第83回
1056年――戦乱の中に生まれた少年
天喜4年(1056)。
のちに奥州藤原氏の初代となる藤原清衡が生まれた。
父は藤原経清。
母は安倍頼時の娘である。
父方には藤原氏、母方には奥六郡を支配した安倍氏の血を引く。
しかし清衡が生まれた1056年は、安倍氏と源頼義の戦いが再び始まった年でもあった。
阿久利川事件をきっかけに、源頼義は安倍頼時の子・貞任の引き渡しを要求。頼時はこれを拒み、前九年合戦は再燃した。
父・経清も戦乱の中へ入っていく。
清衡の人生は、生まれた瞬間から奥州を揺るがす戦争と重なっていた。平泉町の年表でも、1056年に清衡が生まれ、同じ年に阿久利川事件が起き、経清が安倍方へ加わった流れが整理されている。
父・藤原経清――源頼義を裏切った男
藤原経清は、もともと源頼義側にいた武将である。
しかも安倍頼時の娘を妻としており、国府側と安倍氏側、双方に足場を持つ人物だった。
ところが頼義は、頼時の娘婿・平永衡を内通の疑いで殺した。
同じく頼時の娘婿だった経清は、自分も次に疑われると考え、頼義軍を離れる。
そして安倍氏側へ走った。
その後の経清は、単なる一武将では終わらない。
『陸奥話記』では、陸奥国府が税を集める際に使用する「赤符」に対抗し、自ら「白符」を発行して物資を徴収したと描かれる。
つまり、源頼義の軍へ反抗するだけではなく、陸奥守が握る行政と徴税の仕組みにまで食い込んだのである。
頼義にとって、経清は許し難い敵となった。
その代償を払うのが、1062年だった。
1062年――清衡7歳、父を失う
康平5年(1062)9月17日。
安倍氏最後の大拠点、厨川柵が陥落した。
安倍貞任は深手を負って死亡。
藤原経清も捕らえられた。
『陸奥話記』によれば、源頼義は経清を鈍刀で斬首させた。
切れ味の悪い刀を使い、苦痛を長引かせる処刑である。
清衡は数え7歳。
父を失った。
さらに母方の祖父・安倍頼時はすでに1057年に死亡している。
安倍氏も前九年合戦に敗れ、奥六郡の支配者の座から消えた。
7歳の清衡は、一度に父方と母方、両方の大きな後ろ盾を失ったのである。
それでも清衡は生き残った。
そして、その少年を引き取ったのが、父を滅ぼした側にいた清原氏だった。平泉町の年表にも、1062年に経清が斬首され、7歳の清衡が出羽清原家へ入ったことが記されている。
敵だった清原家で育つ
清衡の母は、前九年合戦後、清原武貞と再婚した。
武貞は清原武則の子である。
武則こそ、1062年に1万余の兵を率いて源頼義へ加勢し、安倍氏滅亡の決定打を与えた人物だった。
清衡から見れば、自分の父を敗北へ追い込んだ側の一族である。
その清原家へ母とともに入った。
ここから清衡は、清原清衡として生きることになる。
武貞には真衡という子がいた。
さらに武貞と清衡の母との間には、家衡が生まれる。
血縁を整理すると、かなり複雑である。
真衡と家衡は父を同じくする異母兄弟。
清衡と家衡は母を同じくする異父兄弟。
そして清衡と真衡には直接の血縁がない。
清衡は、前九年合戦の敗者の子でありながら、勝者である清原氏の家族の中で成人していった。横手市も、清衡を武貞の家へ入った人物として整理し、真衡を母違いの兄、家衡を父違いの弟としている。
清原家で過ごした約20年
1062年に清原家へ入ってから、後三年合戦が始まる1083年まで約20年。
この時期の清衡の日常を詳しく伝える史料は少ない。
ただし、この20年間に清原氏そのものは大きく成長した。
前九年合戦後、清原武則は鎮守府将軍となった。
安倍氏の旧勢力圏だった奥六郡にも勢力を広げる。
さらに1070年の延久合戦では、清原氏が朝廷側の北方遠征を支えた。
清衡は、敗者の家の孤児としてひっそり暮らした人物ではない。
陸奥と出羽にまたがる巨大勢力へ成長していく清原氏の内部で、大人になった。
その環境があったからこそ、のちに清原家内部の争いへ参加できるだけの地盤を持つようになったのである。
1083年――清原氏が割れる
永保3年(1083)。
清原氏内部の対立が表面化した。
一族の中心にいたのは清原真衡。
その真衡と、古参の有力者・吉彦秀武が対立する。
清衡と家衡は秀武側についた。
ここから後三年合戦が始まる。
詳しい戦況は戦い編に譲る。
人物編で重要なのは、清衡が最初から源義家の味方だったわけではないことだ。
陸奥守として赴任してきた源義家は、当初、真衡側に立った。
つまり清衡は、一度は義家と敵対している。
ところが1083年秋、真衡が遠征中に急死した。
