第85回
1039年――河内源氏の長男として生まれる
長暦3年(1039)、源義家は生まれた。
頼信は平忠常の乱を収束へ導き、坂東に河内源氏の名を広めた武将だった。頼義も相模守などを務めながら東国との関係を深めており、義家は父祖が築いた地盤を受け継ぐ立場に生まれたことになる。
母方の祖父である平直方も、坂東と縁の深い有力な軍事貴族だった。
もっとも、この時代の源氏を、後世の鎌倉幕府のような独立した武家と考えるのは早い。
義家はあくまで朝廷の官人である。官位を得て、国司として地方へ赴き、必要とされれば兵を率いる。京都の貴族社会の中で生きる一方、武力を専門とする家に生まれた。
その義家が、やがて貴族たちから「天下第一武勇之士」と呼ばれるまでになる。
石清水八幡宮で元服――「八幡太郎」の名を背負う
義家には、本名以上に有名な呼び名がある。
八幡太郎。
石清水八幡宮で元服したことから、こう称した。
弟の義綱は賀茂神社にちなむ「賀茂次郎」、義光は新羅明神にちなむ「新羅三郎」。河内源氏の兄弟は、それぞれ元服に関わる神社の名を通称に背負ったと伝わる。石清水八幡宮も、義家が同宮で元服して「八幡太郎義家」と名乗ったことを伝えている。
八幡神は武神、弓矢の神として信仰を集め、河内源氏との結びつきも深かった。
後世、源頼朝が鎌倉で鶴岡八幡宮を重んじるより100年以上前から、義家は「八幡」の名を背負っていたのである。
ただし、このころの義家はまだ無名の若者だった。
その名が一気に知られるきっかけは、奥州で訪れる。
父・頼義と前九年合戦へ
永承6年(1051)、陸奥で安倍氏と国府との争いが始まった。
最初に安倍氏と戦った陸奥守・藤原登任は鬼切部で敗北し、その後任として送り込まれたのが義家の父・源頼義である。
いわゆる前九年合戦である。
義家も父に従って奥州へ入った。
この戦争での義家を語るとき、後世の「八幡太郎」の名声から逆算すると、最初から戦場を圧倒していたように見えてしまう。
実際は逆だった。
義家が最初に経験した大きな戦場は、河内源氏が全滅しかけた敗戦だった。
1057年――19歳、黄海で父とともに追い詰められる
天喜5年(1057)11月。
頼義軍は安倍貞任を追って黄海へ進んだ。現在の岩手県一関市藤沢町周辺である。
『陸奥話記』の代表的な本文では、頼義軍1,800余人に対し、安倍軍は4,000余人。
しかも奥州はすでに冬だった。頼義軍は長い行軍で疲れ、兵糧にも苦しんでいた。そこへ地の利を持つ安倍軍が襲いかかる。
戦いは頼義軍の惨敗となった。
頼義の乗馬は矢を受けて倒れ、義家も馬を失う。兵は散り散りになり、最後に頼義の周囲へ残ったのは義家ら6騎。頼義を含めても、わずか7騎だった。
義家は数え19歳。
そこへ安倍軍200余騎が迫った。
この絶望的な状況で、『陸奥話記』は義家の騎射を際立たせている。敵の中を駆けながら矢を放ち、その腕前を「神の如し」とまで称えた。
もちろん、『陸奥話記』には頼義・義家父子を英雄的に描く性格がある。
それでも、黄海で義家が若くして激戦を経験したことは動かない。
しかも勝って名を上げたのではない。
自軍が崩壊するなかで戦い抜いたことで、その武勇が語られ始めた。
義家の長い武将人生は、華々しい勝利ではなく、大敗から始まったのである。
1062年――清原氏の参戦で戦況が変わる
黄海から5年後の康平5年(1062)。
頼義軍に出羽の清原氏が加わった。
清原武則が率いた兵は、『陸奥話記』では1万余人。頼義が長く崩せなかった安倍氏の防衛線は、ここから急速に押し込まれていく。
小松柵、衣川関、鳥海柵。
そして9月17日、厨川柵が陥落した。
安倍貞任は戦死し、藤原経清は捕らえられて処刑された。
義家も父とともに一連の戦いに参加し、翌康平6年(1063)、戦功によって従五位下・出羽守となった。
数え25歳。
ここで義家は父について戦う若武者から、自分自身が一国を預かる受領へ進んだ。
安倍貞任との「歌問答」――後世が愛した義家の姿
前九年合戦には、義家と安倍貞任をめぐる有名な逸話がある。
衣川で敗走する貞任へ、義家が、
「衣のたてはほころびにけり」
と呼びかけた。
すると貞任が、
「年を経し糸のみだれの苦しさに」
と即座に返した。
義家は見事な返歌に感心し、矢を射るのをやめたという。
