【人物編Vol.72】佐藤継信――屋島で義経の前に倒れた兄、なお戦い続けた弟・忠信

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人物

第145回

第145回

元暦2年(1185年)2月19日、讃岐国屋島。

海に浮かぶ平家の船から、源氏の騎馬武者へ矢が降り注いでいた。

屋島の内裏はすでに焼かれ、安徳天皇を奉じる平家一門は船上へ退いていた。しかし、義経が率いる軍勢は少ない。そう知った平家方は再び岸へ寄せ、海岸で激しい戦闘が始まった。

『平家物語』巻第十一「嗣信最期」によれば、平家の能登守教経は船上から源義経を狙っていた。

教経は平清盛の甥で、強弓の使い手として知られる武将だった。源氏の大将を射落とそうと、矢をつがえたという。

その義経の前には、家人たちが馬を並べていた。

奥州佐藤三郎兵衛嗣信。

弟の佐藤四郎兵衛忠信。

江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶らも、義経を守るように進み出たと伝わる。

教経は彼らに向かって次々に矢を放った。

その一本が、継信の左肩から右脇へと貫いた。

継信は馬から逆さまに落ちたという。

平家方の若い従者・菊王丸が、倒れた継信の首を取ろうと駆け寄った。すると、近くにいた忠信が弓を引き、菊王丸を射たと『平家物語』は伝えている。

兄の首を奪われまいとした弟だった。

深手を負った継信は陣の後方へ運ばれた。義経は馬から下り、その手を取ったという。

最期に心残りはないか。

義経に問われた継信は、主君が世に立つ姿を見られないことだけが残念だと語った。

そして、屋島で主君の命に代わって討たれたことが後世まで伝わるなら、武士として何よりの名誉だと述べたという。

義経は鎧の袖を涙で濡らしたと伝わる。

継信は、遠く陸奥国から義経に従ってきた武士だった。

故郷は信夫荘。現在の福島県福島市周辺にあたる。

父の佐藤基治は奥州藤原氏に仕え、弟の忠信も義経の家人として各地を転戦していた。

屋島で継信が命を落とした翌月、源氏は壇ノ浦で平家を滅ぼす。

しかし、その後の義経を待っていたのは、兄・頼朝との対立と逃亡だった。

継信が屋島で果たせなかった主君への奉公を、弟の忠信はその後も続けることになる。

陸奥国信夫荘の佐藤氏

佐藤継信は、陸奥国信夫荘を本拠とする武士の一族に生まれた。

信夫荘は現在の福島県福島市周辺にあたる。平安時代末期、この一帯では信夫佐藤氏が大きな勢力を持っていた。

佐藤氏は、奥州藤原氏の重臣として知られる一族である。

奥州藤原氏は、平泉を本拠に陸奥・出羽の広い範囲へ勢力を広げた。初代の藤原清衡、二代の基衡を経て、継信が生きた時代には三代の秀衡が当主となっていた。

平泉には中尊寺や毛越寺などの寺院が築かれ、金や馬をはじめとする奥州の産物が集まっていた。

京都の朝廷や平家政権とも関係を保ち、秀衡は陸奥守や鎮守府将軍にも任じられている。

その奥州藤原氏の支配を、各地で支えた武士たちがいた。

信夫佐藤氏もその一つだった。

佐藤氏は信夫郡の有力者として土地の管理を担い、奥州藤原氏と深い関係を結んでいた。両氏には縁戚関係もあったと伝えられる。

継信の父は佐藤基治。

『吾妻鏡』では佐藤元治とも記され、信夫佐藤庄司、あるいは湯庄司と呼ばれた。

母は乙和と伝わり、弟には忠信がいた。

後世には義経への忠義で知られる佐藤兄弟も、もとは奥州藤原氏の支配を支えた信夫の武士だった。

父・佐藤基治と大鳥城

佐藤基治は、信夫荘の有力者として活動した武士である。

現在の福島市飯坂町には、基治の居城と伝わる大鳥城跡が残っている。