清原氏の頂点が突然消えた。
清衡と家衡は義家へ降伏する。
後世の記録では、義家は奥六郡を二人に分け、3郡ずつ与えたと伝わる。
共通の敵だった真衡が消えたことで、今度は清衡と家衡が直接向き合うことになった。
1086年――妻と子を殺される
応徳3年(1086)。
清衡の人生を決定的に変える事件が起きた。
家衡が清衡を襲ったのである。
『康富記』が伝えるところでは、清衡は事前に危険を察知した。
そして草むらへ隠れた。
家衡側は清衡の宿所へ火を放つ。清衡自身は逃げ延びた。
しかし妻子と眷属は逃げ切れなかった。
清衡の妻と子、一族が殺された。
清衡は7歳で父を失っている。約24年後、今度は自分の妻と子を失った。
しかも殺したのは、同じ母から生まれた異父弟だった。
清衡の後半生で「戦死者を弔う」という思想が大きな意味を持つ理由を考えるとき、この経験は避けて通れない。
彼にとって戦争とは、歴史書に書かれた遠い事件ではない。
父を奪い、妻を奪い、子を奪ったものだった。
父を殺した源氏の力を借りる
生き残った清衡は、源義家のもとへ向かった。
ここには、清衡の現実を見る力が表れている。
義家の父は源頼義。
清衡の父・経清を鈍刀で処刑させた人物である。
つまり清衡は、父を殺した男の息子に助けを求めたことになる。
それでも清衡は動いた。
過去の恨みより、今生き残ることを選んだ。
家衡を倒すには義家の軍事力が必要だった。義家も清衡側へ立つ。
最初の沼柵攻撃では失敗する。
大雪と兵糧不足で義家軍は崩れ、兵は馬肉まで食べるほど追い詰められた。
それでも翌1087年、義家と清衡は再び家衡を攻めた。
最後の舞台が金沢柵だった。
1087年――最後に残ったのは清衡
寛治元年(1087)11月14日。
金沢柵が陥落する。
清原武衡は捕らえられて斬首。家衡も逃亡の末に討たれた。
真衡はすでに死亡している。清原氏内部の争いに関わった主要人物が次々と消えた。
そして残ったのが清衡だった。
前九年合戦では、7歳の敗者の子。後三年合戦では、最後の勝者。
清衡は安倍氏の故地である奥六郡を掌握する。横手市も、後三年合戦後の清衡が清原氏の勢力を受け継ぎ、東北北部で力を広げていった人物と位置づけている。
ここから清衡は、養家の「清原」ではなく、実父の姓である藤原を名乗るようになる。
清原清衡から、藤原清衡へ。
7歳で奪われた父の名が、25年を経て戻ってきた。
1091年――京都へ馬2頭を贈る
戦争に勝った清衡は、京都と対立する道を選ばなかった。
寛治5年(1091)11月。
清衡は関白・藤原師実へ馬2頭を献上している。
ここは清衡の政治家としての一面がよく出る。
祖父・安倍頼時や父・藤原経清は、陸奥国府と激しく衝突した。
清衡は同じ道を繰り返さなかった。
奥州では巨大な在地支配者として振る舞う。
一方で中央の藤原摂関家や朝廷との関係も保つ。
京都から独立するのではなく、中央権力とのつながりを利用しながら奥州を治める。
清衡は、武力だけで奥州を支配した人物ではなかった。
1095年ごろ――平泉へ
後三年合戦後、清衡は江刺郡の豊田館を拠点としていた。
その後、嘉保2年(1095)ごろ、あるいは1099年ごろに平泉へ本拠を移したとされる。平泉町も1095年ごろとしつつ、1099年説を併記している。
なぜ平泉だったのか。
平泉は北上川沿いの交通を押さえやすい。
南へ行けば陸奥国府、さらに坂東・京都へつながる。
北へ行けば奥六郡や北奥州へつながる。
東西の交通とも結びつけやすい。
奥州の産物を集め、京都方面へ運ぶ拠点として非常に優れた場所だった。
清衡はここを、一地方豪族の館ではなく、奥州全体を動かす政治・経済・宗教の中心へ変えていく。
黄金だけではない――清衡を支えた奥州の富
平泉といえば黄金が有名である。
奥州では金が産出した。
しかし清衡を支えた富は金だけではない。
馬。漆。毛皮。海産物。北方から運ばれてくる産物。
広大な奥州の資源と交易を押さえたことで、清衡のもとには莫大な富が集まった。
そして清衡は、その富を軍勢の維持だけに使わなかった。
寺院。仏像。経典。庭園。都市。
戦争で勝ち取った支配力を、今度は平泉を造る力へ変えていったのである。
1105年――中尊寺造営
長治2年(1105)。
清衡は中尊寺一山の造営に着手する。
寺伝では、この年に最初院多宝寺を建立したとする。
ここから約20年。
清衡は平泉に大規模な寺院群を築いていく。
堂塔を建てる。仏像を造らせる。庭園を整える。京都から優れた工人も招いた。