この話は、前九年合戦を詳しく記した『陸奥話記』にはない。後世の『古今著聞集』などで語られた逸話である。
実際の戦場で本当にこのやり取りがあったと断定することはできない。
ただ、この話が長く好まれた理由は分かりやすい。
義家は「敵を射殺すだけの猛者」ではなく、敵将の教養を理解し、その才を認める武人として描かれた。
平安時代の武将には、武芸だけでなく貴族社会の教養も求められた。義家自身の和歌も後世の『千載和歌集』に採られており、弓と和歌の両方を知る人物だった。
前九年合戦後――義家は20年間、何をしていたのか
前九年合戦が終わると、義家はしばらく大規模な戦争の表舞台から離れる。
出羽守をはじめ、下野・相模・武蔵・伊予・河内・信濃などの国守を務めたと伝わり、中央でも左衛門尉、兵部大輔、左馬権頭などを歴任した。
戦場だけを追うと、この約20年間は空白に見える。
しかし義家にとっては、むしろ重要な時期だった。
地方へ赴任し、京都へ戻り、武士や貴族との関係を重ねる。その積み重ねによって、「頼義の息子」という立場から抜け出していく。
延久2年(1070)には、陸奥国府から国印と正倉の鍵を奪った藤原基通が、当時下野守だった義家のもとへ逃げ込む事件も起きた。
基通をめぐる事件と義家の関係には議論があるものの、前九年合戦後も東国の政治に義家の名が現れ続けることは注目に値する。
武名が一時の評判で終わらず、次第に政治的な影響力へ変わり始めていた。
大江匡房に兵法を学んだという逸話
義家には、大江匡房との逸話も残っている。
匡房は平安後期を代表する学者である。
後世の『奥州後三年記』では、義家の戦いぶりを聞いた匡房が、その武勇を認めながらも、兵法については未熟だと評したという。
それを知った義家は怒らず、かえって匡房へ近づき、兵法を学んだと語られる。
これも後世に形づくられた義家像の一つである。
若いころは弓の腕で知られた武者。
やがて兵の動かし方や敵の意図まで読む将へ。
後三年合戦で有名な「雁行の乱れ」の逸話も、この義家像の延長にある。
1083年――45歳、今度は陸奥守として奥州へ戻る
永保3年(1083)。
義家は再び奥州へ入った。
26年前の黄海では、父のそばで弓を引く19歳の若武者だった。
今回は違う。
陸奥守。
義家自身が陸奥国を預かる立場である。
ところが奥州では、前九年合戦の勝者だった清原氏が内紛を起こしていた。
真衡。
清衡。
家衡。
吉彦秀武。
これが後三年合戦の始まりである。
義家は最初から清衡の味方だったわけではない。
はじめは清原真衡を支持し、清衡・家衡と敵対する。真衡が急死すると清衡・家衡を受け入れ、その後、家衡が清衡を襲って妻子を殺すと、今度は清衡を助けて家衡を攻めた。
後三年合戦は、義家が最初から決まった敵を討つために始めた戦争ではない。
清原氏の内紛へ、陸奥守として次第に深く入り込んでいった戦争だった。
沼柵――義家はここでも敗れた
応徳3年(1086)冬。
義家は家衡が籠もる沼柵を攻めた。
ところが、城は落ちなかった。
冬の奥羽で兵糧が尽き、兵たちは寒さと飢えに苦しむ。後世の記録には、軍勢が馬を殺して食べるほど追い詰められたとある。
義家は撤退した。
黄海に続き、またしても奥州の冬に苦しめられたことになる。
後世の名声だけを見ると、義家は戦えば必ず勝つような武将に見える。
実像は違う。
負ける。
撤退する。
それでも軍を立て直し、次の戦いへ戻ってくる。
義家の強さは、無敗だったことではない。
敗戦のあとにも軍勢をまとめ直せたことにある。
金沢柵――義家の戦いは美談だけではない
翌寛治元年(1087)。
義家は弟・源義光、藤原清衡、吉彦秀武らとともに、家衡・武衡が籠もる金沢柵を攻めた。
詳しい戦況は後三年合戦の記事で扱っているので、ここでは義家の一面だけを見る。
金沢柵は正面攻撃では容易に落ちなかった。
そこで義家側は兵糧攻めを行う。
柵内の食料が減り、女や子どもまで外へ逃れようとすると、義家軍は逃亡者を討ったと『奥州後三年記』は伝える。
人が減れば、そのぶん残った食料が長持ちする。
だから逃がさない。
飢えを早めるためである。
後世の「八幡太郎」という英雄像とはずいぶん違う。
実際の戦争を指揮する義家は、必要と判断すれば苛烈な手段も取った。
11月14日、金沢柵は陥落。
武衡は捕らえられて斬首され、家衡も逃亡の末に討たれた。