城が築かれたのは舘ノ山と呼ばれる場所で、周囲の川や斜面を利用した山城だった。現在も曲輪や空堀などの遺構が残り、舘ノ山公園として整備されている。

大鳥城には、保元2年(1157年)、藤原秀衡の命を受けた基治が築いたという伝承がある。

築城の際、一羽の鶴を埋めて城の守護を祈ったという話も残る。

ただし、これらは後世の地誌などに伝えられた由緒である。築城当時の詳しい事情は明らかでない。

基治が奥州藤原氏に仕え、信夫郡の有力武士として活動していたことは、『吾妻鏡』の奥州合戦の記事からも知られる。

継信と忠信は、その基治の子として育った。

継信の生年には保元3年(1158年)とする説がある。一方、屋島で亡くなった年齢については伝承によって違いがあり、正確な生年は確定していない。

兄弟が幼いころ、どのような暮らしを送り、どこで弓馬を習ったのか。

その様子を詳しく伝える記録は残っていない。

継信の名が歴史の中にはっきり現れるのは、源義経に従ってからのことである。

平泉で育った源義経

源義経は源義朝の子で、源頼朝の異母弟にあたる。

平治元年(1159年)、父の義朝が平治の乱で敗れると、源氏の一族は各地へ散り、義経も幼くして平家の支配下に置かれた。

後に鞍馬寺へ預けられたと伝わっている。

しかし、義経はやがて京都を離れ、奥州へ向かった。

頼った相手は、平泉の藤原秀衡だった。

奥州へ下る道中を金売吉次が助けたという話も知られるが、その詳しい経過は『平治物語』などの軍記によるところが大きい。

秀衡は平泉で義経を保護した。

義経はその地で青年期を過ごし、後に頼朝の挙兵を知って東国へ向かうことになる。

同じころ、佐藤氏は信夫荘を治め、奥州藤原氏に仕えていた。

継信と忠信がいつ義経の家人となったのかは明らかでない。

後世の伝記には、継信を義経の乳母子とするものもある。幼い義経と近い関係で育ったという伝承だが、その生活を詳しく追える記録は乏しい。

確かなのは、佐藤兄弟が後に義経の家人となり、遠く西国の戦場まで従ったことである。

義経に従い奥州を離れる

治承4年(1180年)、源頼朝が伊豆国で挙兵した。

頼朝の挙兵をきっかけに、各地で平家に対抗する動きが広がっていった。

奥州にいた義経も、兄のもとへ向かうことを決めた。

『吾妻鏡』には、同年10月、義経が駿河国黄瀬川で頼朝と対面したことが記されている。

その後、義経は頼朝の軍勢に加わり、源平合戦で重要な役割を担うことになる。

佐藤継信と忠信も、このころ義経に従って奥州を離れたと伝わっている。

福島市の医王寺には、父の基治が藤原秀衡の命を受け、二人の息子を義経に付き従わせたという由緒が残る。

佐藤氏は秀衡に仕える一族だった。兄弟が義経とともに奥州を出たという伝承は、秀衡と義経の関係を伝える話としても受け継がれてきた。

ただし、兄弟が実際に出発した日付や、父からどのような命令を受けたのかはわかっていない。

後世には、父が息子たちを見送り、別れの場所に杖を立てたという逸話も生まれた。

その杖が根を張り、桜になったという「庄司戻しの桜」の伝承である。

継信と忠信が故郷を離れた後、再び父母と会う機会があったのかも明らかでない。

二人は義経のもとで、源氏と平家の戦いに加わっていく。

京都へ進んだ義経の軍勢

寿永2年(1183年)、木曾義仲の進撃によって平家は京都を失い、西国へ退いた。

しかし、都に入った義仲はやがて後白河法皇と対立した。

翌寿永3年(1184年)1月、頼朝の命を受けた源範頼と義経が京都へ向かった。

宇治川や瀬田方面で義仲方を破り、義仲は近江国粟津で討死する。

その後、義経は平家追討のため摂津国へ進んだ。

2月7日、一ノ谷の戦いが起こる。