平泉町は、清衡が約20年をかけて中尊寺を完成させたとしている。
清衡が目指したのは、単なる豪華な寺ではない。
戦乱を経験した奥州に、仏教を中心とした新しい秩序を置くことだった。
1117年ごろ――5万巻を超える経典
永久5年(1117)ごろ。
清衡は大規模な写経事業を始めた。
現在「中尊寺経」と呼ばれる、紺紙金銀字交書一切経である。
濃い紺色の紙に、金泥と銀泥で一行ずつ交互に経文を書く。
豪華という言葉だけでは足りない。
一巻完成させるだけでも多くの時間と資金を要する。
それを膨大な数で作らせた。
清衡は、奥州の富を目に見える権力の象徴だけに変えたのではない。
仏教文化そのものへ投入した。
かつて父が処刑され、自分も命からがら逃げた男が、60歳を過ぎるころには数万巻規模の経典制作を動かす支配者になっていた。
1124年――金色堂
天治元年(1124)。
中尊寺を象徴する建物、金色堂が上棟された。
清衡は数え69歳。
金色堂は現在も残る、中尊寺創建当初の姿を伝える唯一の建造物である。
内外には金箔が施され、内部には夜光貝を使った螺鈿、象牙、宝石など高度な工芸技術が集められた。
中尊寺は、金色堂について「極楽浄土の有様を具体的に表現しようとした」清衡の願いが込められた建物としている。
金色堂の華やかさだけを見ると、清衡の人生とは別世界に見える。
しかしその黄金の阿弥陀堂を造らせたのは、二つの戦争で家族を失った人物だった。
だからこそ、意味がある。
1126年――71歳の清衡が残した願い
大治元年(1126)3月24日。
清衡は中尊寺の大伽藍完成を祝う法会を行った。
このとき読み上げられたのが、『中尊寺建立供養願文』である。
清衡は数え71歳。
死の2年前だった。
願文には、国家の安寧と人々の長寿・安楽を願う思想が記されている。
中尊寺は、この供養によって白河上皇の御願寺に列せられ、国家的な祈願の場として認められたと説明している。
清衡が求めたものは、奥州だけの独立した理想郷ではない。
京都の朝廷や仏教世界ともつながる形で、奥州に平和な秩序を作ることだった。
なぜ清衡は敵味方を弔ったのか
清衡の人生を振り返ると、中尊寺を造った理由が見えてくる。
父・藤原経清は処刑された。母方の安倍氏も滅びた。
清原家へ入った。真衡と争った。異父弟・家衡によって妻子を殺された。
そして清衡自身も、義家と組んで家衡・武衡を滅ぼした。
清衡は戦争の被害者である。同時に、最後は勝者でもある。
自分の側だけが正しく、敵だけが悪かったという人生ではなかった。
自分もまた、戦争によって多くの命が失われる側に立った。
だからこそ清衡は、敵味方を越えた供養を求めた。
平泉町も、清衡が長い戦乱で命を落とした敵味方を含む人々の霊を慰めるため中尊寺建立を進めた人物として説明している。
清衡にとって平泉は、戦争を忘れるための場所ではない。
戦争の記憶を抱えたまま、その次の時代を作る場所だった。
1127年――71歳を過ぎても現役の支配者
清衡は晩年、仏教だけに没頭していたわけではない。
大治2年(1127)。
新しく成立した荘園をめぐり、国司との間で争いが起きている。
70歳を超えてなお、土地と権益をめぐる政治の中心にいた。
ここは清衡を「戦争嫌いの聖人」のように描かないためにも重要である。
清衡は現実の支配者だった。
土地を押さえる。朝廷と交渉する。富を集める。政治的な争いもする。
その権力があったからこそ、中尊寺や金色堂のような巨大事業を実現できたのである。
1128年7月――藤原清衡、73歳で死す
大治3年(1128)7月。
藤原清衡は死去した。
数え73歳。平泉町の年表でも、1128年7月に73歳で死去したとされる。
遺体は、清衡自身が建立した金色堂へ納められた。
現在も金色堂の須弥壇には、清衡をはじめ奥州藤原氏歴代の遺体が安置されている。
1056年。
戦乱のただ中に生まれた。
7歳で父を失った。敵だった清原家で育った。30歳前後で妻と子を殺された。
父を殺した源氏の息子と手を組み、異父弟を倒した。
清原氏の勢力を受け継ぎ、「藤原」の姓へ戻った。
そして平泉へ移った。
清衡が最後に残したものは、戦場の勝利そのものではない。
黄金の金色堂と、膨大な経典。
そして、戦争で失われた命を敵味方の区別なく弔おうとした中尊寺だった。
前九年合戦の敗者の息子として始まった清衡は、奥州藤原氏初代・藤原清衡として73年の生涯を終えた。


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