義家は戦争に勝った。
ところが、その勝利を朝廷は素直に評価しなかった。
勝ったのに、朝廷は恩賞を出さなかった
後三年合戦は、朝廷が命じた正式な追討戦ではなかった。
始まりは清原氏の内紛であり、義家はそこへ介入した。
そのため朝廷は戦争を私闘とみなし、義家が期待した公的な恩賞を認めなかった。翌1088年には陸奥守の任も終わる。
ここで義家には困った問題が残った。
自分について奥州まで来て、命を懸けて戦った武士たちである。
彼らは戦功に応じた報酬を期待している。
しかし朝廷からは出ない。
『奥州後三年記』は、そこで義家が私財を使って将兵に報いたと伝える。
この話が史実上どこまで具体的な規模だったのかは慎重に見る必要がある。
それでも、義家の名声を考えるうえでは非常に大きい。
朝廷から褒美がなくても、義家が報いてくれた。
戦場で命令を出した大将が、戦後の面倒まで見る。
東国の武士たちにとって、これは強い意味を持った。
「源義家に預ければ土地を守れる」――人だけでなく土地も集まる
後三年合戦のあと、義家の名声を頼って土地を寄進する動きが広がった。
在地の有力者たちが自分の土地を義家へ寄せ、その庇護を求めたのである。
武士だけではない。
土地まで義家のもとへ集まり始めた。
朝廷はこれを警戒した。
寛治5年(1091)には義家への土地寄進を禁じ、翌1092年には義家が立てた荘園の停止を命じている。
義家が朝廷から独立した大名になったわけではない。
それでも、「この人の後ろ盾があれば自分を守れる」と考える者が増えていた。
朝廷にとって、義家は頼れる軍事力であると同時に、勢力を伸ばしすぎれば厄介な存在でもあった。
弟・義綱との対立――河内源氏も一枚岩ではない
義家の周囲へ人が集まる一方、河内源氏の内部では緊張が高まった。
弟・源義綱との対立である。
寛治5年(1091)、双方の郎党をめぐる所領争いから武力衝突の危険が高まり、朝廷は義家の入京を制止した。
「源氏」という言葉から、一族が一つにまとまっていたように感じるかもしれない。
実際には、兄弟それぞれが郎党を抱え、独自の人脈と所領を持っていた。
義家が大きくなれば、その陰で競争する源氏もいる。
後世、河内源氏が内部抗争を繰り返すことになる火種は、義家の晩年にはすでに見えていた。
寝室に飛び込んだ山鳩
義家と八幡神をめぐって、石清水八幡宮には晩年の逸話も残る。
寛治5年(1091)8月14日。
義家の寝室へ山鳩が飛び込み、口から椋の実を3粒落として死んだという。
鳩は八幡神の使いと考えられていた。
義家はこれを凶事の知らせと受け止め、翌日、石清水八幡宮へ銀剣1腰と駿馬1疋を奉納したと伝わる。
伝承そのものを事実として証明する話ではない。
それよりも、この時代の人々が義家を「八幡神と結びついた武将」として記憶していた点が興味深い。
若いころについた「八幡太郎」という名は、義家の生涯を通じて、その人物像から離れなかった。
1098年――60歳で院昇殿を許される
承徳2年(1098)。
義家は正四位下に昇り、白河院への昇殿を許された。
後三年合戦が終わってから11年が過ぎていた。
数え60歳。
黄海で父とともに7騎まで追い詰められた少年が、40年以上かけて院の御所へ上がれるところまで来たことになる。
当時、義家は「天下第一武勇之士」とまで評された。
ただし、その評価は純粋な称賛だけではなかった。
武力を背景に多くの武士を抱えた男が、貴族社会の上層へ入ってくる。
それを歓迎しない貴族もいた。
義家は、朝廷に必要とされながら、同時に警戒される存在だったのである。
義家が詠んだ「勿来」の桜
義家には和歌も残っている。
『千載和歌集』に採られた有名な一首がある。
「吹く風をなこその関と思へども
道もせに散る山桜かな」
勿来という地名に「来るな」の意味を掛けた歌で、散る桜を惜しんだものだ。
黄海で弓を引いた男。
金沢柵で兵糧攻めを命じた男。
そして桜を見て歌を詠んだ男。
全部、同じ源義家である。
平安時代の武士を理解するには、この感覚が欠かせない。
義家は鎌倉時代の坂東武者を100年前へ置いたような人物ではない。
朝廷に仕え、官位を求め、和歌を詠む。
その一方で、必要になれば兵を率いて人を殺す。
貴族社会の中から成長してきた武人だった。
晩年の義家を苦しめた息子・義親