源氏方は東西から平家の陣地を攻撃し、平忠度、平敦盛、平経正、平通盛ら多くの武将が討死した。

佐藤兄弟も義経に従い、各地の戦いに参加したと伝わる。

ただし、宇治川や一ノ谷で継信がどの部隊に属し、どのような軍功を挙げたのかを詳しく記した史料は少ない。

後世の義経物語では、兄弟は早くから義経のそばで活躍する武士として登場する。

その一方、継信本人の行動が『吾妻鏡』に具体的に記されるのは、翌年の屋島の戦いである。

一ノ谷から屋島へ

一ノ谷で大敗した平家は、船で讃岐国の屋島へ退いた。

平家は多くの一門の武将を失ったものの、安徳天皇と三種の神器を保持していた。

瀬戸内海には船団が残り、屋島では平宗盛らが安徳天皇を奉じていた。

一方、長門国の彦島にも平知盛の軍勢が活動していた。

源氏方は陸上で勝利を重ねたが、海を隔てて動く平家を追うには船が必要だった。

元暦元年(1184年)9月、範頼は軍勢を率いて西国へ向かった。

山陽道を進み、備前国の藤戸などで平家方と戦ったが、遠征は長引いた。兵糧も船も不足し、帰国を望む武士たちまで現れていた。

範頼が九州方面で活動する一方、四国の屋島へ向かうことになったのが義経だった。

元暦2年2月、義経は摂津国から船を出す。

『吾妻鏡』によれば、暴風のため多くの船が破損したが、義経は出航を決断した。

2月18日、先発の五艘の船で阿波国へ渡り、150余騎を率いて上陸したと記されている。

この船数と兵数をどう解釈するかには議論があるが、義経が主力船団に先んじて四国へ渡った経過は重要である。

義経は阿波国で平家方の拠点を攻め、夜を徹して讃岐国へ向かった。

継信と忠信も、その軍勢に加わっていた。

二月十九日、屋島の内裏が焼ける

元暦2年2月19日の朝、義経軍は屋島の対岸へ到着した。

屋島には平宗盛らが安徳天皇を奉じ、内裏を構えていた。

義経は対岸の牟礼と高松の民家に火を放った。

突然の火の手を見た平家方は、源氏の大軍が攻め寄せたと考えたという。

宗盛らは安徳天皇を船へ移し、海上へ退いた。

義経軍はその間に屋島の内裏へ攻め込んだ。

『吾妻鏡』元暦2年2月19日条には、佐藤継信・忠信の兄弟、後藤実基とその養子・基清らが、内裏や宗盛の休息所などを焼いたことが記されている。

屋島の合戦で継信がどのように行動したのか、『吾妻鏡』に残された貴重な記録である。

「黒煙聳天、白日蔽光」

内裏から上がった黒煙が空を覆い、昼の光を遮ったという。

平家が安徳天皇を奉じてきた屋島の御所は、この攻撃で焼失した。

しかし、海には平家の船団が残っていた。

義経の軍勢が少ないことに気づいた平家方は、再び船を岸へ寄せて攻撃を始めた。

継信の最期は、この反撃の中で訪れる。

海岸へ戻ってきた平家軍

『吾妻鏡』によれば、義経は田代信綱、金子家忠、金子与一近則、伊勢三郎能盛らとともに海岸へ向かった。

平家方は船上から矢を放ち、源氏方も浜辺から射返した。

さらに越中次郎兵衛盛継と上総五郎兵衛忠光らは、船を降りて内裏の門前に陣を構えたと記されている。

内裏を失った平家も、そのまま逃げ続けたわけではなかった。

船を岸へ寄せ、武士たちを上陸させて義経軍を攻めた。

『平家物語』では、ここから平教経が登場する。

能登守平教経は、清盛の弟・教盛の子で、一ノ谷で討死した平通盛の弟にあたる。

『平家物語』は教経を強弓に優れた武将として描き、屋島でも源氏方の武士を次々に射落としたと伝えている。

教経が狙ったのは、源氏の大将・義経だった。

義経の矢面に立った継信

『平家物語』によれば、義経の周囲には継信と忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶らがいた。

