第22回
645年6月12日。
飛鳥板蓋宮で、中大兄皇子は長槍を手にして蘇我入鹿を待っていた。
皇極天皇が見守る宮中で入鹿が殺され、翌日には父・蘇我蝦夷も死んだ。
中大兄皇子は、この乙巳の変の中心人物だった。
ところが、政変後に皇位についたのは中大兄皇子ではない。
叔父の軽皇子が孝徳天皇として即位し、中大兄皇子は皇太子となった。
654年に孝徳天皇が崩御しても即位しなかった。翌655年には母の皇極上皇が、斉明天皇として再び皇位につく。
661年に斉明天皇が崩御した後も、中大兄皇子は正式な即位を行わず、皇太子のまま政務を執った。
天智天皇として即位するのは668年。
乙巳の変から23年後のことである。
その間には、大化年間の政治、蘇我倉山田石川麻呂の死、孝徳天皇との別離、有間皇子の処刑、百済滅亡、白村江の敗戦、九州から瀬戸内海に及ぶ防衛体制の整備、近江への遷都があった。
中大兄皇子は、古代日本が大きく変わった時代の中心にいた。
626年――舒明天皇と宝皇女の皇子として生まれる
中大兄皇子は626年に生まれた。
父は田村皇子、後の舒明天皇。
母は宝皇女、後の皇極天皇・斉明天皇である。
弟に大海人皇子、後の天武天皇がいた。妹は間人皇女である。
629年、父の田村皇子が第34代・舒明天皇として即位する。
中大兄皇子が幼い頃の朝廷では、蘇我馬子の死後に大臣となった蘇我蝦夷が大きな力を持っていた。
641年、舒明天皇が崩御する。
翌642年には宝皇女が第35代・皇極天皇として即位した。
この頃になると、蘇我蝦夷の子・蘇我入鹿が政治の表舞台に現れる。
『日本書紀』は、入鹿について自ら国政を執り、その威勢は父・蝦夷を上回ったと記している。
643年、入鹿は山背大兄王の一族を攻め滅ぼした。
そして645年。
数え20歳となる中大兄皇子は、中臣鎌足らとともに蘇我入鹿を倒す計画を実行する。
中臣鎌足との出会い
中大兄皇子と長く行動をともにすることになるのが、中臣鎌足だった。
『日本書紀』によれば、鎌足は蘇我本宗家を倒すことを考え、その実行者となる人物を探していた。
そこで目をつけたのが中大兄皇子だった。
二人の接近を伝える有名な逸話がある。
飛鳥寺の槻の木の下で蹴鞠が行われた際、中大兄皇子の皮鞋が脱げた。鎌足がそれを拾い、跪いて差し出す。皇子も跪いて受け取った。
これをきっかけに二人は親しくなったと『日本書紀』は伝える。
やがて二人は南淵請安のもとへ通い、往復の道中で蘇我氏を倒す計画を相談した。
計画には、蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂も加わった。
標的は蘇我入鹿だった。
645年6月12日――乙巳の変
皇極4年6月12日。
飛鳥板蓋宮で、三韓からの上表文を読み上げる儀式が行われた。
蘇我入鹿も宮中へ入った。
『日本書紀』によれば、入鹿は疑い深く、昼夜を問わず剣を身につけていた。そのため計画側は、宮中へ入る際に入鹿から剣を外させるよう仕向けた。
中大兄皇子は宮門を閉ざさせ、自ら長槍を持った。
中臣鎌足は弓矢を手にして控える。
石川麻呂が上表文を読み始めた。
入鹿を斬る役目を担った佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田は、入鹿を恐れてなかなか動かなかった。
上表文が終わりに近づき、石川麻呂は汗を流し、声が乱れ、手まで震えた。
入鹿が不審に思い、理由を尋ねるほどだった。
ついに中大兄皇子自身が飛び出した。
入鹿は頭と肩を斬られ、さらに脚を傷つけられた。
入鹿は皇極天皇の御座へ進み、自分に何の罪があるのか、審理してほしいと訴えた。
皇極天皇が中大兄皇子に理由を尋ねると、中大兄皇子は、入鹿が皇族を滅ぼし、皇位を傾けようとしていると答えた。
皇極天皇が殿中へ退く。
佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が入鹿を殺した。
翌13日、蘇我蝦夷も自害した。
馬子から蝦夷、入鹿へ続いた蘇我本宗家の政治的な権勢は崩れた。
皇極天皇の譲位――皇位についたのは軽皇子
入鹿の死後、皇極天皇は譲位した。
皇位を譲ろうとした相手は中大兄皇子だった。
『日本書紀』によれば、中大兄皇子は中臣鎌足に相談する。