晩年になると、義家は戦場とは別の問題を抱えた。
息子の源義親である。
義親は義家の次男だったが、長兄・義宗が早くに亡くなったため嫡男となった。
対馬守として九州へ赴いたものの、大宰府の命令に従わず、年貢を横領するなどの問題を起こす。
1101年、大宰府から朝廷へ訴えが届いた。
義家も郎党を派遣して息子を連れ戻そうとしたが、事態は収まらない。
翌康和4年(1102)、義親は解官され、隠岐へ配流された。
義家は東国の武士たちをまとめられた。
奥州の大勢力だった清原氏の争いにも決着をつけた。
それでも、自分の息子を完全には抑えられなかった。
河内源氏の強さと危うさが、ここに同居している。
一族の名声は大きくなった。
しかし、家そのものを一つにまとめる仕組みはまだ弱かった。
1106年7月4日――源義家、68歳で死す
嘉承元年(1106)7月4日。
源義家は死去した。
数え68歳。
19歳で黄海の大敗を経験した。
25歳で出羽守となった。
45歳で陸奥守として奥州へ戻り、後三年合戦へ介入した。
金沢柵では勝ったものの、朝廷から公的な恩賞を得られず、自分についてきた武士たちには私財で報いたと伝わる。
その後、義家の庇護を求める人々から土地まで集まり、ついには朝廷が寄進を禁じた。
60歳で院昇殿。
そして晩年には、一族内部の対立と息子・義親の問題に苦しんだ。
後世の伝説だけを見れば「源氏最強の英雄」で終わる。
実際の生涯は、もう少し複雑である。
勝った戦もあれば、惨敗した戦もある。
朝廷に重用されながら、警戒もされた。
多くの武士から慕われながら、自分の一族を完全にはまとめきれなかった。
それでも「八幡太郎」の名声は、義家が死んでも消えなかった。
義家が死んで2年――平氏が台頭する
義家の死後、義親は出雲で再び問題を起こした。
目代を殺し、官物を奪う。
朝廷は追討使を送った。
その人物が平正盛である。
天仁元年(1108)1月6日、義親は正盛に討たれたとされた。
この戦功によって、平正盛は中央で存在感を増していく。
正盛の子が忠盛。
忠盛の子が平清盛である。
義家の死後、河内源氏が内部の問題で揺れる一方、平氏は朝廷の軍事を担う家として勢いをつけ始めた。
源平の時代は、まだ70年以上先。
それでも、その入口はすでに見えていた。
なぜ武士たちは「八幡太郎」についていったのか
源義家は、鎌倉幕府の将軍ではない。
全国の武士を支配したわけでも、朝廷から独立した政権を作ったわけでもない。
最後まで朝廷の官人であり、国司であり、軍事貴族だった。
それでも、父や祖父の時代とは違う関係が生まれていた。
義家について奥州へ行く。
義家のために戦う。
朝廷から恩賞が出なくても、義家自身が報いる。
土地を義家へ寄進し、その庇護を求める。
ここまで来ると、武士たちが結びついている相手は「陸奥守」という官職だけではない。
源義家という一人の人物である。
朝廷の命令より義家を選んだ、と単純に言い切れる話ではない。
しかし、義家の時代に「源氏の大将へ個人的に従う」という関係が一段強くなったことは確かである。後三年合戦後の私的な恩賞や、義家への土地寄進、それを警戒した朝廷の動きにも、その広がりが表れている。
74年後――源頼朝が鎌倉へ入る
義家の死から74年後。
治承4年(1180)、源頼朝が挙兵した。
頼朝が東国で兵を集められた背景には、河内源氏が何世代にもわたって築いてきた関係がある。
頼信。
頼義。
そして義家。
突然、頼朝の代になって「源氏」が東国に現れたわけではない。
頼朝は鎌倉へ入り、鶴岡八幡宮を武家政権の中心に据えていく。
その八幡信仰を遡れば、石清水八幡宮で元服し、
「八幡太郎」
と名乗った義家の時代へつながっている。
義家は幕府を作らなかった。
奥州を自分の国にしたわけでもない。
それでも一つ、後世の河内源氏にとって非常に大きなものを残した。
「源氏の大将には、東国の武士が集まる」
という武名である。
19歳で父とともに黄海から逃げ延びた若武者が、68歳で死ぬころには、「八幡太郎」の四文字だけで武勇を語られる存在になっていた。
そして、その名声は本人の死から74年後、鎌倉で再び大きな力を持つことになる。


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