彼らは馬を並べ、義経の前へ進み出たという。

教経は、義経へ向かう矢を阻む武士たちに射かけた。

その矢によって十余騎の鎧武者が射落とされたと『平家物語』は伝えている。

そして、最前列に進んだ継信が矢を受けた。

弓手の肩から馬手の脇へ。

体を射抜かれた継信は、馬から逆さまに落ちたという。

義経を狙った矢を、家人の継信が受けた。

継信の最期は、後世に繰り返し描かれることになる。

ただし、この場面には史料上の問題がある。

『吾妻鏡』も継信が屋島で射られて討死したことを記しているが、射手の名は挙げていない。

『平家物語』は平教経の強弓によるものと描いている。

教経本人の生死については、ほかの史料に異なる記録が残されているのである。

平教経は一ノ谷で死んでいたのか

平教経は、源平合戦の中でも武勇に優れた平家一門の武将として知られる。

『平家物語』では、屋島の戦いで継信を射落とし、さらに壇ノ浦でも義経を狙って戦い続けた人物として描かれている。

ところが、『吾妻鏡』は教経の最期を別の形で伝えている。

同書には、寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いで教経が捕らえられ、処刑されたという記事がある。

この記録に従えば、教経は屋島の戦いより約1年前に亡くなっていたことになる。

一方、九条兼実の日記『玉葉』には、一ノ谷の戦いの後、教経が生存しているとの情報が伝わっていた。

さらに『醍醐寺雑事記』には、教経が壇ノ浦で自害したという記録も見られる。

一ノ谷で捕らえられたという記録と、その後も生きていたという記録。

教経の最期については、史料の間に食い違いが残っている。

屋島で継信を射た人物が本当に教経だったのかも、確定できない。

継信が屋島で討死したことと、教経の矢から義経を守ったという物語は、裏付けとなる史料が異なる。

ただ、教経が義経を狙い、継信が矢を受けたという『平家物語』の場面は、佐藤継信の名を後世に広めることになった。

兄の首を渡さなかった忠信

『平家物語』は、継信が倒れた直後の出来事も伝えている。

継信のもとへ駆け寄ったのは、平家方の菊王丸だった。

菊王丸は教経に仕える若い従者で、もとは教経の兄・平通盛に仕えていたという。

通盛が一ノ谷で討死した後、弟の教経に仕えるようになったと伝わる。

当時18歳だったという。

菊王丸は刀を抜き、倒れた継信の首を取ろうとした。

その姿を見た忠信が弓を引いた。

兄の首を敵に渡すまいと、菊王丸へ矢を放ったのである。

矢は菊王丸の草摺のあたりを貫いたという。

菊王丸は傷を受けて倒れた。

教経は弓を持ったまま菊王丸をつかみ、船へ運び込んだと『平家物語』は伝えている。

しかし、傷は深かった。

菊王丸はそのまま命を落とし、教経もその死を深く悲しんだという。

継信と菊王丸が相次いで倒れた屋島の海岸。

一方には兄を守ろうとする忠信がいた。もう一方には、若い従者を失った教経がいた。

この経過は『平家物語』によって伝えられたものであり、忠信が菊王丸を射たことを詳しく記した同時代史料は残されていない。

しかし、兄の戦死に立ち会った弟として、忠信の名も継信の最期の物語に刻まれることになった。

継信が義経へ残した言葉

重傷を負った継信は、陣の後方へ運ばれた。

『平家物語』によれば、義経は馬から飛び下り、継信の手を取った。

「いかが覚ゆる」

具合はどうか。

義経が尋ねると、継信はもう助からないと答えたという。

何か心残りはないかと重ねて問われ、継信は一つだけ残念なことがあると語った。

義経が世に立つ姿を見られないことである。

屋島では平家の内裏を焼き、源氏方が勝利へ近づいていた。