鎌足は、古人大兄皇子が中大兄皇子より年長であり、軽皇子も叔父にあたることを挙げ、まず軽皇子を立てるよう進言した。
古人大兄皇子は皇位を辞退し、出家した。
そして軽皇子が即位する。
第36代・孝徳天皇である。
中大兄皇子は皇太子となった。
645年に中大兄皇子が皇位を受けなかった経緯については、鎌足の進言が『日本書紀』に記されている。
しかし、この時から668年まで23年間正式に即位しなかった理由を、一つの意図だけで説明できる史料は残されていない。
孝徳朝と「大化」
孝徳天皇のもとで、新しい政治体制が組まれた。
阿倍内麻呂が左大臣。
蘇我倉山田石川麻呂が右大臣。
中臣鎌足が内臣。
中大兄皇子は皇太子となった。
645年には「大化」の元号が定められる。
同年12月には都が飛鳥から難波長柄豊碕宮へ移された。
翌646年正月、『日本書紀』にはいわゆる「改新の詔」が記されている。
皇族・豪族による土地と人民の支配を改める方針、地方行政、戸籍・計帳、税制など、後の律令国家につながる制度が示された。
ただし、『日本書紀』に残る改新詔の文面には、後世の制度を反映した部分が含まれると考えられている。
大化年間を通じ、人民や土地の把握、官人統制、地方行政など、新たな国家体制につながる整備が進められていった。
中大兄皇子は皇太子として、この時期の政治の中心にいた。
645年――古人大兄皇子をめぐる事件
乙巳の変から数か月後、古人大兄皇子をめぐる事件が起きた。
古人大兄皇子は舒明天皇の皇子で、母は蘇我馬子の娘・法提郎女だった。
蘇我氏との血縁が深く、乙巳の変直後には出家して吉野へ入っていた。
同年9月、『日本書紀』には、古人大兄皇子や蘇我田口川堀らが謀反を企てたと記されている。
計画に加わっていた吉備笠垂が中大兄皇子へ申し出た。
中大兄皇子は兵を派遣した。
『日本書紀』の別伝では、11月30日に中大兄皇子が阿倍渠曾倍と佐伯部子麻呂に30人の兵を率いさせ、古人大兄皇子を攻め、その子とともに斬ったと記されている。
妃や妾は自ら命を絶ったという。
乙巳の変で蘇我本宗家が崩れた後も、皇位につながる皇族をめぐる緊張は続いていた。
649年――石川麻呂事件
大化5年、649年。
乙巳の変で中大兄皇子とともに入鹿を倒した右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が、今度は謀反を疑われる。
密告したのは石川麻呂の異母弟・蘇我日向だった。
3月24日、日向は中大兄皇子に、石川麻呂が皇太子を殺して反乱を起こそうとしていると訴えた。
中大兄皇子はこの訴えを信じ、孝徳天皇へ報告した。
天皇から使者が送られる。
石川麻呂は二度にわたり、天皇の前で直接申し開きをしたいと求めた。
その機会を得られないまま軍勢が動き、石川麻呂は自ら造営していた山田寺へ入った。
翌25日、石川麻呂は天皇を恨まないと誓い、自害した。
ところが死後、その財産を調べると、良書には「皇太子の書」、貴重な宝物には「皇太子の物」と記されていた。
『日本書紀』は、中大兄皇子が石川麻呂の心がなお貞淨であり、皇太子への忠節を失っていなかったことを知り、後悔し、恥じ、深く悲しんだと記している。
中大兄皇子の妃となっていた石川麻呂の娘・造媛も、父の死を深く悲しみ、その後亡くなった。
653年――孝徳天皇を難波に残して飛鳥へ
白雉4年、653年。
中大兄皇子は孝徳天皇に対し、都を倭京へ戻したいと申し出た。
孝徳天皇は認めなかった。
すると中大兄皇子は、皇祖母尊となっていた皇極上皇、孝徳天皇の皇后・間人皇后、弟の大海人皇子らを伴って飛鳥へ戻った。
『日本書紀』は、公卿大夫や百官の人々も中大兄皇子に従って移ったと記している。
孝徳天皇は難波に残った。
孝徳天皇はこの状況を恨み、皇位を退こうとする意思まで示したと『日本書紀』は伝える。
翌654年10月、孝徳天皇は難波長柄豊碕宮で崩御した。
それでも中大兄皇子は即位しなかった。
655年――母・皇極天皇が再び即位する
655年正月。
中大兄皇子の母・皇極上皇が再び皇位についた。
第37代・斉明天皇である。
一度退位した天皇が再び即位する「重祚」だった。
中大兄皇子は引き続き皇太子として斉明朝の政治に関わる。
孝徳天皇の死後、中大兄皇子ではなく母が再び皇位についた理由を、本人が説明した史料は残っていない。
中大兄皇子はこの時も即位せず、その後も皇太子として政治の中心にいた。
