【戦い・事件編】尾張国郡司百姓等解文――31か条の告発が追い詰めた国司・藤原元命

戦い・事件

第66回



――988年、尾張の人々は朝廷に「この国司を裁け」と訴えた

永延2年(988)11月8日。

尾張国から、朝廷へ一通の文書が提出された。

差出人は、尾張国の郡司・百姓ら。

訴えられたのは、尾張守藤原元命(ふじわらのもとなが)である。

訴えの内容は明快だった。

「藤原元命の非法と横法を裁断してほしい」

そのために作られた文書には、元命に対する告発が31か条にわたって並んでいる。

定め以上の正税を徴収した。税や土地の扱いで不正を行った。

絹や布などを不当に安い価格で買い上げた。帳簿に虚偽の記載をした。

駅の費用を適切に支出しなかった。池や溝の修理費を出さなかった。

人夫や馬を使役した。元命の子弟や郎等を郡や郷へ送り込んで物資を取り立てた。

国衙の官人への給与を支払わなかった。国分尼寺の修理料を支出しなかった。

そして、地方の人々が訴えても耳を貸さなかった。

最後には、朝廷から出された法令を十分に公布していないという告発まで登場する。

この文書こそ、後世に「尾張国郡司百姓等解文」と呼ばれる史料である。東京大学史料編纂所は、尾張国の郡司や有力農民らが藤原元命の暴政を朝廷に訴え、その罷免を求めた文書と位置づけている。