しかし、戦いはまだ続いていた。

継信はその先を見届けることができなかった。

『平家物語』では、継信は戦場で敵の矢に当たって死ぬことも、武士として以前から覚悟していたと語っている。

そして、自分がこの屋島で主君の命に代わって討たれたことを、後世の人々が語り継いでくれるなら、それが何よりの名誉だと述べたという。

「讃岐国八島の磯にて主の御命に代はりて討たれたり」

継信が願ったと伝わるのは、後世に自分の名が残ることだった。

『平家物語』は、その言葉を聞いた義経が鎧の袖を涙で濡らしたと記している。

もちろん、二人が交わした会話をそのまま書き留めた同時代の記録はない。

継信の最期の言葉は、軍記物語の中で語られてきたものである。

それでも、屋島で射られて命を落としたことは『吾妻鏡』にも残されている。

義経は継信を失い、その葬送のために一頭の名馬を手放すことになる。

義経が手放した名馬・大夫黒

継信の死を知った義経は、深く悲しんだ。

『吾妻鏡』元暦2年2月19日条には、義経が一人の僧を招き、継信を千株松の根元へ葬らせたことが記されている。

そして、僧へ一頭の馬を与えた。

大夫黒である。

大夫黒は、もともと後白河院の厩にいた馬だった。

義経が院に供奉した際に与えられ、その後は戦場へ向かうたびに乗っていたという。

義経はその大切な馬を、継信の供養のために僧へ贈った。

『吾妻鏡』はこの行動を、戦死した家人を大切にする振る舞いとして評価している。

『平家物語』にも、継信を弔う僧へ黒い名馬を与えた話が残る。

馬には立派な鞍が置かれていたという。

その様子を見た家人たちは涙を流し、義経のためなら命を惜しまないと語ったと伝わっている。

継信が最後にどのような言葉を残したのかはわからない。

しかし、義経がその死を悲しみ、葬送に際して大夫黒を与えた話は、『吾妻鏡』にも記録されている。

継信の死は、義経にとって大きな出来事だった。

兄が見られなかった壇ノ浦の勝利

継信を失った後も、義経は平家の追撃を続けた。

屋島の内裏を焼いたものの、安徳天皇や平宗盛を捕らえることはできなかった。

平家は船団を保ったまま海上へ退き、志度方面へ向かった。

『吾妻鏡』によれば、義経は2月21日に80騎を率いて志度へ進んだ。

その後、平家方の田内左衛門尉が降伏し、伊予国の河野通信は30艘の兵船を率いて義経方へ加わった。

翌22日には梶原景時らの船団も屋島へ到着した。

源氏方はさらに船を集め、平家を追って西へ進んだ。

3月24日、長門国の壇ノ浦で源平最後の海戦が行われた。

義経は源氏方の中心となって戦い、平家はこの戦いで滅亡した。

安徳天皇は海に沈み、平家一門の多くの武将が命を落とした。

継信が屋島で討死してから、およそ1か月後のことだった。

『平家物語』の継信は、義経が世に立つ姿を見られないことを惜しんでいた。

その義経は、平家を滅ぼす大きな軍功を立てた。

しかし、壇ノ浦での勝利から間もなく、今度は兄の頼朝との関係が悪化していく。

継信の弟・忠信は、その苦しい時期にも義経のそばにいた。

兄を失った忠信の戦い

屋島で兄を失った忠信は、その後も義経に従った。

壇ノ浦で平家が滅亡した後、義経と頼朝の関係は次第に悪化した。

義経は朝廷から頼朝追討の院宣を得たが、十分な軍勢を集めることができなかった。

文治元年(1185年)の末、義経は京都を離れ、大和国の吉野山へ向かった。

忠信もこの逃亡に従っていた。

『義経記』には、忠信が追手を引きつけるために自ら義経と名乗り、主君を逃がしたという逸話がある。

吉野山で追手と戦い、義経を先へ進ませたという話である。

その戦闘の詳しい経過は後世の軍記によるものだが、忠信が義経の逃亡を助けた武士として知られていることは確かである。