658年――有間皇子の処刑
斉明4年、658年。
孝徳天皇の皇子・有間皇子をめぐる事件が起きた。
蘇我赤兄は有間皇子に接近し、斉明天皇の政治について三つの問題を挙げた。
大規模な倉庫建設、水路工事、船に石を積んで運ぶ工事によって人々が苦しんでいるという内容だった。
有間皇子はこれを聞いて喜び、自分も兵を用いる年齢になったという趣旨の言葉を返したと『日本書紀』は記している。
その後、二人は謀反について相談した。
ところが蘇我赤兄は有間皇子の家を包囲させ、計画を告発する。
有間皇子は捕らえられ、斉明天皇と中大兄皇子が滞在していた紀伊の牟婁温湯へ送られた。
中大兄皇子は有間皇子に、なぜ謀反を企てたのかと尋ねた。
有間皇子は、自分には分からず、天と赤兄が知っているという趣旨の答えをした。
帰路、有間皇子は藤白坂で絞首された。
19歳だった。
中大兄皇子が皇太子として政治の中心にいた時期には、古人大兄皇子、石川麻呂、有間皇子をめぐる事件が相次いでいる。
660年――百済が滅亡する
斉明6年、660年。
朝鮮半島で大事件が起きた。
日本と長く関係を結んできた百済が、唐・新羅連合軍の攻撃によって滅亡した。
百済の遺臣たちは各地で抵抗を続け、日本へ救援を求める。
日本は百済復興支援へ動いた。
翌661年、斉明天皇は中大兄皇子らとともに西へ向かった。
筑紫へ入り、朝倉橘広庭宮を拠点とする。
しかし同年7月、斉明天皇は崩御した。
68歳だった。
中大兄皇子は、この時も正式即位を行わなかった。
皇太子のまま政務を執る「称制」の時期に入る。
661年――母の死後も即位せず、百済救援を続ける
斉明天皇の死後、中大兄皇子は皇位につかないまま、百済救援を継続した。
百済王族の余豊璋を百済へ送り返し、復興軍を支援する。
日本からも軍勢が朝鮮半島へ渡った。
そして663年。
百済復興の行方を決める戦いが白村江で起こる。
663年――白村江の敗戦
天智2年、663年。
日本・百済復興軍と唐・新羅連合軍が白村江で戦った。
『日本書紀』によれば、日本の諸将は唐軍の陣形が乱れていると判断し、先を争うように攻撃を始めた。
唐軍は左右から日本船団を挟み撃ちにした。
日本軍は大敗した。
『日本書紀』は、水に落ちて溺死する者が多く、船の舳先と艫を回すこともできなかったと記している。
百済復興の望みは絶たれた。
戦いの後、百済から多くの人々が日本へ渡った。
白村江の敗戦後、日本では西方からの侵攻を警戒した防衛体制の整備が相次いで進められる。
664年――九州に水城を築く
白村江の翌664年。
対馬・壱岐・筑紫などに防人と烽が置かれた。
筑紫には水城が築かれる。
現在の福岡県太宰府市周辺に残る巨大な防御施設である。
翌665年には、百済から渡来した技術者たちの指導によって長門に城が築かれ、筑紫には大野城と基肄城が築かれた。
さらに667年、『日本書紀』には大和の高安城、讃岐の屋嶋城、対馬の金田城を築いたことが記されている。
白村江後の日本列島では、西からの侵攻に備える防衛体制が各地に築かれていった。
667年――飛鳥を離れ、近江へ
天智6年、667年3月。
中大兄皇子は都を近江へ移した。
近江大津宮である。
現在の滋賀県大津市錦織周辺では、内裏正殿や南門、回廊など、宮の中枢部と考えられる遺構が確認されている。
飛鳥から近江への遷都は、人々に歓迎されたわけではなかった。
『日本書紀』は、天下の人々が遷都を望まず、風刺の歌が多く起こり、昼夜を問わず火災が頻発したと記している。
それでも政治の中心は近江へ移った。
白村江敗戦後の防衛体制が整えられていく中、中大兄皇子自身も飛鳥を離れ、近江大津宮を新たな政治の拠点とした。
668年――天智天皇として即位
天智7年、668年正月。
中大兄皇子は正式に即位した。
第38代・天智天皇である。
数え43歳。
645年の乙巳の変から23年が過ぎていた。
孝徳天皇の即位、斉明天皇の重祚、斉明天皇崩御後の称制を経て、ようやく天皇となった。
中大兄皇子がなぜこれほど長く正式即位を行わなかったのかについて、本人の説明は残っていない。
645年には皇位を辞退して孝徳天皇の皇太子となり、654年の孝徳天皇崩御後には母が重祚した。661年に斉明天皇が崩御すると称制を続け、668年に即位した。
23年間には、それぞれ異なる政治状況があった。
669年――中臣鎌足の最期