1.まず「百姓」という言葉を知っておきたい

現代人が「百姓」と聞くと、農民だけを想像する。

平安時代の「百姓」は、それより広い意味を持つ。

この文書で重要なのは、郡司と百姓が一緒になって訴えていることである。

郡司は、郡の行政を担う在地の有力者である。

10世紀の地方社会では、京都から派遣される国司と、もともとその土地に根を張っている郡司・有力者との関係が非常に重要になっていた。

だから、この事件を、「貧しい農民が悪代官に苦しめられた事件」とだけ理解すると本質を外す。

これは、中央から来た国司と、尾張に根を張る在地社会との衝突なのである。


2.相手は尾張守・藤原元命

藤原元命は、尾張国の国司である。

この時代、国司の中でも実際に任国の行政を担当する中心人物が受領であった。

10世紀になると、受領の権限は非常に大きくなっていた。

朝廷は受領に対して、任国から必要な税や物資を納めることを求める。

その一方で、任国の内部では受領が広い裁量を持つ。

東京大学史料編纂所は、この時期の受領について、郎等を連れて任国へ赴き、課税対象や税率を操作するなどして国内の富を集める状況が生まれていたと説明している。

つまり、尾張守は単なる「地方の役人」ではない。

尾張国を実際に動かす巨大な権力者である。

その元命を、尾張の郡司・百姓らが朝廷へ訴えた。

ここに、この事件の凄さがある。


3.988年11月8日――31か条の告発が始まる

文書の冒頭には、元命が三年間に徴収した非法な官物と、「濫行横法卅一箇条」について裁断を求める趣旨が記されている。

つまり、

「この3年間に元命が行った不法行為を31か条にまとめた。朝廷で裁いてほしい」ということである。

そして第1条から、いきなり凄まじい数字が出てくる。


4.43万1248束――最初の告発から数字が出てくる

第1条で問題にされたのは、正税である。

元命は、通常の出挙とは別に、3年間に加徴した正税として、

43万1248束を徴収したと訴えられている。

さらに、その息利として、12万9374束4把1分を挙げている。

数字だけ見ても、当時の地方行政がどれほど細かく数量を管理していたかが分かる。

しかも、訴えは、「税をたくさん取られた」では終わらない。

「43万1248束」と具体的な数量を突きつけている。

この具体性が、尾張国郡司百姓等解文の大きな特徴である。


5.税だけではない――絹・生糸・布まで問題になる

元命への告発は、正税だけで終わらない。

解文には、絹・生糸・布などの買い上げ価格が不当に低かったという訴えも登場する。

国司は任国内からさまざまな物資を集める。

その際に、「本来の価格より安く買い取っている」と訴えたのである。

これは地方の人々にとって深刻な問題である。

税として取られる。さらに物資も安く買い上げられる。

国司側の要求が積み重なれば、地方で暮らす人々の負担は大きくなる。


6.帳簿まで疑われた

さらに驚くのが、帳簿の虚偽記載に関する告発である。

正税帳などの帳簿について、実際の状況と異なる記載をしていると訴えられている。

地方行政では、帳簿が重要だった。

何を徴収したのか。何を支出したのか。何が残っているのか。

それを記録して朝廷へ報告する。

その帳簿そのものに不正があるとすれば、地方行政の根幹に関わる。

尾張の人々は、元命の徴税だけでなく、行政記録そのものまで問題にしたのである。


7.駅の費用、池や溝の修理費まで

解文には、かなり細かな行政経費も登場する。

たとえば、駅の費用を適切に支出していないという訴えがある。

駅は、中央と地方を結ぶ交通制度を支える重要な施設である。

また、池や溝の修理料についても、必要な支出をしていないと告発している。

さらに、飢饉や災害などの緊急時に備える救急料についても問題にされた。

ここが面白い。

尾張の人々は、「税が重い」という一点だけを訴えたのではない。

国司として本来行うべき行政を行っていないというところまで攻撃した。

元命の政治全体を問題にしたのである。


8.人間まで動員する――人夫と馬の負担

国司の仕事には、物資を集めることだけでなく、交通や運送を維持することも含まれる。

そのためには人が必要である。馬も必要である。

尾張国郡司百姓等解文では、元命が人々を使役し、物資の運搬などを行わせたことが問題にされている。

さらに、元命の子弟や郎等が郡や郷へ入り、さまざまな名目で雑物を徴収したと訴えている。

つまり元命本人が命令する。

その周囲にいる者が現地へ行く。

そして地方の人々から物資や労働力を集める。

受領の権力が、その周囲の人間まで巻き込んで地方社会へ浸透していた。

これが、この史料から見える地方政治の姿である。


9.元命の子弟・郎等が地方へ入ってくる

この部分は、当時の社会を考えるうえで非常に重要である。

国司は京都から赴任してくる。

しかし、一人で任国を支配するわけではない。

自分の郎等や従者などを連れてくる。

解文でも、元命が京から下向するたびに、有官・散位の従類や「不善の輩」を引き連れてくると訴えている。

つまり尾張の人々から見れば、京都から国司が来るだけではない。

その周囲にいる人間まで尾張へ入ってくる。

そして、その人々が国司の権威を背景に活動する。

これが在地社会との摩擦を生んだ。


10.土地まで利用する――「数百町」の佃

さらに解文には、元命の子弟・郎等が、百姓らを使って数百町の佃を経営していたという訴えがある。

「佃」は、私的に耕作する土地である。

ここで注目したいのが、「数百町」という規模である。

国司側の人間が地方の人々を使役し、広い土地を耕作させ、その生産物を取り込んでいたと訴えている。

この部分から見えてくるのは、国司の権力が徴税だけに及んでいたわけではないということだ。

土地と労働力にも入り込んでいた。


11.国司が政務を取らない

さらに元命本人について、国衙で政務を行わないという告発がある。

解文の第2条では、元命が庁務を行わないため、郡司や百姓らの訴えが通りにくくなっていると訴えている。

これは非常に重要である。

国司は地方行政の責任者である。

その人物が政務を取らない。

地方の人々が訴えようとしても、その訴えが届かない。

そこで彼らは、尾張国の中で解決することを諦め、朝廷へ直接訴えた。

988年の解文は、こうして生まれた。


12.「朝廷の法令を守っていない」という告発

31か条の最後の方では、さらに重大な問題が登場する。

元命が、朝廷から出された法令を十分に国内へ公布していないという告発である。

『日本大百科全書』によれば、元命は自分に都合の悪い国の法令を公布しなかったと訴えられている。

これは単なる税金の問題ではない。

朝廷の命令を地方でどう伝えるのか。そこまで国司の責任が問われている。

尾張の人々は、「元命は税を取りすぎた」だけではなく、

「国司として職務を果たしていない」と朝廷へ訴えたのである。


13.この文書は、本当に「百姓が書いた」のか

ここは歴史好きなら押さえておきたい。

文書の名前は、尾張国郡司百姓等解文である。

だから「尾張の郡司や百姓が自分たちで文章を書いて朝廷へ提出した」と考えたくなる。

しかし、文書そのものは非常に整った和風漢文の四六駢儷体で書かれている。

そのため、実際に郡司・百姓らが文章そのものを作成したのかについては、古くから議論がある。

京都の学者や官人、僧侶などが文章作成に関与した可能性も指摘されている。『日本大百科全書』も、実際に郡司・百姓ら自身が作ったものかについて疑問が呈されていると説明している。

したがって、「尾張の人々が訴えた内容を記した文書」と理解するのが正確である。


14.現存するのは988年の原本ではない

もう一つ重要な点がある。

現在残っている尾張国郡司百姓等解文は、988年当時の原本ではない。

東京大学史料編纂所が所蔵する古写本は、嘉元2年(1304)の具注暦や嘉元3年(1305)の見行草の紙背を利用して書写されたもので、奥書から応長元年(1311)以前の書写と分かる。