忠信はその後、京都へ戻った。

しかし、追手に居場所を知られることになる。

文治2年(1186年)、忠信は京都で包囲され、戦いの末に自害したと『吾妻鏡』に記されている。

継信が屋島で命を落とした翌年だった。

兄の継信は、義経が平家を追っていたときに討死した。

弟の忠信は、義経が頼朝から追われる身となってからも従い続けた。

二人の最期を伝える物語は、義経の生涯と深く結びついている。

故郷で兄弟の死を知った家族

継信と忠信の故郷、信夫荘には家族が残されていた。

父の基治と母の乙和である。

また、継信には若桜、忠信には楓という妻がいたと伝わっている。

ただし、妻たちの名前や詳しい生涯は、後世の伝承に基づくところが大きい。

福島市の医王寺には、兄弟の死を知った家族について、一つの話が残されている。

二人の息子を失った母・乙和は、深い悲しみに暮れていた。

その姿を見かねたのが、継信と忠信の妻たちだったという。

若桜と楓も、それぞれ夫を失っていた。

それでも義母を慰めようと、二人は亡き夫の甲冑を身に着けた。

若桜は長刀を、楓は弓矢を持ったと伝わる。

そして、継信と忠信が帰ってきたかのように、勇ましい武者姿で乙和の前へ現れたという。

息子たちを失った母に、もう一度その姿を見せようとしたのである。

この話は、幸若舞曲や浄瑠璃などにも取り入れられ、広く知られるようになった。

二人の妻が実際に甲冑を着たことを確認できる同時代史料はない。

しかし、佐藤兄弟の物語には、戦場で命を落とした二人とともに、故郷に残された家族の姿も描かれてきた。

後に松尾芭蕉が信夫の地を訪れたとき、特に心を動かされたのも、この妻たちの話だった。

父・佐藤基治も石那坂で戦う

継信と忠信が亡くなった後も、父の基治は奥州にいた。

平家滅亡後、義経は頼朝と対立し、再び平泉へ逃れた。

藤原秀衡は義経を保護したが、文治3年(1187年)に亡くなった。

後を継いだ泰衡は、頼朝から義経の引き渡しを迫られることになる。

文治5年(1189年)閏4月、泰衡は義経の館を攻撃した。

義経は衣川で最期を迎えた。

それでも頼朝は奥州への出兵を決め、同年7月、鎌倉から大軍を率いて北へ向かった。

奥州合戦の始まりである。

このとき、佐藤基治も奥州藤原氏方として戦った。

『吾妻鏡』文治5年8月8日条によれば、藤原泰衡に仕える佐藤庄司は、叔父の河辺高経や伊賀良目高重らとともに石那坂へ陣を構えた。

そこでは堀や柵を設け、鎌倉軍の進撃に備えていたという。

鎌倉方では、常陸入道念西の子である伊佐為宗らが攻め込んだ。

戦闘は激しく、鎌倉方にも負傷者が出た。

しかし、最後は佐藤氏の軍勢が敗れた。

『吾妻鏡』8月8日条には、佐藤庄司以下18人の首が取られたと記されている。

この記録に従えば、基治は石那坂で討死したことになる。

ところが、『吾妻鏡』には、その後の基治について別の記録が残されている。

石那坂で討たれ、十月に赦された佐藤庄司

文治5年10月2日。

『吾妻鏡』には、捕虜となっていた佐藤庄司、名取郡司、熊野別当らが赦免され、本来の土地へ帰されたという記事がある。

8月8日には佐藤庄司が討たれたと記されている。

ところが約2か月後には、同じ呼称の人物が赦免されたことになっている。

二つの記事は、そのままでは一致しない。

基治が石那坂で戦死したという伝承がある一方、捕らえられた後に赦されたという見解もある。

後世の地誌にも、生き延びた基治が大鳥城に戻ったという話が残されている。

近年の研究では、10月2日条の赦免記事などを重視し、基治が捕虜となった後に許され、信夫荘へ帰ったと考える見解も示されている。