天智8年、669年。
中大兄皇子が若い頃から行動をともにしてきた中臣鎌足が病に倒れた。
天智天皇は自ら鎌足を見舞った。
鎌足の病状が重くなると、大海人皇子を遣わし、大織冠と大臣の位を授け、「藤原」の姓を与えた。
翌日、鎌足は死去した。
乙巳の変から24年。
飛鳥寺の槻の木の下で出会ったと『日本書紀』が伝える二人の関係は、ここで終わった。
中臣鎌足は藤原鎌足となり、その子孫は後の日本政治に大きな影響を与える藤原氏へつながっていく。
670年――庚午年籍
天智9年、670年。
全国的な戸籍である庚午年籍が作られた。
戸籍は人民を把握し、徴税や兵役、行政を行う基盤となる。
645年以降進められてきた国家制度の整備は、天智朝にも続いていた。
庚午年籍は後世にも氏姓を確認する基準として重視され、長く保存すべき戸籍とされた。
近江大津宮では、後の律令国家につながる政治制度の整備が進められていった。
漏刻――時刻を知らせる仕組み
中大兄皇子には、時間制度に関する記録も残る。
『日本書紀』によれば、660年、中大兄皇子は初めて漏刻を造り、人々に時刻を知らせた。
水の流れを利用して時間を測る水時計である。
さらに671年4月25日には、新しい台に漏刻を置き、鐘や鼓を鳴らして時を知らせたと記されている。
国家が時刻を測り、それを官人や人々へ知らせる仕組みが整えられていった。
現在の「時の記念日」が6月10日とされているのも、『日本書紀』に記されたこの漏刻の記事に由来する。
671年――大友皇子を太政大臣に
天智10年、671年正月。
天智天皇は大友皇子を太政大臣に任じた。
大友皇子は天智天皇の皇子である。
一方、天智天皇の弟・大海人皇子も、有力な皇族として存在していた。
同年秋、天智天皇は病に倒れる。
その病床で、次の皇位につながる重要なやり取りが行われた。
病床の天智天皇と大海人皇子
671年10月。
天智天皇は大海人皇子を病床へ呼んだ。
『日本書紀』によれば、天智天皇は大海人皇子に後事を託そうとした。
大海人皇子は辞退した。
皇后を皇位につけ、大友皇子に政治を任せるよう進言し、自分は出家して天皇の病気平癒を祈りたいと願い出た。
天智天皇が許可すると、大海人皇子はその場で髪を剃った。
翌日には近江を離れ、吉野へ向かった。
後に『日本書紀』天武天皇紀は、この時の大海人皇子について、
「虎に翼を着けて放ったようなものだ」
という言葉を伝えている。
近江には大友皇子が残り、大海人皇子は吉野へ入った。
天智天皇の死が近づいていた。
671年12月3日――天智天皇崩御
天智10年12月3日。
天智天皇は近江宮で崩御した。
『日本書紀』による享年は46。
626年に舒明天皇と宝皇女の皇子として生まれ、645年には乙巳の変で蘇我入鹿を倒した。
孝徳天皇の皇太子となった後、649年には乙巳の変の同志だった石川麻呂が謀反を疑われて自害する。
653年、孝徳天皇を難波に残して飛鳥へ戻った。
655年には母が斉明天皇として重祚し、658年には有間皇子が処刑された。
661年に斉明天皇が崩御すると、正式即位せず称制を行い、百済救援を継続する。
663年、白村江で敗れた。
その後、水城や山城を築いて防衛体制を整え、667年には近江へ遷都した。
668年、天智天皇として即位する。
670年には庚午年籍が作られた。
そして671年、大友皇子を太政大臣に任じた年に生涯を終えた。
645年に皇位を辞退してから、天智天皇として即位するまで23年。
その理由を本人が説明した言葉は残っていない。
史料からたどれるのは、孝徳・斉明の二代にわたって皇太子として政治に関わり、母の死後には称制を行い、白村江の敗戦とその後の国防強化を経て、668年に即位したという歩みである。
そして天智天皇の死によって、皇位をめぐる問題が終わったわけではなかった。
近江には大友皇子。
吉野には大海人皇子。
翌672年。
両者の間で、古代日本最大級の内乱となる壬申の乱が始まる。
さらに詳しく📖↓
中大兄皇子が生きた飛鳥・吉野の歴史に思いを馳せながら、奈良名物の三輪そうめんを味わってみるのもおすすめです🍜
![]()
三輪素麺 細麺 白髭 正倉院文様パッケージ 【50g×10束 500g グリーン箱 約6人前 KK-20G】 三輪そうめん 御中元 お中元 贈答用 高級手延べ 奈良特産品


コメント