ほかにも、弘安4年(1281)に書写された早稲田大学蔵本などがある。

つまり、988年の出来事を知るために、鎌倉時代以降に伝えられた写本を読んでいる。

東京大学史料編纂所は、この文書を平安時代の地方の様子を伝える貴重な古写本として所蔵している。


15.そして、元命は朝廷から処分される

尾張の郡司・百姓らが解文を提出したのは、

永延2年(988)11月8日。

その訴えの結果、藤原元命は尾張守を解任された。

時期は、永祚元年(989)4月5日。

この日の除目で元命は解任されている。

提出から約5か月。

31か条にわたる告発は、国司の交替という結果につながった。

尾張の人々にとって、これは大きな意味を持つ。

国司は朝廷から派遣された権力者である。

その国司を相手に、地方側が朝廷へ直接訴えた。

そして、実際に国司が交替した。

文書が地方政治を動かしたのである。


16.「悪代官を農民が訴えた話」ではない

尾張国郡司百姓等解文を読むと、平安時代の地方社会がかなり具体的に見えてくる。

中央から国司が来る。国司は任国で徴税する。

物資を集める。帳簿を作る。駅を維持する。池や溝を修理する。必要な人馬を動かす。

その一方で、国司の子弟や郎等も地方へ入り込む。

土地を利用する。雑物を集める。人々を使役する。地方の郡司・百姓らは不満を募らせる。

そして最後には、朝廷へ訴える。

この一連の流れが、31か条の文書として残った。

だから、この史料の価値は藤原元命という一人の国司を知ることだけにあるのではない。

10世紀末の地方政治そのものを知ることができる。

東京大学史料編纂所も、受領が任国支配を大きく掌握し、その富が国家財政や上級貴族へ流れる構造の中で、この史料を位置づけている。


17.988年の尾張で起きたことは、地方社会の大きな変化を映している

この頃、京都の朝廷と地方社会の関係は大きく変わっていた。

9世紀までの律令国家では、中央政府が地方を細かく統制する仕組みが整えられていた。

10世紀になると、地方行政の実務は国司、とりわけ受領に大きく委ねられていく。

受領は任国から税を集め、朝廷へ納める。

そのために国内で強い権限を行使する。

この仕組みは朝廷にとって便利である。

しかし、地方側から見れば、受領の裁量が大きくなるほど負担も増える。

そこで地方の有力者たちは、国司に対して抵抗する。

その方法の一つが、朝廷への訴えだった。

尾張国郡司百姓等解文は、その典型的な事例である。


18.将門・純友の乱から約半世紀――地方の「戦い方」が変わっている

平将門の乱は939~940年。

【戦い・事件編】平将門の乱(前編)――反乱の原因とは? 935年の一族争いから常陸国府襲撃へ
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【戦い・事件編】藤原純友の乱(前編)――なぜ藤原純友は朝廷に反乱したのか? 海賊追捕から939年の蜂起へ
天慶2年(939)12月26日。摂津国須岐駅付近で、備前介・藤原子高の一行が襲撃された。襲ったのは、藤原純友と結んだ藤原文元らだった。子高は捕らえられ、その子も殺害されたと伝えられる。須岐駅は現在の兵庫県西宮市付近に比定される。伊予を拠点と…

そこから約半世紀後の988年。

尾張で起きたのは、大規模な武装蜂起ではなかった。

郡司・百姓らが、31か条の告発文書を作って朝廷へ提出するという政治的な戦いである。

相手は尾張守・藤原元命。

武力ではなく、朝廷の法と裁判を利用して国司を追い込んだ。

この違いは大きい。

平安時代の地方社会では、武力だけでなく、訴訟や文書もまた権力と戦うための重要な手段になっていた。


19.そして、ここから武士の時代へつながっていく

尾張国郡司百姓等解文が提出された988年。

その頃、東国では武士たちが力を蓄えていた。

源氏や平氏が地方との結びつきを強め、国司や在地勢力との関係を深めていく。

やがて、武力を持つ地方勢力と朝廷・国司との関係が、さらに複雑になっていく。

その先に登場するのが、平忠常の乱である。

長元元年(1028)、平忠常が房総で反乱を起こす。

この乱の鎮圧にあたったのが、源満仲の子である源頼信である。

ここで、安和の変で朝廷側に立った源満仲の一族が、今度は東国の武力を背景に朝廷から頼られる存在になっていく。

988年の尾張国郡司百姓等解文は、武士が台頭していく時代の途中に残された一枚の史料である。

そこに書かれているのは、43万1248束という数字であり、土地であり、税であり、人馬であり、帳簿であり、国司の子弟や郎等である。

そして何より、

地方社会が、朝廷に対して「国司を裁け」と声を上げた瞬間である。

その声を31か条に刻んだのが、尾張国郡司百姓等解文である。

 尾張国郡司百姓等解文の舞台となった「尾張」。
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