基治の正確な最期については、なお史料の検討を要する。

いずれにしても、基治が奥州藤原氏に従い、鎌倉軍と戦ったことは『吾妻鏡』に記されている。

息子の継信と忠信は義経に仕え、相次いで命を落とした。

父の基治は、その義経を保護してきた奥州藤原氏に仕え、頼朝の軍勢を迎え撃った。

佐藤一族は、源平合戦から奥州合戦に至る戦乱の中で、それぞれ異なる場所で戦うことになった。

医王寺に残る佐藤一族の供養塔

現在の福島市飯坂町には、医王寺がある。

真言宗豊山派の寺院で、信夫佐藤氏の菩提寺として知られている。

境内の奥の院には、佐藤基治、母の乙和、継信と忠信の墓碑と伝わる石塔が残されている。

これらは福島県指定の重要文化財「医王寺の石造供養石塔群」として知られる。

奥州型板碑を中心とした多数の石塔が安置され、佐藤氏に関わる信仰を伝えている。

寺の由緒によれば、継信と忠信の供養塔には、かつて石を削って飲むと病が治るという信仰もあった。

そのため、一部には削り取られた跡が残っているという。

ただし、継信は讃岐国屋島で命を落としている。

『吾妻鏡』には、義経が継信を千株松の根元へ葬らせたと記されている。

医王寺にある石塔は、故郷でその霊を弔うために建てられた供養塔として伝わってきたものである。

また、境内には「乙和の椿」と呼ばれる椿がある。

息子たちの死を悲しんだ乙和の思いが宿り、花が十分に開かないまま、つぼみの状態で落ちるようになったという。

兄弟の死を悼む母の伝承は、現在も医王寺で語り継がれている。

松尾芭蕉が涙した佐藤一族の墓碑

元禄2年(1689年)、松尾芭蕉が奥州を旅した。

『おくのほそ道』の旅である。

芭蕉は信夫の地に入り、佐藤庄司の旧跡を訪ねた。

月の輪の渡しを越えて瀬上へ出た後、土地の人々に道を尋ねながら、飯塚の里へ向かったという。

やがて丸山と呼ばれる場所にたどり着いた。

そこには、佐藤庄司の館があったと伝わる跡が残されていた。

芭蕉はその場所を見て涙を流し、さらに近くの古寺へ向かった。

寺には佐藤一族の石碑が残されていた。

その中で芭蕉が特に心を動かされたのが、二人の妻たちの碑だった。

『おくのほそ道』には、こう記されている。

「中にも二人の嫁がしるし、先づあはれなり」

芭蕉は、夫を失った妻たちの名が残されていることを、深く哀れに思った。

そして、女の身でありながら甲斐甲斐しい名を世に残したことに感動し、袂を涙で濡らしたと書いている。

佐藤兄弟が亡くなってから、およそ500年後。

継信と忠信の最期だけでなく、故郷に残された妻たちの話も、芭蕉の時代まで伝わっていた。

「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」

芭蕉は寺で茶を求めた。

その寺には、義経の太刀と弁慶の笈が宝物として伝わっていたという。

笈は、旅の道具などを入れて背負う箱である。

芭蕉はそれを見て、一句を詠んだ。

「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」

五月の節句に、義経の太刀も弁慶の笈も、紙の幟とともに飾ってほしい。

佐藤兄弟にゆかりのある地を訪ね、その主君である義経の太刀や、弁慶の笈と伝わる品を見た芭蕉の句である。

もちろん、その太刀や笈が実際に義経や弁慶の使った品だったのかはわからない。

芭蕉が見たのは、江戸時代の寺に伝わっていた由緒ある宝物だった。

現在の医王寺には、この句を刻んだ碑が残されている。

境内には佐藤一族の供養塔があり、妻たちの伝承も伝えられている。

継信と忠信の生涯は、芭蕉の紀行文によってさらに多くの人々に知られることになった。

讃岐に残る「佐藤次信墓」

