分のために父や母を失う者を出したくない。
山背大兄王はそうした趣旨を語った。
やがて山を下り、斑鳩寺へ戻る。
入鹿側の軍勢は寺を包囲した。
山背大兄王は、子弟や妃たちとともに自ら命を絶った。
厩戸皇子を祖とする上宮王家は、ここで壊滅した。
父・蝦夷が入鹿を叱りつける
上宮王家滅亡の知らせを聞いた父・蝦夷は、入鹿を激しく叱責した。
『日本書紀』によれば、蝦夷は入鹿に対し、あまりにも愚かで、暴悪をほしいままにした、お前自身の命も危ういではないかという趣旨の言葉を浴びせている。
入鹿へ紫冠を与え、大臣に相当する立場へ押し上げたのは蝦夷だった。
その蝦夷が、山背大兄王一族を滅ぼした息子を激しく非難した。
『日本書紀』の記述に従う限り、山背大兄王襲撃をめぐる父子の判断は一致していなかった。
この事件から約1年半後。
入鹿自身の命が狙われることになる。
644年――甘樫丘の邸宅
644年11月。
蝦夷と入鹿は甘樫丘にそれぞれ邸宅を築いた。
『日本書紀』は、蝦夷の家を「上宮門」、入鹿の家を「谷宮門」と呼んだと記している。
さらに、そこに仕える男女を「王子」と呼ばせたという。
邸宅の外には城柵を設け、門のそばには兵庫を置いた。
各門には火災に備えて水を入れた舟や木鉤を用意し、力の強い者たちに武器を持たせて警護させた。
『日本書紀』が描く甘樫丘の邸宅は、武器と警護の人員を備えたものだった。
入鹿の権勢が大きくなる一方で、その入鹿を排除しようとする動きも進んでいた。
中臣鎌足と中大兄皇子
入鹿に対抗する側の中心となったのが、中臣鎌足と中大兄皇子だった。
『日本書紀』によれば、鎌足は蘇我氏本宗家を倒すことを考え、中大兄皇子へ接近した。
法興寺の槻の木の下で蹴鞠をしていたとき、中大兄皇子の革靴が脱げた。
鎌足が拾って差し出したことをきっかけに、二人は親しくなったという。
二人は南淵請安のもとへ学びに通う道中で、密かに相談を重ねた。
計画には蘇我倉山田石川麻呂も加わった。
石川麻呂は蘇我氏の一族である。
入鹿を倒そうとする側にも、同じ蘇我氏の人間がいた。
645年6月。
計画は実行に移された。
645年6月12日――十二の門が閉ざされる
皇極4年6月12日。
皇極天皇が大極殿へ出御し、古人大兄皇子もその場にいた。
入鹿も宮中へ入る。
『日本書紀』は入鹿について、疑い深く、昼夜を問わず剣を身につけていたと記している。
中臣鎌足はそれを知っていた。
そこで俳優に働きかけ、入鹿が笑った隙に剣を外させたという。
倉山田石川麻呂が三韓の上表文を読み始めた。
その間に中大兄皇子は衛門府へ命じ、十二の門を一斉に閉ざした。
人の出入りは止められた。
中大兄皇子は長槍を手に殿側へ潜む。
鎌足らは弓矢を持って備えた。
海犬養勝麻呂は、箱に入れていた二振りの剣を佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田へ渡した。
二人には、入鹿を斬る役目が与えられていた。
しかし動けなかった。
入鹿の威勢を恐れていた。
『日本書紀』は、子麻呂らが飯を水で流し込もうとしたものの、恐怖のあまり吐き戻したと記している。
鎌足は二人を叱咤した。
その間も、石川麻呂は上表文を読み続けていた。
読み終わりが近づいても襲撃が始まらない。
石川麻呂は全身に汗を流し、声が乱れ、手まで震えた。
入鹿は異変に気づいた。
なぜ震えているのか。
石川麻呂は、天皇の近くにいることを畏れ、知らずに汗が出たのだと答えた。
入鹿の目の前で、計画は限界まで迫っていた。
中大兄皇子が入鹿へ斬りかかる
佐伯子麻呂らが恐れて進めないのを見た中大兄皇子は、自ら飛び出した。
子麻呂らも続く。
不意を突かれた入鹿は、頭と肩を斬られた。
驚いた入鹿は立ち上がる。
佐伯子麻呂が再び剣を振るい、入鹿の片脚を傷つけた。
入鹿は倒れながら皇極天皇の御座へ進み、頭を下げた。
そして皇位継承について訴えたうえで、自分には何の罪があるのか、どうか審理してほしいと訴えた。
皇極天皇は驚き、中大兄皇子に何をしているのかと尋ねた。
中大兄皇子は、入鹿が皇族を滅ぼし、皇位を傾けようとしていると奏上した。
皇極天皇は立ち上がり、殿内へ入った。
佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が、入鹿を斬った。
蘇我入鹿は、皇極天皇のいる宮中で殺された。
雨の板蓋宮
その日は雨が降った。
『日本書紀』は、雨水が庭にあふれたと記している。
入鹿の遺体には席障子がかけられた。
古人大兄皇子は入鹿が殺されたのを見ると自分の宮へ走り去り、門を閉ざして外へ出なかった。
中大兄皇子は法興寺へ入る。
皇子、王、群臣らが次々と中大兄皇子側へ集まった。
入鹿の遺体は、父・蝦夷のもとへ送られた。
蘇我入鹿の生涯は、645年6月12日、ここで終わった。
入鹿の死から一日後
入鹿の遺体を受け取った蝦夷のもとには、東漢氏らが集まった。
彼らは一族を集め、甲冑を身につけ、武器を手にして軍陣を構えた。
まだ抵抗する力は残されていた。
しかし中大兄皇子側から説得が行われると、蝦夷側は崩れ始める。
高向国押は東漢氏らに対し、入鹿のために自分たちまで処刑されることになる、蝦夷も今日か明日には討たれるのに、誰のために戦って皆殺しになるのかという趣旨の言葉を語った。
そして剣を外し、弓を投げ捨てて立ち去った。
兵たちも後に続いた。
翌6月13日。
『日本書紀』は、蝦夷らが処刑されようとするなか、『天皇記』『国記』と珍宝を焼いたと記している。
船史恵尺は燃やされようとしていた『国記』を取り出し、中大兄皇子へ献上した。
蝦夷もこの日、自害した。
蘇我氏そのものが消えたわけではない。
乙巳の変に加わった蘇我倉山田石川麻呂をはじめ、蘇我氏の諸系統はその後も朝廷に残った。
政治の中心から消えたのは、馬子から蝦夷、入鹿へ続いた蘇我本宗家だった。
入鹿について伝わる記録の中心となる『日本書紀』が完成したのは720年。
入鹿の死から75年後である。
その『日本書紀』は、入鹿を父以上の威勢を持ち、上宮王家を滅ぼした人物として描いた。
一方、『藤氏家伝』には、若い入鹿が旻の学堂で高い評価を受けたという姿も残っている。
645年6月12日。
皇極天皇の前で刃を受けた入鹿は、自分の罪を問い、審理を求めた。
その日の雨の中、入鹿の遺体は席障子に覆われ、父・蝦夷のもとへ送られた。
そして翌日、蝦夷も死んだ。
馬子から蝦夷、入鹿へ受け継がれてきた蘇我本宗家の政治的な権勢は、二日間で崩れ去った。
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蘇我入鹿が生きた飛鳥の地。
今もその土地には、古代の歴史を感じられる場所が残っています。
そんな「飛鳥」を感じながら、奈良のお菓子を楽しんでみるのも面白いかもしれません。
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