継信が命を落とした讃岐国にも、墓と伝わる場所がある。

現在の香川県高松市牟礼町にある、佐藤継信の墓である。

高松市の文化財資料によれば、墓はもともと現在の墓所の後方、王墓池と呼ばれる池の場所にあった。

正保2年(1645年)、池が築かれた際に現在の位置へ移されたという。

それより少し前の寛永20年(1643年)には、初代高松藩主の松平頼重が新しい標石を建てている。

その標石には、次の文字が刻まれている。

「佐藤次信墓」

現在一般に使われる「継信」とは、漢字が異なる。

『平家物語』では「嗣信」という表記も使われており、継信の名には複数の字が伝わっている。

「次信」もその一つである。

昭和6年(1931年)には、継信の子孫とされる佐藤信古が墓所を大きく整備した。

佐藤氏念祖碑などが建てられ、現在の墓地公園につながる姿となった。

高松市はこの墓所を市登録史跡としている。

屋島で討死した継信の墓は、江戸時代の高松藩主や後世の子孫とされる人々によって守られてきた。

射落畠と洲崎寺

屋島周辺には、継信の最期に関わる伝承地がいくつも残っている。

その一つが、高松市牟礼町の射落畠である。

『平家物語』で継信が平教経の矢を受け、馬から落ちた場所として伝わっている。

昭和6年(1931年)には、継信の子孫とされる佐藤信古が、この地に石碑を建てた。

現在は高松市登録史跡の一つとなっている。

近くには洲崎寺がある。

寺には、負傷した継信が戸板に乗せられて運ばれたという話が伝わっている。

継信にゆかりのある武具なども残されているという。

ただし、継信が実際にどの場所で矢を受け、どの道を通って運ばれたのかは、同時代の記録からはわからない。

射落畠や洲崎寺の伝承は、後世の人々が『平家物語』に描かれた継信の最期を、屋島の土地と結びつけて伝えてきたものである。

また、屋島には菊王丸の墓と伝わる場所もある。

菊王丸は、継信の首を取ろうとして忠信に射られたと『平家物語』に登場する若い従者だった。

源氏方の継信と、平家方の菊王丸。

屋島には、双方の死を弔う場所が残されている。

奥州と讃岐に残った佐藤継信の名

元暦2年(1185年)2月19日、佐藤継信は屋島の戦いで命を落とした。

陸奥国信夫荘を治める佐藤氏の一族に生まれ、弟の忠信とともに義経へ仕えた武士だった。

若いころの戦功については、わからないことが多い。

しかし、『吾妻鏡』には屋島の内裏への攻撃に加わったことと、その後の戦闘で射られて討死したことが記されている。

義経は継信の死を深く悲しみ、葬送に際して愛馬の大夫黒を僧へ与えたという。

『平家物語』では、平教経の矢から義経を守った武士として描かれた。

継信が最期に残したと伝わる言葉も、後世の人々に広く知られるようになった。

その弟の忠信は、義経が頼朝から追われるようになった後も従い、文治2年に京都で命を落とした。

父の基治は、さらにその後の奥州合戦で鎌倉軍と戦った。

家族が暮らした信夫の地には、現在も佐藤一族の供養塔が残されている。

屋島の近くには、継信の墓が建てられた。

寛永20年、高松藩主の松平頼重が建てた標石には「佐藤次信墓」と刻まれている。

元禄2年には、松尾芭蕉が奥州の佐藤庄司の旧跡を訪れた。

芭蕉は二人の妻たちの碑を見て涙を流し、寺に残る義経の太刀と弁慶の笈を題材に句を詠んだ。

継信が『平家物語』の中で願ったように、その名は長く語り継がれてきた。

奥州佐藤三郎兵衛継信。

主君の命に代わって屋島で射られたと伝わる武士は、遠く離れた讃岐と陸奥の双方に、今もその名を残している。

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